拾柒話 お稲荷さんの憂い

 現世では既にクリスマスソングが流れ、手を繋いでクリスマスの予定を決めるカップルや、それを歯ぎしりしながら睨む者が増え始めた。



 天上──高天原

 オリンポス訪問と地獄の戦闘、一年で最大級の会議も終わり、出雲大社に集まった神々は自分のやしろへと帰った。

 慌ただしいひと月が過ぎ、ようやく安息の日々を取り戻したかと思いきや。



「天照、シナトベとアメノウズメから一年の報告書が届きましたよ」



 神無月が終わっても変わらず仕事詰めになっていた。天照は受け取った報告書を机の山の肥やしにし、深い溜息をついた。

「全く。昨日届いた分さえ読み終えてないぞ。天つ神だけならまだいいが、国つ神も含まれるとどうにも多すぎやしないか?」

「日本には八百万の神がいるのです。それを統べるのが天照、貴方なのですからおさとして当然の義務ですよ。私は予算回収をしますから、報告書の押印お願いしますね」

「分かった」

 天照は渋々了承すると、印を手にして報告書の山に取り掛かる。月読は天照のオフィスから離れると、自分の文机デスクに戻り、算盤そろばんをはじく。




 神は各自神社を持っている。複数持つ神もいるし、一つしか持たない神もいる。

 その神社の参拝記録から賽銭金額と信仰状況を把握し、『神界予算』として一部を回収している。日本の年末調整と似ているようで似ていない年末の仕事だ。

 基本的に自己申告制だが、稲荷の狐が神社の参拝記録をしているため、誤魔化しは聞かない上に手間はかからない。だから忙しいのはその書類を受け取った側のみ。月読は荒れた指で算盤を叩いては回収金額を書類に書き込み、大きく伸びをしてまた算盤を叩く。



「あの……月読様」



 ボソボソとか細い声が聞こえた。

 だが算盤の音にかき消され、月読の耳には届かなかった。またか細い声がした。

「あのっ……!月読様……!!」

 月読がふと顔を上げると、入口から顔を覗かせる女の獣人がいた。

 白い髪に赤い瞳が良く似合う兎だ。月読は彼女の顔を見るとあからさまに不機嫌な表情を浮かべた。

 兎は肩を竦めて入室許可を待つ。月読は算盤をはじく手を止め、書類を一枚完成させると「入りなさい」と女を呼んだ。


「何の用ですか。真白ましろ


 真白と呼ばれた兎はオドオドしながらオフィスに入る。月読の机の端に書類を置き、月読が伸ばした手にも怯えていた。

「ねっ、年末棚卸しの報告書なんですがぁ……」

嗚呼ああ、医局の……。少し待ちなさい。確認します」

「は、はぃい……」


 月読は真白の怯え様にため息をついた。真白はそれにさえも肩を震わせ、「すみません」と小声で謝罪した。




「月読様ぁぁぁぁぁ!!」




 真白とは対照的に元気な声が響いた。

 入口には狼の剣次けんじが立っていた。眉間にシワを寄せて伝票を持っている。

「地獄から大量の酒が届いてるんですけど、宛先が天照様な上に、送り主が鬼の頭領ってのはどういうことですか?邪気の匂いがしたんで、ウチで今ストップかけたんですけど……どうします?」

「地獄からの酒はちょっとした報酬です。そのまま天照に渡してください。オリンポスとの貿易品になりますから」

「地獄?何があったんですか」

「ただの蛇殺しです。天照の方に伝票持ってってください。貴方がたは怪我は良いんですか?」


 剣次は尻尾を振って「もう平気です!」と笑った。月読は現世に戻ってすぐに八百万の神の治療を行った。その中には剣次や黒枝くろえなどの神使も含まれていた。

 あの有様は神無月が終わった後も覚えている。

 酷い状態でよく神力を保てたものだ。

 真白は剣次に怯えながらも同意した。月読は真白に冷たい視線を投げかける。

「全く……貴方がいながら、どうしてああなったのか。貴方が力を発揮すればあの惨状は免れたのでは?」

 真白は涙を浮かべて身を縮こませた。

「すみませぇん……。あの鬼が怖くてその、逃げちゃいました……」

「あの、真白は悪くないんですよ。あの鬼、入って三秒もしない内にタケミカヅチ様を叩き潰したんです。古株の神がこぞって応戦して、俺らもサポートしたんですけど、気がついたら月読様が治療して下さってたんで」

