「何をしておいでですか。」


僕は殆ど泣いている様だった。

翌日も茶屋へ赴いたが、旦那さんの言葉に上手く笑えていたとは思えなかった。


「奥さんは喜んでくれたいかい。」


その言葉は1月分の給金を殆ど使い切って、買った品々をそれぞれ労いたい人へ贈呈できなかった僕にはひどく残酷だった。

旦那さんは何やら察してくれたらしく、以降その話題を出すことはなかったが、

茶碗を2つも割ったあたりでは、「ヤシロっちゃあん」と力なく僕を呼んだ。


「すみません。」


そう繰り返して俯く僕に追い討ちをかけたのは、久々とも言えるシヴィーさんの迎えだった。


「ヤシロ様、お父様からのお手紙をお預かりしております。」


速達、秘、と物々しく書かれたその封筒は間違いなく父の字で、

僕はただその表面と宛名を見ただけで立ちくらみを起こしてしまいそうだった。

多分僕は苦い顔をしていて、封筒を上手く開けることに時間がかかった。

3,4枚の直筆の手紙を読み終わった後は、僕はもっと苦い顔をしていたはずだった。


「旦那さん、お休みを頂けますか。」


力なく頼んだその様子に、茶屋の旦那さんは父が危篤か、僕の身体に重い病気でも見つかったかのように思ったらしく、

いいよいいよ、また来たかったらおいでと優しく送り出してくれた。

シヴィーさんに付き添われ自室に戻り、荷物をまとめて国長のセネさんと、メイさんに挨拶に行く。


「少し事情があり、しばらく故郷に帰らせて頂きます。

ご面倒をお掛けします。」


そう言って頭を下げると、セネさんは妹が何かしたかと少しばかり驚いたように尋ねられ、メイさんは「左様か。」と答えただけだった。

メイさんに尋ねられた時には、個人的な都合で貴女のせいではないと伝えるつもりだったのに、メイさんは目を合わせる様子さえなかった。


こうして僕はとぼとぼと故郷への道を歩み出した。

シヴィーさんが護衛として付き添ってくれたが、それも国境のそばまでで、

突然現れた豆粒サイズの金魚に緊急招集をかけられ、国境線まで辿り着く前に解散した。


シヴィーさんは僕の歩みの遅さに体調をひどく心配していたが、本来この森を抜けるのに苦労はなかった。

道は知っているし、苦労を伴うほど道は山も谷もなかった。

ただ一歩歩くことに父の手紙が思い出され、僕の胸をキリキリと痛ませた。


『ヴァピール国の王子と仲良くやるとは何事か。』


3頁にも綴られたその文字列を要約すると、そういうことだった。

父は術師大国をひどく嫌っている。

力で世界を征服するとは何事かと、父は常日頃そのように仰って、自身の傲慢な物言いこそ棚に上げ、痛烈に批判していた。

父にとっては、暴力で国を従える国長はもとより、その国にてそのように倣っただけの桜さんさえ、批判の対象なのだった。


僕にも何か緊急の招集がかからないかと、川があっては金魚を探し、空を仰いでは伝書鳩を探した。

それがあてにならないと分かると、今度は天候を気にし始めた。

雨が降れば川の多い故郷へ帰ることは危険だし、雷がなれば屋内に止まり歩みを止めることができる。


そう思う自分が大層不甲斐なくて、僕はせめて歩き続けようと努めた。

そして歩き続けている内に、本当に雨が降ってきた。

しとしとと降る内は、なんだか尚更悪い気がして早足で故郷への道を行ったが、

遠くから強い風がやってくるのが見えて、

僕はようやく洞窟で一休みすることを選ぶことができた。


その洞窟は背が低く、僕は少し屈んで中に入った。

耳をすますが、野生生物が寝ぐらにしている様子はない。

助かったと思いながら、雨が凌げる程度の所に腰掛けた。

雨が降っているのを見ていると、故郷が近いのだと思った。

リェシアは砂漠の中のオアシス。

かと言って雨が降り、水が豊富なわけではないのだ。

山のこっち側に来てようやく、細い川や池に出会える。


ぴちゃん。

と音がして僕は飛び上がった。

洞窟の奥を凝視すると、それが天井から垂れる水の音なのだと分かった。


驚いて飛び上がった自分に恥ずかしさを感じながら、視線を落とすと、

小さな水溜りの中で何か光ったように見えた。

よいしょ、とわざと声に出しながら立ち上がり、その池に近づいてみる。

中で、小さな金魚が1匹、彷徨うように泳いでいた。


「迷子?」


