第13話 迷走する子犬たち

 試合翌日の練習――。

 『ワールド』は重い空気に包まれていた。

 部員達はそれまで、自分達の失敗は自分達にのみに返るものと思っていた。それが実際は自分達はほぼ無傷で、全て貴文の責任になるとは夢にも思っていなかった。

 ほとんどが、貴文の監督就任を条件に振興大学に来た学生達である。その衝撃は計り知れなかった。

「・・・・・・」

 あまり動きの良くない練習を見ながら、貴文はため息を吐いた。

 精二が言った話は、貴文も薄々考えていたことだ。教え子の失態は即自分の失態に繋がる、元日本代表『スターリー』の肩書きがある以上矢面に立たされるのは自分だ。

 だがそれは監督就任を引き受けた次点で覚悟していた事でもある。それが嫌なら、最初から強豪校やプロチームのコーチになっていただろう。

 それに、時には自分ではなく彼らの責任を問われる場合もある。曰く「あの内田貴文が指導しても勝てない選手」と――。むしろそういうときの防波堤にもなるつもりでいた。

 誰かに責任をなすりつけず、全てを受け入れるのが監督の役目――貴文は現役時代からそう思っていた。そうでなければ上から目線でああだこうだ言い、私生活にまで介入しようとする人間に誰が従うものか。

(とはいえ予想より早いんだよなあ……)

 貴文は顎に手を当てる。

 いずれこうなることは読めていたが、ここまで早いとは思っていなかった。せいぜい注目が集まるの準々決勝前あたりからと踏んでいた。大学側もマスコミには積極的に自分を売り出してはいなかったし、騒がれるのにはそこそこ時間かかかるだろう、と。

 とはいえ、この件に関しては貴文も精二を恨んではいなかった。むしろ自分が言いづらいことを言ってくれたことに、感謝しているぐらいだ。いずれ直面する問題なら、早い方がいい。

 もちろん本人には口が裂けても言わないが。

「集合!」

 貴文は練習の途中で教え子達を呼ぶ。

「今日の動きは最悪だが、そこに関してはあえて言わないでおく。まあ野中監督は昨日ああ言ったが、これは俺の問題でお前らがそこまで難しく考えることじゃない。ひどいプレーをしたら周りが何か言う前に、俺が生まれてきたことを後悔させてやる」

