プライベートの素顔


メイさんは目的あって歩いていたようで、ある部屋に入っていった。

8畳ほどのそれなりに壁の迫ってくるような、タイルの床が冷たそうな部屋だった。

中にはでっぷりとした太いソファがひとつと、簡易的な椅子と机、本棚、金魚鉢、そして業務用のファイルらが、所狭しと並べられていて、部屋というよりは物置、という印象が強かった。

この館にこんなに狭い部屋があったことに驚く。

僕に用意されていた部屋の、3分の1もないだろう。


「こちらは?」


僕が尋ねると、メイさんはソファに腰掛けながら答えた。


「急遽充てがわれたわたくしの個室でございます。

桜は勘が良いので、いつもの部屋は全て、使えませぬ。」


メイさんは僕に簡易椅子に座るよう、促しながら脚を組み、手を鳴らした。

パンパンと、2回。

それは側近衆らを呼ぶ仕草だった。

普段からそうやって彼らを招集しているのかと思うと、大人たいじんの風格がある。


「紗遠。」


メイさんがそう呼ぶと、しばらくの沈黙があった後で、お待たせしましたと扉の外で返事があった。


「お入り。」

「はい。」


紗遠ちゃんだった。

やはり、黒一辺倒な服では、彼女らしさに欠けるなと思った。

どこか塞いでいる様子の紗遠ちゃんに、メイさんは少し楽しそうに言った。


「桜に随分と絞られたそうだな。」

「面目ないです。」

「構わん。なんと言おうと、あの男はもはや余所者。もう忘れるが良い。」

「えっ、でも。」

「全く、他人ひとの国で物申すほど偉くはなかろうに。」

「怒鳴られたのは、シヴィーさんッス。

あたしの教育係だからって。」

「そうか。あとで労ってやらねばな。

で、シヴィーは?」

「さっき桜様のところに行くって言ってました。

また怒られてるんじゃないッスかね…。」

「そうか。なら、あとで良い。

紗遠も、もう戻って良い。

次に何か言われたら、その言葉、儘お返しすると言っておやり。」


不敵に笑って、メイさんは扇子を開いた。

黒い出目金の絵が、とても繊細に描かれている扇子だった。

紗遠ちゃんは頷いたあと、その他諸々の報告を事細かにしていた。

街の様子はどうだとか、どこの工事が終わったとか、そういった日常的なことだ。

僕はそれを聞きながら、メイさんはそうしてしか国の細かな部分を知ることができないのだと気付いた。

空から見下ろすだけでは、ミニチュアのような国の細部まで確認することは不可能だろう。

きっと、1年で国は変わってはいない。

けれどメイさんにとっては、そうではないかもしれない。

自分の存在を否定する国は、大きく、大きく変わって見えるはずで、そうでなければおかしいとすら思えた。


姉様あねさま。」


その声に振り返ると、今度は暮露くれつゆさんが立っていた。

メイさんのことを、姉様あねさまと呼ぶのは暮露さんだけだから、わかりやすい。

なんでも彼女たちは本当に幼い時から一緒にいて、歳も1つしか変わらないのだとか。

最も身近で、最も信頼を寄せている暮露さんは、桜さん滞在中の今、カモフラージュの為、メイさんの部屋を使っているらしい。


入れ替わりで、紗遠ちゃんは退室していく。

暮露さんは僕の存在に幾らか驚いたようだった。

その上、何やら僕を気にしている様子だった為、僕は潔く席を立った。

メイさんにお呼ばれした席を立つのは些か残念ではあったけれど、今日話せたのだから、明日も話せるだろう。


廊下に出ると、紗遠ちゃんは既にいなかった。

扉を閉めきる前に、暮露さんの残念な気持ちを押し殺したような声が聞こえてきた。


「桜様が明日あす、帰国するとお決めになりました。」


その言葉に、僕は立ちすくんでしまった。

僕のせいで、桜さんはこの国を嫌いになってしまったかもしれないと思った。

嫌な思い出ができて、疎遠になって、それきりになってしまうかもしれない。

その場に固まっていると、薄い扉から少しだけ会話が漏れて聞こえた。

メイさんは、楽観的な様子だった。


「左様か。それは良かった。

お前たちにも苦労をかけたな。

私は久々の休暇でゆっくりできたが。」

「ごゆっくりできたのは、何よりです。

ですが、本当に宜しいのですか。

桜様に、お会いにならなくて。」

「必要がないだろう。」

「本当に、そう思っておいでですか。」

「当然だ。どうした?

珍しいな。お前がそんな顔して食い下がるなんて。」

「…だって、だって、桜様のこと、あんなに愛していらっしゃったのに…!」


暮露さんが悲痛そうに叫んだ。

暮露さんが、そんな風に取り乱すのは初めて見た。

いや、見たというより、聞いたが正しく、盗み聞いたが大正解なのだが。

そうではなく。


「お会いになるべきです…!

桜様の為にも、姉様の為にも…!」

「暮露、メイは死んだんだ。

あの日、盗賊に襲われ、父と共にメイは死んだんだよ。」

「どうしてそんなことを仰るんですか。」


暮露さんは、今にも泣き出しそうだった。

扉の外にいてもそれが分かるのだから、それを目の前にするメイさんには、どれほど悲痛に映っただろう。

僕は壁に背中をつけてしゃがみこんだ。

あーあ、と声を出してしまいたかった。


「貴女はこの国でもう何も得られないのですよ…!

貴女はこの国で、ただ消費されていく…!

だったらせめて、せめて、最後にわがままを言って駄々をこねても良いではないですか…!

唯一無二の伴侶が、貴女が最後に得られるものになるのですよ…!」


はっきりとその言葉のひとつひとつを聞き取りながら、ぼんやり薄暗い廊下の天井を見つめていると、そこに桜さんとメイさんが並んで歩く様子が想起された。

僕は見たことがないけれど、それは確かに、昔あった光景のはずだった。


「食糧難になれば、私が外交で手に入れます。

防衛ラインが侵略されれば、私が戦います。」


暮露さんは、尚も食い下がっている。

そういえば防衛ライン、僕の母国の近くにもあったなと思い出す。

懐かしい、美しい森の中に、本来なんの名前もない川が流れていて、この国ではそれを、N防衛ラインという大層な名前で呼んでいる。

なるほど、その向こうに隣接している僕の国が、国の形を保っているうちはこの国も防衛ラインを死守できるというわけだ。


つまり僕は案山子なのだ。

その土地を犯そうとする不埒な輩を追っ払うための案山子が、ちょっと質の良い布をまとい、人の形をしていて、足があり、歩いてしまうから体良く飼いならす必要のある、家畜か希少動物のような、なんの思考もせず、ただぼうっとした意識があるだけの、つまらない、案山子。


僕は、何を望んでいたんだろう。

この国に選ばれたのは、僕だからではないことを、忘れてはいけなかったのだ。

豊富な食料に恵まれた、丁度良い立地と社会的立場の、協力関係になれる、そういう国の次男坊がこの国の安泰の為に必要だったのだ。

嫌々、渋々、不承不承、苦渋の決断。

そういうものを全部合わせても足りないくらいの気持ちで、仕方なくなんの役にも立たっこない僕を、居候させているだけなのだ。

監視の目を、いつもそばにいてくれる友達のように思うことで、それを忘れてしまうなんて。

高望み。分不相応。

そういったもの、諸々だ。


僕は肩を落として、今度こそため息をついた。

なんだか、やっぱり寂しいなぁと、僕の中の弱い部分が足の先から這い上がってきた。

こんなに虚しい気持ちが身体中を占領したのは、いつ振りだろうかと考えた。


部屋の中からは、まだなんの音もしない。

メイさんは、悩んでいるのだろうか。

よし、わかった、ヤシロは捨ててしまおうと言うだろうか。


「暮露、」


漸くメイさんの声がして、なんて綺麗な声なんだろうと思う。

溢れそうな涙が頬を伝うのではないかと思うほど、暗闇によく似合う声だなぁと思う。


「お前は勘違いをしている。」


メイさんの声は、余裕があり、落ち着いていて、全く糾弾するような装いもなかった。


「私は、選んだんだ。

こういう暮らしも、誰を伴侶とするのかも、私が、選んだんだよ。

もう何も得られなくたって、消費され続けて、例え手足がもがれて、舌を抜かれて、眼球が抉られたって、そんな些細なこと、構わんさ。

お前たちは、傍にいてくれるんだろう?

