残る現実に僕たちは
メイさんはプライベートな部屋で、窓の外を見下ろしていた。
先程まで桜さんの頭を支えていた肩が、とても小さく見えた。
「桜が何か申しましたか。」
振り返ると開口一番、そう言った。
橙色のまぶしい着物の中で薄い笑みを浮かべたメイさんは、今日は紫色の粉を瞼にのせて輝かんばかりの様だった。
瞬きをするごとに、桜さんの髪と同じ色の煌びやかな瞼が見え隠れした。
「いいえ。ただ、黙っていたことを糾弾されただけです。」
「それは貴殿の所為ではあるまい。
桜には言って聞かせたのだが、ご迷惑をおかけして申し訳ない。」
メイさんはそう言って少し頭を下げた。
僕よりも少し小さい。
やっぱり華奢なんだなと思う。
見納めかもしれないと思うと、意図せず見つめてしまった。
「また仲違いでもなさいましたか。」
そう言いながらメイさんはソファに移動した。
伏せ目がちで見つめられると、いつもなら逸らしてしまう視線を、
最後くらい見つめ返してもいいかと肝が据わった。
「いいえ。ただ、自分が浅はかで、愚かで呆れてしまいました。」
「
「見返りを求めていたことに、気づいてしまったからです。」
メイさんは左手を優雅に差し出して、自分の正面のソファを示した。
促されるまま座り込むと、メイさんの小さな顔にかかる髪が1本1本見える気がした。
「して、見返りとは?」
「貴女の愛です。貴女からの、僕への愛。」
笑顔を引きつらせたメイさんを見ていられず、思わず俯いてしまった。
袖の中で隠して握りしめた拳が、小さく震えていた。
「分かっています。こんなことを望むのは、幼稚だって。」
たった1瞬の沈黙が耐えきれず、いつの間にか、僕は言うつもりもなかったことを口走っていた。
「政略結婚に愛情を求めるなんて愚かです。
だから、僕は貴女を愛するつもりはありませんでした。
今だって、愛しているつもりはありません。
ただ、居心地の良いふたちであれば、それが最も望ましい形だと思っていました。
貴女が想いを寄せる男性が現れれば、僕は見て見ぬふりをするつもりでした。
その、つもりでした。
でも、貴女に笑顔を誘うものがあるなら、それが僕であれば良いと思っている自分に気づいてしまった。
綺麗な花を見つけると、貴女が知っているか気になるんです。
美味しいご飯を頂くと、貴女も召し上がったのか気になるんです。
そうであったら良いと思いながら、気づくと微笑んでいる自分がいて、
貴女は今、何を思っているのだろうと思うんです。
これを愛と呼ばずに、なんと呼びましょう。」
視線をあげるとメイさんと目が合った。
哀れんでいるのだろうか。
驚いているのだろうか。
分からないが、メイさんはしっかりと耳を傾けてくれていた。
だから僕は思い切って言うことができた。
「メイさん、白状します。僕は貴女を愛している。
貴女の一番になれなくとも、貴女の愛情を一番に頂戴することができなくても、
僕は貴女を笑顔にしたいと思い、一番に話したいと思い、毎日お会いしたいと思っています。」
まくし立てるようにそう言うと、メイさんはひどく悲しそうな目をして、首を横に振った。
一度目を閉じてから息を飲んだのを感じる。
そしてゆっくりと口を開いた。
「笑顔にするのが自分であり、取るに足らない事物を言って聞かせたい、
それを愛情と呼ぶのなら、きっと
メイさんはそう言った。
残酷な言葉ではあったが、それがメイさんの本音なのだと思うと安堵した。
やっと、僕たちは会話をしているのだと。
ひとつ深呼吸をすると、今度は僕の方が微笑んで、深刻そうな顔をしたメイさんに言った。
「僕はいつでも、国に帰る準備は出来ています。」
「桜は余所に婿入りしました。」
「こんな風に終わるなんて、あんまりです。おふたりなら、幸せになれるのに。」
「私を愛していると言ったり、桜とよりを戻せと言ったり、お忙しい方ですね。」
「貴女に幸せになってほしいから。」
メイさんは再び目を閉じて、今度はしばらく開かなかった。
紫色の粉がキラキラと輝いて、涙のようにも見える。
きっとお祝いの為なのだと思った。