『・・・・・・』

「……はあ。今日の練習はこれで終わりにする。法に反しない限り好きなことして気持ちを切り替えろ。多少大学の名前を傷つける行為でも、あの学長がもみ消してくれるから」

「それじゃあお言葉に――」

「練習します」

 沙織の欲望に忠実な返事を、松之助の確固たる決意を込めた声が打ち消す。

「これ以上監督に恥をかかせるわけにはいきません」

「そこまで肩肘張られてもなあ……」

 自主的に練習してくれるのは指導者としてありがたいが、しすぎれば故障に繋がる。人数が少ない振興大学ザバル部ではそれが即致命傷になった。

 特に一番責任を感じている松之助は、替えが利かない選手だ。松之助抜きで『龍起杯』予選を戦い抜くのは考えられなかった。

「これは監督命令だ。これ以上練習しても、お前らの今の状況じゃ怪我するだけで身につかん。練習はこれで終了、はい解散解散」

 貴文は雲霞を払うような仕草をし、自分が率先して練習場を出る。

 それから向かったのは校舎ではない。

 その日は講義がなく、ある程度時間は自由に使えた。

 もっともこれから行く場所は近所なので、時間に余裕が無くてもあまり困らなかったが。


「どうも」

「・・・・・・」

 相変わらず人がいない見所のない公共施設。税金の無駄遣いとしか思えない建造物だ。

 ただ今の貴文には、どんな場所よりも必要なところだった。

 笑顔で現れた貴文に、ザバル記念館の受付の老婆は返事をするどころか、眉1つ動かそうとしない。

「あの……」

「今は仕事中だよ。礼儀を弁えな。ザバルにとってはそれが一番大事だよ」

「いや、でも客なんていないでしょ」

「いるところにはいるもんさね」

 老婆は顎を動かす。

 貴文が目で追うと、そこには最近嫌と言うほど見ている恵まれすぎる巨躯の老人が――。

「学長!?」

「ほう、内田君か。珍しいところで会うな」

「学長もこの方とお知り合いで?」

「まあ昔色々、な。それより君の方こそここに来るとは珍しい。何か心に迷いでもあるのかね?」

「・・・・・・」

 亀の甲より年の功、とは良く言ったものだなと貴文は心の中で笑う。選手としては圧倒的に上でも、人間としてはまだまだ福原学長には遠く及ばない。

「実は教え子達のことで……。最近色々あって、必要以上に責任感を背負うようになってしまいまして」

「さしずめ試合で負けることで、内田君の名声に傷を付けることになる、と余計なプレッシャーを背負っているといったところか」

「仰るとおりです」

「君の名前で連れてきた子供達だ、遅かれ速かれそうなるとは思っていたよ」

「こういうとき、私はどうすればいいのか分からないんですよね。現役時代は常に自分のことだけ考えて、勝ちも負けも自分の責任としか思っていませんでしたから」

「私の聞いた話では、ワールドカップでは皆が君を男にしようと、一致団結したらしいが?」

「ああ、それですか」貴文は苦笑した。

「その話は後で知りました。試合後は怪我で他人に構う余裕なんて皆無でしたから。尤も試合中にそれを知っていたとしても、当時の私だったら「だからどうした」で片付けたでしょうね。自己中心的で、今でも監督には向いていないと思っています」

「ならばその時の彼らに、改めて今聞いてみてはどうかね?」

「確かに……」

 同じような気持ちなら先人に聞くのが早い。

「すぐに連絡してみます! 有り難うございました!」

 貴文は頭を下げ、ザバル記念館を出る。

「あのぼうや代金払わないで行っちまいやがった」

「ここは私が持ちましょう。なに年長者の役目ですよ」

「は! 人の人生無茶苦茶にしておいて100円で済まそうなんて汚い大人だね」

 福原学長は何も言わず静かに笑うのだった……。


「もしもし、野中か?」

 記念館を出た貴文は、すぐに精二に連絡した。あの時ベンチ入りしたメンバーも含めて今は精二が一番話しやすい。何より事情を一番理解している。

『どうしました?』

「あの時の、ワールドカップの時の話がしたい。今時間大丈夫か?」

『……長くなりそうですね。俺の方からそっちに行きますよ』

「いや、私的な事でわざわざ来てもらうのも悪い。俺の方から行く。今日は大丈夫か?」

『そうっすね……、今試合中ですからすぐに来られるときついっすね』

「そうならそうと早く言えよ! 悪かったな!」

 貴文はすぐに電話を切った。

 しかし、その数秒後に精二からすぐに着信が入る。

『あと1時間後ぐらいに大学で大丈夫と思うっす』

「試合に集中しろ!」

『まあ相手が先輩ならうちの部員も納得するっすよ』

「なんかお前のとこ行くの本気で怖くなったわ……。とりあえず切るからもうかけてくるなよ!」

 貴文はそう念を押して電話を切る。こんなことなら向こから来てもらった方が、お互いにとって良かったかもしれない。

(いや、アイツのことだから全部うっちゃって来るかもしれないな……)

 かつて貴文は「本場のヨーグルトが食べたい」と言い、日本代表のヨーロッパ遠征中に精二にブルガリアまで買いに行かせたことを思いだした。今思うとアレはやりすぎたなと反省する。確かヨーロッパでもあの時はイギリスにいたような……。

 貴文は今更精二にパシリ根性をたたき込みすぎたことを後悔した。


 南千住から数回乗り換え、地下鉄にゆられながら、貴文は川崎の外れにある明皇大学のキャンパスに向かっていた。大学の敷地は長野政柄ほどではないにしろ広大で、川崎と言いながらも僻地にあり、最寄り駅から出ているバスに乗る必要がある。

 明皇生専門となっているバスには何人かの学生がいたが、幸いにもザバル部の人間はいなかった。監督だけでなくその教え子達も面倒くさすぎる。

 大学に着くと、貴文は電話でその旨を精二に知らせた。練習場は来る途中バスからでも見えたが、ザバル部の狂信者共に見つかったら、本当にどうしようもないほど面倒だ。

 電話をしてから数十秒後、ジャージを着たままの精二が全速力で現れる。ジャージが汚れているあたり、おそらく自分も練習に参加していたのだろう。貴文より年下なのだから、動きは今の貴文以上かもしれない。精二が自分同様早く引退した理由は知らないが、怪我ではなかった気がする。

「とりあえず学校だと面倒なので、近くの喫茶店に行きましょう」

「ああ」

 勧められるまま、貴文は大学そばの喫茶店に入った。

 そこは少し脂臭い、一昔前の古き良き風情の喫茶店だった。珈琲一杯の値段が多少高目なので、今時の学生は来ないだろう。他に客もおらず静かで、話すにはもってこいの環境だった。

