2.一匹狼の生き方

 大木の上で、一人の少年が昼寝をしていた。

 彼は黄土色のマントに身を包んでいた。この日本という国においてはかなり風変わりな格好である。しかし長く伸び切ったボサボサの髪の毛が、その服装には妙に合っている。勿論、彼を人混みに放り込んだら、物凄く浮くことは間違いないだろうが。

 彼が寝入っている大樹は、ビルの五、六階以上の高さがあった。幹もしがみつけないくらいに太く、足場になる枝も何もない。少なくとも、昼寝の場所にするため、なんとしても登りたいと思える場所ではないだろう。

 彼が何故ここに登れたのか、そもそも何故登ろうと思ったのか、酔狂な格好に見合って謎が多い少年だった。

「……そう怒らないでくれよ、せんせぇ。ここからがサイコーなんだよぉ」

 少年は小さな寝言をつぶやいた。

「ここからドスでアイツの目ん玉ぶっ刺すところが一番良いんだよ。その後でナイフがアイツの頭をつらぬ……いってぇぇぇ!」

 夢で痛い目にあって飛び起きた少年は、そのまま木の枝から無力に落下した。麻袋でも落下したような鈍い音ともに、少年の悲痛な絶叫が轟く。

「おぉぉっつぅぅぅぅあ! 全身の骨が折れたぁぁぁ! もう駄目だ……粉々だぁぁぁぁ!」

 少年は、地面の上でゴロゴロ転がりながら騒ぎ立てて続けた。全身骨折と自称するわりには、元気に動けている。一思いに転がった彼は、突然動きを止め、天に向けて右手を掲げた。切実に助けを求めるように、その手は震えていた。

「い、嫌だぁ。オイラ、こんなアホな死に方したくない。誰か助けてぇ……」

「軽い打撲だから大丈夫だよ、源翔くん」

「え、そうなの?」

 それを聞いた途端、源翔は今までのことが嘘だったかのように跳ね起き、手で汗を拭った。

「一時はどうなることかと思っちゃった。生きてるってこんなに素晴らしいことだったんだなー。って、誰!」

 源翔が、思い切り飛び退きながら、現れた声の主に問いかける。

 そこには、眼鏡をかけた白衣姿の青年がいた。腹が立つほど爽やかに微笑むその姿は実に穏やかで、敵意や悪意を一切感じさせない。

 源翔は声の正体を知るとホッと息をつき、力が抜けたように大の字になって寝転んだ。

「なんだよ、速畑(はやはた)の兄ちゃんか。刺客に背中取られたかと思って焦っちまった」

「刺客だったら怪我の具合を見る前にバッサリやってるよ。というか君、狙われてるの?」

「何かと恨みを買っちゃってるらしくてね、オイラ自身には身に覚えがないんだけどさ」

 速畑と呼ばれた青年は、その答えに苦笑いしながら源翔に手を差し伸べる。

「さて、打撲とはいえ医者としては怪我人の面倒を見ずに帰るのは心苦しい。個人的に積もる話もあるし、久々にうちに寄ってみてはどうかな?」

 速畑の申し出を受けた源翔は、寝ながらしばし考え込む仕草をしてみせた。あまりにも露骨過ぎて、もはやわざとらしさしか感じない。

 少しして源翔は、チラッと速畑を見やった後、不敵な笑みを浮かべた。

「オイラ、すごい腹減ってんだよねー」

「はい、ご注文は?」

 速畑は笑顔を引き攣らせながら、懐から携帯電話を取り出した。

 いつから現れた特殊能力を持つ人間のことを、世界は“EAP”と呼ぶようになった。過ぎた力が悪用されるのは世の常である。そんな超能力犯罪に対抗するため、生み出されたのが特殊警察課Tsという組織だ。

 その捜査官の候補が集まる施設において、医務を担当しているのが速畑である。彼は見ての通り医師であり、しかも世間的には珍しいEAPの専門医だった。

 速畑が面倒を見るのは、基本的に候補生だけである。しかし、実を言うと彼は、組織には内緒でこの源翔のことも診察していた。

「はい、ちょっと尻を打ったようだけどたいしたことないみたいで良かった。というか、落ちる寸前で能力使ったでしょ、相変わらず抜け目がないね」

 医務の道具を片付けながら、速畑は軽く診断結果を告げ、その手抜かりの無さに舌を巻く。

「とはいえ、しばらくは無理な運動とかはしないのが懸命だね。さっきみたいに高い所で昼寝も、当面はドクターストップってことで」

「はいはい、了解了解」

 源翔は、生返事をしながらラーメンを貪るのに集中していた。

 患者であるはず源翔が座っているのは、本来なら医師が座るはずの椅子だった。ラーメンを食べるためには机がないと困るということで、彼が図々しく陣取ってしまったのだ。

 定位置を奪われた速畑は、患者の椅子に腰掛けながら、彼の食べっぷりを引きつった笑顔で見ていた。

 よほど空腹だったのか、源翔が占拠した机には、食べ終えた皿やどんぶりがたんまりと積まれている。医務室には似つかわしくない、度を越した量だった。

「うーん、この手の食堂にしちゃ相変わらず美味いね、餃子が欲しくなってきちゃうわ。まあ、流石に警察の食堂でそりゃないだろうけどさ」

 ちなみに、この中華定食セットを運んできたのは速畑だ。流石に食堂に部外者は連れていけなかったからなのだが、食堂は一階上にあるので楽な移動ではなかった。速畑は笑顔を取り繕っているが、そこには疲労の色が見え隠れしている。

