夜桜が誘う笑み
ふたりは帰ってしまった。
急ぎの仕事が残っているという言葉を、残していった気がする。
はい、と返事も、した気がする。
僕は湯呑みを洗っていた。
悪いことをしてしまった罰ではなく、お仕事として。
湯呑みをひとつ洗うごとに、桜さんの言葉と僕が言ってしまった言葉が思い出された。
桜さんは、せっかく僕を仲間だと思ってくれていたのに、僕はなんて酷いことを言ったのだろう。
桜さんは、正しかった。
しかし、それでも、正しいけれども、ただ、そんな風に言って欲しくなかった。
そもそも、僕が出る幕ではなかったのかもしれないことを、差し引いたとしても、それだけは。
うぅん、と唸る。
片付けが終わる頃には8時になっていた。
相変わらず、仕事が遅い。
僕はなんにも、上達しない。
店の戸締りをし、家路に着いた。
もう空は暗くなっていて、飲み屋の明かりだけが煌々と喧騒を引き立てている。
お腹が空いた。
でも、お店に入ってたまたま桜さんに出くわす可能性を考えると、僕は店の灯りを見つめて竦んでしまい、結局どこにも行くことが出来ず、店に赴き、メイさんへのプレゼントを吟味することさえ、諦めた。
本当に僕は優柔不断なもので、メイさんに何をプレゼントするか、未だ決めきれていなかった。
帯も帯ひもももう既に沢山持っているだろうし、食べ物の好き嫌いは分からない。
書物をあげても、読んでもらえるのか、そもそも読む時間があるのかも定かじゃない。
頂いた給金は2貫文溜まっていたが、あと1週間ほどで十分な金額が貯められるのかも、よく分からない。
働くのは辛くはない。
むしろ、やることがあるというのは、良いことだ。
色々な人がヤシロっちゃんと声をかけてくれるし、人の役に立てるのは嬉しかった。
だから、辞めたいとかそういうことではないのだが、なんとなく、無意味な気がしてしまう。
こんなことをしても、どうせ自己満足なのだという思いが、僕の肩を叩く。
館に戻ったが、夕食はひとりで食べた。
誰も食卓のある部屋にいなかったし、呼ぶ必要もなかった。
いつもは、食事の支度はシヴィーさんか紗遠ちゃんにしてもらうのだが、何を何処へ取りに行けば良いのかは、いつも着いて回る為にわかりきっていた。
食堂のおばちゃんたちに、不思議そうな顔でキョロキョロされても、ひとりで不安になることはなかった。
夕飯を終え、僕は部屋に戻る為、廊下を歩いていた。
薄暗い廊下の先をぼんやり目的もなく見つめて歩いていたが、角を曲がったところで人が立っていることに気がついた。
最初は人だとは思わなかったが、一歩近づくにつれて、それが人であるという確信を増し、十数m先の距離になると、間違いなく、メイさんだと認識することができた。
いつものキセルも持たず、腕をだらりと下ろしたまま、窓の向こうを見つめている。
メイさんは桜さんが現れてから忽然と姿を消してしまっていて、まるでそれは本当に死んでしまったかのような沈黙だった為、突然彼女が現れたことに驚いて、どう声をかけていいものか分からなかった。
メイさんは、身動きひとつ、しなかった。
おそらく、僕にも気付いていないのだろう。
何を見ているのだろうかと思い、そっと顔を向けると、そこには大きな、大きな桜が夜風に花弁を散らして立っていた。
一心に、あるいは心をなくして、瞬きさえせず、メイさんはその様子を見つめていた。
「メイさん。」
僕はようやく声をかけるということを思い出し、そう言いながら歩み寄った。
メイさんは機敏な動きでこちらを振り返った。
とても驚いていて、物悲しい表情をすぐに作り変えることはできなかったようだった。
悲しい顔をしていた。
「綺麗ですね。」
表情など何も見なかったかのようにそう言った。
メイさんは再び、窓の外に視線を移してしまった。
僕がすぐ隣にまで寄っていくと、今日は高下駄を履いていないことに気がついた。
あの下駄を履いていないと、僕より少し、背が低かった。
「ヤシロ殿の目にも、そうお見えになるか。」
「えっ?」
突然彼女が返事をしたので、僕は驚いて聞き返した。
メイさんは、首を少し傾けて言った。
「斜めに見ても、美しき桜よ。
しかしあれが誰にとっても美しいのか、私には疑問でしてな。」
「えぇ。えぇ、美しいです。とても。」
僕も身体の向きを窓の外に向け、メイさんと同じ景色を見た。
夜桜は、ワンフロア分下の方で花をつけていた。
四方を建物に囲まれており、廊下から楽しむことが想定されているかのようだった。
「砂漠の真ん中で、よく育ってくれるものですね。」
僕がそういうと、メイさんは少し自慢げに答えた。
「
あのようにひとつきりでも、よく咲いてくれるわけです。」
「へぇ。桜がお好きなんですね。」
「もろともに あはれとおもへ 山桜、という歌もございます故。」
僕は、メイさんの横顔をもう1度見る。
そのことには気付いているだろうけれど、メイさんはこちらを見ようとはしなかった。
