第5話 子犬の未来と狼の過去

 貴文は思わず立ち上がった。

 その拍子にすっかり冷めてしまった牛丼が落ちそうになる。

 これには気の良い定食屋の亭主も「ごほん!」とわざとらしく咳払いした。

 貴文は平謝りすると慌てて牛丼をかっ込み、店を出る。

 向かったのは当然だ。

 館の主も、閉館したというのにまるで貴文を待っているかのように、シャッターが閉まった扉の前で仁王立ちをしていた。

「来たね……」

「ええ、来ました」

 館の主――ザバル記念館受付の老婆の前で、貴文はニヤリと笑った。

「もっと早く気付くもんだと思っていたんだがね……」

「すみません、頭の回転が遅い体育会系で」

「まあいいさ。で、あたしに言いたいことがあるんだろ?」

「はい」

 貴文は息を整える。

 全力疾走しても、短時間で呼吸を整えることができなければ、プロの『スターリー』は務まらない。

 

?」


 そもそも最初からおかしかった。

 いくら背後から激突されたとはいえ、大して力も無い子供に貴文が弾き飛ばされるわけがない。相撲取りのような体型だったならまだしも、あの少年は中肉中背で、ごく平均的な高校生の体型だった。

 しかも今回は後ろからではなく正面だ。避けようと思ったのに避けられず、自分が倒されてしまった。

 たとえスーツに革靴で、空腹で油断していたとしても、彼の教え子達が相手だったらいとも容易く『バンデレ』できていたはずだ。

「改めて考えると、あの体幹は尋常ではありませんでした。彼は経験者ですよね」

「それはイエスでもありノーとも言えるね」

 老婆は腕を組み悪魔のような声で、目を閉じながら答えた。

 少年も並ではなかったが、この老婆もよく見れば普通ではない。

 顔だけ見れば80はくだらないのに、背筋はぴんと伸び、言葉通り地に足がついてる。何よりその醸し出す気配が、とても死に損ないの年寄りのものではなかった。気を抜けば食われる――そう思わせる肉食獣の気を放っていた。受付での枯れた態度が擬態とさえ思えてくる。

「あの子は毎日欠かすことなくザバルの練習をしてきた。だが、試合に出たことはただの一度もない。ただの一度もね。詳しく知りたければここへ行きな。さあ年寄りはそろそろ寝る時間だ、とっとと行っちまいな」

 老婆は強引にたたんだチラシを渡し、貴文を追い払った

 チラシには地図と少年の名前が書かれており、裏面は記念館の写真で特に意味は無い。

 貴文は老婆に一礼すると、地図を頼りに少年に会いに行く。少し遅い時間であったが、まだ普通の家は寝る時間ではない。むしろ一日の仕事が一段落し、話しやすいかもしれない。

 そう思いながら到着した目的地は、貴文にとって意外な場所だった。

「まさに灯台もと暗し、だな……」

 通勤途中でいつも通る、大学前の小汚い中華料理屋――。

 今日の昼も注文した振興大学関係者行きつけのその店が、少年の実家だったのだ。

 暖簾は下がっていたが、閉店準備の途中か室内は明るかった。

 貴文は意を決し扉を開けた。

「あ、先生、いつもごひいきに。でも今日はもう閉店なんです」

 店主兼料理人の女将が貴文を迎える。彼女と店番の少年以外見たことがないので、おそらく父親はいないのだろう。それにしてもここ最近ほぼ毎日会っていたというのに、全く気付けなかった自分の見る目の無さに心底嫌になる。

「女将さん……いえ小森さん、実は今日は客としてきたわけじゃなりません。息子さんのことです」

「陽介が何かいたしましたか!?」

「いえ、それは……いや、ここは単刀直入に言った方が余計な誤解を招かずに、いいかもしれません。私はスカウトに来ました」

「スカウト?」

「はい、お子さんを我が振興大学ザバル部に勧誘したいと思っています。お子さんのザバリストとしての才能は私が見た人間の中で、ダントツです。真面目に練習すれば、必ずプロになれると保証します」

「・・・・・・」

 女将は複雑な表情をした。

 息子を激賞されて喜んでいないわけではないが、それより困惑の色が強い。

「俺は行きませんよ」

 一度閉めたはずの扉が不意に開き、背後から声がかけられた。

 そこには2回記念館で会い、それ以上の回数を出前で会っていたあの少年がいた。

「陽介……」

「俺にはザバルをやってる暇なんてないんです」

「入学費は推薦で免除出来るし、学費は奨学金で――」

「でも学校行ってる間、生活費は稼げません。うちは父親がいないんで、俺が働かないとないと家が成り立たないんです」

「陽介……」

 貴文は何も言い返すことが出来なかった。

 この中華料理屋は振興大学関係者がよく利用しているが、単価が低いので儲けはそこまででもないのだろう。従業員を新しく雇えれば陽介も自由になれるのだが、その余裕はなさそうだ。

 貴文は典型的なサラリーマン家庭に生まれ両親も未だ健在で、高校まで働かなければ生活できないほどではなかった。プロになってからはサラリーマンの生涯収入を1年で稼ぎ、金に困ったことはただの一度もない。そんな恵まれた環境にある自分が、この家族に対し言える言葉など無かった。

