拾捌話 海神の杖
天照は高天原をテクテクと歩いていた。
やってもやっても終わらない書類の山に嫌気が差し、月読が現世に行った隙に抜け出したのだ。
「はぁ……、報告書の確認と予算案の作成、その振り分けとあとはオリンポスとの交易? あれがひと月で終わるものか。そもそも八百万もいる神の書類がひと月で集まるわけもない。先月会議をしたのだからその時に集めれば良かっただろうに。だから旧暦で動こうと言っているんだがな」
頭を掻き、文句を言いながら高天原を歩く。広場に出たが、どこもかしこも大慌てで来年の準備をしていた。主に月読に『書類不備』を突きつけられた神々が。
天照が年の瀬を感じながら散歩をしていると、博物館の前を小さな神が掃除していた。
「
「あっ! 天照様!」
相変わらず体格に不釣り合いな服とメガネを身につけていた。
ホウキを持ったまま礼をする思金に天照は手を振って近づいた。
「お前は書類の提出は終わったのか?」
「はい! 思金は きろくぐせがありますから。おかげで はやめにだして オーケーもらいました!」
「それはいい事だな。今日は博物館の大掃除か?」
「いえいえ、おおそーじは らいしゅうからです。みなさんがはしるので ホコリがちるんですよ」
「ああ……なるほど」
思金は頬をふくらませて神殿の街並みを見つめた。そして、そちらに向けてゴミをはく。天照はケラケラと笑った。
ふと、潮の香りが鼻腔をついた。
高天原の入口に、年老いた男神が地に伏して高天原に礼を捧げていた。
「どうかどうか、お聞き届けを」
天照と思金は顔を見合せ、その男神の元に行ってみた。天照は男神の前にしゃがむと、「
「そこのご老神、どうかしたのか?」
男神は天照の顔を見ると、驚いて入れ歯を落とす。そして慌てて入れ歯を戻すと、また地に額を擦り、礼を捧げた。
「これはこれは天照様、最も尊き神様が
「高天原まで足を運ぶとはご苦労だったな。海の神とお見受けしたが、名はなんという?」
「私ごときが天照様にお声をかけられるなぞ、願ってもないことでございます。天上──高天原まで来たかいがあるというものです」
「うん。名はなんという?」
「そもそも国つ神たるこの私がぁ! 高天原に赴くこと自体がおこがましくっ! それを許して下さる神々の懐の広さぁ! 恐悦至極に存じますぅぅぅ!!」
「ちゃんと聞いて!!おじいちゃん!! 名前はっっっ!?」
両手を空に伸ばし、「天つ神様方ぁぁぁ!」と叫ぶ男神の肩を揺さぶるが、男神は答える様子がない。天照は困って思金に助けを求めると、思金も困った顔をしていた。
「おそらく、
思金は首を傾げ、こんな人だったのか複雑そうな表情をしていた。それは天照も同じだった。
塩椎神は海を治める
(おそらく)塩椎神は今だ手を上げ、「神よぉぉぉぉぉ!」と叫んでいた。
──お前も神だろ。
「で、塩椎神と思わしき神よ。何の用で高天原まで来られたのだ?」
「天照様が私の名を覚えていて下さるとは感激の──」
「はいストップ。全然話が進まない。用件は?」
「あっはい」
塩椎神は正気に戻ると、地面に手をつき用件を話し始めた。
「私がここまで来たのには、深いわけがあるのです。どうかお知恵をお借り頂けないでしょうか」
***
綿津見の神殿は、高天原にある神殿とは少し異なる社だった。
天界の木造建築と同じながらも壁は石で固め、家の土台にレンガを用いていた。