ユヌやセネにいも、いなくなったりしないんだろう?」


メイさんは、そこでひと息ついてから、とびきり優しい声で、暮露さんに話し続けた。


「そんな顔、もうおよし。

私はね、暮露。

そういう、私を見捨てないでいてくれる人たちが明日も私のそばにいてくれるのなら、それだけでとても幸せだと思うし、そういう人たちが満足していられる国なら、それで良いと思うんだ。

私もいつか、この国を嫌いになることがあるかもしれない。

お前がいなくなり、リイーナやシヴィーや琴音ことね紗遠さおんがいなくなって、セネにいやユヌを糾弾するものが現れたら、私はきっとこの国を見捨てるだろうよ。

この国がどれだけ私に寛容で、どれだけ優美だとしても、私はそれを許すつもりはないから。」

「誰かの幸せのおこぼれで良いと?」

「そうだね。だってそれがとても嬉しいんだ。そういうさがなもんで、仕方がないだろう。」


メイさんは、きっと微笑んでいるに違いないと思った。

もしかしたら、暮露さんに手を差し伸べているかもしれない。

となりに座らせて、懇ろに髪をすいてやっているかもしれない。

なんて微笑ましいんだろう。

僕はひとりで微笑んだ。


「でもそれは、桜様のお隣でも、成せることです。」


尚食い下がる暮露さんに、メイさんは声を漏らして笑った。

僕もクスリと、笑いそうになる。


「随分な気に入り用だな。」


そりゃあそうだろうなぁと思いながら、僕は顔を上げる。

桜さんの良いところをあげたら、キリがない。

強くて、逞しくて、芯があって、はっきり物が言えて、善悪の判断がついて、優美で、上品で、高貴で、裕福で、自信があって、立ち振る舞いが格好良くて、誰とでも滑らかに会話が出来て、短気だけれど、情が深くて、笑顔が素敵で、豪快で、やっぱり短気が過ぎるけれど、惜しいところは少しもない。

そういう人だ。

僕が敵いっこない、羨望することさえ諦めてしまうような、そういう。

メイさんがなんと答えるか、それを聞いたら僕も観念してここを去ろうと決めた。

メイさんは、そうだねぇ、と言った。


「例えば私が本当に殺されたとして。

桜は復讐に燃えて討伐隊を率いて出て行くだろう。

まぁ、実際去年そうだったのだしね。

でもヤシロ殿は、違うと思うんだ。

ヤシロ殿はきっと、ユヌやセネ兄の傍にいて、あの子達が笑顔を取り戻すまで傍に寄り添ってくれると思う。

暮露、お前のそばにも、いてくれるだろうよ。」


ただ、それが非力なだけだとしても、僕は、僕がそうするであろうことをメイさんが知っていることに驚き、そして感謝した。

僕は立ち上がりかけた。

脹脛ふからはぎに力を込めたちょうどその時に、だからね、と聞こえてきた。


「だから私は、桜ではなく、ヤシロ殿を選んだんだ。」


脚の力が抜けて、僕は再び壁に寄りかかった。

あぁ、なるほど、そういうことか。

僕は突然納得した。

そして気を抜いた途端、思わず、両目に溜め込んでいた涙が溢れた。

胸がいっぱいになるというのは、こういうことだろうと思った。

僕は決して、婿という箱に入れられ、押し付けられたわけではなかったのだ。

敵わないなぁと思う。

メイさんには、きっと、ずっとずっと敵わないんだろうなぁと思う。


桜さんが優れているとか、そんなこと、どうでも良いことだったのだ。

僕が非力で、ただ寄り添うことしかできないことを、僕は恥じる必要なんてなかったのだ。

例え、そんな僕を父が愛してくれなくても、そんな僕を、僕自身が愛してやれなくても、そんなこと、構うことじゃなかったのだ。

僕が差し上げられるものが、必要な人のところに、必要な時に差し出してやれれば、逞しくなくても、術なんて使えなくても、そんなこと些細な違いに過ぎないのだ。


嬉しくて、僕はポタポタ流れ落ちる涙のことなんかすっかり忘れて、膝を曲げてその上に乗せた腕に顔をうずめて、声を出さずに笑った。

暗闇の中でたっぷり幸福感と肯定感を享受して、まだ止まらない涙を袖で拭い、また笑って、そのあと暫くして、僕はようやく立ち上がることができて、静かにその場を後にしたのだった。

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