「月読様が戻られるまで、私も、そのっ……、治療を試みたんですけど、あまりにも穢れが酷くて……神力が削がれるのが早いので、神力を注ぐだけで精一杯だったんです」

 月読は二人の話を聞いて、納得した。神力の低下を防げた理由も、鬼の侵攻を防げなかった理由も。

 剣次は伝票を天照に届けに行った。

 月読は報告書に目を通すと、真白に報告書の記録を示し、薬草の仕入れ記録を確認させる。

「九月以降の仕入れ量が大幅に減少していますが、それはどうしたんです?」

 真白は困った顔で、薬草の仕入れ記録を見つめた。


「……宇迦之御魂神うかのみたまのかみ様が」



 ***


 現世──伏見稲荷大社


 月読は神殿の戸を叩く。だが返事は無く、後ろの観光客の話し声ばかりが聞こえた。

 月読が何度も戸を叩いても、返事は聞こえてこなかった。しばらく続けていると、咲夜丸さくやまるが戸を開けた。月読の顔を見ると、さっとしゃがんで礼を尽くす。

「大変お待たせ致しました。高天原よりはるばるお越しいただきありがとうございます。月読様」

「いえいえ、わざわざ稲荷管理協会から抜けてもらってすみません。宇迦之御魂神うかのみたまのかみ様はいらっしゃいますか?お話があるんですよ」

 咲夜丸は鳥居の道の方に目を向けた。

 やや困り気味に、「あちらの方かと」と手で示した。月読もそちらを向くが、観光客が押し寄せて千本鳥居は混雑している。

 その先に行くのは容易ではない。

 写真を撮ったり立ち止まったりと、流れの悪い人混みなのだ。普通に行ったらもみくちゃにされて投げ出されるだろう。

「……まぁ、大丈夫でしょう。情報ありがとうございます。あっ、年末報告書早めに出してくださいね。稲荷は何かと仕事が多いですから、報告書の量も桁違いなので」

「承知しました。中旬までには済ませるように致します」

 咲夜丸は礼をして神殿に引っ込む。月読は覚悟を決めて千本鳥居の人混みを睨む。

「行きましょうか」


 トン、と地面を蹴ると体が宙に浮かんだ。

 空を漂う雲のように空気に身を任せると、人混みの上をふわふわと飛んでいく。

 神の特権を感じながら鳥居の中を目を凝らして探すこと数分。

 途中にある『おもかる石』でウカノミタマを見つけた。

 女性二人が話しながらおもかる石に手を伸ばす。



『素敵な男性と出会えますように』



 そういう願掛けが聞こえた。

 ウカノミタマはその願いを聞くと、ふんと鼻を鳴らした。


「金の欲が深すぎる。その悪臭がここまでしとるぞ。良縁を求むならば金の悪縁を断ち切るべきじゃ」


 そう吐き捨てると、女が持ち上げた石を上から押しつけた。女は笑って「重いや」と残念そうに言った。

 もう一人も同じ願いをしたが、そちらには微笑んでおもかる石を一緒に持ち上げた。


貴女きじょは先日神社の掃除をしてくれたな。参拝も含め、その心はよう伝わった。次の年の如月きさらぎに良縁を約束しよう。だがそのきっかけは一度だけじゃ。のがすでないぞ」


