蜘蛛神様と金魚様


正確には爆発音も爆発も、ユヌちゃんの病室からではなかった。

けれど、思考を奪われた一瞬では、冷や汗が滴るほどに精神が不安定になった。


爆音からほんの数秒もしない内、仰ぐ必要もなく、大きく尾びれを動かし急進するメイさんが視界に入った。

地上では暮露さんが慌ただしく指揮をとろうとしている。

駆け出したシヴィーさんに、僕も続いた。


ほとんど先ほど来た道だ。

シヴィーさんには到底追いつけず、僕は結局自力で向かうことになり、あとひとつ区画を行けばというところで、何か、喉を鳴らすようなガラガラ声の、且つ快活な声を聞いた。


『やっぱぁ若い力はうめぇのぉ。

喰うんじゃったら若けぇのに限らぁ。』


人間の声だったなら、聞き苦しいと思ってしまうほどのしゃがれ声。

しかし人間ではないと、その荘厳さが本能に教えている。

もっと、神聖で恐れ多いものだと。


無防備にも駆け出したその先で、僕が見たのはそう、先ほど僕を食い殺しかけた巨大な蜘蛛だ。

しかし、今度はわけが違う。

巨大とも巨躯とも、そんな生半可な言葉では到底言い表せないような、空を覆う黒い蜘蛛だった。


その下には赤い髪の少女が立っていて、蜘蛛は何かに糸を回した白い繭を抱えている。

メイさんはとっくに到着していて、その蜘蛛の頭の周りを旋回していた。

ユヌちゃんの病室は壁が剥がされ、室内が剥き出しになっている。

しかし、その中に彼女の姿は既になかった。


ひとつ目の謎である少女は、すぐに誰なのか分かった。

蜘蛛が同意を煽るようにガラガラと言ったのだ。


『なぁ?リニスよぉ。』と。


下に佇む彼女は、えぇそうねと微笑んで答えた。

その顔の余裕は、先ほどメイさんに詰められる前に病室で見た顔そのものだ。


2つ目の疑問は、何故メイさんが旋回を続けているのかだ。

ユヌちゃんを狂ったように探すでもなく、リニスちゃんを攻撃する様子もない。

ただ、悩ましげに蜘蛛の上をぐるぐると回っているのだ。


リニスちゃんは上空を見上げ、大蜘蛛の、まるで樹齢1000年の大樹のような脚の隙間からメイさんに言った。


「陽動の3人に側近衆全員向かわせたのは本当にお馬鹿さんね。

扉に金魚を住まわせて完璧だとでも思ったのかしら?」


せせら笑うようなリニスちゃんとメイさんを見比べていると、背後から現れたさおんちゃんが大声をあげた。


「ユヌ様を離せ!」


振り向くとさおんちゃんは指の先をリニスちゃんに向け、いかにも戦闘態勢という姿勢だった。

けれど、その腕をシヴィーさんが掴んだ。


「止めろ。」

「ユヌ様に当てるような真似はしないっスよ!」

「違う!そういう話をしてるんじゃない!」


蜘蛛の抱えた白い繭がもそもそと動いた。

そして幼鳥が卵を破るように、ぐいと、むんぎゅという音がしそうな絵面で、か細い腕が突き出してきたのだ。


「なんか苦しいー!」


ユヌちゃんの声だ。

繭がぐいんぐいんと揺れて、穴から飛び出した手は空を探っている。


「蜘蛛神様、穴空いちゃったみたい。」

「なんじゃあ? 全く、仕方ないのぉ。」


これじゃからガキはァ。

そう言いながら、捕食前の儀式のごとく、大蜘蛛は繭を器用に脚に持ち、おしりから出す糸で悲鳴を包み込んでいく。


その悲鳴に吸い寄せられるかのように急降下してきたメイさんを、リニスちゃんは見逃さず、ひょいひょいと大蜘蛛の背中まで登ると、等身大もありそうな大きな筆を取り出した。

リニスちゃんが身体ごと遠心力を利用してそれを回すと、その筆と思われたものは大きな扇子になり、2周目、空に向かって風を吹き起こすと、術を含んだ突風はメイさんを失速させた。


