拾陸話 地獄の鬼 2
神話最大の怪物を前に、圧倒されながらも月読は前に出た。
本気で止められるとは思えないが、引きつけるだけでもしなければ。
「顕現──『疾風の打刀』!!」
月読よりも早く、須佐之男が動いた。慣れた速さで神器を顕現するなり大蛇の背中に回り込んだ。振り上げた刀をその背に突き立てるが、硬い尾が須佐之男を弾き飛ばした。
遠くの岩肌まで吹き飛ばされた須佐之男に、大蛇の八つ首が薄ら笑う。
『大したことない』『弱神よ』『その程度で』『殺せるものか』
「須佐之男!」
「いけません天照!」
月読が天照の前に立ちはだかった。須佐之男を案じる天照は月読を押しのけようとするが、月読も必死に抵抗した。
大蛇の視線が一斉に二人に注がれた。
『お前が天照か』
ひとつの首が問いかけた。口から吐き出された邪気に月読は身震いした。
大蛇の血を浴びようものなら、三百年
「その汚らわしい口で、天照の名を口にしないでください」
月読の交戦の雰囲気も読まず、大蛇はそれぞれの首と器用に議論を交わす。
『天照は女神のはずだ』『よく見ろ。あれは男神だ』『だが天照の神力を感じるな』『いやいや、よく見んか。神力はかつて現世にいた頃よりも衰えている』『いつか聞いたことだが、神々が分霊して世継ぎを生み出したとか』『数多の神がやっているとか』『率先したのは天照と聞く』『ということは、奴は天照の子孫か』
十四ものカガチのような目が天照を見つめた。じっと見つめて、口を開いた。
『喰うたら我らの天下ぞ』
長い尾が天照を掴むと宙に浮かせた。
誰が先に喰うか、どこを喰うかと議論をする。天照も抵抗するが、硬い尾から抜け出せず、もがき苦しむだけに終わった。
月読は俯いてブツブツと呟く。
「……だ。…………ダメだ。………………けない。………………切ってはいけない」
胸を叩き、自分を律する月読の視界の端で、大蛇の順番が決まった。最初の首が、大きく口を開けた。
天照が歯ぎしりをした。
「触るな。
天照の目の前で首が落ちた。月読が天照に覆いかぶさり、返り血を防いだ。血を纏い、矛を振るって血を払う。尾の先を切り落とし、天照を救出すると、月読は顔についた血を拭う。
大蛇を睨む月読は、普段の優雅さとはかけ離れた振る舞いをした。
「さっきから神力が衰えてるだの、喰えば天下だのって、私を除け者にして偉そうだな。須佐之男に負けるような弱小蛇なぞ恐るるに足らん。この月読がぁ、地獄の塵にしてやるよ」
「つ、月読……?」
「前に出ないで下さいよ。貴方が穢れては神々の見本となりませんので。手を出さないで下さいね」
敬語に戻し、仕事の話を持ち出す月読だが、目は大蛇から離さず、矛を構え直して次の狙いを定めた。
大蛇は落ちた首の痕に呆然としていたが、月読に矛先を変えた。
『ほう、お前が月読か』『お前も神力が弱いな』『さしずめ代変わりした子孫だろう』
「うるせぇ殺すぞ」
そう言った次の瞬間には二つ目の首を切り落としていた。地面を転がった首は岩の裂け目に落ちた。
酷く憤慨する大蛇をよそに、月読はどこかに叫んだ。挑発するように。
「全部私が狩るぞ!そうしたらお前、また負けが増えるなぁ!」
地面が軽く揺れた。風が吹き荒れ砂塵を飛ばす。立つのもやっとな風に岩が削られていく。
雄々しい叫びと共に、大蛇の首が二つ飛んだ。鮮血を浴びて須佐之男は大太刀を背負って戻った。
「元々負けてないんで。勝手に勝った気にならないでくださいよ」
「自分の勝ち戦しか数えないような一族が偉そうにし──」
空が近くなった。煤のように黒く濁った空だった。腹に手をやると固いものが刺さっていた。濃い邪気を感じた。遅れて動いた脳が、今の状況を判断した。
月読は噛まれていた。隣には須佐之男もいた。
残った二つの首が交互に喋り出す。
『血の気の多さは二柱とも同じだな』『それもそうだ。共に神殺しの逸話があるのだからな』『食物神を殺したんだったか?』
「……それ以上言うな!」
天照が声を張り上げた。須佐之男が血を吐きながら「下がれ」と手振りする。
大蛇はなおも月読たちを貶し続けた。
『須佐之男は自業自得なれど、月読は天照が原因だったな』『保食神のもてなしを知っていたから行かせたとか』『さぞかし憎かったろうな』『神殺しの二柱が最高神とは世も末。なんと廃れた国なのだろうか』