 女たちが居なくなったところを見計らい、月読はウカノミタマに話しかけた。

「失礼します。宇迦之御魂神うかのみたまのかみ様」

「これは月読様。来られるとは思わなんだ」

 ウカノミタマは月読に深く礼をするとおもかる石から離れた。そして神殿へ月読と世間話をしながら戻る。入口の花瓶にあった枯れかけの稲穂を指で弾くと、狐が一斉に礼をした。ウカノミタマは月読を先に神殿へと入れた。



 神殿内部は書類準備をする狐や棚卸しの作業中の狐で、てんてこ舞いだった。

 ウカノミタマは狐に適確に指示を出して月読を部屋へと招く。月読を上座に座らせると自らお茶を淹れた。

 月読はお茶を避け、単刀直入に医局の報告書を見せた。ウカノミタマはそれを手元に引き寄せて目を通した。

「医局が仕入れる薬草が九月から大幅に減っています。この量では薬不足となり、神の仕事も満足に出来ません」

「構わないじゃろう。どうせ売れるのは二日酔いの薬ばかり。傷薬やら風邪薬やらなぞ粟一粒でも事足りる」

「確かに人間に比べたら体は頑丈でしょうけど。しかし健康管理があってこその仕事です。我々神とて、病は侮れません。せめて現在の量の三割増で」

 月読が交渉に乗り出すと、ウカノミタマの目付きが変わる。茶を机の端に避け、応戦の姿勢を見せた。

「三割は出来ん相談だ。二割じゃ」

「『最低』ではなく『最悪』です」

「二割は譲れん」

「五割のところを三割と申しています。どうかお聞き入れください」

「二割が限度だ。人間を味方するためだけにわれに頭を下げてくれるな」

 ウカノミタマは頭を下げる月読から目を逸らした。そして「そうだな」と呟くと、医局の報告書をつまみ上げた。


「何か見返りがあるならば三割出そう。ちと苦しいがな」


 月読は深くため息をついた。

 ──全く、これだから……。




「狐は嫌だってか?」




 心を読まれ、驚いた月読がウカノミタマを見つめると、彼女は儚げな瞳で見つめ返した。


「狐は見返りを求める。無償の施しをしていたのはもう数百年以上も前のこと。狐のずる賢さは我の神力にあてられた故」

 そして神殿の窓を開け、外の世界を月読と見つめる。ウカノミタマはしばし物思いに耽り、意味深な言葉を吐いた。

「我は太古からこの世界を見つめ続けた。それこそ、天照様が初代の頃からな。じゃが、信心深かった人間は、今やほとんど居らぬ。ここから見える土地も、かつては我の土地だった」

「……つまり?」


 ウカノミタマは外の世界に手を伸ばす。ビルが立ち並び、車の往来が激しい煙たい世界に。

 虚空を掴んだその右手を胸に抱え、ウカノミタマは昔を懐かしむ。

「人間の為に神の力を振るった頃は、何も望まなかった。人間の喜ぶ顔が嬉しくて、いかなる願いも請け負った。商売繁盛も、産業隆盛も、芸能だって元は我に無かった力。それを身につけたのも愛おしい人間の為じゃ。お陰で我が神使もよう増えた。我が力も繁栄し続けられた」

 そこまで言ったが、ウカノミタマはだらんと腕を下げた。ウカノミタマは俯き、床に目をやる。自分のつま先を光のない瞳に映した。

「今や人間は神をおろそかにする。ゴミを捨て、賽銭を盗み、あまつさえ神体を汚す始末。神の領域をなんと心得ていよう!神をなんと思っていよう!我らが人間を想っているにも関わらず!奴らは我らを都合のいい道具にしか思っておらぬ!」

 暗く重苦しい声が、人間に毒を吐く。




「我は人間が憎い」




 月読は袖の中で拳を握った。

 宇迦之御魂神うかのみたまのかみは『お稲荷さん』として親しまれた農耕神だ。日本の神社の半数は稲荷神社だと言われるくらい、その認知度は高い。元は人間好きだったその神が、ここまで言うのは珍しい。

