多分、とてもまずい状況。
ジクリと針が刺さる覚悟をした。
けれど、何故だか巨大蜘蛛は動かない。
僕の身体に4本くらいの長い長い脚を巻きつけたまま、僕の頭上で固まっている。
「リニスちゃん、その人はだめー。」
ユヌちゃんの声がして、ゆっくりと片目を開けてみると、ユヌちゃんのベッドの向こうに、女の子が立っていた。
僕を見て、真っ直ぐに僕の方へ右手を伸ばしている。
術師だ。
「そう。」
リニスちゃんと呼ばれた女の子は腕を下ろしながら言った。
「蜘蛛神様、もう大丈夫。
ありがとう。」
すると、僕を掴んで、食べてしまうまで離さんとしていた蜘蛛が脚を緩め、見上げると天井のタイルの隙間にうすーくなって消えていった。
人の大きさもあろうかという黒い蜘蛛だった。
あー、びっくりした、と深呼吸をすると、ユヌちゃんがこっちこっちと手招きをした。
「ヤッシーだと思わなかったからさー、ごめんねー。
この子、あたしの友達。リニスちゃん。
リニスちゃん、この人ヤッシー。」
「よろしく。」
リニスちゃんが手を差し出した。
メイさん達とは打って変わって、化粧っ気のない可愛らしい少女だった。
面白いのはその髪型で、左側はボブなのに、右側はロングヘアだ。
後ろ側はどうなっているんだろうと思いながら、その手を重ねた。
「シヴィーは?」
ユヌちゃんが問う。
「侵」入者が、
と言いかけて、リニスちゃんを見つめる。
そういえば、見たことない顔だ。
1ヶ月暇つぶしにこの国を散歩をし続けた僕が知らない顔。
「…水、してて、直しに行ったよ。」
「浸水?ふーん、メナのせいかな。
ま、いいや。
リニスちゃん、お話の続き!」
「あぁ、そうそう。
その森の先には大きな枝と葉っぱの山があったの。」
リニスちゃんは椅子に座って話し始め、そして大きく手を広げ、お山を作った。
ユヌちゃんはその手を辿って、天井まで見上げる。
どうやら、リニスちゃんは悪い人ではないようだ。
「その真ん中にね、あったの。」
「何が!?」
「なんだと思う?
ヒント!危険なものではありません!」
「えー!
うーんとね、宝石!おっきいやつ!」
「ぶっぶー!
ヒント2!丸い!」
「鏡!」
「残念!」
「えー、ヤッシーはなんだと思う?」
ユヌちゃんのその声をきっかけに、ふたりが同時に僕の方を見た。
僕はじーっとリニスちゃんを見ていたので、彼女と目が合ってしまった。
いけないいけない。
「卵、かな?」
「なんで?」
不服そうなユヌちゃんが、唇を尖らせて理由をせがむ。
「だって、枝と葉っぱで、森の中でしょ?
当たっちゃった?」
「当たりー。ユヌちゃん、残念だったね。
卵ふたつ。
大鷲の巣だったの。」
「へー。
大鷲ってどんなの?」
「大きな肉食の鳥よ。」
リニスちゃんが答えた。
話を聞いていると、ユヌちゃんとリニスちゃんはそれなりに古い友達らしかった。
でも、おかしいなと思って、僕はシヴィーさんの言葉を思い出してみる。
『ユヌ様はお部屋の外に出られないので、お友達がいらっしゃらないんです。』
そうだ。
そう言っていた。
だから『仲良くして差し上げて下さい』と言われたのだった。
「リニスちゃんて、どこに住んでるの?
ここの近く?」
ふたりの話が一息ついたところで、僕はリニスちゃんに聞いた。
聞いておくべきだと思った。
この国の安全を司る、メイさんの夫(になる予定の者)として。
「私はこの国の人間じゃないの。
一時入国してるのよ。」
「リニスちゃんは私の昔からのお友達なんだよ〜。」
ユヌちゃんはニコニコとしているが、リニスちゃんは、意味ありげな瞳で僕を見つめてきた。
質問の意図を探るような視線だ。
「一時入国なんだ。
親の商売の都合とか?」
僕は出来る限りなんでもない風を装って、笑顔で聞いてみた。
「ううん。」
リニスちゃんも少しだけ微笑んで答える。
なんだろう。
とても怖い子だ。
全てを見透かしているような瞳で僕を見つめている。
「人探し。」
リニスちゃんはそれだけ言った。
僕を見つめたまま。
黒い目に、『それだけじゃないけどね』と意味ありげな何かを映して。
「人探し…?」
「そう。ミヤギって人を……、…。
…やば。」
リニスちゃんが突然立ち上がった。
「えー!」
ユヌちゃんが甘えたような声で引き止めようとする。
咄嗟にリニスちゃんの服の裾を掴んだ。
「もう行っちゃうのー!やだー!」
「しー。また今度来るからね。」
「やだやだ!!」
「今度は飛び切りのお土産持ってきてあげるから。ね。」
リニスちゃんの言葉に、ユヌちゃんの掴む力が少し抜けた瞬間、リニスちゃんは『ばいばい』の言葉を吐息に残し、瞬きをした一瞬の間に跡形もなく消え去っていた。
そして、消えたと認識した瞬間。
コンコン。
とノック音がして、僕たちは扉の方を振り返る。
「ユヌ、入るぞ。」