「そもそも医者の前で暴飲暴食とは、まったく君は良い度胸してるよ」

 速畑が嫌味混じりの言葉をかけると、源翔は四杯目を平らげながら堂々と答える。

「オイラみたいな根無し草はね、食える時に食っておかないほうが不健康なのよ。オイラ風来坊ではあってもホームレスじゃないんでね、人間としての尊厳はちゃーんと守ってんだから」

 源翔は、どんぶりに残ったスープを一気に飲み干し、締めには豪快なゲップをかましてみせる。あまりにやりたい放題なので、傍若無人に慣れている速畑も少しやつれた顔になっている。

「そういえば、君はいつもどうやって食事にありついてるの?」

「ある時は優しい老夫婦に取り行ってご焼飯にありついたり、またある時は魚を捕って焼き魚にかぶりついたり」

「そんな暮らしを続けるくらいなら、寝床のあるうちの組織にくればいいじゃないか」

 速畑は、さりげなく、しかし一番自分が言いたいことを伝えた。源翔はTsの候補生ではないが、何度かスカウトされている。

 特に熱心に勧誘しているのが、速畑だった。彼は学校にすら通っていないが、本当なら今年から中学になる年だ。そんな若者が、明日の寝床や食事にも困る生活を続けているなんて、大人としては笑顔で聞ける話じゃない。

「何度も言うけど、断固拒否。オイラは人の命令なんか聞くつもりないよ」

 しかし、源翔はあっさりと断る、いつものことだった。見ての通り単独行動を好む彼は、考える素振りすら見せず、二つ返事で拒否している。

「大体ね、そんな奴を入れても、組織に迷惑をかけるだけっしょ? そんじゃ、オイラは……」

 確かにその通りかも……と納得しかけて、速畑はその思考を振り払った。普段どういう暮らしをしているか改めて知った以上、尚更あっさり引き下がるわけにはいかなかった。

 速畑は幼くして両親を亡くしており、その反動で他人の人生に深く干渉しようとする傾向があった。時には暴走気味の時もあり、Tsの候補生には行き過ぎた愛情表現を見せては嫌がられることしばしばだ。

 その中には、家族同然の愛情を彼なりに注いでいるペアもいる。やはり迷惑な顔をされる時もあるが、それに応えてくれる時もあるので、速畑は押し付けがましいとわかっていてもやめるつもりはなかった。

 孤独の寂しさを知るからこそ、社会から拒絶され孤立しがちなEAP達には、それに慣れて欲しくないという気持ちが、彼は人一倍強い。

 しかし源翔は、彼にとって初めて見るタイプの人間だった。歳相応に子供っぽい性格なので、会話するうえでは気安い。しかし大人すら手玉に取る自由奔放さもあって、その内面が本当に読めたと思えたことは一度もない。

 孤独であることを寂しく思わないと豪語する人間は、十中八九強がっている奴の台詞だというのが速畑の持論だが、源翔の場合は口に出したことがないし、普段からしてその素振りすらも見せない。源翔という少年は、速畑にとって気の合う相手であったが、同時に最も理解できない相手でもあった。

「いや、ちょっと待ってくれ、そんな急ぐこともないじゃないか。ね?」

 人を警戒する野生動物を宥めるように、速畑は努めて慎重に言葉をかける。

 例え素振りを見せなくても、孤独であることに寂しさを感じないわけがない、少なくとも速畑はそう思っている。どんなに平気な顔をしていても、人は一人で生きられないのだ。

「食べてすぐ動くとしんどいだろうし、せっかくだから食後のデザートなんてどう?」

 切羽詰まって、速畑はつい物で釣る作戦をねじ込んでしまった。言っておいて自分が嫌になるほどの下策だったが、源翔の気が変わるならいくらでも下衆になってやろうと、彼は心の中で開き直る。

