桜の婚約者

その日は突然訪れた。

僕が朝食後の歯磨きをしながら今日の散歩コースを考えていた時に、

突然扉が開いてメイさんが現れた。

驚くあまりに泡を吹きそうになったがなんとか堪え、

聞き取れるか取れないかくらいの言葉を泡の間から発した。


「おふぁようごばいます。どうふぁれましたか?」


メイさんがしばらく口を開かなかった為、僕は聞き取れなかったのかともう一度言い直そうと口を開いたところでメイさんは会釈をした。

メイさんのいつもの挨拶代わりの行動を見て、聞き取れていたのだと解釈した僕は、余計なことを言って遮ったりしないよう、大人しくメイさんの次の言葉を待った。


「桜の来訪予定が決まりました。

明日から5日間滞在致します。」


僕は思わず、はぁ、と素っ頓狂な声を出してしまった。

では、と立ち去ろうとするメイさんに僕は慌てて口の中の泡を流しに吐き出して呼び止めた。

メイさんはスタリと立ち止まり、半身だけ振り返り、何かと尋ねられた。


「お会いになるんですか?」


僕の質問に心外だという目をして、メイさんはいいえと答えた。

紫色の華やかな着物の裾が揺れた。


「わたくしはまた身を潜めます。何卒、余計なことは仰いませんよう、お願い申し上げます。」

「あの、桜さん・・・」

「ご結婚の旨は既に兄より伺っております。」

「良いんですか。」


メイさんは一瞬視線を地面に落とした。

良いわけがないでしょうと言おうとした時、メイさんは静かに息を吐きながら視線をあげ、僕を見下ろした。


「わたくしには関係のない事でございます。」


そして返事も待たず、メイさんはぷいと向こうを向いて、

いつものように高下駄を響かせながら立ち去った。

きつく締められた帯が彼女の背中を一層細く小さく見せていて、口の中で歯磨き粉が舌を刺激した。

肩を落として鏡に向かい直すと、泡を口の端から垂らした男が髪も結ばず、起きたままの姿で立ち尽くしていた。



翌日、中央門まで足を運ぶとシヴィーさんが立っていた。

僕が手を振ると礼儀正しく踵を揃えてお辞儀をし、顔を上げて爽やかな笑みを見せてくれた。


「ヤシロ様もお出迎えに?」

「えぇ、時間を知らなかったので早く来てみました。」

「失礼しました。お知らせしておくべきでしたのに。」


申し訳ありませんと頭を下げたシヴィーさんに、僕は両手を振った。


「いえ、良いんです。多分、知っていてもこれくらいの時間にここに来ましたから。」

「そろそろいらっしゃる予定です。」

「待ち遠しいですね。」

「えぇ。」


シヴィーさんはそう言って、嬉しそうに歯を見せて笑った。

普段お行儀の良い笑みしか見せないシヴィーさんも、こんな風に笑うことがあるのかと思いながら、僕も笑みを返した。


「最近はお忙しいようですね。」

「えぇ、お祝いに上がったりしておりました。」

「では、最近桜さんとお会いに?」

「いえ、置き手紙をして参りましたが、桜様の兄君にご挨拶しただけでして。

桜様は長らく伴侶になられる小結様のお国にいらっしゃっていたようです。」

「小結さんはどちらの国の方がご存じですか?」

「えぇ。ジャラペンのお嬢様だそうです。」


ジャラペンですか、と繰り返しながら、記憶を探っていると、

シヴィーさんは続けて詳細を教えてくれた。

ジャラペンは商人の国で桜さんのヴァピール国とは護衛の派遣要請などで繋がりがあるらしい。


「とても上品な方だと伺っております。」

「そうですか。」


そういえば桜さんが別れ際に婚姻がまとまりそうな女性がいると言っていたことを思い出したが、確か桜さんとはあまり仲が良くないとも言っていた気がして、シヴィーさんにそのことを尋ねてみた。

するとシヴィーさんは初めて苦い顔して、とても申し訳なさそうに、そうでしたか、と言った。


「あの時は酔っていたのであまり覚えていなくて。」

「そういえばそうでしたね。」

「お恥ずかしい。改めて桜様からお手紙で叱責を賜りました。以後、気をつけます。」

「僕は気にしていませんよ。」


ケタケタと笑って見せるとシヴィーさんもようやく少し笑った。

その後も婚約者や桜さん本人の話をして5刻程やり過ごしていると、

シヴィーさんは次第にそわそわと太陽の昇り具合を確かめたり、背伸びをして遠くを見ようとしたりし始めた。


「遅いですね。」


シヴィーさんがあまりに心配そうで僕はそう言ってみたが、空返事が返ってくるだけで僕は肩をすくめた。

もうしばらくすると今度は琴音ことねちゃんが現れた。


「桜様はまだいらっしゃらないの?」

「えぇ、遅れているようです。」

「セネ様がご心配なさっているの。」


琴音ちゃんの言葉に頷きながら、シヴィーさんはやはり背伸びをして遠くを見やった。

琴音ちゃんはメイさんにだけ仕える子であり、兄のセネさんに仕える子ではないと1年がかりで僕も理解できてきた為、本当はセネさんが琴音ちゃんをここへ寄越したのではないことは明らかだった。


