どこからでも金魚様。


『奴隷。』


ジョークなど言うはずのないメイさんの表情は、やはり真剣そのもの、むしろ少し深刻そうに所謂、麻呂眉を寄せていた。


しかし、それではどうもおかしいのだ。

僕は毎日本を読んで、毎日外を歩いて回っているけれど、奴隷などという虐げられた人間は見たことがない。

言葉でさえ、聞いたのは何年来かといったところだ。


「奴隷制とは、聞いたことがありませんでした。」

「馬鹿げた制度と言い切れましょう。

左様なもの、うちにはございませぬ。」


僕の疑問を、メイさんは切り捨てるように答えた。


「じゃああの子は…?」

「あれは御國という犯罪集団の奴隷だ。」

「そんな人がどうしてこの国に?」

「武器や金、或いは密書や幼子を盗む為だ。

あの女に限ってはそうも言い切れぬが、どちらにせよタチが悪い。」

「何故です…?」


メイさんは向こうを向くと、シヴィーさんを手で払う仕草をした。

色々なメイさんの所作を見てきた僕は、それが指示通りに行け、ということだと分かってきた。


そしてやっぱり、シヴィーさんは一礼をしてから廊下を走って行った。


「何故なら、奴隷に罪はないからだ。

しかし、放っておくわけにもいかぬ。

御國の手下となればやり手であろうし、あの小娘は、その中でも実力派だ。

やり様に困る。

今回の武器屋襲撃も、リニスの仕業ではないだろう…。」


メイさんは窓の外を眺めながら、何か糸口が手の打ちようを考え込んでいる様に見えた。


「兎も角、ここではないことは分かった。」


メイさんはそう結論付けると、ユヌちゃんの部屋の扉に向かって、真っ直ぐ手を伸ばした。

手の甲を上に、まるで指揮者が美しい奏での音に幕引きを与える様な手のひらの動きをした。

すると、扉の隙間から水が噴水のように湧き出て、表面に薄っすらと水の膜が出来た。


感心していると、メイさんは懐からキセルを取り出し、火のないそれをスゥッと吸うと、美しいおちょぼ口から吐息のような空気と小さな金魚を紡ぎだし、一列に並ぶ金魚は自ら水の膜に閉じ込められていった。


まるで水槽を上から覗いているかのように、その病室の扉の上に、何匹もの金魚が広い世界を得て泳ぎ出している。

メイさんはそれを見届けると、ふいと向こうを向いて歩き出した。


「ユヌちゃん、大丈夫でしょうか?」


置いていかれまいとして彼女に続くと、彼女は振り向きもせずに答えた。


金魚あれは私の目だ。

監視と守りの役割がある。

容易くは破れぬ。」


メイさんは何かを言いかけて口を閉じた。

歩を止めぬまま、外の何かに耳をすませているようだ。

なんだろうと思っていると、窓の外で何かが跳ねて近づいて来ている。


屋根を駆け、排水溝を飛び越えて、派手なピンクのキャップを抑えながら、真っ直ぐこちらの方へ向かっているようだった。


そして、メイさんが近くの窓を開けてやると、するりと滑り込むように廊下に入り込んできた。


「メイ様やばいっす!」


ピタリと踵をつけて言うには比較的緩い言葉遣いに、僕はメイさんの顔を見た。


うむ、怒ってはいないようだ。


「侵入者を発見しました!

現在確認できる敵は3名!

三毛茶屋の前であたしらが鉢合わせて、今、暮露くれつゆさんが対峙中っす。」


「たかが3人に手を拱いているってのかい。」


メイさんは『やれやれ』と『おかしいだろう』の間の調子で少女に尋ねた。


「いえ、それが人質が…。」

「チッ…下手を打ったな。」

「…申し訳ないっす。」

「いや、お前たちのことではない。」


メイさんは考え込むように、キセルの火皿で自分の親指をトントンと打っている。

最近気づいたのだが、メイさんは考え込む時によくキセルでコツコツと叩く。


少女はどうしようもなく、直立のまま次の指示待ちをしているようだ。

その少女、さおんちゃんはチラッと僕を見て、少し物珍しそうに唇を尖らせた。

僕がメイさんと一緒にいたのが、やっぱり珍しく見えるのだろう。

そういうさおんちゃんも、今日は珍しく背中に荷物を抱えていない分、なんだか細身に見える。


さおんちゃんはメイさんの側近衆で1番新入りらしく、荷物持ちや部屋の前で監視など、いつも下っ端の仕事を言いつけられている。


多分、今回も最前線は一番弟子の暮露さんが、伝令などをさおんちゃんが受け持っているのだろう。


「さおんはシヴィーを呼び、前線で兄上と連絡を取れ。」

「はいっ!」


メイさんの指令に、さおんちゃんは右手をおでこにつけて返事をした。

そして、入ってきたばかりの窓にグイッと足を掛けたかと思うとスイと飛び出し、向かいの屋根にジャンプして一瞬にして視界の外に消えてしまった。


窓から見下ろすと、さおんちゃんを見つけた人が指をさして口々に声を上げていた。


「金魚様の使者だ!」

「いやでもあの緑の髪は新入り…」

「ばかいえ、世界で4人しかいない使者だ。

新入りだろうと関係ねぇやい。」


やっぱり有名人なんだなと思うと同時に、メイさんの名前が出てこないことに改めて気づく。


『メイさんの存在はあまり知られていないんです。』

婿に来ると決めたあの日に、セナさんが言っていた言葉だ。

あれの意味はまだ教えてもらっていない。

一度だけ尋ねたが、『本人の口からでないとなんとも。』なんて返されてしまった。


しかし一体なんと聞けばいいのか。

『ねぇメイさん、なんで皆、メイさんのこと知らないんですか?