 すると、源翔は口元の片方を釣り上げると、手を合わせて詰め寄ってきた。

「え、本当? いやぁ悪いっすね、気を遣ってもらっちゃって。実はオイラも聞きたいことあったから、デザートがあるなら丁度いいや!」

 それを聞いた速畑は、思わず患者の椅子から転げ落ちた。明らかに自分の考えが読まれている。見上げれば、源翔がしたり顔でこちらを見下ろしていた。

 この少年を自分の思惑にはめるのはやはり無理かも……そんな折れかけた心を隠すように、速畑は苦笑いしながら、ずれた眼鏡をかけ直した。

 焼き菓子の甘く香ばしい匂いと、紅茶の香りが診療室を満たし始めた頃、突然部屋の扉がノックされた。

「はい、どうぞ」

「速畑先生、こんにちはー」

 可愛らしく挨拶しながら、一人の少女が入ってきた。

 枯れた花すらも蘇りそうな笑顔が眩しい、初々しい女の子だった。服装も穏やかな人相に見合って、乳白色のタートルネックの上に小豆色のカーディガンと落ち着いた色合いだった。膝丈の長さのスカートも、その温和なイメージにピッタリなチョイスだ。

 可愛らしいバスケットを片手に部屋へと入ってきた少女は、速畑以外にもう一人いることに気づき、突然嬉しそうな声をあげた。

「あ、源翔さんじゃないですか!」

「やぁ通子(かよこ)ちゃん、久しぶりだねぇ。また可愛くなった? 今度デートしようよ」

「もう、そういうこと言うのやめてください! 恥ずかしいですからっ」

 顔を赤らめながら、通子はそっぽを向いた。源翔に振り回されて疲れていた速畑は、そんな子供らしい仕草に癒やされてふやけた顔になる。

 一方、断られた源翔は一瞬キョトンとした後、急に怪訝そうな顔になり、そっぽを向く通子の顔を細目で見つめ始めた。

「え、あの、源翔さん?」

 急に詰め寄られて通子は困惑するが、源翔は顔をしかめたまま観察を続ける。

「す、すいません、その、源翔さんのことは嫌いじゃないですけど、いきなりデートなんてそんな、私恥ずかしくて」

 源翔の気分を害してしまったと思ってか、通子はフォローしようと必死に弁解をしようとする。しかし源翔はそんなことはお構いなしでしばらく眺めると、何かを悟ったように目をパッと見開いた。

「通子ちゃん、もしかして最近誰かとデートした?」

「え、うえええええっ!」

 大層滑稽な叫び声をあげながら、通子が後ずさった。

「その反応を見るに、相手はたかちーか」

「な、何言ってるんですか急に!」

 さっきより顔を真っ赤にしながら通子が必死に何かを訴えようとするが、具体的な言葉が出てこない。一方で速畑は、顎に手を当てながら源翔の言葉に関心し、そして訊ねる。

「へぇ、よくわかったね。しかも相手が鷹一だって」

「せ、先生っ!」

 通子は手をバタバタ振って速畑に抗議するも、意に介さない。

「それ以外いないでしょ、いつもはオイラが誘っても顔隠して恥ずかしがるくらいシャイだったのに、そんじょそこらの男とデート出来るわけがないじゃん」

「で、デートじゃないです! あれはただお買い物に行っただけですからっ! というか、あれは速畑先生のお使いだったじゃないですか!」

 それを聞いた源翔は、白い歯をわざと見せて笑い、トドメの一言を告げる。

「よほど楽しいお使いだったんだね、すごいニコニコしてるよ?」

 そう指摘された通子は反射的に頬を抑え、顔を俯かせた。今にも沸騰しそうなくらい顔は真っ赤に染まり、文字通り顔から火が出そうになっている。

 完全に通子を動けなくした源翔は、速畑へ満足気な表情で向き直った。

「たかちーと通子ちゃんがどんだけ進展したか聞こうと思ってたけど、オイラが思ってるよりラブラブになってたとは、侮れないなぁお二人さん!」

「その辺りにしてあげてくれ源翔くん、これ以上は通子が溶けてなくなるから」

 そう言われて源翔が通子に目を向けると、彼女は床に座り込んでダンゴムシのように丸くなっていた。やれやれと両手を広げた源翔は、頭の後ろに手を組みながらまた医師側の席に座り直す。我が物顔とは正にこのことだ。

「でもオイラとしては少し驚きかな。あの能面で無愛想で薄情でへそ曲がりなアイツが、デートに行くなんてね」

「まぁ、鷹一も少しは良い方向に変わりつつあるってこと、かな?」

 半笑いでそう感想を述べた源翔へ、速畑は諭すように答えた。それを聞いて気を取り直した通子が、速畑の言葉を後押しするように熱弁する。

「そ、そうです。鷹一くんは昔からとっっっっても優しい人ですけど、最近は普段から笑ってくれることもたくさん増えたんですから!」

 それを聞いた源翔は、腕を組んで何やら唸り始めた。本人がいない前で褒めちぎっているのでお世辞ではないということなのだが、彼としてはどうも釈然としないらしい。

 しばしの静寂の後、彼は何かを決心したように顔を上げると、指を鳴らした。

「よぅし、じゃあ見に行ってやるか」

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