塩椎神に案内されて、貝殻を敷いた床を歩く。思金は心底楽しそうに跳ねていた。
着いた先は綿津見神の寝所だった。
塩椎神は部屋の前で一礼すると、部屋の向こうへ声をかける。
「綿津見神様、天照大御神様と思金神様がお見えでございます」
部屋の向こうから「お通ししてくれ」と柔らかな声が聞こえた。
天照と思金は部屋に入ると、布団で土下座をして迎え入れる男神がいた。
「天照大御神様、思金神様、このような辺境の地まで御足労賜りましたこと、深く感謝申し上げます。そしてお見苦しい姿で御出迎えしますこと、深く、深くお詫び申し上げます」
「構わん。ちゃんと寝ろ。悪化するぞ」
「天照様のお心遣い、痛み入ります。しかし、何故このような所に……」
「塩椎神がよんだんですよ。ちえをかりたいと」
思金に言われ、綿津見は塩椎神を呼んだ。塩椎神は綿津見の傍らに座ると深く礼をした。
「天照様のお手を煩わせるなど……」
「綿津見神様、恐れながら申し上げますと、このままでは海は更に危険な場所となりかねません。我々、海の神だけで解決出来ぬのです」
「塩椎神……!」
「綿津見神様、私は国を想い、あなたを思っているからこそ、失礼を承知で海を離れ、不敬を承知で高天原に赴いたのです。何卒ご理解頂きたく……」
塩椎神は伏して綿津見に頼んだ。綿津見も、天照の前で声を荒らげ、塩椎神の意見を下げるのは良くないと判断し、渋々承諾した。
綿津見は姿勢を直すと、天照に状況を説明した。
「ここ数年間、海が荒れてしまい、手がつけられぬのです」
聞くと、海は唸りを上げ、高波を生み出し、人を飲み込むだけの脅威となりつつあるらしい。
本来、潮の流れを司る塩椎神や、潮の満ち干きを司る
海の荒れようが綿津見の体にも影響を与え、海は綿津見たちの加護が失せつつあった。
綿津見は膝を握り、「我ながら不甲斐ない」と嘆く。天照と思金は顔を合わせ、首を捻る。
「人間が関わってる感じはないな」
「そうですね。もともとうみも へんかしてますし。なにがゲンインかと とわれると……」
「天照様でも分かりませぬか」
「いや、特定はしよう。思金、策はあるか?」
「では、まずはぼくの神器でうみのへんせんをみましょうか!」
思金はメガネを押し上げ、空中に手を伸ばした。
「時の移ろい 命の移ろい
全てを見よ 全てを聞け その一文字たりとて違えるな
知恵の神たる思金神、思金 究の名の下に」
たどたどしくもしっかりと唱えた神器の
緑の粒子が集まると、花の芽吹くように神器を形作っていく。
「神器顕現──紡げ! 『記憶の原書』!」
思金は図鑑のように大きく、広辞苑よりも厚い本を顕現するとドスンと床に落とす。
林檎の装飾の施された本を開き、「サッコンのうみのきろく」と語りかける。すると、ページはひとりでに捲れ、望み通りのページを示す。
「ありました。十年とちょっとまえからです」
思金は現世の記録と神々の記録を照らし合わせる。前のめりに本を読み込むと、綿津見にいくつかの質問をした。
「綿津見様、おうまれは百年前でよろしいですか? よんだいめですよね?」
「はい。相違ないです」
「神器はけいしょうタイプですね?」
「はい。海は太古から変わらぬ命の源。故に綿津見も神器は代々受け継いで使っております」
「わかりました。さいごに──」
「
「……………………え?」
──勾玉?