「……また来ます」

 貴文はその言葉と名刺だけ残し、店を出る。


 若き狼との本当の意味での出会いは、貴文にとって今まで経験したことがないほどにがいものだった。 


 翌日――。

 その日は休日だったので、貴文は朝からザバル部の練習を見ていた。

 しかし昨日のことがあり、どうにも気が入らない。

 その異常に最初に気付いたのは、当然彼の1番の信奉者だった。

「どうしたんですか監督、朝からおかしいですよ?」

 松之助はジョギングを1番に終わらせると、貴文の元に来てそう言った。

「ん……、ああ、いろいろあってな。なあ尾崎、俺は勧誘に関わらなかったから詳しくは知らないんだが、お前の家は大学の人間が来たときどんな対応をした?」

「うちの大学じゃないんですけど、最初のスカウトの人が来たときはかなり驚きましたね。2回目からは慣れました」

「いや、そういう意味じゃなくて反対しかかどうかだ。確かうちの大学は学費全額免除はやってないから、金かかっただろ?」

「あーうちは学資保険積み立ててたんで。あと入学金は免除して貰ったんで、そこら辺は浮いたと親は言ってました」

「しっかり者だな……」

「えーなになに、どうしたの?」

 物見高い沙織がめざとく近づいてくる。

 やがて他の部員達もやってきた。

「あースカウトの時の話してたんだ。ちなみにお前はうちの大学からスカウト来たとき、親は反対したか?」

「あたしんちは札束で……おっとこれは企業秘密だったわ」

 沙織はわざとらしく、口の前に×印を作る。

 以前学長から札束云々の話を聞いたが、あれは冗談ではなく事実だったのかもしれない。

 それから他の部員にも聞いたが、普通に親が学費を払っている人間と奨学金を利用している人間の2種類に分けれた。中には陽介と同様母子家庭の家もあった。だが、子供が働かなければならないほど逼迫してはいなかった。

「それにしても、なんでいきなりそんなこと聞いてきたんっすか?」

「それは……」

 春樹の質問に素直に答えるべきか、貴文は悩んだ。

 言えば陽介の恥部を他人に晒すことになる。

 だが貴文は、

「実は……」

 包み隠さず話すことにした。

 もし部員になれば、いやでも分かることだ。だったら最初から言って部員達に心構えをさせておいた方がいい。それに、生まれで人を差別するような屑は、自分の教え子にはいないと信じていた。沙織でさえも越えてはならない一線だけは絶対に踏みとどまると思っていた。

 貴文の話を聞いている間、部員達は静かだった。

 内容が内容なので、秋雄も手を上げて意見を言ったりはしない。

 全てを聞き終えた後、全員の表情が重くなった。

「部活は違うけど、自分の同級生にも同じ奴がいたっす。家の都合で競技が続けられなくなる奴は結構周りじゃ普通っすけど、見ていて辛いっすね……」

「あー、マジに部活やってるとさけられねーよな」

 翔と春樹が珍しくしみじみとした様子で言った。

「飛び抜けた才能があれば、学費全額免除の上、も出してくれる大学もあるらしいけどね。ここはそういうのなかったんじゃないかな」

「・・・・・・」

 秋雄の言葉に沙織があらぬ方向を見ながら、素知らぬ顔を装う。

 貴文は彼女を信じたことがだんだん不安になってきた。

「でも問題はそういう感情的なことじゃないですよね。その小森君がどうやったら来てくれるかっていう」

 広子が『ホスト』らしく現実に即した話に、流れを変える。

「ならば拙者達が小森殿の代わりに店番をするでござるか?」

「私、こう言ってはなんですが、箸より重い物は持ったことありませんわ」

「なーに言ってんだぁ。かんぴょうの実軽々持ってたくせに」

「あれは夕顔の実だ田舎もん!」

「まあ馬鹿話はそれぐらいにしておいて、手伝うと言うのは監督の立場からしても現実的じゃないな。言ったところであの性格じゃ断られるだろうし」

 貴文はため息混じりに言った。

「結局こういう問題は僕たち学生じゃ限界があります。監督もそのつもりだと思いますが、学長に相談するしかないでしょうね」

「だよなあ」

 最終的に隆の当然の意見を貴文は全面的に受けれた。


 そしてその日、福原学長にアポを取り、練習後直談判をすることにしたのだが……。


「有能な新人がいるが家庭の都合で入部できない。だからなんとかして欲しい、と」

「端的に言えばそうです」

「ふむ……」

 貴文の言葉に、福原学長は複雑そうな表情をする。てっきりザバル馬鹿の学長なら、すぐになんとかしてくれる物と思っていたのだが。

「最初に言っておくが、ザバルのために作った大学とは言え、今はこの大学は私だけのものではない。君の話を解決するためには、大学側がかなりの費用を投じなければならないだろう。だが、その見返りが君の話からは全く見えない」

「見返りってそんな商売みたいな――」

「商売だよ」

 福原学長は断言した。

「この世界は望む望まない関係なく全てビジネスで成り立っている。どんなに汚くとも、それを否定して生きることはできない。君の話を聞いた限りでは、その少年に対する投資はあまりに博打要素が強すぎるのだ」

