折り合いをつけて生きていく
なんと出すぎたことをしてしまったのだろうと反省した僕は、
翌朝、メイさんにも桜さんにも挨拶に上がることが出来ず、街をぼんやりと散歩していた。
「あら、ヤシロさん。」
麗らかな声がして振り返ると、小結さんがお付きの老女を連れて店から出てきたところだった。
桜さんと何か話しただろうかと思うと、どんな話をしたものか迷ってしまったが、
小結さんは上品な笑みを浮かべて、髪飾りを買ったのだと話してくれた。
「今日は桜様とご一緒ではないのね。」
「えぇ。今日は挨拶もまだで。」
「まぁ。本当に無礼な方。
こちらから挨拶に伺うべきですのに、申し訳ありません。
あの人ったら、何しているのかしら。」
不満そうに眉を顰めた小結さんを見下ろしながら、僕は桜さんの所在を考えた。
メイさんと一緒にいるのだろうかと思い、胸がもやもやした。
そんなことを言って、自分は小結さんと一緒にいるのに。
足元からエゴにまみれているのだと自覚する。
「桜さんとはあまりお話をされないんですか?」
カフェに行きますかと提案しながら、何気なく聞いてみると小結さんはなんの悲嘆もなく、話さないわと答えた。
「お話ししていてもつまらない。
素っ気ないし、全然笑いもしない。
早くお仕事に出られないかなって思っているのが伝わってくるんですもの。」
「桜さん、真剣に聞いている時は笑わない方ですよ。」
「新しい着物を買ったお話を、そんなに真剣に聞いて下さらなくて結構だわ。
あの人は他にお好きな方がいらっしゃるのよ。
だから、
「桜さんがそう仰ったんですか?」
「いいえ。でも見ていたら分かりますもの。
あの人は桜の木に思い出がおありなんだって。」
桜の木。
そう繰り返して、僕は沈黙してしまった。
目敏い小結さんはそれに勘付き、鼻を鳴らした。
「あの方がそのようになさるなら、それで結構よ。」
「貴女にも心を寄せる方が?」
「いいえ。でもあの人は私を愛してはくれない。私ばかり蔑ろにされて、業腹だわ。」
「愛されたいのですか?」
「だから、結構だって申し上げておりますでしょう?」
「なぜその様にお怒りになるのですか?
貴女だって桜さんを愛してはいらっしゃらないのに。」
僕が立ち止まると小結さんも立ち止まった。
流れていく大通りの真ん中で、僕たちは相対した。
「愛されたいと願うなら、その態度ではいけないでしょう。
桜さんは貴女と良い生活を築きたいと努力なさっています。」
「そうは思えませんわ。」
「桜さんは忍耐力のない方です。
つまらない話を最後まで聞いたりしません。
思い通りにならないとすぐに不機嫌になって、眉を釣り上げて声を荒げます。
貴女に対して、そんなことをしましたか?」
「あら、よく目にしますわ。
あの方の側近って本当に可哀想。」
「貴女に対して、そのようなことがあったかと尋ねたのです。」
小結さんは口を閉じ、何も言わなかった。
僕は歩き出したが、小結さんは立ち止まったまま、足元を見つめていた。
そして声の届く範囲最も遠い距離になった時、呟くように言った。
「みんな
「違います。」
僕は来た道を少し戻り、行く道を指し示しながら話を続けた。
「ふたりとも、とても努力をしなければならないんです。」
そう言ってから、ふたりとは誰のことだろうと思った。
小結さんと、桜さんのことだったか、
あるいは僕自身のことを無意識にさしていたのかもしれない。
黙りこんでしまった小結さんを、目的地を変更して、僕は連れて歩いた。
辿り着いた先は桜さんの部屋の前で、僕はなんの迷いもなくノックした。
誰だと問われ、躊躇なくヤシロだと答えられ、扉を開けた桜さんに、素直に挨拶をした。
「どうかしたのか。」
俯いたまま部屋の中に消えていく小結さんの背中を視線だけ追いながら、桜さんは僕に尋ねた。
桜さんは結局、別室には移動しなかったのだとシヴィーさんに聞いていた。
「いいえ。」
桜さんは当然のように余所行きの正装に着替え終えていて、
扉を後ろ手に閉めると寄りかかり、腕を組んで僕を見下ろした。
「桜さん、小結さんを僕にください。」
「なんの意図があってそんなことを聞くんだ。」
「意図なんてありません。
僕には、小結さんの方がぴったりだと思っただけです。」
桜さんが口の中で舌を転がしているのが分かった。
聡い桜さんなら、小結さんと何が引き換えになるか、すぐに分かったはずだった。
「あれは難しい性格でな。
俺にはどうしたらいいのかさっぱりだ。」
僕は頷き、桜さんは首を横に振った。
「だがな、あれは俺の嫁だ。
幾らお前でも、易々とくれてやるつもりはない。」
「メイさんの夫の座では、足りませんか。」
「足らんな。」
桜さんはそう断言して、そして繰り返すように、全然足らん、と言った。
そして扉から背を離し、今度は窓に寄りかかった。
桜の木を眺め、そして隣に来るように促した。
「ヤシロ、何を考えているんだ。」
「諦められると思って。」
葉さえ散りかけている桜から目を離し、
僕は赤紫の髪が揺れる桜さんの顔を見つめた。
端正な顔立ちだと思っていたが、それだけでなく、そこには彼自身の苦労の皺と、律された強い精神が輝いているのだと気付いた。
「貴方がメイさんを選べば、きっと諦めがついて、僕は未練なく国に戻れるんだと思いました。」
「それで?」
