現実1-3
安藤さやかの手を借りて私は再びベッドに戻った。寝転ぶことはせず上半身だけ起こしている。
「怪我、してない?」
心配そうに彼女は私の顔を覗き込んだ。無様な姿を見られたと思い恥ずかしい。そのせいで自分の頬の熱が上がっているのを感じる。きっと今、私の頬は赤らんでいるのだろうと思うと、また恥ずかしくなる。
「あらら、照れなくてもいいのに」
近所のおばさんがするように、彼女は手首を軽く縦に振る。私は、そのせいで一層恥ずかしくなり、あの、と口どもりながら聞いていた。
「あなたは、誰、なのですか?」
ひどく後悔した。理由は分からないけれど、答えられてしまったら、私が壊れてしまうような、そんな恐怖が襲ってきた。
「私は安藤さやかよ。それだけじゃ不満?」
あなたは、誰、という質問は自分へも向けられている。私は、誰なのか。それだけの答えで満足できるなら、こんな恐怖感を抱くこともないだろう。目が覚めてからかなりの時間が経ち、ようやくこの世界が、夢ではない現実なのだと実感してくる。そう、全く意味が分からない、現実。ここがどこなのか、そして、どうして私はここにいるのか。自分が発した疑問のせいで、それ以上に多くの謎が、恐怖と一緒に私の頭に降りてきた。
いつの間にか、左目から涙がこぼれていた。
「だよね、ごめんね」
突然に、安藤さやかに抱きすくめられた。体が弱っているせいか、痛いくらいに彼女は締め付けてきたのだが、それ以上に安心感がそこにあった。
「私がいるから。頼りにならないかもしれないけど、一緒に乗り越えよ」
彼女の顔は見えなかったが、左の耳元でささやいてくれたその声は、やけにか細く、震えているような気がした。そのおかげ、この何もないと部屋に感じられた心休まる場所の意味が、分かった気がした。この場所は服衣なのだ。私を包み込んでくれる胎内。何もないかもしれないけれど、同時にどんな外的からも守ってくれている。そして、あの真っ赤な造花は血。部屋という母体から流れ出る偽りの液体。そして、安藤さやかは、私を連れ出しに来たのだろうか。
彼女が私の両肩に手を掛け、体を離した。ちょっとうつむいて、必死に笑顔を作りながら、そうだ、と話し始める。
「もうすぐね、お客さんがくるの。さっきお昼前に連絡したら、すぐにお見舞いに来たいって。最初はちょっと驚いちゃうかもしれないけど、きっと楽しいよ」
私は笑顔を作った。あわせるように、彼女もえくぼを作る。途端に、彼女の顔が小さくなる。肩から手を離すと彼女は立ち上がり、扉のところまで歩いていく。
「ちょっと見てくる。まだ大人しくしてないとだめだよ」
彼女は扉から顔だけ残してそう言った。
彼女がいなくなると、再び部屋が静かになる。それほど彼女が騒がしいわけではないけれど、ただいるだけで部屋が暖まる。この服衣の中で、不思議と安らぎある空間に入ってきながら、決して異物ではない。むしろ迎え入れるべき、迎え入れられるべき相手だと、思う。ただの期待だけかもしれない。誰かがそばにいないと不安なのだ。
「あーみ!」
突然扉が開けられると同時に、そう叫び声が響く。驚いてそちらを見ると、水色のセーラー服を着た女子高生らしい女の人と、その後ろに安藤さやかが立っていた。女子高生は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていて私をまっすぐ見ている。茶色に染められた髪にはソバージュがかかり、肩の下まで伸びている。肌はこんがりと焼けていて、安藤さやかの白い肌と比べるとその黒さが一層際立っている。私を見つめている瞳はやけに細く、申し訳程度についた唇がふるふると震えている。
「あーみぃ!」
もう一度彼女がそう泣きそうな声を出し、私に近づいてきた。もしかしたら、あーみ、というのが私の名前で、彼女は私のことを知っているのかもしれない。けれど、私には彼女が誰だか分からない。
「じゃぁ、私は外にいるから、ゆっくり」
安藤さやかが右手を少し上げ、握ったり開いたりしながら私たちに挨拶をし、扉を閉めて出て行ってしまった。なぜか見捨てられてしまったような不安が私を襲う。こんな何もない空間の中で、知らない人と二人になるのは心地のよいものではないし、もしかしたら私は壊れてしまうかもしれない。
「あーみ、大丈夫?」
いつの間にかベッドの脇に膝をついて立ち、彼女は私の手を握っていた。とても暖かい手だ。それだけで、私の中にあった不安が一気に解けてなくなってしまう。私はゆっくりと、けれども曖昧に頷く。不安がなくなったとはいえ、私は彼女のことが誰だか分からなかったし、おそらく、それが顔に出ていたと思う。彼女は泣き出しそうな表情のまま、自分の顔を指差す。
「もしかして、私、分からない?」
「ごめん」
彼女は少し残念そうにうつむくと、すぐに顔を上げる。
「ううん。多分ね、そうだと思ってたから。さっきの先生もそう言ってたし。でも、別に記憶がなくなったんじゃなくて、ただ飛んでるだけだって。ちょっと長く寝すぎちゃったから。あーみは、昔から居眠りは得意だったし」
「あなたは?」