「ですが――」

「ところでその少年は今何歳かね?」

「え――」

 言われてまだ貴文は歳も聞いていなかったことに気付かされた。情熱だけでここまで突っ走り、何の準備もしていなかった。

「……今日のところはひとまず帰りたまえ。考えが落ち着いてからもう一度来るがいい」

「はい……」

 貴文はすごすごと部屋から出て行った……。


 完全な失態だ。

 直感だけを信じて直訴するなど、社会人としてあるまじき行為だった。次第に自分の直感さえも疑わしくなってくる。

 冷静に考えれば、福原学長の言っていることも尤もだ。

 家が貧乏で本人が働かなければならず、さらにザバルの練習はしても試合は一度も出たことがない。いったいどこに勧められる要素があるというのか。

 それに振興大学生ではないので、もし入部させられたとしても、入学手続きの関係上選手登録には間に合わない。

「はあ……」

 ガックリと肩を落としながら歩いていると、知らぬ間にあの記念館に来ていた。

 今日は休館日なので、シャッターが閉まったまま誰もいない。

 貴文はシャッターにそっと手を触れる。

「これは……」

 シャッターには記念館の宣伝ではなく、アニメの絵が描かれていた。それは『狼の紋章』というザバルをテーマにした漫画をアニメ化したもので、貴文も小さい頃散々見てきた。

 この『狼の紋章』は日本ザバル界に多大な影響を与えた漫画でもある。

 プロリーグ発足当時の日本リーグはかなり盛り上がったものの、すぐに下火になり、数年で閑古鳥が鳴く試合が目立つようになった。

 ここまでザバル人気が下降したのは、日本代表にそのものに理由がある。まだ戦術が確立されてなかった頃の黎明期のザバルは、身体能力が直結果に結びついていた。そのため、体格に劣るアジア人は苦境に立たされ、日本代表はアジアでは勝つことが出来ても、世界では全く歯が立たなかった。そんな現状に嫌気が差したファンはどんどん離れていき、かつての日本同様サッカーと野球が人気を二分する時代が続いた。

 その状況を一変させたのだが『狼の紋章』である。

 作者のデビュー作で、デビュー作らしい荒削りさと、少年漫画らしい荒唐無稽な内容が合わさった、悪く言えば稚拙な漫画であったが、子供達にはこれ以上ないほど分かりやすい形でザバルの面白さを伝えた。特に主人公の『スターリー』吉崎支狼しろうのどんな苦難に遭っても決して諦めずチームを引っ張り勝利する姿は、当時の冷めた子供達の心に火を付けた。

 他ならぬ貴文がその1人で、『狼の紋章』を読むまで、彼は野球少年だった。それが読んだ翌日からザバリストに転向し、支狼をまねて『スターリー』一本、そしてユニフォームのどこかに必ずバレないように、支狼のトレードマークである狼の印を描き込んだ。その癖はプロ入り後も続き、最後になった日本代表時代のユニフォームにも狼のマークがあった。日本が他国と比較して『スターリー』人気が異常に高いのは、この漫画が原因でもある。

「狼……狼……」

 貴文は口の中でその言葉を繰り返す。


 自分が陽介に惹かれたのは、その素晴らしい体幹能力があったからか?