天照がキョトンとする手前で、綿津見は汗を滲ませ、ブルブルと手を震わせていた。
天照は思金に説明を求めると、思金はページを捲り、大昔の綿津見の記録を開いた。
そこには綿津見の神器たる三叉槍と一緒に勾玉の首飾りが載っていた。
「きろくによれば、綿津見様は神器たる勾玉をわっています。その神器のちからはうみのしはい そのものです。それがゲンインとおもわれます」
「ならば、
神器は神魂を高め、神の想いを形にしたものだ。それはその神にしか作り出せない唯一無二の代物。
天照が顎に手を添えて考えていると、綿津見は布団に額を擦り付けて天照に謝罪した。
「申し訳ございません。知らぬ間とはいえ、神器を壊すその愚行……面目ありません」
「いやいや、壊れてしまったのなら仕方ない」
「しかし天照様、神器は神の想いの結晶体であり、その神の魂を表す神聖なるものでございます。それを壊すというのは……」
「ぼくもちょっとフォローできません。ぜんれいは ありますが、そのほとんどはインキョした神々が うつしよに カンショーしないための ぼうえいさく。こんかいは ぜんれいとちがうので……」
天照は深く息を吐き出すと、ガシガシと頭をかいた。面倒だと言いたげな眼差しで思金の本を閉じる。天照は「関係ない」と言った。
「神器を壊したのなら不忠だとしても、壊れてしまったのならそれは事故だ。壊れたのなら作り直せばいい」
「それはつまり、綿津見様の神器をつくりなおすってことですか? むちゃですよ。神器のけいしょうタイプは、そのあとの神に神器をつくりかえるちからはありません」
「俺の神器が多分出来る」
天照はそう言うと、有無を言わせず片方の耳飾りを外した。
「神器顕現──希望を映せ『光明の鏡』!」
燃えるような光を耳飾りに集め、バスケットボールくらいの鏡に変化させると、それで綿津見を映す。綿津見は鏡に魅入られるように触れると、強い光に弾き返された。
駆け寄ろうとする塩椎神を思金が反射的に引き止めた。天照は鏡に写し取った三叉槍と割れた勾玉の首飾りに、満足そうに頷いた。
鏡を床に置き、もう片方の耳飾りを取るとまた光を集めた。
「顕現──光をもたらせ『栄光の聖剣』!」
耳飾りを神々しい剣に変えると横向きに持ち、鏡の前に差し出した。
天照の続けざまの神器顕現に思金も塩椎神も、唾を飲んだ。天照は何も気にせずに意識を鏡に集中させる。
「神通力──『繁栄の陽光』!」
剣を捧げるように掲げると、一筋の光が鏡に差し込んだ。そして、中を漂っていた槍と勾玉の形を崩し、別の形へと形成していく。
眩い光が鏡からゆっくりと浮き上がると、綿津見は自然とそれに手を伸ばした。
それをしっかりと握ると、どこからともなく水が溢れ出し、綿津見が握った神器に纏っていく。
目も追いつかない状況で、綿津見は新たな神器をしっかりと握っていた。
「……『
綿津見は自分の神器をまじまじと見つめた。
天照はこれでいいか、と撤収を呼びかけた。塩椎神と思金を先に行かせると、天照は綿津見と向き合った。綿津見が神器を泡にして仕舞うと、天照は顕現したままの鏡を手に取った。
「海は変化する。人も変化する。それが良かれ悪かれ影響を出すだろう。一時でも、そこで感情が揺れるのは仕方のないことだ。それが人間以上に人間らしい、俺たちの心だろう」
綿津見は目を丸くしていた。
天照は鏡の向こうの荒波に目を向けたままだ。
天照は見通していた。綿津見が、海が汚れていく様を憂いていたことも。「綺麗だ」と騒ぐだけ騒いでゴミを捨てる人間に怒りを抱いていたことも。
綿津見が嘆き、神魂を歪ませた理由も全部理解していた。
綿津見は俯いたまま、「分からないのです」と細く呟いた。
「人間は海を汚す存在です。しかし、海を守ろうとする者もいた。私は海を統べる者として、海を守らねばならない。しかし、同時に人間も守らなくてはいけない。人間は海にとって悪なのに、どうして海を思いやるのでしょう? 私には、分からないのですよ。汚したり、清潔にしたり、どっちが正しいんですか」
天照は鏡を元の耳飾りに戻すと、「さぁな」と気の抜けた返事をした。綿津見が言い返そうと顔を上げたが、何も言わなかった。
「どちらを信じるかなぞ、お前の自由だ。俺は人間の善を信じるぞ。悪い部分を見続ければきっと、その部分しか見えなくなるのだろうが、かつてはどうだったかを今一度思い出すべきだろうな」
綿津見は天照の言葉に唇を噛んだ。
今だ困惑する頭で、綿津見は言った。
「それはあなたが太陽神だからですか?」
天照は少し考えると、首を横に振った。
「俺が俺だからだ。神の肩書きなんぞ何ら関係ないに決まってる」
そう言い残し、天照は寝所を出て行った。
綿津見は今一度、神器を顕現すると、愛おしそうに杖を抱きしめた。
そして、杖を手前に置き、天照の背中に深く礼をして見送った。
天照は潮の香りを嗅ぐとふんわりと笑った。
「──波がおさまったな」
綿津見が杖を高く掲げた。
天照は外した耳飾りをつけ直す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます