「ここで働かせてください!」


「ヤッシー下手っぴ!」


渾身の向日葵をお披露目した最初の一言はそれだった。

ユヌちゃんは僕の描いた向日葵を見て、窓に駆け寄って向日葵畑を見、そしてまた僕の元へ戻ってきた。


「下手かなぁ。」


僕は絵を自分の方に向けてよく見てみたが、

酷評されるほど酷くはないと思った。


「真ん中のぶつぶつが気持ち悪い。」


それがユヌちゃんの言い分だった。

これは種だよと説明してみても、間近に観察したことのない彼女にはどうやらピンと来ないらしい。


「でも偶然だね。私も向日葵描いたよ。」


ユヌちゃんが指さした方に、確かに向日葵の絵が飾ってあった。

黄色いクレヨンでガリガリと力強く描かれている。

黄色と緑をふんだんに使ったその絵を、この病室から描いたことは明白で、僕は1本手折ってこようかと提案した。


「だめだよ。せっかく咲いてるのに。」


ユヌちゃんはそう言って、そして、「あれでいいんだもん。」と言った。

そっか、と答えると、そうだよ、とユヌちゃんはベッドから窓の方を見て言った。


「ユヌちゃんは、絵を描くのが好きなの?」


ユヌちゃんが絵を描いているのはあまり見たことがなかった。

紙の切れ端で絵しりとりをしたり、メイさんやセネさんの似顔絵を描いていることはあったことがあるかもしれない。

実のところ、僕の認識はその程度だった。


「好きだよ。でもあんまり得意じゃない。」

「僕もだよ。一緒にもう一回描く?向日葵畑まで一緒に行って。」

「いいよ。もうメイ姉に見せたし。」

「メイさんに見せたら、それで終わりでいいの?」

「うん。だって、メイ姉に聞かれたから描いたんだもん。」

「聞かれたって何を?」


僕の問いに、ユヌちゃんはやれやれと言った風に答えた。

ユヌちゃんは時々そうやって大人びた仕草をする。

その細かな動作にはメイさんが見え隠れすることがあって、

僕にはとても微笑ましく思えていた。


「『向日葵って、どんな花?』って。

だから描いて教えてあげたんだよ。」


ユヌちゃんはもう窓の外は見ていなくて、一方で今度は僕が窓を見つめていた。

ユヌちゃんの枕元のこの席では、窓から何かを見下ろすことはできない。

15畳もあろうこの部屋では、ベッド周辺は外から見えない位置に置いてあるのだ。


「メイさんは、向日葵を見たことがなかったのかな。」

「ううん。あぁ、それねって言ってたから、見たことはあるんだよ。

でも、メイ姉は薬草と毒きのこしか興味ないもん。

草には詳しいけど、綺麗な花の名前は分かんないんだよ。」


それを聞いて、僕は妙に納得した。

確かに、山に入る時に気をつけなければならないのは有害な植物だ。

無害なものは、無害だと知っていればいい。

昔はよく毒草に触れてはかぶれて帰ったりしたものだ。

姉さんが悲鳴を上げることもしばしばだった。

僕はグルグル草、ピタ蔓などと勝手に読んでいたことを思い出していた。


「クレヨン、もう小さくなっちゃったね。」


赤いクレヨンが小指くらいになっていることに気がつき、僕はそれを摘み上げた。

クレヨンの周りに巻かれた紙の持ち手は、ユヌちゃんによって破かれ、

彼女の使い勝手の良いようになっていた。

よほど使い込んでいるのだろう。

手に馴染むくしゃくしゃだった。

ユヌちゃんは僕の手元を一瞬だけ見て、さも当然だというように「うん。」と答えて、すぐ視線を手元に戻した。


「赤は1番使うんだよ。」

「新しいのを買ってきてあげるよ。」


僕がそう言って近くの屑籠に入れようと中腰になると、ユヌちゃんが突然大声でだめだと叫んだ。

驚いた拍子にクレヨンを取り落とした僕は、その姿勢のまま固まった。

ポトン、というクレヨンの軽い落下音にユヌちゃんはもう1度、「だめ!」と言った。


え、と尋ね直す間もなく、ユヌちゃんはベッドからスルリと抜け出し屑籠を漁り始めた。

その迷いのなさに更に驚かされながら、僕は中腰の姿勢から真っ直ぐ姿勢を正すことしかできなかった。


「でも、小さいと描きにくくない?すぐ買ってこれるんだよ?