 ――違わないが、それだけではない。

 彼の中に狼を見たのだ。

 『狼の紋章』で支狼を見いだすコーチの角川政夫は、当初ザバルを酔っ払いの遊びと軽蔑し、喧嘩に明け暮れていた支狼に言った。


「いつまでもお前の中で燻っている狼を飼い慣らせると思うな。お前がそれに気付くまで、俺は何度でもお前の前に現れる。何度でもだ」


 ――そう、初めて困難に立ち向かったのは支狼ではなく政夫だ。

 彼の決して折れない努力があったからこそ、あの『流星の狼』吉崎史狼が誕生したのである。

「そうか……今の俺は吉崎史狼じゃなく、角川政夫なんだ……」

 貴文は陽介の中に狼を見てしまった。

 ならばもう進むしかない。

「……行くか」

 貴文は再び中華料理屋――狼々軒に向かって走り出した。

 最初に来たときと同じ時間であったため、店は閉まっていたが明かりはついていた。

「夜分遅く申し訳ありません。振興大学の内田です!」

 貴文は店の前で、近所迷惑を顧みず大声を出す。

 飲食店なので何も言わず中に入っても良かったが、今は貴文の中で眠っていた狼を少しでも発散させてやりたかった。

「そんな大声出さずとも聞こえてます」

 陽介が呆れながら扉を開けた。

「これは先生、どうも……」

 女将があの時と同じような複雑な表情で迎える。親の本心としては子供に好きなことをさせてやりたいのだろう。だがそれが許される状況ではなかった。

「その、不躾な質問になりますが今陽介君は何歳で?」

「はあ、今月で18歳ですが……」

「ということは去年まで高3ですか」

「中卒ですからずっと社会人ですよ」

 陽介がつまらなそうに訂正する。

「それは悪かった。でだ、陽介君。いまから1対1をしないか?」

「何ですか藪から棒に」

「人助けと思って付き合ってもらえないだろうか?」

「……まあいいですけど」

 陽介は渋々といった様子で店を出る。

 貴文と陽介は数メートル離れてお互い向き合った。どちらも運動用の格好はしていない。陽介はTシャツGパンにスニーカーで、貴文に至っては革靴だ。

「ルールはあえて言うまでもないだろ」

「はいはい」

 陽介は適当に構える。

 やる気が無いのは明らかだった。

 しかし貴文は構わず動いた。

 何の準備もしていない陽介の身体が一瞬で倒される。それでも身体を触って分かったが、重心が低く、『スターリー』としては理想的な体型だった。

「これで気が済みましたか?」

「気が済んだもなにも、1対1は10本先取だろ?」

「そんな常識聞いたことありませんよ!」

「ンパンパじゃ基本だぜ。ほら2本目!」

 貴文は矢継ぎ早に陽介に襲いかかる。

 陽介は防戦どころか、されるがままだ。

 そんなことが5回ほど続いた。

 陽介の服は汚れる一方だが、貴文は綺麗なままだ。心配そうに外に出てきた女将も止める様子は見せない。

「今までやった中で1番楽な1対1だな。小学生相手にやってた時の方が未だやり甲斐があったぜ」

 貴文は態度にも表情にもあえて余裕を見せ、同じようにつっこむ。

 だが――。

「・・・・・・」

「おわっと!?」

 初めて陽介は積極的に『バンデレ』を見せ、貴文が地面に転がった。

「つつ……」

「これで6対1ですか? まあハンデには少なすぎるかもしれませんが」

「はっ、ぬかせ!」

 貴文は勝ち続けていたときより、はるかに良い表情で言葉を返す。

「俺もこれでようやくウォーミングアップができるぜ。なんならイーブンにしてやってもいいぞ」

「結構です」

 2人揃って腕をまくる。

 そして本当の1対1は始まった。


「おらっ!」

「せいっ!」

「もういっちょ!」

「余裕!」


 夜の南千住に男2人の声が響く。

 飲食店街がある場所なので、そこまで近所迷惑にはならなかった。


 やがて、あまり重要でない決着がついた。


「はあ……はあ……」

「はっ、ロートルに負けるなんてたいしたことないな」

「最初にあんだけ勝ってれば当然でしょ」

「イーブンにしないでいいって言ったのはお前だぜ」

「・・・・・・」

 陽介は言い返そうとしたが、体力を使い果たしそのまま仰向けに寝転んだ。

「なあ、楽しかったか?」

「……はい」

「ザバルやりたいよな」

「……はい」

「今はそれだけ聞ければ充分だ。お前はそこで寝てろ」

 貴文は陽介を残し、ずっと様子を見守っていた女将の元へ行く。

「お母さん、改めてお話が」

「はい。お話は中で」

 女将は意を決したように頷いた。


「すっと負い目があったんです」

 貴文がテーブルについた途端、女将は話し始めた。

「あの子は子供の頃からザバルが好きでした。主人が生きていた頃は、絶対にプロザバリストになると言っていました。けれどようやく試合が出来るようになったら主人が死に、それからはずっと私に迷惑かけまいと家の手伝いを……。あのような態度を取ってしまい申し訳ありません。内田さんのことはとても尊敬していたのですが……」

「まああれぐらい受け入れてやるのも大人の甲斐性ですよ。それより改めて言います。陽介君を振興大学に、私に下さい」

 貴文はテーブルに額がつくほど頭を下げた。

 プロ時代、移籍交渉などでそうされることは何度もあったが、自分からしたのは初めてだ。

 これには逆に女将の方が恐縮した。

「顔を上げて下さい。私もこれからは息子のやりたいようにさせようと思うんです。生活はその分苦しくなりますが、貯金を切り崩してなんとか……」

「いえ、待って下さい。その件はひとまず私に預けてくれませんか? そのかわり明日一日午前中だけで良いので、彼の身体を貸して下さい。おねがいします」

「分かりました」

 その日、女将にそれだけ言うと貴文は狼々軒を出た。

 ただそのまま家に帰らず、大学に向かう。

 そこで今から帰る予定だった事務職員に無理矢理余計な仕事を押しつけ、明日の準備をするのだった……。


 空けて翌日――。


 陽介は貴文から電話で指示を受け、振興大学の校門前にいた。

「おーきたか」

 朝練を終えた貴文が陽介を迎える。

「来なかったら家まで押しかけたでしょ」

「さてどうかな。とりあえず入れ」

 貴文は陽介を校舎に招き入れる。

 出前で何度も来ているので、校舎に入ることに抵抗は無い。それどころか就任したばかりの貴文より内部に詳しかった。

 ただ、貴文が連れて行った場所はそんな陽介も知らないところだった。


「ここだ」

「ここは……」

 そこはトレーニング器機が所狭しと置かれた、スポーツジムのような場所だった。その階に降りたのも陽介にとっては初めてだった。

 実は貴文も初めてなのだが、言うまでもなく何をするための部屋かは知っている。今日はをさせにわざわざ呼んだのだ。

「それじゃあ先生、今日はよろしくお願いします」

 そう言ったのは陽介ではない。この部屋の主である、スポーツ化学の教授に対して貴文が言ったのだ。

「結局俺は何をするんです?」

「まあ分かりやすく言えば体力測定だよ」

 陽介の質問に、その教授の方が答えた。

「かなり詳しく調べさせて貰うけれどね」

「俺が推薦する理由を上の人間に、目に見える形で証明しないとダメなんだよ」

「俺は別に……」

「昨日のザバル楽しかったろ? お母さんも反対はしてないんだ。今は余計なこと考えずに素直になればいいんだよ。余計なことを考えるのは俺達大人の仕事だ」

「そういうこと」

「・・・・・・」

 陽介は複雑な表情をした。

 貴文は敢えてその顔を見ないようにした。

「それじゃあ先生、よろしくお願いします」

「はい、重箱の隅をつつくように調べますよ」

「……内田……さんはその間何してるんです?」

「俺も暇そうに見えて、その実忙しい雇われ者だからな。授業もあるし部活もあるし……」

「そうですか」

 興味なさそうな態度で陽介は言った。

 貴文はわざとらしく肩をすくめながら部屋を出る。

 その脚で教授室……には行かずに、学長室に向かう。

 アポイントは取っていないので、学長はちょうど電話をしているところだった。

 貴文は何も言わずにソファーに座り、終わるまで待った。

「さて、わざわざ来たと言うことは昨日の生徒の件か」

「はい」

「どうやら諦める気はさらさらないらしい。化学室を使ったのもそれが理由かね」

「はい」

「それで、彼の身体能力がスポンサーや学校関係者を納得させられるものだというわけかね?」

「いえ、優秀な結果が出るでしょうが、あの程度でお歴々を満足させるのは無理でしょう。そもそもそんな人間なら、もっと単純な陸上とか水泳をやるべきでしょうね」

「ではなんのために?」

 批難するより興味深そうに福原学長は聞いた。

「保険です。買った商品が不良品でないという」

「なるほど。ではいったい何をもって彼の有能さを証明しようというのだ?」

「さあ。たかだか教師1年目のスポーツ馬鹿に、そもそもそういうお偉いさんを説得するのは無理でしょうね」

「……話が見えないな。結局君は何をしようというのだ?」

「説得するのは貴方です学長」

 貴文が今までの親しげな表情を一瞬で変える。そこには選手時代に見せた、勝負師の冷徹で熱い何かがあった。

 福原学長はそれを真っ向から受け止める。選手としての実績は雲泥の差があっても、人間をトータルで見れば貴文でさえ足元にも及ばない。

「私が貴方に彼の有能さを示します。スポーツ馬鹿でもザバル馬鹿の説得方法なら、これ以上ないほど知っていますから。そして貴方はそのお偉いさん方を、ご自慢の手練手管で説得すれば良い」