「桜様、遅れたことありませんからね。ちょっとそこまで見てきます。

補佐官様へご報告をお願いできますか。」


シヴィーさんは自分の半分ほどしか身長のない琴音ちゃんにそう言って、

琴音ちゃんが頷くと僕にもお辞儀をして、それから中央門を潜って駆けていった。


「桜さんって遅れたことがないんですか?」

「ありません。あの方は時間に厳しい方ですから。」

「君はメイさんに言われてここに来たの?」


僕がぼんやり小さい琴音ちゃんのつむじを見下ろしていると、琴音ちゃんはキッと鋭い視線で僕を見上げた。


「そのお名前をあまり大きな声で仰らないで下さいませ。

確かに、こちらへは補佐官様のご命令で参りました。」

「あ、ごめん。

えっと、その、補佐官様も心配しているんだね。」

「時間に厳しい方が遅れるのであればどなたでも心配なさると思いますが。

では、私は報告に上がらなければなりませんので。失礼致します。」


琴音ちゃんはしっかりと前で手を揃えてお辞儀をし、くるりと向こうへ駆けて行った。

燕尾服のような黒いスーツが等速直線運動さながら一定のスピードで遠ざかっていくのをながめ、

自分が彼女程の年齢の頃は、あんなにしっかりしていなかったなぁと関心し、その背中にお辞儀を返した。

照りつける太陽を見上げ、地面で揺れる陰を見つめ、また退屈になって門の外を眺め続けた。


桜さんが到着したのはそれから3刻後のことで、何やら重たそうな籠を2つ抱えた一行がシヴィーさんについて砂煙の中から現れた。

籠が降ろされると小柄な女性に手を差し伸べられながら、桜さんが降りてきた。

簾を上げた瞬間から機嫌の悪いことが明らかで、目は釣り上がり歯を食いしばっている様子が窺えた。


目が合うと僕は会釈をし、桜さんは右手を上げて応えてくれた。

そのままこちらに来るのかと思ったが、何やら後ろの籠の方へ移動し、腰を屈めた。

少し移動すると桜さんがにこやかな笑みを浮かべて手を差し伸べているのだと分かった。


シヴィーさんは口ではあちらに等と案内をしているように見えるが、逆に不安げな顔をしていて、桜さんの様子を遠巻きに見つめている。

成り行きを見守っていると、遂に籠の中から女性が現れた。

桜さんの手には目もくれず、側仕えの遠い腕に縋ってようやく籠から脱出した。

ひとめでそれが小結さんだと分かった。


小さく背伸びをした後、籠を担いでいた全員にお礼を述べ、側仕えの年配の女性に行きましょうと言った。

かたや無視を決め込まれた桜さんは鬼の形相で小結さんの背中を睨みつけていて、

シヴィーさんがスススと寄って行き、まぁまぁと小さく宥めていた。

小結さんは僕の前を通る時には笑みを浮かべて会釈をし、優雅な足取りで中央の通りを進んでいく。

肩に触れる位の柔らかなストレートの髪がサラサラと風になびき、右耳の上で留められた銀の髪飾りが光った。


「よ。」


後ろ姿に見とれている内に不機嫌そうな桜さんと苦笑いを浮かべたシヴィーさんが追いついてきていた。


「お久しぶりです。」

「実に久しい。出来れば他の用事で再会したかったが。」


桜さんはいかにも面倒臭そうな様子でそう言った。

愚痴を言っても様になる桜さんは短くため息をついて頭を掻いた。


「あちらが小結さんですか?」

「そうだ。」

「素敵な方ですね。」

「あぁ、術師嫌いがたまに傷だがな。」


やれやれと言った風に歩き出した桜さんの少し後ろを、

僕はシヴィーさんと並んでついて歩いた。

桜さんはやや大股に歩を進め、あっという間に小結さんに追いついた。

小結さんは背後から感じる禍々しい視線に気づき一瞬振り返ったが、

何事もなかったかのように側仕えとの会話を続けた。

上手くいっていないというのは、謙遜でも控えめな表現でもなかったようだ。

小結さんはどうみても、桜さんを眼中に収めないよう努力しているように見えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る