第7話 子犬の群と群れない子犬

 その日はうんざりするぐらいの快晴だった。

 記念すべき振興大学ザバル部初の公式戦は、荒川の河川敷で行われた。

 ちなみにユニフォームは前日にようやく間に合った。

「緊張する……」

「そうか、実は俺もだ……」

 『ワールド』でリラックスした様子でアップをしている部員達をよそに、『ホスト』と監督は緊張の極地にあった。

 貴文も万全な状況であったならこれほど緊張しなかったかもしれない。

 しかし現実は、貴文が思い描く万全とはほど遠かった……。


 あの色々な意味で衝撃的だった明皇との試合から、今度は実力に見合った相手を選び、振興大学ザバル部は練習試合をこなしていった。

 そのほとんどは地元南千住近辺の高校で、言うまでもなく隠下の相手だ。個人の実力で比較すれば、どこも圧勝できる相手ばかりである。


 しかしそうはならなかった。


 試合には全て勝ったが、圧勝と呼べる試合は1つもなかった。だいたいは僅差の勝利、ひどいものになると『芸術点』での逆転もあった。1回だけ4部リーグの大学と練習試合をしたが、そのときは当然のように負けた。

 ただ負けるだけならいい。まだました。

 最悪なのは練習試合を繰り返すうちに、より陽介が孤立を深めたことである。個人でしか練習できなかった陽介は、致命的にチームメイトとの接し方が分からなかった。

 そして記念すべき今日の開幕戦、陽介はベンチからスタートすることになった。


「・・・・・・」

 広子と貴文の隣で、ベンチの陽介が爪を噛む。

 初めからベンチ入りと分かっていた反対隣の隆の胃は、きりきりと痛んだ。

「しかし『0トップ』かあ……。嫌がってても大人は現実的な道を選んじゃうんだよなあ……」

「だったら私を使えば良いんですわ!」

 同じくベンチを言い渡された聡美が、貴文の前で仁王立ちになる。

「なんで群馬の田舎娘がスタメンで、私がベンチですの!?」

「お前も同じ田舎娘だ。スタメン取りたかったら小森同様周りに会わせられるプレーとスタミナをつけろ」

「ぐぬぬぬ……」

 聡美はいつものように歯ぎしりをする。

 とはいえ、貴文は陽介と違いそれは時間の問題だと思っていた。

 聡美の傲慢さは貴文と似ていて、常に自分に向いている。優秀な自分がチームを引っ張らなければならないという、自尊心と責任感によるものだ。チームメイトも別に聡美を嫌ってはいない。

 それに聡美はその理想と現実を埋めるための行動もしていた。毎日密かに貴文に、『スターリー』に必要な練習や心構えなどを聞いていたのである。一方で陽介は入部する前からの練習を全く変えようとはしていなかった。

(この分だと丸山中心のチームになるな……)

 だんだん勝てば官軍という気持ちが強くなり、悲しくなってきた。

「おはようございます内田選手……いえ、今は内田先生と言うべきでしたか」

「おはようございます」

 相手の監督が試合数分前の挨拶に来る。

 これは別に珍しいことでもない。場合によっては、同じベンチでそのまま指揮を執ったりすることもある。アマチュアの、それも最底辺の試合なので、そこまで厳密にレギュレーションがあるわけでもないのだ。

「いやあ、まさか内田先生のチームと戦うことになるとは夢にも……」

「この世界では私はまだ彼ら同様新入生です。胸を借りるつもりでがんばります」

「いやはや、そう言われるとこちらの方が恐縮してしまいます。うちの大学は歴史はありますが全員一般入部で、来年はそもそも大学があるのかどうかすら怪しいぐらいですから……」

「うちの大学は歴史がない上にそんな感じです。世知辛い世の中ですね」

「まったく」

 大人2人がしみじみとつぶやく。

 ……言ってから年を取ったなと貴文はさらに悲しくなった。

「それでも今日は負けませんよ。来年には富士山(標高標高3776.12 m)と飛鳥山(標高26m以下)ぐらいの差が付きそうですからね」

「こちらも初戦から負ける気はありません」

 最後に2人は握手を交わし、それと同時に審判の笛が鳴った。


 そして瞬く間に前半終了の笛が鳴った。

 