「はっ! さすがあの『生ける吉崎史狼』と言われた内田貴文先生だ。物事の本質をよく捉えている!」

「買いかぶりすぎです。それに私は吉崎史狼とは違いますよ」

「それは謙遜かね?」

「彼は右利き、私は左利きです」

「確かに!」

 福原学長は豪快に笑った。

 彼もあまりまどろっこしい話は好きではない。

「ということは、これは私と内田先生の勝負ということか」

「まあそうなりますね」

「然らば勝負方法は?」

「貴方が選んだ7人と、そのあと勧誘した3人の勝負ということでいかがでしょう」

「面白い!」

 福原学長と貴文は握手を交わし、契約は成立した。

 その握手はお互いの爪が食い込むほど強い力で結ばれた、まさに男の勝負そのものであった……。


 その日の放課後練習――。

 貴文はさっそく身体検査を終えた陽介を部員に紹介する。

「というわけでこいつが話にあった小森だ」

「!……どうも」

 陽介は何故か一瞬驚いたあと、愛想のない挨拶をした。

「あれ、以前会ったことありません?」

 広子が陽介を見て不思議そうな顔をする。

「ああ、そういえばお前は教授室に来ることが他の連中より多かったな。よく配達に来てた狼々軒の息子だよ」

「ああ! あの!」

 広子はすぐに思い至ったようだった。

 一方陽介は広子のことは覚えておらず、不思議そうな顔をしている。

「それより、そいつ『スターリー』なんだろ。さっそく勝負だ!」

「勝負ってそもそもなにを? 『右レフト』と『スターリー』じゃやること違いすぎるでしょ」

「え、あー」

 春樹の後先考えない発言に、いつものように秋雄が冷静につっこむ。

「うーん、相撲とか?」

「アホ」

 本当に後先考えない春樹の発言に貴文は呆れた。


 だが――。


「――だが今回は小野の言うとおり、せっかくだから丸山を除く推薦組と一般入部組で勝負をしてもらう」

『えええ!?』

 これには部員全員が驚いた。

「推薦組と一般組ってことは7対3ですよね!? 勝負になりませんよ!」

 まず松之助が反応した。

 推薦組の中で最も実績がある松之助にとって、貴文の提案はあまりに屈辱的すぎた。

「大石も入れるから、7対4だぞ」

「大石はいてもいなくても同じだから、頭数に含めません!」

「ひどい……けど他ならぬ自分がそう思ってるから何も言えない……」

「まあ、そこまで真剣に考えることもないだろ。親睦会みたいなもんだ。とはいえスポンサーはつくけどな」

「元気にやっとるかね」

 タイミングを見計らったかのように練習場に福原学長も現れる。

 もちろん本当にタイミングを見計らっていたのだが。

 推薦組は全員顔を知っているので、自然姿勢を正した。陽介も出前で顔見知りのため直立不動になる。唯一、グリーンだけが「なんだこのおっさん?」と言う目で学長を見ていた。

「なんでござるかこのオッサン?」

「いや、顔見れば考えてることは分かるけど、それをはっきり口に出して言うなよ……」

 貴文はため息を吐いた。

「私はこの大学の学長だ。入学式で顔を合わせたはずだがな」

「拙者、入学式はほとんど寝ていたから覚えていなかったでござるよ。これは失礼つかまつった」

「本当に失礼だな……」

 貴文は再びため息を吐いた。

「はっはっは、剛毅なことだ。結構結構、若者はこうでなくてはな。そしてそんな若者に年寄りからプレゼントだ。勝ったチーム全員にこの学食無料券1ヶ月分をやろう」

『おお!』

 推薦組が俄然盛り上がる。

 貴文は苦笑した。

 ここに来る前、福原学長と相談した結果、この試合が陽介の推薦試験であることは部員達どころか本人にも伏せることになった。言えば部員達が手を抜いてしまうかもしれないし、陽介だけ言えば不公平だ。

 ただ、それを危惧したのは貴文の方で、福原学長は特に条件は付けなかった。貴文は反論の余地を残す状況では、学長が首は縦に振っても説得に力を入れてはくれないだろうと思ったのだ。そのため、ぐうの音も出ないほどの成果を学長に見せる必要があった。

 その結果考え出されたのが、この単純なニンジン作戦である。

 単純だが、単純な人間達が相手だと効果は覿面だ。

「……ふふ、お情けで三日分ぐらいはくれてやっても良いぜ!」

「ハルは始める前から勝った気でいるねー。だいたいそんなこと考えていると負けるんだけど」

「押忍! 自分みたいな大食いには食券は助かるっす……」

「あーこれ太っちゃうかなーでも乙女は実際色気より食い気なのよねー」

「……ごはん」

「ま、まあ怪我しない程度にがんばろう

 推薦組はやる気十分だ。

 ただ、松之助だけはその表情に闘志以外の別の何かがあった。

「ええい! 食券を手に入れるのは私達の方ですわ! みなさん! 私の足を引っ張らないで下さいまし!」

「じゃあ私は空気になるね!」

「拙者はどのポジションをすれば良いんでござるか?」

「はあ、まさかこんな事になるとはね……」

 約1名平均温度を上げていたが、一般組はテンションの時点で大分負けていた。

「(いいのかね?)」

 福原学長が耳元で囁く。

 貴文は何も答えずただ笑った。


 追い込まれたときこそ獣は黙って笑え――。


 『狼の紋章』の名台詞の一つである。

 結局、一般組は聡美はそのまま『スターリー』、広子は『フラッター』、グリーンは『フロント後』、陽介は『前バック』になった。審判は貴文が務め、福原学長はあくまで観客だ。