小さな水溜りの横に胡座をかき、金魚にそう言ってみる。

雨音の中でも、人間の声は響いた。


「僕は家に帰りたくないけど、君は、帰りたいのかい?」


金魚は不安げにくるくると回り、泳いでいる。

尾鰭の先が水面についていた。

普段、金魚といえば拳サイズか、僕を一回も噛まずに飲み込めるような5mくらいの金魚しか見かけないから、

その金魚はひどく、か弱く小さいように見えた。


「メイさんも、メナも、大きいものな。」


指先を水面につけると、その冷たさに驚いた。

僕は立ち上がって外を眺めた。

雨は降り止まない。

仕方がないのだ。

僕は行かなければならない。

多少濡れたところで、父はその違いに気付かないだろう。


洞窟を出ると僕は木の下に駆け込んだ。

ほとんど無駄な抵抗と言えたが、大きな葉を見つけるくらいはできた。

水を弾く強さがあり、僕の手の中で綺麗に収まる柔らかさがぴったりだった。


走って洞窟まで戻ると、金魚は底に沈んでいた。

葉を押し込んで掬い上げると、半ば諦めかけたように横たわる金魚が尾鰭を動かした。

両手を痛いほどぴったりとくっつけて洞窟を出ると、僕は川を目指して猛烈に走った。

しかし川に辿り着く前に、池を目の端に捉えた僕は、そこに赤い魚がいることに気がついた。

なるほど、いつか大雨で池が溢れたのだろう。


「ここでいいかい?」


息が上がったまましゃがみ込むと、両手が震えて水がぴちゃぴちゃと鳴った。

水面に近づけ、葉をゆっくりと傾けると金魚は勢いよく池へとダイブした。

その一瞬の鰭の激動に僕は見惚れてしまい、結果洞窟に戻る頃には頭の先から足の指の先までぐっしょりと濡れていた。


もう水溜りが跳ねたくらいでは全く変わらない。

葉っぱを集めて洞窟の入り口に座り込み、僕は雨脚を眺めた。

雨はひどくなる一方で、やっぱり小雨のうちに少しでも進んでいれば良かったなと後悔し始めていた。

遠くで雷が鳴っている。


雷の合間に聞こえるこの音はなんだろう。

木の板が地面を叩く音だ。

雨が降っているからだろうか。

いや、徐々に大きくなってくる。


僕が意を決して立ち上がって洞窟から顔を覗かせると、そこにいたのはメイさんだった。

目立たない傘をさしたメイさんに、洞窟から恐る恐る顔を覗かせたびしょびしょの僕はひどく滑稽に見えただろう。


「ここで何をしておいでですか。」


メイさんの声は、別に呆れたようでも怒っているようでもなかったが、

それでも僕は首を竦めてしまった。


雨が。

と言い終わらないうちに、メイさんは傘を畳んで洞窟の中に入ってきた。

強い風に煽られた髪を整えながら、メイさんはあの水溜りを見ているようだった。


「あの、どうしてここに…。」

「シヴィーが置き去りにしたヤシロ殿が、ひどい天候の中にいると聞きました故。」

「誰から聞いたんですか?」

「金魚をすくいましたでしょう。」


メイさんの言った、「すくう」が、「掬う」なのか「救う」なのか分からないまま、

僕は、えぇ多分と答えた。


「あれは近頃行方不明になっていた者でした。

貴殿がメナと仰ったのを聞いて、礼を言いに来たのですよ。」


ははぁ、と僕は半ば感嘆の声を心の中であげた。

メナは金魚の神獣で、召喚獣でもある。

召喚獣というのは王族の次男や娘がなるものだから、メナは当然、金魚界では名の知れた貴族様というわけだ。

そういえば昆虫類の中にはメスが王位を継ぐものもあるというが、金魚は未だ男尊女卑の文化なのだろうか。


「いつまでここにいるおつもりですか。」

「雨が止むまで、ですかね。」


再びしゃがみ込んだ僕を見下ろして、メイさんは息を吐き出した。

あれは音のないため息だったと思う。


「帰りたくないのですか。」


メイさんを見上げた僕が、今度は音のないため息をついた。


「帰りたくは、ないです。」


雷鳴に気を取られたフリをして、目を逸らした僕に、メイさんはどんな視線を向けていただろう。

気付いた時には、メイさんは僕の少し横に腰を下ろしていた。


「では、雨宿りを致しましょう。」


メイさんは地面に座ると小さいのだと、僕は初めて知り、つい見つめてしまった。


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