『・・・・・・』

 ベンチに戻って来た部員達は全員一様に重い表情だった。

 負けているわけではない。

 だからといって勝っているわけでも無い。

「……しょっぱいな」

 貴文は全員の気持ちを代弁して、現状を端的に言った。

 『0トップ』である以上、低い点数の試合の戦いになることは読めていた。しかし、それにしても『実得点』が入らなすぎた。ザバルはサッカーのように無得点が珍しくもない競技ではない。

 チャンスだけなら振興大学の方が多い。

 だが、どうでもいいミスでそれら全てをフイにし、逆襲される。ただ、相手のカウンターも大したことがなく、ただ『たんたん草』が風に靡くだけの試合展開が続いた。

(この展開で丸山入れてもなあ……)

 審判もかなり白けているため、『芸術点』は期待できない。こういう展開こそ陽介の出番だが、最悪チームが崩れる可能性もある。『シッカリ』を入れるほど、相手チームにキーになる選手がいるわけでも無い。なんとなくやっているザバルに、こちらもなんとなく付き合わされているような、どうしようもない試合だった。

「とりあえず後半もこのままで行く。正直ひどすぎてどこをどう直していいかすら分からん。ただ、バランスをずっと保っている点は評価できるから、そのまま続けながら自分達で判断して攻めろ」

『はい!』

 レギュラー組が力強く返事をする。

 声が出るだけまだマシと思うべきか。


 そして後半が始まる。


 返事は良かったが後半も同じような展開だった。攻めも守りもちぐはぐながら、地力の差でなんとか均衡を保っている。

 だが、その均衡が予期せぬ形で崩れることになった。

「おわっ!?」

「小見川!?」

 今までチームの中心としてプレーしていたグリーンが、突然その場に倒れる。

 広子と貴文が慌てて駆け寄ると、グリーンのシューズが血で染まっているのが分かった。

「これは……」

「どうやら『たんたん草』の中に『とげとげ草』が混ざっていて、それが刺さったみたいでござる」

 『とげとげ草』――学名OKANNOICHIGEKI――は、見た目は『たんたん草』とほとんど変わらない。植生がよく似ているため、『ワールド』に紛れて入り込むことがあるが、『とげとげ草』にはバラとは比較できないほど鋭い棘がある。ザバリストが他のスポーツ選手と比べて保険の加入額が割高なのは、そこにも理由があった。

「『アジールタイム』!」

 貴文は当然ここで『アジールタイム』を審判に要求する。後半も残り時間は少なかったが、審判はそれを受け入れ、すぐに金属探知器による『ワールド』の検査が始まった。『とげとげ草』は鉄分を多く含むので、それでたいてい見つけることが出来る。言うまでもなく試合前にも検査は行われているはずだが、人間のすることに完璧はない。