 これで舞台は整った。

 だが、ただ1人、心の準備が整っていない人間がいた。

「なあお前、元は『スターリー』なんだろ?」

「・・・・・・」

 両チームともそれぞれがポジションについていったが、松之助は試合関係なく陽介に詰め寄る。

「そうだ。今回は人数の都合上『前バック』だけど」

「当てつけか」

「は?」

「俺が『前バック』だからその当てつけかって聞いてんだ!」

「お前が『前バック』なんて今初めて聞いた」

「……!」

 松之助が陽介の胸ぐらを掴む。

 貴文は慌てて仲裁に入ろうとしたが、それを福原学長が止めた。

「あれもまた青春の1ページだ」

「なるべく新入部員にマイナス印象を与えたくない指導者の親心も察して下さい」

「なあに、あの程度のじゃれ合い、審査には全く影響せんわ」

「ならそういうことにしておきます」

 隆のすがるような目を無視し、貴文は2人のしたいようにさせておいた。

「お前監督に目を付けられてるからっていい気になるなよ!」

「は?」

「……クソ!」

 松之助は陽介を跳ね飛ばし、自分のポジションに向かって行った。

「男の嫉妬は見苦しいわよ」

「うるせえブス」

「はいはい、どうせあたしはブスですよー、ブヒー」

 沙織はケラケラと笑う。

 だが、すぐに表情を変えた。

「でもまあ、推薦組のあたしら差し置いて監督に贔屓されてるってのは、いけ好かないわね。ちょっと礼儀ってもん教えてもいいかも」

「お前……」

「いやん♥」

「・・・・・・」

 松之助はそれ以上何も言わずポジションに着いた。

「どうやら推薦組の闘志はみなぎっているようだな。君のおかげで」

「もてる男は辛いですね。特にそれがヤローばっかだと」

「さて、これは予想していた以上に面白い試合が見られそうだ。早く笛を吹きたまえ」

「はいはい、それじゃあ変則練習試合始めるぞ!」


 貴文のホイッスルが鳴り、いよいよ一人の少年の未来をかけた試合が始まった――。

 

 序盤の展開は全員が予想したとおり、推薦組ペースだった。

 7対4と差があり、かつ一人は戦力にならないので実質7対3だ。7人の方も今まで教えてきた貴文にすれば、むしろそうならない方がおかしい。さらに『フラッター』が大石である以上『ライン』を引かれたら、あとは『ラピッド』一直線だ。そのため一般組は守備にかかる負担が圧倒的に大きい。

 そこで貴文は特別ルールとして、先に点が入った方が勝利のサドンデス方式を採用した。これなら人数によるスタミナ減少の差も最小限に抑えられる。

 ――とはいえそれでも推薦組の勝利は時間の問題に見えたのだが。

「崩れんな」

「はい」

 一般組は最後の最後、ここを抜かれたら敗北確定という場面は、なんとか防いでいた。まるで初めから最後まで土俵際で相撲を取っているかのようだ。

 貴文は一般組の健闘に感心する一方で、自分が教えた推薦組の不甲斐なさに失望もしていた。複雑な指導者心だ。

「まあ、『芸術点』は試合終了後にしか入りませんから、もっと言えば実質6対3ぐらいの状況ですがね。いちおう丸山も男『スターリー』としての動きはできますし」

「それでもなかなかどうして。特にあの白人の子だ。あのような逸材をよく見つけてきたものだ」

「・・・・・・」

 残念ながらこの試合で一番目立っているのは、陽介ではなくグリーンだった。要所要所で危険の芽を摘み取り、チーム全体を完璧に統率している。陽介も聡美も渋々といった様子であるが、その指示に従っていた。様々なポジションを経験していたというだけあって、その理解度は群を抜いていた。

 だがこのままでは、グリーンばかりが目立ったまま試合が終わってしまう。

 貴文も福原学長も、試合を観ていて推薦組の勝利は間違いないのと確信していた。問題はその中で、どれだけ陽介が卓越したプレーを見せるかにあるのだ。実際福原学長も、勝敗に関しては一切言及しなかった。

 まさにクリティカル・ゲームだ。

「これで終わりだ!」

 これまでの展開に焦れたのか、松之助が『前バック』のポジションから飛び出す。あまりバランスを重視して攻撃を弱めても、仕方ないと判断したのだろう。

 悪い判断ではない、と貴文も思う。明らかに格下の相手に、全体を整えたまま戦い続けるのはさすがに臆病すぎる。


 しかし、このとき推薦組どころかその場にいた全員が誤解していた。

 試合をしているのが強者と弱者という構図自体が間違っていると言うことに。


 グリーンの指示で守りに専念していた陽介が、松之助の動きに連動し不意にポジションを離れる。

 ずっと守るものとばかり思いこんでいた推薦組は、この急な方針転換に対応できなかった。

 とはいえ、陽介がいた場所はこれでがら空きになった。

 グリーンも松之助は止められても、そこまでの範囲はカバーしきれない。

「これで勝ちだべ!」

 一番近かった『ペットン』の未央がそのスペースに走り込む。未央でも相手が広子なら全く問題ない。

 これで勝負は決まりだ。

 明らかに陽介より未央の方が『トッテン』に近い。陽介が100メートルを9秒で走れても、間に合う差ではなかった。

 貴文も「終わった」と思った。結局陽介の暴走で勝敗が決したのだから、福原学長の試験は不合格だろう。やはり少なすぎる実戦経験は、才能だけで覆せるものではなかった。今回はこれでご破算になったが、また経験を積んで次は上手くやらせる。