恐怖よりも安心感が勝り、それ以上に好奇心が芽生えた。確かに私は記憶を失っているようで、眠る前のことを覚えていない。それに、自分の名前でさえ忘れてしまっている。けれど普通の……初めての経験なので、何が普通なのか分かれないけれど、普通の記憶喪失と違って、必要以上に記憶がないことを恐れていないし、逆に、知ってしまうと、今の落ち着いている自分が失われてしまうのではないかという思いもある。それでも、今彼女の手の温もりを感じていると、そんな不安はたやすく失われ、記憶が戻って欲しい気持ちになっていた。
「私は松田晴美。あーみとよくガッコ一緒に行ったんだよ。幼馴染」
「あーみって」
「もしかして自分の名前も忘れてるの?」
松田晴美は驚いた表情をした。今まで細くてよく見えていなかった目が大きく開かれて、その潤んだ黒い瞳に私が映っていた。小さくてはっきりとは見えないけれど、目が覚めてから初めて自分の姿を見た。
「神崎歩」
それだけ答えると、彼女は黙り込んでしまった。私があまりにも自分のことを忘れていたから、何を話せばいいのか困ってしまったのかもしれない。彼女はすぐにうつむいてしまい、もう自分の姿は見えない。けれど、彼女の瞳に映った私を思い出しながら、なぜか自分じゃないような気がした。髪はやたらと伸びていたし、乱れていた。長い間眠っていたのだとしたら当然なのかもしれないけれど、今まで私はこんなにも髪を伸ばしたことがない。そんな気がふとした。いつもショートカットで、男の子たちと一緒に走り回っていたような。
長い沈黙だ。もしかしたら私は、昔のことをすべて思い出せるかもしれないと思ったが、結局それ以上のことは思い出せなかった。それが本当に自分の記憶なのか自信もなかったし、たとえ彼女が私の手を握ってくれていたとしても、自分が壊れてしまうかもしれない、という恐怖もそこにはあった。それでも、自分の名前は分かった。神崎歩。しっくりと感じる。大変な進歩だ。
意を決したように、彼女は、ねぇ、と小さな声で呟いた。私は顔を傾けて彼女を見つめる。
「抱きしめていい?」
私が答えるより早く、彼女は私を抱きしめた。安藤さやかよりも強く、強く。全身に痛みが走った。それでも、彼女の温もりを全身に感じることができる。得も言われぬ恍惚感が私の中を駆け巡る。
「ごめん」
さらに小さな声で、彼女が耳元で囁く。私は一層の恍惚感に襲われ、何を言われているのかよく分からなかった。
「ここ、モニターされてるから、こんな形でしか話せない。私が、必ずここからあーみを救い出してあげる」
彼女は私から離れ、立ち上がる。じゃあね、とおざなりな挨拶をして、部屋から出ていった。私はベッドに上半身を起こして座り、自覚できるほどぼーっとしていた。頭が熱を持ってしまい、簡単に整理できない。
「救い出してあげる」
そのフレーズだけが、何度も頭の中を駆け巡る。けれど、それがどんな意味を持つのか、考えることができない。
右を向くと、カーテンを通ってくる光が弱くなっている気がする。日が落ち始めたのだろうか。もし、このまま夜になってしまうと、ここは真っ暗になってしまうのではないか、と、ようやく頭が働くようになってきたが、それは恐怖の自覚でしかない。このまま真っ暗になれば、私は私を失ってしまう。服衣が服衣でなくなり、まるで早すぎる時に出てきてしまった赤子のように、産声を上げることなく、光を見ることもなく、私は消えてしまう。恐怖だ。悲鳴すらあげることができず、私は夢中で、棚に置かれているボタンを押していた。
すぐに安藤さやかが駆け込んでくる。どうしたの、と心配そうな声をあげ、私に駆け寄る。けれど、私はどこを見ているのか、まるで焦点が合わない。
「大丈夫? お願いだから、戻ってきて。せっかく今回はうまくいってるんだから、もう二度とおんなじ思いはしたくないの」
彼女は私の上腕を支え、私の体を揺する。とっさに彼女を呼ぶことができたのは幸運だった。私も次第に落ち着いてきて、ゆっくりと肩で息を始める。すると、意識もしていないのに、左目から涙が零れた。まだ焦点は直らなかったが、とにかく彼女に用件だけを伝える。
「光を、下さい。もっと、光を」
「光?」
「私は、大丈夫です。だから、光を。暗くなる前に」
私は目を閉じると、何度も深呼吸をする。
「分かった。ちょっと待ってて」
彼女は立ち上がるとすぐに部屋から出てゆく。
目を閉じてしまえば、光は入ってこない。それでも私は平常心を保つことができるというのに、どうしてこんなにも取り乱してしまったのだろう。自分が自分で分からない。
「救い出してあげる」
もう一度、松田晴美の言葉が頭に響いた。彼女の暖かさに身を委ねてしまえば私は救われるのだろうか?
「一緒に乗り越えよ」
安藤さやかにはそう言われた。私はどちらを信じればいのだろう。どちらも私に対して優しい。どちらも……私は相手のことを知らない。何を判断に私は動けばいいのだろう。
突然扉が音を立てて開く。ちょっと驚いたけれど、そこには息を切らし立っている安藤さやかがいる。手にはスタンドの蛍光灯が握られている。遅くなっちゃったと、息を切らしながら彼女はスタンドを棚に置いた。手際よくセットし、蛍光灯に白い光が付く。
もう暗くなり始めていた部屋を包み込む光。
同時に、私の心の中にあった不安を優しく覆い隠す。
「ありがとう」
私は自然と呟いていた。
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