 だが参拝法の間違いは多めに見れど、彼女の言った通り神社で悪行を働く人間は確かにいる。目に余る行為をする奴もいる。──現にいた。

 月読にはまだ経験が無いにせよ、その気持ちは痛いほど理解していた。だが、それに同意することは出来なかった。最高神だからこそ、同意する訳にはいかなかった。

 ウカノミタマの背中に月読は言葉をかけた。


「それが仕事です」


 厳しい一言だった。ウカノミタマは怒りの篭もった目で月読を見つめる。納得のいく答えを無言で問うその姿勢に、月読は『月光の竪琴』を顕現した。

 美しい音色を奏でながら、月読は言葉を紡ぐ。ウカノミタマは椅子を引き寄せるとその音色に耳を傾けた。

「人間の都合で社は減る。人間のわがままで神の心はすり減る。神としての仕事をこなし、領域を侵害されながら願いは叶えろって、現世で流行りのブラック企業じゃないですか。それでも我々はそれをしなければなりません」

「仕事だからか?仕事だから心を殺せと?」



「いいえ。愛しているからです」



 月読は優しく、竪琴をかき鳴らす。響かせる音色は最高潮に達した。月読は目を伏せて自分の心をウカノミタマにそっと当てた。

 ウカノミタマは黙って月読の言葉を聞き入れる。月読は弦を弾く指を止めずに続けた。


「人を救い、誤ちを正す。それが愛情です。私たちの役目です。全てが悪い人間とは限りません。信じましょう。私たちに礼を尽くしてくれる人間を。誰か一人でも綺麗な心で接してくれる限り、私たちから人間への愛は枯れたりしません」


 竪琴が鳴り止む手前、ウカノミタマは一筋涙を流した。月読は小さく呟いた。


「神通力──『清めの月唄つきうた』」


 ウカノミタマは袖で涙を拭うと、「人間くさいお方じゃ」と笑った。

 月読も笑って「神ほど人間くさいものはありません」と返した。


「ということで三割でお願いします」

「それとこれとは別じゃ。二割」


 月読が差し出した手を叩き、ウカノミタマは報告書を突き返す。

 月読は残念そうに報告書を受け取った。絶対上手くいったはずなのに、ウカノミタマは一歩も譲らない。結局月読が折れるしかないのだろうか。

「まあ、月読様に神通力を使わせたからな。少し譲ろう。三ヶ月に一度を三割じゃ。これ以上は譲れん。なんせ畑が減り続けておる。薬草の栽培が間に合わん」

「そうですか。それなら私も譲歩しましょう。この件は真白と打ち合わせをお願いします。用が済んだのでおいとましますね」

 月読はさっさと帰る準備をすると、ついでに仕上がった書類を回収した。

 ウカノミタマはその後ろ姿をじぃっと見つめると、納得したように微笑んだ。


「月は慈愛と狂気の源。月読様が人を愛し続ける理由も、そこにあるか」


 月読はそれを聞くと、薄らと笑って「違う」と言った。振り返るその笑顔はどことなく天照に似ていた。ウカノミタマは目を見開いた。



「私だからですよ。私が何の神かなんて関係ありません」



 ウカノミタマはその言葉にプッと吹き出した。そして腑に落ちた表情で「そうだ。それしかない」と頷いた。

 月読は狐に高天原まで送ってもらった。ウカノミタマは見送りを終えると、神殿の柱に寄りかかり、枯れかけの稲穂を手に取った。

「……そうじゃ。我は皆に愛された宇迦之御魂神うかのみたまのかみ、現代に生きる古代の神じゃ。それしかあるまい」



「それしかあるまいて」



 ウカノミタマは笑って戸を閉めた。花瓶の稲穂は黄金色のたわわな実を揺らした。

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