 


「うへ!」

 未央が何もないところで突然豪快に転ぶ。

 初め、貴文は足を滑らせたのかと思った。

 だが地面をよく見てみるとそうでないことは明らかだった。

「これは……『たんたんトラップ!?』」

「なんと!? 専用シューズも履いていないのにいったいいつの間に!?」

「どうやら足癖も悪かったようですね。実際の試合ならかなりの『芸術点』が入ったところですが」

「な――」

 松之助は陽介を追いながら絶句した。

「止めろ!」

 だがすぐに気を取り直し、後方で守っていた同級生対に指示する。

 おそらく彼らも気を抜いたのは一瞬だけだっただろう。

 それでも陽介には充分な時間だった。

 陽介は守備陣の間を通り抜け一直線の『ライン』を引く。

 守っている方は自分から道を空けていった。結果だけ見ればそうだが、仕草や目線で数え切れないほどのフェイントをかけているのだ。

 『ワールド』を駆けるその姿はまさに流星だった。


 そして『ワールド』に美しい『ライン』が描かれた瞬間、勝負も決着がついた。


「……どうです?」

「・・・・・・・」

 福原学長は目を瞑り、無言のまま何も言わない。

 良い印象は充分与えられたつもりだ。貴文も初めての試合でここまでやるとは思いもしなかった。

「……彼は何歳かね?」

「今は17歳ですが、今月で18歳です」

 今度ははっきりと答える。

「……間に合うな」

「はい、来年の『龍起杯』には」

「違う!」

 福原学長は一喝する。

「来年ではない、今年だ!」

「……は?」

 貴文は呆然とする。

 福原学長がやる気になってくれたのは分かったが、さすがにその発言には無理がありすぎた。

 選手登録締め切りまであと一週間もないというのに、どうやってとっくに終わった入学手続きを無理矢理再開させ、ザバル部に入部させるというのか。

「内田君、私が誰か分かるかね?」

「振興大学の学長様でしょう。だからってなんでもできるわけでも――」

「できる!」

 福原学長は断言した。

「少なくともこの学内に関することで、私に不可能なことはない。裏口入学でも――」

「そういう生徒の将来に汚点を残すような真似は本気でやめて下さい」

「あ、あの、ちょ、ちょっといい、です、か?」

 試合中は置物同然だった広子が、なぜか一番疲弊した様子で二人に話しかけてきた。

「とりあえず落ち着け」

「……どうも」

 貴文か渡されたスポーツドリンクを、広子は一気に飲み干した。他の選手達はもうクールダウンのジョギングをしている。

「――ぷはー。実は小森君の件で、今年からプレーできないかと自分なりに色々調べていたんです。それで学長、小森君を夏休みまでには入学させることは可能ですか?」

「そのあたりまでなら、特別編入制度を利用した正規の手続きで問題ないだろう」

「だったら、かなり強引な荒技ですけど方法があります」

「なんだって!?」

 貴文は素直に驚いた。

 彼の頭の中では、陽介は来年からと決めつけていた。それでもこうして早く入部試験をさせたのは、その間の援助を大学にさせるためだ。

「学長も知ってると思いますけど、うちの大学には特別聴講生って制度があります。簡単に言うと授業単位じゃなくて、一般学生同様、期間限定で色々な授業の聴講を申請する制度で、その際仮の学生証が支給されます。特別聴講生はいつでも受け付けできて、数日で手続きも終わります。それで、学ザ(学生ザバル連盟)の選手登録の申請には、顔写真付きの学生証と学生番号が必要なんですが、この仮の学生証にはそのどちらもあるんですよ」

「本当か!?」

「はい。ただし特別聴講生の学生証は夏休みと同時に失効されます。そこで夏休み前に正規の学生証が必要なわけです。ただこれには一つ問題があります。特別聴講生の学生ナンバーと正規の学生証の学生ナンバーは言うまでもなく、同じにはなりません。万が一学ザにそこを指摘されて小森君が特別聴講生で申請したことがバレたら、永久追放になりかねません。そこで学長にお願いしたいのは、小森君に後に発行される学生証の学生番号と同じ番号を持つ、特別聴講生用の学生証を発行して欲しいんです。これなら後日学生証の提出を求められて、提出されたカードと少し違っていても、「デザインが変更された」で押し通せます」