もしすぐ使いたいのなら、今から買ってくるから。」


彼女の背中から発せられる言葉以外の何かを感じ取ろうと努めながらそう尋ねると、彼女は無言で立ち上がった。

手にはクレヨンを握っている。


「だめ。メイ姉が買ってくれたんだもん。」


抜けだした時と同じくらいにスルリと掛け布団とシーツの間に滑り込みながら、

ユヌちゃんは決意固そうにそう言った。

それなら僕が買っても同じだろうと言おうとして、ユヌちゃんが「あたしのお金じゃないの。」と続けた。


「メイ姉が一生懸命働いたお金で買ってくれたの。

だから、大事にしないとだめなの。」


あぁ。と僕は口をつぐんだ。

この幼い子は、いつも姉に甘えているだけではないのだと気づいた。

この子は、メイさんが妹を溺愛しているように、姉を愛し、気遣っているのだ。


「勝手に捨てようとしてごめんね。」


ユヌちゃんは無言で頷き、手の中でクレヨンを転がしていた。


「お医者さん呼ぶのだって、安くないんだよ。

余所の国から、来てもらうんだもん。

『まだ薬は見つかっていないんです』って言われる為にさ。

馬鹿みたいでしょ。自分は全然、なんにも買わないのに。

あたしには、注射頑張ったご褒美だって、お菓子とか、ゲームとか、買うんだよ。」


唇を噛んで拗ねたようにそう言う彼女の横顔は、今までになくメイさんに似通っていた。


「そっか。」


僕はそれだけ言って、ユヌちゃんの頭を撫でた。


「メイ姉、可哀想。

いっつも同じ服着て、いっつも同じ下駄履いてる。」

「でも、メイさんもお金がなくて自分に何も買わないわけじゃないと思うよ。」

「うん。でも昔言ってたもん。

何かあったときの為にお金とっておいてるって。」


彼女の部屋から帰る間中、ユヌちゃんは、いつの間にこんなに大人びてしまったのだろうと僕は考えた。

つい最近、『お金を稼ぐ』ということを思い付いた僕とは、ひとまわりも歳が違うというのに。


そして僕はなんてことをしていたのかと気がついた。

婿入りしてきて、もう1年になると言うのに、義妹の治療費をメイさんだけに払わせていたなんて、と。

僕は自分の部屋に戻る予定をくるりと変えて、行先も外に向け、例の茶屋へと足早に訪れた。


数ヶ月前と変わらぬ暖簾をくぐると、僕は店の扉をガラガラと音を立てて開けた。


「ここで働かせてください!」


開口一番大声で呪文を唱えた僕に、店内のお客さんは勿論、店主の旦那さんも目を丸くしていた。


「なんだい、ヤシロっちゃん。急に大声出してどうした?」


静かな店内で若干の動揺と共にそう尋ねられた僕は、今度は小さすぎる声で「ここで働きたいんです。」と言った。

誰だったか、この呪文を言えば鬼のようなお婆さんでも働き口をくれると言っていたのを、頭の中で思い出していた。


「いいよ。大歓迎だ。」


店主の旦那さんが優しい人で良かったと、僕は心から安堵した。

その日は朝から大盛況で、経験のあった僕はその場ですぐに手伝いを始めた。

お客さんはほとんどみんな僕の顔を覚えていてくれて、時々名前の出てこないお客さんにも、「ヤシロっちゃんですよ。」と言うと、嬉しそうにそうだそうだと口にしていた。


「ヤシロっちゃんはいいよなぁ。

気立てが良くて、よく働いてくれるし。

もうずっといて欲しいくらいだよ。」


夕方、椅子に座って巻きタバコを吸いながら、店主の旦那さんはため息混じりにそう言った。


「そう言って頂けると嬉しいです。

また雇って下さって、ありがとうございます。」


机を拭きながら、僕はお礼を言った。

日が暮れる前に帰らなければ、またシヴィーさんか琴音ちゃんが怒られてしまう為、

僕は少しばかり時間を気にしていた。


「今度はどれくらいいてくれるんだい。」

「できれば、ずっと働きたいと思っています。

勿論、不要な時はそう言って頂ければ、他を当たります。」

「なんだ、アテがあるのかい。」

「ないけど、知り合いは何人かいるので、聞いてみることはできます。」


そうかい、とそう言って旦那さんは腰を上げた。

長く働くことを約束した為、今日は給金は貰わずに帰路に着いた。

その日の夕飯は格別に美味しかった。

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