「それで、代表の時の話ってことでしたけど……」

「ああ、あの時お前ら余計なプレッシャー自分達にかけてただろ。それをどうやって克服したのかなって」

「ああ、その件でしたか……」

 精二は注文した珈琲を飲みながら、一拍おいて答える。

「まずあの子達と当時の俺達じゃ、くぐってきた修羅場が違いすぎます」

「まあそりゃあな……」

 貴文は浮気がバレ、代表宿舎のホテルまで嫁が押しかけてきた『フラッター』を思いだす。イタリア代表選手が嫁を口説き落としてくれなければ、ワールドカップ自体出場出来なかったかもしれない。

「なんだろ、あの時の代表って女性問題抱えてた奴多すぎじゃないか? 用意されてたコンドームの減りも尋常じゃなかったぞ」

「そうっすね。ただ、俺が言いたいのはそういう問題じゃないっす」

「さすがに冗談だよ。けど、余計なプレッシャーだったのは事実だろ?」

「先輩はどうだったんすか?」

「いや、俺は後で知ったぐらいだから、その件に関しては0だな」

「それも理由の1つかもしれないっすね」

「理由?」

 貴文は鸚鵡返しに聞く。

「あのワールドカップは先輩が代表引退を表明した試合だったっす。だから俺達も気合い入れてたんすけど、肝心の先輩があっさりしてたから、始まる前から肩すかし感があって、こっちもプレッシャーはなかったかもしれないっすね」

「あー。そういうのもあるのか……」

 精二の言ったとおり、貴文はあの大会で日本代表を辞めるつもりだった。当然選手まで引退するつもりはなかったが、当時所属していたアメリカのリーグと日本の移動が、ベテランにさしかかった貴文には体力的に厳しすぎた。

「サプライズパーティー的なもんもあったかもしれないっすね。相手が知らないと失敗が失敗にならないから、結構気楽になれるんすよ」

「しかし今回は俺もあいつらも知っちゃってるしなあ」

「あの時はつい感情的になって申し訳なかったっす」

「まあ時間の問題だったんだ。仕方ないさ」

 責めはしないが感謝もしない。これが精二に対する最低限の妥協ラインだ。

「そうなるとあの時とは状況が違いすぎるか……」

「確かにそうっすけど、あの子達の迷いは共感できるっす。先輩が気を使ってる事が分かって逆に辛いんじゃ無いっスかね」

「気を使ってるのが? なんでだよ、俺なんて現役時代どれだけ気を使って欲しかったか……」

 アップ中に取材はされるわ、ありもしない女性関係で騒がれるわ、一緒の部屋の選手の屁が臭いわ……。

「あ、思いだしたらまた腹立ってきた」

「先輩は学生の頃からリーダーで、俺達とはプレッシャーへの耐性が違いすぎるんすよ。気の弱い俺達下々の者は、気を使われることで逆にプレッシャーも増すも

んっす。もうこうなったら、先輩も余計な気を使わないで、素直にプレッシャーかけまくったらどうっすか?」

「いやお前、それで致命的なことになったらどうすんだよ!?」

「そんときはそんときっすよ。この程度で駄目になるような選手なら、内田貴文の名を語る資格はないっす」

 今まで聞いた中で最も冷めた声で精二は言った。

「……そうか、今日は世話かけて悪かったな」

「先輩の頼みなら何でも聞くっすよ! ヨーグルトの件に比べたらたいしたことないっす!」

「あれな。イギリスだったっけ?」

「日本っす……。オフの時、なんかのテレビの企画で、俺がどこまで先輩の命令をきくかって。ちなみに知り合いは誰もやらせと思わなかったっす。まあ実際ガチだったっすけど……」

 どうやら欧州遠征ですらなかったらしい。

 それから貴文はどんな言葉をかけていいか分からず、結局その場はそれ以上話もせずに別れた。

(俺って結構最悪の部類の人間だったんだな……)

 バスにゆられている間、貴文も貴文で思い切り押しつぶされそうな気分になった……。


 翌日の朝練。

 柔軟から動きが冴えず、やはり全体的に身体が重い。貴文に特別な感情を持っていない一般組や、沙織や秋雄などは既に元通りだが、他は話にならなかった。

(この状態で余計にプレッシャーかけて上手くいくのかよ……)

 精二に言われたことを試すのは、さすがに問題がある気がした。貴文は精二のように教え子にドライになることも、自分を神格化することもできない。できれば自分の力で解決して欲しかった。