「メイ姉!」
ユヌちゃんが言い当てた通り、入ってきたのはメイさんだった。
いつもの通り、胸元を広く着崩した着物に黄色い帯を締めた格好で佇んでいる。
キセルを持っていないだけ、威圧感が減ったようだが、今日は緊迫感があった。
「誰かいたのか?」
開口一番、メイさんはそう言った。
部屋中を警戒しているように見える。
「誰もいないよ〜」
驚くべきことに、ユヌちゃんはいけしゃあしゃあと笑顔でそう言い放った。
しかし、メイさんは、お見通しだよという風に微笑んで言った。
「ユヌ、ここに術師がいたろう。
「いなかったよ。
ヤッシーのこと言ってるなら、まだここにいるけど。」
そう言ってユヌちゃんは僕を指差したが、メイさんは僕を見もしないで答えた。
「ヤシロ殿は術師ではない。
誰かいただろう。幼い、未熟な術師が。
怒らないから、教えてごらん。」
メイさんは部屋に入ると同時に後ろを振り返り、左手で2人の配下を何やら合図を出して離散させた。
そして右手の方はシヴィーさんに向け、僕の方を横目で見やりながら、空を払った。
一瞬且つ無言の出来事だったので、何が起こったのか分からなかったが、シヴィーさんがスススッと近寄ってきて、僕の腕をまるで恋人のように掴んで、部屋の外へ連れ出した。
「ヤシロ様、誰がいたんですか?」
シヴィーさんは僕をぐいと掴んだまま、顔と顔を寄せ、小声で聞いてきた。
仕事をしている時の生真面目な表情と、プライベートで僕と一緒にいる時の穏やかな表情の、ちょうど中間くらいの表情をしていた。
「ユヌちゃんが誰もいないって言ったでしょう。」
僕は言い訳をするようにユヌちゃんを引き合いに出し、言い繕おうとしたが、シヴィーさんはまるっきり真剣な面持ちで首を横に振った。
「術師には、術師の存在が分かるんですよ。
メイさんは特にその感覚に長けています。」
「だから、なんです?」
「嘘はバレるし、ばれた嘘は関係を悪化させるだけです。
本当のことを言うなら早めに」
バッとシヴィーさんが離れるので、今度は何事かと思えば、メイさんだ。
ユヌちゃんはもうバラしてしまったのだろうかと思っていると、メイさんは僕にぐいと近寄ってきて、あまりの近さに僕が後退っても、それでも尚、メイさんはずんずん近づいてきて、遂に僕は廊下の壁にぶつかってしまった。
メイさんは、僕の顔のもうすぐそこに左手をついて、僕の額に唇を寄せた。
僕が少し身動きをしたら触れてしまいそうなほど、僕とメイさんの距離は近くなっていた。
「誰がいたのか伺いたいのだが?」
身震いしそうな程近くに、彼女を感じる。
息をすれば、彼女の肌に吐息がかかりそうなほど。
少し甘い香りがして、僕を魅了しようとする。
あまりにも魅力的な彼女は、僕から一瞬たりとも目を離さなかった。
けれど、状況はそういうことではない。
僕は出来る限り、なんでもない風を装いながら微笑んだ。
「ユヌちゃんもいないって言ったじゃないですか。」
「その者を、ユヌは隠しているが、わたしらがずっと黙認していた。
存在を知らないわけではない。」
「なら今回もそれで良いじゃないですか。」
メイさんの肩越しにシヴィーさんが眉を寄せているのが見える。
僕が口答えしたのが、そんなに嫌なのだろうか。
「この度は武器屋が襲撃された。
ユヌが何もされてはおらぬと断言できませぬ。」
メイさんはより一層僕に唇を寄せながら続けた。
「顔と名が分かれば、捕らえた際にも対処のしようがあります。
されどそれも分からぬとなれば、
それとも、その密会者を庇おうとなさるおつもりで?」
「…。」
「左様か。」
メイさんは僕をじっと見つめたまま、今までに聞いたどんな言葉よりも冷たく言い放ち、僕から離れた。
「時間の無駄だ。」
着物の裾を翻し、メイさんはシヴィーさんの方へ向いてしまった。
「シヴィー、お前は兄上の元へ戻れ。」
メイさんは気分を害したという風に語気強くシヴィーさんに指示をした。
もう、僕の方を見てくれはしない。
見損なったと言われているようで辛かった。
メイさんに失望されたくないただ一心で、僕はメイさんのが腕を掴んだ。
キセルと筆のためだけの彼女の腕は、白く細く、手のひらに骨の形を感じた。
「リニスという女の子でした。」
ごめんなさいと心の中で呟きながら、僕は白状する。
リニスちゃんと、メイさんと、ふたりへの罪悪感が目の前をぐるぐるしている。
17,8のと続けようとしたところで、メイさんは苛立ちを隠す様子もなく、舌打ちをした。
「またあの小娘か。」
「ご存知なのですか?」
メイさんは僕を見下ろし、まるで僕の目の奥にリニスちゃんを見ようとしているかのように、無慈悲に言った。
「あの女は奴隷だ。」
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