 『アジールタイム』で審判が探知している間、両チームの選手はベンチに戻る。

 広子は急いでグリーンの怪我のチェックをした。

「どうだ?」

「……大きな怪我じゃないですが、プレー続行は無理そうですね」

「拙者はまだまだやれるでござるよ!」

「交代を決めるのは俺だ! っくそ、前半だったら無効試合に出来たんだが……。とにかく小森、出る準備しておけ」

「はい」

 貴文の指示で陽介は立ち上がる。

 練習ではグリーンがいない状況で陽介を試したことはない。陽介の孤立したプレーを、グリーンがかなりカバーしていていたからだ。だがそうも言ってはいられない。


 30分程度の『アジールタイム』が終わり、両選手はベンチから『ワールド』に戻る。

「最初は様子を見ろよ」

 グリーンの変わりをさせられることになった松之助が、陽介に囁いた。

 だが陽介は全く返事をしない。

「……チッ」

 松之助は舌打ちをする。

「なーんか雲行き怪しいね」

 沙織が松之助に近づいて言った。

「残り時間は少ないけど、主将の役目は重要だな。同情する。今ならやらなくて良かったと思うぜ」

「あたしも全力で断っとけば良かったと思ってる。でもどうするの? 絶対暴走すると思うわよ」

「・・・・・・」

 松之助はベンチを――正確には貴文をみた。

「……監督がそれを分かって使ってるなら俺はそれに従うまでだ」

「うーん、あんた……って言うか、あんたらがカントク尊敬してるのは知ってるけど、言いたいことあったら言った方が良いと思うよマジで」

「……そうかもな」


 そして後半再開の笛が鳴り、試合は松之助が懸念したとおりの展開になった……。


 試合終了と同時に『ワールド』にへたり込む選手達。

 どちらも疲労困憊であったが、表情には天と地ほどの違いがあった。

「おつかれさまです」

「はい、おつかれさまです」 

 相手チームの監督が、再び貴文の元に挨拶に来る。

「今日は良い夢が見られそうです」

「となると私は悪夢ですね……」

「ははは、慣れるとそれすら見なくなりますがね。まあ今日の結果に関しては、他ならぬ内田先生がよく理解しているでしょうから、私はこれで退散します。お前ら、今日は俺が驕るぞ!」

 喜びを爆発させながら帰って行く相手チームの監督。

 それを見送るのは負け犬の元日本代表だった監督。

 

 そう、試合は振興大学が負けたのだ。


 惨敗というほどひどい負け方ではなく僅差の敗北であったが、負けは負け、選手の質を比べればあってはならない結果だった。

 途中交代した陽介はすぐに個人技で『実得点』を取ったが、その陽介が攻めるために疎かになったところを毎回つかれ、それ以上の『実得点』を取られた。さすがに陽介が作った穴は、グリーン以外ではカバーしきれなかった。

 4対7で試合をしたときはしっかり守備もしたのに、普通の試合だと自分勝手に振る舞う『スターリー』。

 死にそうな顔で戻って来た部員達以上に、貴文自身が死にたくなった。

「あーお疲れ様」

 貴文は彼らを責めることなくそう言った。

 部員達の顔を見れば、反省していないかどうかははっきり分かる。それにも拘わらずさらに責めたところで無意味だ。叱責は反省してない相手に、それを気付かせることにこそ意味がある。叱責して強くなるなら何時間でもするが、たいていは萎縮させるだけの指導者の自己満足で、時間の無駄だ。

 だが、なにも手を打たなくていいわけでもない。

 それから貴文が言った一言は、選手達にとって怒号より強烈だった。

「小見川の怪我はそれほどでも無かったが、大事を取って次の試合には出さない。ひょっとしたらしばらく出さないかもしれない。試合間隔も短いし、まだまだ先は長いからな」

 部員達は一斉に青ざめた。

 今のチームがかろうじて成立しているのは、グリーンの献身的なプレーと統率があったからだ。今日の試合でそれが皆嫌と言うほど分かった。交代で変わったのが別の選手だったら、勝っていたかもしれないとさえ思っていた。

「せ、拙者は大丈夫でござるよ!」

「これは監督命令だ。5部リーグは試合数アホみたいに多いんだから、お前にここで無理させるわけにはいかないんだよ」

 関東リーグは4部から上はチーム数が決まっているが、最底辺の5部には決まったチーム数はない。そうでなければ振興大学のような新規チームが加入できないからだ。今年は参加チームが20近くあり、プロでも週に1回が普通のザバルで、3日連続試合というあり得ないローテーションまで誕生してしまった。中には加入当初から新入生を30人近くとり、ターンオーバーをしながらリーグ戦を勝ち抜いた大学もあったという。

 そして現在『ホスト』を入れて11人しか部員がいない振興大学にそんな真似は出来るはずも無く、怪我人の長期化は即5部リーグ残留に繋がる。こんなところでグリーンを無理させるわけにはいかなかった。