「……おまえすごいな」

 貴文はその手際の良さに素直に感心した。

「いやあ、私は選手として力になれませんから、それ以外のことで部に貢献したいと思っているので……」

「ふむ、どうやら君もこの部に欠かさざる戦力だったようだ。桃李もの言わざれども下自ら蹊を成すとはよく言ったものだ」

「そこまで立派な人間じゃないですけどね」

 貴文は苦笑した。


「……おい」

 ジョギング中の松之助が、並んで走っていた陽介に話しかける。

 大人達が事務手続きで右往左往している横で、部員達の子供の世界もまた進んでいた。

「……すごかったなあれ」

 松之助はそっぽを向いたまま言った。

 陽介は今まで散々突っかかられた腹いせに嫌みでも言ってやろうかと思ったが、「ああ」とだけ答えた。

 陽介は松之助ほど子供ではなかった。

 内面的にも外見的にも。

「……今までどこで練習してたんだ?」

「一人で仕事の合間にいろんなところで」

「マジか!? それでどうやってあんなプレーが出来るようになるんだよ。やっぱり才能がない奴はだめってことか……」

 松之助はため息を吐く。強豪校の恵まれた環境でザバル漬けの日々を送っていたのにも拘わらず、素人同然の陽介を止められなかったのだから落ち込むのも当然だ。

「俺は天才なんかじゃない。本当にそうだったらもっと楽が出来た」

「どういうことだ?」

「・・・・・・」

 陽介は言おうかどうか悩んだ。

 だが、遅かれ速かれ知られるのだから、黙っていても無意味だと察した。

「小学校の頃、プロチームの入団テストがあった。定員一人の特別指定に合格すると、プロの道が開けて実家もサポートが受けられる特典付きだった。それで最終選考までは残ったけど、もう一人に思いっきり差を付けられて不合格。で、その一人があれ」

 陽介は指を差す。

 そこには――。


「三上が!?」


 松之助は思わず大声で叫んでしまった。

 呼ばれた隆は反射的に振り向く。

「呼んだ?」

「呼んではいないがお前のこと話してた。三上って小学生の頃プロリーグのテスト受けたんだって?」

「ああその話……」

 隆は懐かしそうな顔をする。

「あれはよくあるアイドルの面接みたいな感覚で、先輩の付添で行ったんだけど、何か僕の方だけ合格したみたいな……」

「それが今はいるのかいないのか分からない『シッカリ』か……。早熟すぎるだろ……」

「ひどいよ!」

「なんだ、お前今『シッカリ』なのか。通りで妙なポジションにいると思った。さっきマークされてた女が「全然活躍出来なかった!」って切れてたぞ」

「あはは……、あとで丸山さんに謝っとかないとね。それにしても、前に会ったことあった? 同じ南千住に住んでたらどこかで顔会わせても不思議じゃないけど……」

『・・・・・・』

 松之助と陽介は黙り込む。

「ていうか、だったらお前も『シッカリ』なんてやらずに、そん時のポジションでザバル続けてれば良かっただろ」

「確かあの時点では『スターリー』だったな」

 あの時から陽介は密かに隆を宿命のライバルとみていた。

「あー、でも僕って他の人から強く言われると断れないから。前も言ったけど先輩に強く言われるとね」

「……その節はどうもご迷惑おかけしました」

『うわっ』

 唐突に背後から会話に参加してきた未央に、松之助も陽介も驚く。

「――って、その先輩って藤井のことだったのか?」

「・・・・・・」

 未央は首を横に振った。

「その先輩は未央ちゃんのお兄さんなんだ。だから群馬に住んでる未央ちゃんとも親交があったんだよ」

「一度こうと決めると周りが何を言おうが、絶対に意見を変えない傍若無人な人だから……」

「まあ典型的な体育会の先輩だよね」

「俺とは絶対合いそうに無いな」

「俺も」

 松之助も陽介も合理主義者で弱肉強食がモットーであるため、古い日本的な年功序列にはどうにも抵抗があった。

「おらーそこちんたら走ってんじゃねーぞ!」

 あまりに話に夢中になりすぎペースが落ちたのか、貴文の檄が飛ぶ。

 5人は慌てて走りに集中することにした。

 その横を、5人を周回遅れにする快走で春樹が走り去っていく。こちらはこちらでクールダウンをよく理解していなかった。


「まったくあいつらは……」

「はっはっは、元気があって結構結構」

「私はまだそういう風に言う年寄りにはなりたくないですね」

「ふ、言いおる。しかし彼も君には感謝しているだろう。君のおかげでザバリストに戻れたのだからな」

「それならここにいる大石にも、でしょう。あの時はあれでいいと思いましたが、さらに1年も実戦から遠ざかってしまえば、どうなるか分かりませんでしたから」

「いやあ……」

 広子が照れながら後頭部をかく。


 しかし、実は陽介には、他にももっと感謝しなければならない人間がこの大学にはいたのだ。


「……は?」

 事務室の中年女性職員は、貴文と福原学長を殺意の籠もった目で睨み返した。

 大の男2人が小柄な女性に思わずひるんだ。

 それでも福原学長は、なんとか勇気を振り絞り言った。

「だから学生番号を上手い具合に書き換えて欲しいと……」

「あれですか? 私はハッカーか何かだと思われてますか? キーボードをぱちぱち叩いてハイ終わり、みたいなこと想像してませんか? 正規の手続きでそれをするのにどんだけ大変か全然理解してませんよね?」

『・・・・・・・』

 言われたとおり、2人はその大変さをかけらも理解していなかった。

「そんなことしたらシステムをいじくる必要があるかもしれないし、そうしたら業者の人呼んで相談しないといけないし、その合間に通常業務もこなさないといけないし――!」

「そ、そこを曲げて大至急して欲しいのだが」

「ありったけの自制心で殴りたくなるのを我慢して聞きますが、いつまでに?」

「今週中」

「よし殺そう」

 職員女性はペーパーナイフを持って椅子から立ち上がった。

「出す! 私のポケットマネーから臨時ボーナスを出すからどうか頼む! 一人の少年の未来がかかっているのだ!」

「……有給」

「有給も特別に出す! 君の上司にそうするように言っておく」

「………わかりました」



 それから彼女の文字通り不眠不休の働きがあり、陽介は晴れて選手登録され、リーグ戦にも『龍起杯』にも出場できることになった。

 その変わり貴文も福原学長も、彼女の前を通るときは必ず敬礼するようになった……。

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