「構わないではないですか。」
沈黙が続くと雨音がひどく大きく聞こえた。
あまりの静けさに、そんな必要は全くないのに、僕はつい口を開いてしまった。
「お恥ずかしいです。」
雷鳴にかき消されたのではないかと思ったが、きちんと聴きとってくれたメイさんの返事は、はっきりと美しく、僕の耳に届いた。
「何故恥ずかしいと仰るのですか。」
その凛とした優美さに、僕は一層自分が恥ずかしくなった。
「ずぶ濡れで、こんな所に隠れていることも、
父に会いに行くことに、気が進まないでいる僕自身もです。」
「雨が降れば濡れもするでしょう。
雨具を持たせず送り出したことをお詫び致します。」
「いえ、そうじゃないんです。
だって、メイさんは雨が降っても美しい。
僕は、全然ダメなんです。
こんな大人になってもまだ、色んなものに怯えている。」
「ほう、例えば?」
「父です。父は僕のことが好きじゃないんです。
だから、会う度に何か指摘されることが、どうしても慣れなくて。
大したことじゃないのに、そんな事からさえ逃げている僕が、僕は本当に嫌なんです。」
それは、返答というよりほとんど泣き言に近かった。
雨脚が強くなり、風がびゅうと吹くと、僕は雨のカーテンに全身を舐められた。
目を瞑った身を固くした僕は、ため息をつく事でしかその硬直を解くことができなかった。
「構わないではありませんか。」
そう言われてメイさんの方を見ると、メイさんもさっきの雨で顔を濡らしていた。
拭う素振りもせず、彼女は空を見上げていた。
「構わないんでしょうか。」
メイさんは僕の問いに少し微笑んで、僕の方を横目で見た。
雨が頬を流れて、彼女が微笑んでさえいなければ涙のように見えたに違いなかった。
「構わないでしょう。」
「恐怖に逃げ出すひ弱な僕ですよ。」
「逃げ出した事でヤシロ殿は何か不利益を被ることがお有りで?」
僕はその問いに少し考える時間を要した。
不利益。
「父に、いつまでも好いてもらえないことでしょうか。
向き合うことが、できないから。」
「父上に向き合った結果、わたくしは父を殺しました。
それは、貴殿の望みではないでしょう。」
「えぇ。本当は父と仲良くしたいんです。
でも父は、いつも威張ったように叱責している。
僕だけじゃなく、みんなに。
僕はそれが、どうしても嫌なんです。」
「威張り散らす権力がお嫌いと。」
「はい。そんなに怒らなくてもいいじゃないかと、聞いている僕が苦しくて。」
僕がそう言うと、メイさんは少し口を閉じた。
雨の様子を窺っているのかと思ったが、どうやら何か思案しているようだった。
「では、きっと
次に口を開いたとき、メイさんはそう言った。
僕はきょとんとしてメイさんを見た。
「
ですから、さぞお嫌かと。」
「メイさんは…」
僕は言葉に窮した。
確かにメイさんの為に道を開ける人もいて、その人たちに頭を下げたり、声をかけることを、メイさんはしない。
キッと睨まれて凄む人もいる。僕も含めて。
でも、僕にとってそれは威張るとは紐付いたことがなかった。
最初から、何処か彼女に敬意を感じていた。
「メイさんは、胸を張って歩いているんですよ。」
堂々と、周囲の圧力に屈することなく。
守るべき家族や部下や国民のために、顔を背けることがないだけ。
弱みに漬け込ませないように、
それによって兄妹や、部下が不利益を被らないように。
俯かないよう努力をしているだけ。
僕の返事に、メイさんの表情から意図的なものが消えたように見えた。
「父君も、同じでは。」
「いいえ。父は、周囲に自分の思う通りに動かしたいだけです。
貴女は、そうじゃない。」
「随分と買って頂いておりますね。
わたくしはつい先日、貴殿に失礼を申し上げたばかりですのに。」
僕がメイさんの方を見ると、メイさんは視線を感じてかこちらを見て、そして小さく頭を下げた。
「お詫び致します。」
「い、いえ。」
実際、僕はあの出来事がメイさんの責任であるとは思ってもいなかった。
「僕が差し出がましいことをしました。
申し訳ありませんでした。」
「いいえ。実のところ、ユヌに叱られてしまったのですよ。」
「ユヌちゃんが?」
「はい。人の好意を無下にするとは何事か、
自分にはヤシロ殿からも愛情を受ける権利があると。」