メイさんは尚、足掻くように突っ込んで来たが、失速してはただの金魚に違いない。

リニスちゃんが投げた投網のような蜘蛛の糸に絡まり、もがけばもがくほど身動きが取れにくくなるようだった。


「ちょっと、」


リニスちゃんが振り向く。

そして僕たちの方を見て、不満げに言う。


「見てないであっちなんとかしなさいよ。」


リニスちゃんが顎で指したその先。

瓦礫の下から這い出してきた男が、口の端についた血を拭い、こちらを憎々しげに睨んでいる。


「あれは?」

問う前に、勿論、彼が僕たちの敵だと分かってはいたが、現状誰が敵で誰が味方なのかよくわからない。

特に、リニスちゃんが。


シヴィーさんが驚いたように見つめている。

そして目を反らすことなく、無知な僕に教えてくれた。


「『ユウヨウ』。

人材を有用する、と謳うからそう名付けられた集団の頭です。」

「人材を有用?」

「つまりは人攫いです。

そうか、目的はユヌ様だったのか…。」

「ユヌちゃん?どうしてです?」

「ユヌ様が現在ご治療中の病は病ではありません。

先天的な特殊能力で、周囲にいる術師から力を無意識的に吸収し、自分のものにする、そういう能力です。」


そうか。

だからユヌちゃんはひとり隔離された部屋に住んでいるのか。


僕は納得すると同時に、ふと思うことがあった。

勿論、術師にはそれは存在だけで脅威になり得る。

けれど、味方につけたのなら、それってかなり強いんじゃ…?


その力を今、ユウヨウが奪おうとしている。

リニスちゃんは、ユヌちゃんを守っているのだ。


ふらりと立ち上がった男が伸ばした腕。

まずいというシヴィーさんの声が聞こえて、瞬きをした次の瞬間、なんとその腕をリニスちゃんが押さえつけていた。

さっきまで目の前にいたのに。

気づけば数十メートル先の瓦礫の上だ。


「あんたの十八番は面倒だからね。

封じておくに限るよ。」


嫌な音がして、憎々しげな咆哮が僕の耳にまで届く。

あらぬ方向に曲がった腕が生々しくて、僕は目を逸らして、シヴィーさんを見つめた。


シヴィーさんはまだその光景を見ていて、僕は自分自身の小心者さに嫌気がさした。

強い人間は、僕のように目を逸らしたりしないのだ。

それだけで、僕にとっては尊敬の対象になり得た。


話は逸れたが、逸れた間に何かが起こったわけではない。

立て続けに足を掬った彼女が彼の上になったかと思えば、彼という人間がごぼごぼと地面の中に吸い込まれていく。

さながら蟻地獄のように。


リニスちゃんはひょいと飛び上がったが、粉々に砕けた地面の砂が彼女の足を捕らえた。

引き戻される彼女に為す術はないように見えた。

すると、大樹にも見えた大蜘蛛の脚が重々しげに動き、ぐいと彼女を捕まえたのだった。


彼女が助け出されると、メイさんが急降下してきて、残像にも見えかねない尾びれで地面を叩いた。

地震かと思うような衝撃で、気がつくと僕はシヴィーさんに肩と腰を支えられていた。


飛び上がったのは、見知らぬ顔ばかりだった。

そして漏れなく彼らは青ざめていた。


ユウヨウの頭はまもなく首を落とされた。

メイさんが頭を咥え、犬のように振り回したのだから、当然の結果ともいえる。


そして残るふたり。

幼い彼らは僕よりもひとまわり小さく見えた。


「彼らはユウヨウの奴隷です。

彼らも同じように断罪されるべきですが、彼女が許さないでしょうね。」

「彼女?」

「えぇ、彼女です。」


ユウヨウの頭の首を確認して、リニスちゃんは地に降りた。


「あーあ。せっかくこいつの十八番封じてあげたのに、あんたが地割れ起こしたんじゃ、世話ないわ。」


リニスちゃんは呆れた様子を隠さずに言い、残された奴隷に近付いた。


「私と一緒においでなさい。」

「待て。」


リニスちゃんに指図をしたのが、暮露さんだった。

赤と白だけで構成されたような彼女は、一際存在感があった。

けれど、リニスちゃんはまるで雑魚を扱うような視線をやるだけだった。


「そいつらは我々が預かる。」


彼らに真っ直ぐ、両腕をそれぞれ伸ばす彼女の紡ぎだしたお縄を、リニスちゃんは指の一振りで焼き切ると低い声で応えた。


「彼らに罪はない。」

「ユウヨウの恐ろしさはその奴隷の強力な術にある。」

「だから?」

「このまま野放しにするわけにはいかない。

安全であるべき多くの人間を危険に晒すことになる。」


リニスちゃんは鼻を鳴らして言った。


「なら、彼女の妹も一緒に処理すべきだわ。」

「なに?」


明らかに敵意を剥き出しにした暮露さんに、それでも尚、リニスちゃんは余裕の笑みを浮かべていた。


「あの子は全ての術師の脅威になる。

特殊な結界の中でしか生きられないなんて、まるで奴隷ね。」


「貴様のような教養も所属もない奴隷が、何様のつもりだ。

入国だけは、補佐官様も黙認して下さっているというのに、図に乗るなよ、小娘。」


奥歯ですり潰したような苦々しい声で言う暮露さんに、リニスちゃんは冷たい視線を向けた。


「だったらここで殺してしまいなさいよ。」



ぐおぉ、と喉を鳴らしたような声で大蜘蛛が唸るのが聞こえた。

リニスちゃんは、両手を広げて言う。


「貴女が私に勝るとは思えないけど。」







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