国長くにおさの妹で補佐官でもあるのに。』


…そんなこと聞いた日には、メイさん、どんな顔をするだろう。

いや、むしろ呆れて笑ってくれるかもしれない。

そうしたらラッキーだ。

そう思いながら彼女の方を振り向くと、どうだろう、さっきまでそこにいたはずなのにいなくなっている。


置いて行かれてしまった。


首をふりふり、辺りを見回すと向こうの方の廊下でコツコツと下駄の鳴る音がする。

姿は見えないけれど、向こうにいるに違いない。


僕はなるべく音を立てないように駆けて行き、隠れる必要もないのだが、そーっと壁から頭だけ覗かせて先の廊下を見やった。


その廊下は隣接する建物の陰になり、どうやら外から見えない位置らしい。

昼間なので暗くはないが、夜になれば視界を失うほど真っ暗闇になるだろう。


しかしそこにはメイさんはいなかった。

おかしいなと思い、ようく目を凝らし、そこで見つけたのが小さな金魚だった。


小指に乗るほどの小さな金魚。

すぐにはそれがメイさんだったとは分からなかったが、僕はその魚が空中で輪を描く度に大きさを増していくことに気がついた。

30回も回れば胸で抱えるほどの大きさに成り上り、予め開けておいたらしい窓に真っ直ぐに向かっていく。


それだけでも驚いたのだが、メイさんが窓をくぐると、潜り抜けた頭から突然巨大化したことには更に驚いた。

狭いところから抜け出した風船のように、ぷぅっとはち切れんばかりに肥大化した頭と、未だ廊下に取り残されている身体の大きさのアンバランスさに、僕はその光景をまじまじと見つめてしまった。


まるでマジックだ。

そしてそれはマジックのクライマックスの如く一瞬のことだったが、僕の目には消えない跡となった。

上等術師の、褒め称えるべき才を間近で見た瞬間だったから。



そしてその次にどうなったかと言うと、メイさんは巨躯を揺らして空へ泳ぎで僕はまたも廊下に取り残されたのである。


僕は走った。

走って、メイさんのあとを追いかけたのだ。

僕の身代わりになった大切な友のため、ではないけれど、僕の好奇心を満たすために。

見失いようもない天色あまいろの支配者は、国の正門と大噴水のちょうど真ん中あたりで旋回を始めた。

息も絶え絶えに辿り着くと、まさに渦潮の真ん中に足を踏み入れたようだった。


メイさんの下では、暮露さん、シヴィーさん、さおんちゃんが適度な距離を保ち、侵入者を追い詰めていた。

追い詰められた侵入者は、上等術師3人に囲まれ、更には金魚様まで上空に現れたとなると益々焦燥感に駆られているようだった。


そしてその真ん中の男の腕の中に、首根っこ掴まれた女の子がいた。

10歳くらいだろうか。

幼い顔立ちで泣きべそをかいて、「ぇね」を呼んでいる。


「オラァ!道開けろよ!!!

このクソガキぶっ殺しちまうぞ!!!」


侵入者たちは大声で威嚇して、なんとか逃げおおせようとしている。

力んだ男の腕に、女の子は苦しそうにもがいた。


「その子を離せば、命だけは助けてやろう。」

暮露さんは冷静を装ってそう言うが、今更、侵入者たちに冷静な判断を求めるのは無理といったところだ。


「お前らが大人しくしてやれば、こいつの助けてやるよ!!!」


そう叫んだ男は、女の子を力で自分の方を向かせ、両手で首を絞め、地面から持ち上げた。

女の子はいよいよ苦しそうにもがき、足をばたつかせて男の手に爪を立てた。


「オラァ!!!早くしろよ!!!」


男の怒声に、額に汗を滲ませた暮露さんとシヴィーさんが顔を見合わせている。


助けなきゃ。

僕が、助けなくては。


「止めろ!」


僕は叫んだ。

ぎゅっと拳に力を入れて。


戦ったことなんてない。

野良猫にだって勝てやしない。

こんな男たちに、僕が力で叶うわけがない。

でもあの女の子を助けなくては。

僕が気を引いているうちに、暮露さんやシヴィーさんが救出してくれるはず。

そうだ。

僕にできるのは、囮になることくらいだから。


多少殴られても、かすり傷程度に切られても、どうせ死にやしない。

そこまでひ弱ではないはずだ。

多分。

きっと。

おそらく。


僕は女の子めがけて駆けた。

シヴィーさんが僕の名を呼んでいる。

さおんちゃんの、制止しようと伸ばした手が、僕の裾を掠める。


女の子が僕を横目で見ている。

もう意識が遠くなりかけている瞳だ。

早く。早くあの子を助けなければ。


あと5m。

手を伸ばしたところで、暮露さんが僕を捕らえた。


「おやめ下さいませ。」


その声が耳元で聞こえた、ちょうどその時、今尚もがく女の子の服の模様が、そう、ただの模様であったはずの金魚がギラリと目を光らせた。

そしてワンピースのお腹側と背中側をぐるりと回ったのだ。


その後はアッと言う間もない。

ほつれた糸のようにスルスルと60cmほどもある金魚が空中に出てきたかと思うと、女の子を捉えていた男の腕を噛みちぎった。









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