「────黙れ」
天照がそう言った。
大蛇も須佐之男も、天照に注視した。月読に至っては今まで見たことも無い天照の姿に唖然とした。
いつも仲裁役で滅多に怒ることの無い天照が、大蛇を睨みつけて威圧していたのだ。
「逃げなさい!貴方が相手する必要はありません!私たちだけで事足ります!」
「そっスよ!……この名にかけて大暴れしてやるんで!」
「黙れ。深手を負った二人に何が出来る。俺は大蛇を許す気はない」
天照の気迫に圧倒されながらも大蛇は月読たちに牙をめり込ませた。須佐之男の骨が折れ、月読の神衣は血の色に変わり果てた。
大蛇は残った首を天照へと伸ばした。現世の建物よりも大きな口が天照を捉えた──……
天照の手には神々しい弓が握られていた。
「顕現──闇を駆けろ『
大蛇は咥えていた月読たちを地面に落とした。岩に叩きつけられた月読を、須佐之男が肩を貸して風に乗り大蛇から距離を取った。
わなわなと震える大蛇に天照は背中に手を伸ばした。光り輝く矢がどこからともなく現れ、それを弓にかけて引いた。
「我が兄弟を愚弄した罪、傷つけた罪……万死に値する!塵も残さず消え失せろ!」
天照はそう吐き捨てて矢を放った。流星の如く輝きながら飛んでいく矢は大蛇の胴を射抜くと、みるみるうちに大きな炎となり大蛇を飲み込んだ。
炎が自然消滅し、後に残ったものは一つだけ。大蛇は天照の言葉通り、塵一つ残らなかった。天照が地面に転がる小さいトーチを拾い上げた。
「これが例の『炎』か?」
月読の治療を受けた須佐之男が確認する。「そうっスね」と言うと、天照は茜に声をかけた。
「茜!取り戻し───!?」
振り向くと無数の屍を積み上げ、玉座に向かい合う茜がいた。血だらけの玉座を絵画のように眺め、鬼の腕をもりもりと食べていた。積み上げられた山の下に食べこぼされた骨と肉片。その傍らに『蘇芳』と呼ばれた鬼の服が切り裂かれて落ちていた。
「…………ん?あ、終わったのか?」
茜は山を飛び降り、天照の手からトーチを受け取る。それを自分の目で確認すると満足げに頷き、トーチを掲げた。
「妖刀変化──形見の
そう語りかけるように言うと、トーチに火が灯り、炎の波動が地獄全体に広がった。
慌てふためく者、混乱に乗じて逃げようと試みる者、積み重なった鬼の遺体も全て焼き払う。月読は今だ血の流れる腹を押さえて立ち上がった。
「いたた……そろそろ帰りましょうか。現世に置き去りにした者の治療もしないと……嗚呼その前に禊をしなきゃ」
「その前にお前の治療だ。酷い傷じゃないか」
「肩貸しますよ。月読様歩けそうにないですし。なんならおんぶでもします?」
「いつもなら喧嘩に持っていくんですが、今回ばかりはやめます。おんぶは結構ですので肩お借りします。目眩するので補助して下さい」
「うっス」
茜は月読をじっと見ると、いきなり月読の服を裂いた。
「はぁっ!?」
「あぁ〜、こりゃダメだな」
「いってーぇなぁ。血止めだよ血止め!最近の神さんってのはこんなのも知らねーのか」
「なら先に言って下さいよ!
茜は痛そうに腹をさすって起き上がった。そして天照たちに言った。
「いいか?現世に戻ったら出雲大社がある酒樽の一番でかいヤツに水を張れ。んで頭から水を被って全身を流したらその水に浸かる。今着てる服は桃の木の葉で燃やすこと。水は誰かが入る事に取り替えろよ。順番は問わねぇけど」
茜は禊の方法を細かく言うと、ズタズタの袖から小瓶を出した。
「冷夜は禊をしたら、この薬を酒に溶かして傷に塗れ。その後、たしか
薬は須佐之男に預け、茜はトーチを三人の前にかざした。すると、トーチは優しい光を放ち始めた。
禊に関して妙に詳しい茜に疑問を抱いた天照は、一つ聞いてみることにした。
「お前は鬼だろう。なのにどうして禊の仕方まで教えられるんだ」
茜はどこか遠くに目をやると、懐かしむような表情をした。そのあとすぐに悲しげな表情に変える。
「……千年生きてっからな。嫌でも神さまのことは知ってるよ」
放たれた光に包まれて三人は現世へと送られる。
天照は腑に落ちぬまま現世へと戻った。
茜は見送りを済ませると、静かになった地獄で雄叫びを響かせた。
抗争の終わりの知らせだった。
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