 とはいえ、そう時間があるわけでも無い。

 数日後のリーグ戦はいいとして、来週には『龍起杯』予選がある。ただでさえ強敵揃いというのに、今のままで勝てるとは到底思えなかった。

 貴文は覚悟を決めた。

「全員集合!」

 練習の途中でまた全員呼ぶ。

「はっきり言ってまだ切り替えが出来ていない奴がいるな。プレーがガチガチだ」

『・・・・・・』

 何人かが顔を背ける。

 貴文は構わず話を続けた。

「お前達の気持ちは正直よく分からない。俺はいつでも誰かの為じゃなく自分の為にプレーしてきたからな。だからあえてここは正直に言わせてもらう。昨日ああ言ったが、お前らのせいで俺まで下に見られるのは迷惑だ」

『・・・・・・!』

 ほぼ全員が絶句する。

 まさか昨日の今日でそんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。

「昨日と言ってること違うやん!」

「建て前と本音だな。気を使って建前で話しても変わらないから、これからは本音で話すことにした」

「納得できるようなできひんような……」

 沙織は腕を組んで考え始めた。

 そんな沙織を放っておいて貴文は話を続ける。

「それで、だ。正直今のお前らの試合は恥以外の何物でもない。これじゃあどうせ負けるだろうし、勝っても恥だ」

「じゃあどうしろって言うんですか……」

 松之助が絞り出すように言った。その姿はまるで捨てられた子犬だ。翔あたりは捨てられたゴリラか。

 貴文は頭をかきため息混じりに言った。

「それは前の試合で既に言ってるぞ」

「どういうことですか!?」

「はあ、ホントお前らは頭悪いな」

 貴文は心底うんざりして言った。


「お前らのやりやすいようにやれって」


 部員達全員の目が点になる。

 最初に口を開いたのは、やはりプレッシャーとはあまり関係のない一般生だった。

「でもそれで負けたら、監督の恥にならないでござるか」

「まさかお前ら、勝敗の結果が俺の面目を潰すと思ってるのか?」

 貴文の言葉に全員が頷く。

 貴文は今まで見たことがないほど盛大なため息を吐いた。

「はあ~~~~~~~~~~~~~~~~~…………………。昨日の試合でも野中が言っただろ。お前らが最善を出せずに、つまらない試合をすることが恥なんだよ。奴も俺も勝敗に拘ってるわけじゃない。どんなにがんばっても負けるときは負ける。お前らじゃどうがんばってもアメリカ代表には勝てないようにな。もし全力を出し切って負けたお前らを批難する奴がいたら、俺が全力で戦ってやる。それが監督の試合だ。だが昨日みたいな試合で負けたら、俺はもうお前らを庇う気も監督を続ける気もない」

「俺達の……力……」

「監督!」

 春樹が叫ぶ。

「勝負はやっぱり勝たなくちゃ駄目じゃないんっすか!? 負け犬はかっこわるいんじゃないっすか!?」

「それはお前らの問題で、俺の問題じゃない。お前俺が現役時代何回負けたと思ってるんだ。そりゃ悔しさを忘れたら選手としておしまいだろうが、それを恥と感じるかは俺次第だ」

「監督次第……」

「監督」

 松之助が意を決したように顔を上げる。

「俺はあの話を聞いて、負けることが監督にとっての一番の恥なると思っていました。あの後他の連中とも話して、皆俺と同じ考えでした。でも違ったんですね」

「ああ。そもそも部発足から無敗で『龍起杯』出場とか何様のつもりだ。そんなに甘いスポーツだったら、監督なんかいらねえよ」

「……はい、その通りです。でも俺達はあれからどうやって勝つかだけ考えていました。正直勝ったのに全然喜ばなかった監督の気持ちが、少し分からなかったのもあります」

「・・・・・・」

「でもそれは監督が望んでいたものじゃないんですね。……分かりました」

 松之助は同期の仲間達に向き直る。

「俺達はあの内田貴文の教え子だ! 勝ち負けの前にまず最高に見てる人間を楽しませるプレーをしようぜ!」

『おお!!!!!』

 松之助の言葉に全員が応じた。

(やれやれ……)

 貴文は苦笑する。

 こんな事ならもっと早く素直に話しておけば良かった。隣で広子は涙を流して感動しているが、実際はそこまでの話でもない。馬鹿をやってた馬鹿が馬鹿に気付かなかっただけだ。

(さて、これでもう言い訳もできなくなったな)

 選手が足りないとか、チームの状況が悪いとか、精神的にベストが尽くせないとか。福原学長に対して負けた時に使えそうな言い訳が、今全部消え去った気がした。

 後はもう行けるところまで行くしかない。

 その結果負けるとしたら、それはボーナスカットと共に受け入れることしかできない。


 貴文は空を見上げる。

 6月の空はいつもはっきりせず、いつ雨が降ってもおかしくはない。

 ただそこに、はっきりとした雲間が見えた気がした。

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