「諦めようと思ったら、改めて、好きなのだと気づくばかりでした。」
「それで?」
「それでも僕は、ここで別れれば10年後にはこの愛も忘れているのだと思うと、
引き下がるべき人間なのだと思いました。
桜さん。僕はずるい人間です。
好いていなかった女性を、今更手離したくないと駄々を捏ねている。
易々と手に入るものに満足しないばかりか、奪われることを拒む小さな人間で、
なによりもその自分に、僕は僕のままでいいと言い聞かせて、孤独を紛らわせている。
何も要らないと口ではいいながら、全てを求め、
万人に愛されたい、幸せになりたい、と地団駄を踏んでいる子供なんです。」
桜さんは黒目の端に桜の木を映しながら、僕をじっと見下ろしている。
僕の視線は泳いだまま、桜さんの優美な裾を見たり、男前な肩を見たりした。
「でも、他人の不幸を招くくらいならそれが何であれ譲るべきだと、これだけは本当に、誓って、思っています。」
肺の中の空気を全部使い切ってそういうと、最後は少し声が震えた。
しばらく沈黙があって、桜さんは頭を掻いた。
そして僕の結った髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、その手を少し俯いた後頭部に乗せたまま静かに言った。
「ヤシロ。
俺たちは、折り合いをつけて生きていかねばならん者共だ。
だがそれは、進んで不幸になることでも、
誰かの命令のまま生き、死ぬことでもない。
お前はお前の、生きたいと思える明日を描け。」
願わくは、そこに俺があらんことを。
そう残して、桜さんは翌日この国を発った。
小結さんと似つかない肩を並べて歩く姿を部屋の窓から見下ろして、
微笑みを浮かべるふたりのぎこちない顔を脳裏に焼き付け、
僕はまだこの国に残って良かったのかと思案する。
それは後悔のようでもあり、ただちっぽけな不安でもあった。
帰ってしまわれましたねと話をしながら、夕食の席に着くと、普段はないひと席があることに気付く。
珍しくシヴィーさんが同じ卓に着くのかと思ったところで扉を開けたのはメイさんだった。
そしてスタスタと、そうであることが当然の如く、僕の目の前に腰を下ろした。
不思議そうに間の抜けた顔で見つめる僕にはちらとも視線を寄せず、
メイさんは頂きますと手を合わせた。
「1刻の休憩でございます。
普段は口頭の報告を受けながら頂くのですが、今日は疲れてしまいました故。」
そして1口召し上がると、
「とても美味しゅうございますね。」
と言った。
その姿はまるで桜さんへの未練を残さない、
数日前までのメイさんの姿と全く同じ様子だった。
口元を押さえる優美さを兼ね備えた仕草に思わずドキッとし、そうですねと答えながら自分のぎこちないナイフ遣いを精一杯正す。
他愛ない不恰好な会話を2つ交わすと、すぐに1刻は過ぎた。
ナイフを置いた途端に小さな琴音ちゃんが口を開き、今晩のご予定についてですが、と話し始め、昨日の今日で1刻の休憩さえ惜しいと思うほど余裕などないことに改めて驚く。
「お忙しいですね。」
「誰かが為さねばなりません故。」
「人を増やしたりすればいいんじゃないですか?」
「グズが増えると面倒で。」
アルバイト初日に湯呑みを3つ割った僕は、
とてもじゃないが、何か手伝いますとは言えず、苦笑いを零した。
メイさんの言い方からして、側近衆5人の優秀さが伺えるが、
それは同時に、メイさんが新入りをきちんと育てていることも意味していた。
「僕で良ければお手伝いします。
例えば、書類を取りに行くとか、伝言を賜るとか。」
そう言うと、近くに直立不動していた琴音ちゃんが一瞬視線をあげ、そしてメイさんの顔色を伺った。
しかしメイさんは、ではそのような事があれば、ときっと訪れない時のことを約束した。
分かってはいたがやはりシュンとはするもので、
それはメイさんが離席する間際まで尾を引いた。
メイさんは離席する前に琴音ちゃんにも水を飲ませ、両手で湯呑みを持つ琴音ちゃんをじっくりと眺めてから立ち上がった。
そして扉を開けて待つ琴音ちゃんに先にお行きと言って振り返ると、
開けたままの扉を背中で抑え、少し色の薄くなった唇を僕の為に動かした。
「昨日の一件でご帰国されるのだと思うておりましたが。」
「桜さんと話して、考え直してみました。
メイさんがご不快なら、すぐ帰国の準備をします。」
メイさんは今度は腕を組んだ。
重たい布の擦れる音がして、視線が泳いだ。
「ヤシロ殿はこの国がお嫌いですか。」
「いいえ。とても素敵な国です。
明日、ここにいられることに感謝しています。」
「なら、ここにいれば良いのです。」
メイさんはそう言った。
ぴくりともにこりともしないまま、伏せ目がちな瞳で僕の手元のあたりを見ながら。
そして続けた。
「
メイさんは言い終えるや否や扉に追われて廊下に消えていった。
それは術師としての言葉だったかもしれないが、
家族の一員としての言葉だったと思っても、
きっとバチは当たらない。
ありがとうございますと心からの感謝を心の中で申し上げ、僕の夕食は終わった。
後ほど温かいお茶をお待ちしようと思いながら、僕は桜の木を見下ろし、あれがきっと、僕の思い出にもなるのだと微笑んだ。
おわり。
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