「試合は一週間後、それまで各自課題を考えそれに取り組むようにしろ。じゃ解散」

 貴文は言うだけ言うと、自分一人そそくさとその場を後にする。実は試合にかまけて、教師としての仕事がかなり溜まっていたのだ。これが明皇大学のように専任監督でなく兼任監督の辛いところ。

 急いで大学に戻りながら貴文はつくづく思った。


 その日の講義も終え、資料の整理や教授の報告会も終わり、貴文は椅子に座りながら大きく伸びをする。

 教授室にいるのは貴文だけで、日付は既に変わっていた。

 試合前も試合後も忙しく、あまり考える時間が無かったのはよかったのかもしれない。貴文にしても、初戦敗退のショックは少なくなかった。

「……ん?」

 不意に教授室の扉がノックされる。

 貴文が扉を開けると、あまり見ない組み合わせの二人がそこに立っていた。

「アローハー!」

「こんばんは」

「近藤と尾崎か……。こんな時間にどうした、消灯時間は過ぎてるぞ」

 スポーツ特待生の2人は校舎ビルの一室にある寮に寝泊まりしており、門限も就寝時間も決められていた。興奮して寝られないのはしようがないにしても、外に出るのは監督として認められない。

「でもここまだ学校の敷地内ですよ。外出って言うのは玄関の自動ドアを出てからってことで。まあ今はもう締まってるけど」

「本当にお前は……で、2人して話ってなんだ?」

 松之助と沙織は視線を送り合う。

 先に口を開いたのは松之助だった。

「小森のことです」

「まあそうだろうな」

 来るべき時が来たか、と貴文は思った。

 2人以上の競技の場合、負けた理由を選手個人に求めるべきではない。それがスポーツマンシップというものだが、それだけでは前に進めないのもまた事実。今日の試合に限れば、陽介にその原因があることは敵味方誰の目にも明らかだった。

 ひょっとしたら2人は陽介を辞めさせろと言うのかもしれない。

 もちろん貴文は反論するつもりだが、果たして説得できるかどうか。

「あいつこのままじゃ駄目です」

「ああ、そうだな。だからといって――」

「何か俺達に出来ることってないですか?」

「……へ?」

 貴文は拍子抜けした。

「監督?」

「いや、話を続けてくれ」

「はい。俺達思ったんですけど、あいつのプレーに精彩がないのは家のことが原因じゃないかって。多分今のままじゃ何をやっても上手く行きません」

「そうか……」

 貴文は陽介の傲慢なプレーの理由を、持ち前の性格と今までの特異な練習環境にあると思っていた。目前の試合ばかりに注目し、簡単な答えに飛びついてしまった。だが、一緒に『ワールド』でプレーしていた教え子達は、そんな上っ面ではなく、根幹の問題に気付いていたのだ。

(何やってんだ俺……)

 教え子を信じられなかった自分が、怖ろしく無様で無能に思えた。

「……確かに家があんな状態じゃ、まともにプレーはできないな」

 陽介がザバル部に入部してから、狼々軒は出前をやめた。それも当然だ、たった1人しか従業員がいないのに、出前をしたら店が空になってしまう。陽介は練習の合間に手伝うよう言っていたようだが、それすら母親から断られていた。

 もちろん貴文はただ指をくわえて見ていたわけではない。本人の前でああ言った手前、学生に単位を餌に薄給でバイトをやらせようとしたり、自分から出前を取りに行く運動を作らせるなど、可能な限りの手を打とうとした。しかし、何故かそれら全てを福原学長は「焼け石に水だ」と退け、結局学長に全任することになった。

 自分が率先してやると言ったことを他人に丸投げすることに抵抗はあったが、貴文にはまず部が、リーグ戦があった。そして忙しい日々の中で、陽介の実家の件をすっかり忘れてしまっていた。