それは、僕が嫌われているから、というわけではなさそうだった。
僕は視線を戻し、そういう歌を意識して桜を植えたのだろうかと思案する。
館から、人目があるところに出られなくなった今でもあるまいし、植えた時分さえ、孤独だったわけでも、ないだろうに。
それとも、メイさんは昔から、ずっと孤独を抱えていたのだろうか。
あるいは、その桜というのは深い赤紫色の髪をした、彼のことを指しているのだろうか。
「ところで。」
メイさんはそう言って、今度はゆっくり僕の方を向いた。
しかし、僕は、きっと僕より向こうを見ているだけであると思い込んでいて、メイさんの方を見たりはしなかった。
「浮かない顔で。何かおありですかな?」
そう尋ねられ、初めて僕は視線を桜からメイさんへ移した。
僕の驚いた顔に、メイさんは少し微笑んだように見えた。
それは当然、見えただけだったのだが、僕としては、傷心中だということをおくびにも出していないつもりだった為、メイさんの洞察力にただただ驚いた。
いや、僕が隠しているつもりで、隠しきれていなかった可能性も、大いにあるけれど。
「いえ、実は、桜さんと仲違いをしてしまいまして。」
「ほう、桜と。」
メイさんに桜さんの話をして良いのかは少し迷ったが、嫌なら嫌で話題を切り上げるだろうと思い、僕は思い切って話をしてみた。
「桜のプライドに障ることでも仰ったのかな。」
「うぅん。多分、そうなります。
紗遠ちゃんの言葉遣いについて、あまりにも強く叱るものですから、つい、その言い方はおかしいと言ってしまいました。」
「桜は最上級に敬われなければ、居られぬタチ故な。」
驚いたことに、メイさんはそう答えて、僕にも分かるくらい、目を細めて微笑んだ。
メイさんは僕をじっと見つめてから、招くような足取りで向こうは歩き出した。
僕は名残惜しげに桜の花を見下ろしてから、振り向かずに歩いていくメイさんの後を追った。
「桜さんと、お会いにならないんですか。」
「その必要もあるまい。
桜には、私は死んだと伝えてある。」
「桜さん、会いたがってましたよ。」
「ほう。そのようなことを言うとは、あの男も世辞が上手くなったものよ。」
ははは、と。
メイさんは笑った。
いよいよ暗闇に近づいてきた廊下に、透き通った声が小さく響いた。
「差し支えなければ、教えて下さい。
どうして貴女は亡くなったことになっているのですか?」
メイさんは、笑っていた名残を残す瞳で前を見据えたまま、答えた。
「それは勿論、
父を殺した際、盗賊に襲われたことにして、
「何故、そのようなことを?」
「父に居なくなって欲しかったから、では足りませぬか。
原因はそれだけであって、あとは全て結果に過ぎませぬ。
主に、兄上の配慮で、とだけ申し上げておきましょう。」
ぷいと前を向いたメイさんを見て、この話はこれでお終いなのだと察した。
僕は足を止めずに、もう一度桜の木を振り返って桜の木を眺めた。
「桜さんとは、仲が良かったと聞きました。」
「確かに、気は合いましたが、それだけのこと。」
「メイさんには、僕より桜さんの方が良い気がします。」
そう白状すると、メイさんはまたも、少し僕の方を振り返って、やはり微笑んだ。
僕はその笑みに吸い込まれそうになった。
膝から崩れ落ちて、砂やゴミ屑になった僕を、彼女はきっと掬って、飲み干すに違いないのだ。
この国に侵入した、哀れな犯罪者と同様に。
「何故そう思われるのですか。」
メイさんは、有難くも会話を続けてくれる気のようで、そう尋ねてきた。
僕は、ため息混じりに答える。
「桜さんの方が、貴女のことを理解している気がします。
術師大国の王子ですし、術師としても優れているし、僕では到底、敵いません。」
「敵う必要はないのでは?
ヤシロ殿は術師ではございませんから、戦う必要もありません。
そもそも、桜は敵ですらございませぬ。」
「でも、僕は貴女に、貴女と見合う様な方と一緒になって欲しいと思うのです。
僕のような、何の取り柄もない人間とではなく、もっと…、貴女は、だって、素晴らしい人だから…。」
僕は遂に、立ち止まってしまった。
歩く音さえ立てないメイさんは、先を歩いているのか止まっているのか、それも分からない。
でも僕は立ち止まってしまった。
それは揺るぎようのない事実だった。
「ヤシロ殿も、桜がもっていないものをお持ちでしょう。」
そんなもの、ないだろう。
僕は苦し紛れに微笑んで、顔を上げた。
「そうだと、良いのですが。」
メイさんは、暗闇の中、こちらを真っ直ぐ向いていた。
その姿は、そのままで、桜のように、十分美しかった。
僕は貴女を、幸せにできるでしょうか。
そう尋ねたかった。
しかし、それはあまりにも無責任な気がして、やめた。
メイさんは再び歩き出し、僕はその後をついて行った。
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