メイさんなりの、桜さんへの結婚祝いなのだと。
二度と会わないと決めた愛する人が、自分ではない人と婚約した苦痛がどこかにあるはずなのに、
メイさんはその姿さえ見えないながら、口にしないながら、願わないまま、祝っていたのだ。
「メイさん、桜さんともっとお話しになってはいかがですか。」
「何を話せと言うのです。」
「なんでも。今日お召しの着物の事や、新しくできたカフェのことや、今年も桜が綺麗に咲いたことなどを、お話になったら桜さんも喜びます、きっと。」
「桜は左様な人間ではございませぬ。」
「いいえ、きっと嬉しいはずです。
だって桜さんもまだ貴女のことを」
「ヤシロ殿。」
ピシャリと遮って、メイさんは目を開けた。
眉を顰めたまま、苦い顔をして、僕に視線向けた。
「貴殿は勘違いをされている。
もう
「そんなことありません。
おふたりが生きている限り、そんなこと決してありません。」
「しかしながらそれはもう我々の幸せと呼べるものではないのです。
桜には小結殿がいて、
メイさんは立ち上がり、机の方へ歩いて行った。
僕には不動の後頭部を見せたまま、ただ裾の中で、手は握りしめているようだった。
「わたしは間違っていない。
兄妹を守ったことを、後悔したことはない。」
「分かっています。」
「分かるものか!」
勢いよく振り返ったメイさんの顔は、見たことのない程苦痛に歪んでいた。
あぁ、メイさんもやはり苦しんでいるんだと、胸が締め付けられた。
「お前に分かるか!?
今まさに留めを刺されようとする父の顔を夢に見もしないお前に!
差し伸べられた手を素直に受けることができるお前に!
一体何が分かる!?」
「メイさんがご兄妹を心から愛されていることは分かります。
貴女の心境を理解し解決することは、僕に出来ません。
もし完全に理解し、助けてほしいというのなら、それなら貴女は桜さんを取ればいいのです。
貴女には選択肢がある。」
「そんなもの…!」
メイさんは拳を机に叩きつけ、何かを堪えていた。
そして一瞬の沈黙ののち、手近にあった湯呑みを掴んで振り上げた。
白く細い肘が見えた丁度その時、何処からともなく、かぷかぷかぷかぷ、と泡の音が聞こえた。
気付くと僕の背後に、巨大な金魚様がメイさんを真っ直ぐ見つめて、静止していた。
口からは泡がひとつ、ふたつと溢れては弾けるまで天井へ向かって浮かんでいく。
かぷかぷかぷ。
かぷかぷかぷかぷ。
金魚様は微動だにせず、メイさんも俯きがちな姿勢のまま上目遣いに睨み返していた。
振り上げた右腕が震え、十分な沈黙の後、遂にゆっくりと、なんとも惜しそうに湯呑みを卓上に戻した。
そして袖をひと払いして着物を整えると、
両手を揃えて僕に頭を下げられた。
「申し訳なかった。」
「何故謝るのですか。貴女の言葉が聞けて良かったと思っています。」
「ヤシロ殿に、そのように思わせていることへの謝罪でございます。」
「不要です。」
「いえ。
精進致しますので、何卒お許しを。」
僕はなんと答えればいいか分からず、その様を見つめていたが、
ただそうしたいが為に立ち上がり、
頭を下げて僕より随分小さくなったメイさんの顔をあげ、そのまま抱きしめた。
メイさんは抵抗もせず、成されるがままだったが、
垂らした両腕を固く握り締めていることを僕は感じ取った。
「メイさんはもう頑張っています。」
髪に触れるといい香りがした。
メイさんは微動だにしない。
早く離して欲しいと思っているかもしれない。
でも、僕はまだ離したくなかった。
「無理をし続けていませんか。
たまには休んで、もっとユヌちゃんと会ったり、温かい布団で眠ったりしましょう。」
ユヌちゃんの名前を出した途端、
メイさんが大きく息を吸い込むのが分かった。
「償いは十分なさっています。
貴女が罰を受け続けることを望むものはいません。」
大きく吸った息を、震えながら小さく吐き出すメイさんの身体は、迷子の子供のように小さかった。
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