「もしあいつのプレーが原因で退部ってことになってたら、考え直して欲しいって……」

 松之助がチワワのような目で言った。

 沙織も珍しく真剣な顔をしていた。いつもおちゃらけている分、彼女が真面目な顔をすると、年齢不相応のすごみがあった。

「お前らの気持ちは分かった。俺も小森を無碍にするつもりはない。この件は俺が……大人に任せてくれない?」

 松之助と沙織はお互い顔を見合わせ、やがてゆっくり頷き部屋を出て行った。

「――さて、俺も行くか」

 貴文は教授室を出てそのまま学長室に向かう。

 もし今まで何もしていなかったら、学長とはいえ殴り倒すつもりだった。

 貴文はノックもせずに学長室を開けた。

 日は変わっていたのに、福原学長は特に眠気も見せず、机で書類を書いていた。

「こんな夜遅くに何の用かな。……いや、愚問か。小森君の件だな」

「はい」

「今日の試合は残念だった。彼が実力の10分の1でも出せれば勝っていた試合だけに、な」

「試合場にいたのですか?」

「いや、ここからライブ配信で見ていたよ。最近は協力的な学生が多くてね」

 貴文はその顔でライブ配信もないだろうと思ったが、本筋とは関係ないので黙っていた。

「だったら詳しく言わなくても分かるでしょう。あいつがまともにプレーできないのは、あいつ以上に大人達――私達が原因です」

「そうだな」

 福原学長は否定せず、ゆっくり頷いた。

 その鷹揚さが、貴文の癪に障った。

「だったら今まで貴方は何をしていたんです!? こうなることが分かっていながら!」

「そうだな。たとえ君が今までそのことを忘れていたとしても、まかせろと言ったのは私だ。申し訳なかった」

 福原学長は貴文に対し深々と頭を下げた。

 ここまでされると、貴文もそれ以上言えなくなる。真摯な対応とも言えたし、引くべき時を知っている老獪な手腕とも言えた。いずれにしろ、今の貴文にはそのどちらかを判断できるほどの力は無かった。

「……だがようやく目途が立った。明日狼々軒に行くので君もついてきたまえ」

「本当ですか!?」

「ああ、小森君にも伝えておいてくれ。一緒の方がいいだろう」

「わかりました」

 

 貴文は翌日の朝練で陽介に話を伝え、終了後に人で狼々軒に向かった。陽介だけ呼ばれたことに部員達は不安そうな顔をしたので、とりあえず退部と関係ないことだけは伝えておいた。

(馬鹿だが本当に良い奴らだな)

 その点に関しては貴文も福原学長のスカウトに感心した。

 狼々軒に到着すると、女将は仕込みをしている最中だった。

 前に会ったときとは違い、随分やつれたようだ。陽介の顔も曇る。

「お久しぶりです、小森さん」

「お久しぶりです」

 貴文と福原学長とは頭を下げる。

 女将は少ししてから、「どうも」と返事をした。反応がいまいち遅い。やはりかなり参っているようだ。

「今日来たのは他でもありません。小森さんのこれからについてです」

 福原学長が話を切り出す。

「詳しい話は彼からします」

 貴文はまだ詳しい事情は聞いていない。その変わり、もう一人、真面目そうなスーツ姿の男は全ての事情を理解していた。

「ファイナンシャル・プランナーの坂井と言います。今後の小森家についてお話に来ました」

「うちの事情……ですか?」

「はい。確か小森さんは陽介君が独り立ちするまで、貯金を砕いて店を運営していくとおっしゃいましたね?」

「ええ……」

「その場合、4年で卒業してプロザバリストになるまで必要な貯蓄は……」

 坂井は女将に書類を見せた。

 ファイナンシャル・プランナーらしい、血も涙もない冷酷な数字が並んだ予算書だった。

「こんなに……」

「銀行の融資も現状厳しいでしょうね。何か私に分からない計画があれば話は別ですが」

「……ありません」

 女将はガックリうなだれる。

 陽介は文字通り親の敵を見るような目で、坂井を睨んだ。

 しかし坂井は平然とそれを受け流す。福原学長が連れてきた人間だけあって、肝も据わっているようだ。

「とりあえずこれで現状を理解していただけましたね」

「……はい」

「ではここからは、この福原がお話します」

「小森さん」

 福原学長は女将を正面から見つめた。

 誤魔化しを許さない強さと、全てを受け止めるような暖かさを持った目だった。

「以前おっしゃいましたね、息子さんの夢のためなら何でもすると」

「はい」

 この時ばかりは女将も即答した。

「その覚悟を試させていただきます。ご存じと思いますが、狼々軒は利用者のほとんどが振興大学関係者です。さらに出前が売り上げのかなりを締めているのも知っています。そこで当大学では小森さんのための新たな職場を用意しました」