メイさんはその様子を思い出したのか、少し悲しそうに微笑んだ。
「驚きますね。ユヌやはまだまだ子供だと思うておりましたのに。
権利などと言う言葉、何処で覚えたのやら。」
「そんなことが。」
「えぇ。」
メイさんは煙管の煙を吐き出すように、長い息を吐いた。
それは悲しみのため息というより、懐古の気持ちが含まれていた。
ユヌちゃんが幼い頃、もっともっと我儘を言って通す頃を、メイさんは見届けてきたのだから、それも当然のように思えた。
「
「良いことですが、寂しくも思われますね。」
「それはもう。」
メイさんは足元にできた水溜りに指先をつけた。
ぴちゃぴちゃと、乙女の指先を遊ばせた。
「僕は、ユヌちゃんを子供だと思ったことがありません。
初めて会った時から、大人びた子だなと思っていました。
無邪気に振る舞うことで、心配させまいとしているのだと。」
メイさんは自分の指先を見つめたまま、小さく2度か3度頷いた。
その様子を見て、僕は少し勇気を出して続けた。
「彼女は、プレッシャーを感じているのではないでしょうか。
喜ぶ姿を見せなければ、貴女の苦労や労働が無駄になると。」
メイさんの指先がピタリと止まって、あとは手の甲に雨が当たるだけになった。
指先を見つめたメイさんが、ゆっくりと目を伏せながら手を引っ込める。
「通りで何をやっても、心底喜ばんわけです。」
「気付いていたんですか。」
「何か違うと、思うておりました。
しかしながらそれでは、もはや
あの子にしてやれる事は尽きたということでしょうか。」
「そんなことありません。」
僕は懐から手拭いを取り出し、土産用だったそれでメイさんの手をとった。
そしてその指につく泥や水を拭き取りながら、もう一度言った。
「そんなことありませんよ。
ユヌちゃんが最も喜ぶ、好きなものは何かご存知ですか?」
メイさんが視線を上げ、僕とすぐ近くの距離で目を合わせる。
上目遣いに視線を遣る黒い瞳に、疑問の色を灯している。
いつも遠い瞳が、今、目の前で僕の言葉に関心を示している。
「貴女です。貴女が好きなんですよ。何よりも。」
ゆっくりと行われた瞬きが、一層その時を大事なものにしたように感じた。
メイさんの睫毛は長く、黒かった。
「だからこそ、ただ与えられる事に躊躇してしまう。
貴女と、姉妹として対等になれなくて。」
メイさんが、ひゅっと手を引いた。
驚いた僕は少しの間固まっていたが、そっと手を下ろした。
手拭いをしまって、ゆっくりと呼吸をするだけの時間があった。
「対等。確かに。
ユヌには終ぞ優しくと思うておりましたが、ただ子供扱いをしていただけなのかもしれませぬ。
「寂しいところですが、そういう時期なのかもしれません。」
メイさんの物腰柔らかな物言いに、
僕はいつもこうだったら良いのにと思った。
でも、それではメイさんではないのだ。
寂しいと思いながら表情を曇らせたりしない。
むしろ少し微笑んでしまうメイさんが。
決して手を差し伸べたりしないメイさんが。
そのメイさんが、他人の悲しみに寄り添い、共に歩けるまで直立不動で待ち続ける姿に、
僕は目を離せないでいるのだから。
自分に厳しい分、他人に優しくしたい僕と、
他人に厳しくせざるを得ないから、自分にも厳しいメイさん。
似ていない僕たちにも、本当は似ているところがあるのではないだろうか。
もっと前に出会えていたら、もしかしたら。
僕は、桜さんと同じくらい、メイさんと愛し合い、信じ合うことができたのではないだろうか。
「こんな些末なことを申し上げましたら、ヤシロ殿はお怒りになるかもしれませんが。」
メイさんはそう言って僕の顔を見た。
そしてゆっくりと微笑んだ。
「我々は似ておりますね。」
「僕も、同じことを考えていました。」
「まぁ、それは奇遇だこと。」
メイさんは目を細めると、僕がその表情を理解するより早く立ち上がった。
驚いて顔をあげた僕に、メイさんは手を差し伸べた。
「雨が止みそうです。」
気がつくと雨はほとんど霧雨になっていた。
幾ら耳をすまして探しても、雷は遠くに聞こえるばかりで、
僕は促されるに従い、その手をとった。
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