現実1-2
私は花瓶をよく見ようと体を持ち上げようとした。
刹那、世界が回る。
ぐるぐると、ほとんど何もない白い部屋が回り続ける。ああ、どれだけ長いときをこうして寝転んだ状態でいたのだろう。平行が失われ、止まることなく世界は回る。右手を突き、左手は額に添え、必死に目眩と戦う。途中何度も目を閉じてみるが、たいした効果もなく、回り続ける。まるで、脳の中に不純物を入れて、鉄の棒でかき回しているような、不快感に襲われ、回り、続ける。
ぐるぐると。
ようやく、世界の動きが鈍くなってきた。おそらく、この白い部屋は、こうして目眩を起こした時のために、必要な物が取り除かれているのだろう。もしもこの部屋が、普通の、普段使っているような部屋だったとしたら、日常生活までも逆転してしまい、私は清浄の精神を保つことができなかったかもしれない。何もない部屋だったから、こうして目眩に打ち勝つことができたんだ。
目眩は無事に収まったが、まだ腹の底が気持ち悪い。呼吸も乱れ、心臓も激しく打っている。額から左手を離すとひどい汗だ。改めてベッドに座り直す。自ら意識して呼吸を整える。胸に手を当てて、早鐘のようにドキドキしている心臓も落ち着かせる。私が着ている服も白い。何の装飾もなく、可愛くない服だ。シーツも布団もすべて白い。けれどもどれも純白とは呼べない。影のせいかもしれない。汚れているようにも見える。それが一層、この部屋の空気を冷たいものにしている。
私はこの白い部屋の中で、唯一例外と言える赤いものがあることを思い出す。
赤い花。
座ったまま、そちらに振り返り手を伸ばす……が、私の手が止まる。これは花ではない。改めて見ると、それが本物の花でないことなどすぐに分かる。なぜか悲しく感じ、私は首を振る。その花瓶の隣に、ボタンが置かれていることに初めて気がつく。安藤さやかが言っていたボタンだろう。
「あら、起きて大丈夫?」
またいつの間にか、安藤さやかが部屋にいた。
「まだ寝てたほうがいいんじゃない?」
彼女は手にトレーを持ち、私のすぐ近くに立っている。トレーには茶碗に入れられたやわらかそうなご飯と、お味噌汁、それにポテトサラダ、ペットボトルに入ったお茶が、どれも少量載せられている。
「お昼だから、あんまり豪勢なものはないけど」
舌を出しながら、彼女はトレーを花瓶の置かれている棚に置いた。箸ではなくスプーンが手前に置かれていて、私はそちらを向くとスプーンに手を伸ばした。けれど、するりとそれは私の手をすり抜ける。まるで力が入らない。彼女は不安そうに私を覗き込み、もしかして持てない、と声を出す。
「よね。もしかしなくても、なんだけど。しょうがないから、私が食べさせてあげよう」
彼女に口に運んでもらいながら、私はゆっくりと食事をする。そんなにお腹がすいているという感覚はなかったけれど、ひどく久しぶりに満たされていくような気がする。
食事が終わると、彼女はそそくさと部屋を出て行った。そのとき、先ほどと同じように扉から顔を出して、後でもしかしたら驚くかも、と言い残した。そのせいか、こちらから聞きたいこと……聞かなければならないことがたくさんあったはずだが、タイミングを逃してしまった。
ただ独り残されて、けれど、恐怖感はなかった。むしろ反対で、今この場所は、私にとって心が休まる場所のようにさえ思える。不思議だ。もう一度、花瓶に生けられた造花に目をやる。花瓶の中を見れば水が入っていないことも分かるし、それでも造花ならば枯れて散ってしまうこともない。
私は軽く息を吹きかけて造花についたほこりを飛ばそうとした。けれども、思った以上にほこりは強く付着しているようで、息くらいではとてもとれそうにない。今度は、私は指を使いその埃を払ってみた。不自然な質感の、けれど布だと思えばそれらしい。一枚一枚は透けてしまいそうなくらいの布が幾重にも組み合わされていて、もしかしたら薔薇を象っているのかもしれない。けれど、薔薇にある棘は、その茎になかった。
最後にもう一度息を吹きかけると、造花の見栄えが多少よくなった。この何もない部屋の中で、偽りながらも形ある存在。部屋の冷たさを多少なりとも中和してくれている。けれど、その作業を終えてしまうと、急に虚無感が襲ってきた。造花を見つめれば見つめるほど、自分の孤独さが際立つ。この部屋は何もないだけではない。すべてを拒絶し、あきらめている。コンクリートむき出しの壁に四方を囲まれ、窓さえも厚手のカーテンに覆われている。埃が取れることなくその作業に没頭していられたら幸せだっただろうに。
顔を上げると、扉が目に入る。冷たい扉だ。けれど、あそこから出て行ってしまえば自由になれる。それに私を縛る手枷はすでに外されている。
そう思い立ち上がる。
足元から崩れ落ちた。全く足に力が入らない。スプーンさえ持つことが出来なかった手と同じように、足も、どうやって立てばいいのかを忘れてしまったように力を入れることができず、私はその場に倒れてしまった。
涙が、自然と溢れる。声には出さなかったけれど、自分の視界が潤んでいる。悔しいのか、悲しいのか、何の感情か自分でさえも分からない。けれど、涙だ。左目からとめどなく溢れる。私は床にその体勢のまま寝そべり、もう動くことさえできず、安藤さやかが入ってくるまで、ずっとそうしていた。
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