「職場?」

「はい。学食で職員として働いてもらおうと思います。それなら毎月定額の給料が手に入り、無理な仕事をする必要も無くなります」

『……!』

 貴文と女将は福原学長の提案にはっとした。

 まさか学長がこんな事を考えていたとは。

「その変わり条件があります。この狼々軒は廃業していただきたい」

「え……」

「なんだよそれ!?」

 今まで黙っていた陽介が思わず立ち上がる。

「座れこも……陽介」

 貴文はそれを制した。大人の話に子供が出る場面はない。連れてきたのはただ話を聞かせて、あとですねられるのを避けるためだった。

「貴方を雇う変わりに、今いる従業員をクビにしなければなりません。ただ運の良いことに、自分から辞めてもいいと言ってくれる人間がいました。しかし、辞める条件として、店を開くための物件を紹介してくれないかと言われました。そこでこの狼々軒です。賃料は相場より幾分安くなってしまいますが、当然大家の小森さんに支払われます。リフォームも退職金替わりとして大学がやります。その変わり狼々軒の暖簾は捨てていただきます」

「・・・・・・・」

 残酷な言い回しだな、と隣で聞いていて貴文は思った。

 だが、それは紳士的な対応でもあった。相手の痛いところや自分に有利なところを最初から包み隠さず話す、それは交渉術としては稚拙だが信頼を得る最善手だ。ドイツの名『前バック』、ヨーゼフ・シュタインベルグも言っていた。「裸で戦い、お互い傷つけ合わなければ本当のチームメイトにはなれない」と。

「……分かりました。その話謹んでお受けします」

「母さん!?」

 ほんのわずかな逡巡で決断した母に、陽介は愕然とする。

「な、なんで……」

「もしアンタに料理人としての腕があれば断ったさ。ただ、それだったらそもそもこんな話にはならないし、アンタには変わりにザバルの才能があった。だったらこうするしか無いじゃないか」

 女将は微笑みながら言った。

 代々続けてきた店が潰れるのは辛いわけがない。サラリーマン家庭に育った貴文でさえ、それは容易に想像がついた。

 それでも母は息子のために未来を選んだのだ。

 貴文の肩に、今まで以上の責任がのしかかった気がした。

「それではこれからは私と小森さん、そして不動産屋さんを踏まえてお話を進めましょう」

「では私らはもう用済みかな。内田君も仕事があるし戻るとしよう」

「はい」

「・・・・・・」

 契約について話し始めた2人を残し、貴文達は狼々軒を出る。


「・・・・・・・」

 陽介は出てから大学に着くまで、ずっと無言だった。

「なあ小森」

 そのまま別れようとした陽介に、貴文は言った。

「お前、周りの連中が自分のこと全く理解していないくせに好き勝手言いやがってって、思ってみたいだけどそれは違うぞ」

「・・・・・・・」

 陽介は足を止めた。

「そう思ってたのはお前と俺だけだ。あいつらはむしろお前を心配して、俺に退部にさせないでくれって言ってきたよ」

「!?」

 陽介は思わず振り返った。

 そこには少し困ったような貴文の顔があった。

「奴らは入部試験の日からずっとお前を認めてたんだよ。それが俺は実際にそう言われるまで、お前が本当に孤立してるもんだと思ってた。馬鹿だよな全く。とりあえずお前もこう視界を狭めないでさ、もっと広い目で見ろや。それじゃあな」

 貴文は2、3回陽介の肩を叩くと、脇を通り過ぎてそのまま校舎に入っていった。


「・・・・・・」


 結局陽介は最後まで何も言わなかった……。

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