再会は嬉しくも。
扉を開けると、赤いレースが何層にもわたって天井から吊り下げられていた。
視界が真っ赤だ。
扉を開けただけでは、メイさんの姿を見つけることができない。
シヴィーさんについて、赤いレースを暖簾のように掻き分けながら進むと、2メートルほど歩いてようやく視界が開けた。
正面の机の奥に彼女はいた。
大きな椅子にどっかりと深く腰掛け、着崩れることも気にしない様子で、左手にはキセルを持ち、右手は筆を置くところだった。
しかし、この部屋で驚くべきは彼女ではなさそうだ。
勿論、立っている時よりも高さがない分多少はその威圧感も薄れるものの、やはりその瞳に近寄りがたいオーラを感じさせるのだが、何よりはその水槽だろう。
部屋の壁という壁がガラス張りになり、水槽の役割を担っている。
そしてそこには、そう、金魚様がいた。
青色の水の中を、危険信号のような赤い巨躯を優雅に揺らしている。
尾ビレや背ビレはその動きにタイムラグが生じるほど長い。
水槽が小さいのではと思わせるほどに。
僕がその有様に圧倒されているうちに、シヴィーさんが少しばかり話をしてくれたらしい。
「何用か。」
と、突然彼女が尋ねてきた。
不意をつかれた僕は、金魚様から視線を移す。
少しばかし禍々しいこの部屋で見ても、彼女は美しかった。
真っ赤な唇がキセルを吸い寄せている。
「ヤシロと申します。」
「存じておる。」
「メイさんの婿候補なんです。」
「存じておる。
わたくしに何用がお有りかと伺うておるのだ。」
僕は一瞬、そのにべも無い物言いに唖然としてしまったが、すぐに笑顔で取り繕うことができた。
心の内で、手短に、というシヴィーさんの言葉を思い出していた。
「実は、今兄とセネさんとお話をされてまして。
さっきちょっと揉めかけたんです。」
「…それで?」
「お父君暗殺についてなのですが…」
そう言った途端、殆ど片手間にしか聞いていなかったメイさんは、顔を上げて僕を見た。
「それがどうなさった?」
「兄がお父上の殺害にセネさんが絡んでいると疑っていて、それで貴女の口からアリバイや否定等すれば、兄も信じると思うのです。」
一気に言い切った僕をしばらく見つめてから、メイさんはため息をついて筆をとった。
そんなことか、とでも言いたげに。
「兄は一切関わっておりませぬ。」
「それを兄の前で言ってもらえませんか?
身内に暗殺者がいるという誤解が解けなければ、破談になりそうなのです。」
「それは致しかねる。」
「どうしてですか?」
とりつく島もない様子に、僕は少し心が引けるのを感じた。
この人は何を言ってもダメな人なんじゃないかと思い始めていた。
自分に自信があり。
自分が正しく。
自分に反論するなどまるで愚行だと、本気で思っている人なんじゃないだろうかと思った。
僕の父と同じように。
メイさんは筆を置くそぶりも、その手を止める素振りもなく、手紙だか書状だかを書き続ける。
しなやかな動きに、状況が違えば見惚れていたかもしれない。
「兄が関わったということに関して、その一切を否定致します。
しかし、身内が犯人だということは否定できかねる。」
メイさんは淡々と言いながら、その文を丸めて括り、右手でふいと隣に差し出した。
何を言って何をしているのか分からなかったが、突然メイさんの隣に小さい女の子が現れ、何をしているのかは解決した。
10歳くらいだろうか。
燕尾服のようなカッチリとした服を着ており、その前面には面積を存分に使って金魚が描かれている。
正直、また金魚かと思うところもなくはない。
「伝書鳩に括っておいで。」
メイさんがそう言うと、その子は、
「はい!」と元気に返事をして、トコトコと部屋を出て行った。
退出際、メイさんに一礼をした時、燕尾服の金魚が尾ビレを動かしたように見えた。
メイさんは、それを見送り、ようやく僕の方に視線を移して、僕の足の先から頭の先までじっと見つめられた。
そしてキセルに口付けをして、ふーっと煙を吐き言った。
「父を殺したのは私だ。」
呆然とする僕とは違い、メイさんは何事もなかったかのように、白紙を広げて筆をとった。
「それで、その殺人犯と結ばれるのはお嫌なのだろう?
嫌なら嫌と、心配性な兄上殿に仰っていただければ良い。」
「破談になっても良いと?」
「後々バレるよりは今話したほうが良かろう。
私の兄上は私が非難されるのを心配なさるあまりに隠しているが、生憎、この程度のことで傷つく繊細さは持ち合わせておらぬ。」
「…色々、あったんでしょうね。
ご自分の父君を殺めてしまうなんて。」
メイさんは筆をするすると進め、まるで僕などいないかのように振舞っていた。
きっと、聞き飽きた言葉なのだろう。
「じゃあ、そのことは僕からその内、兄に話してみます。
僕、兄さんを説得してみますね。
メイさんのことは、好きになる努力をします。
僕のこと、ヤシロって呼んでください。」
メイさんは筆を止めた。
少し上目遣いに僕を見る。
訝しんでいるようだ。
そして椅子をぐいと引いて、立ち上がった。
気だるそうに机を回り込むと、横に置いてある、おそらくは客人用のソファにどかりと腰をかけ、足を組み、キセルを持つ左腕の肘を背もたれに載せた。
椅子に座っている時よりも、着物がはだけて見えた。
大胆で、威圧的。
絶対的な自信が窺える。
「意図が図りかねるな。
破談にしたければすれば良い。
今更、私に媚びを売る必要などあるまい。」
「別に僕は媚を売ろうってわけではないです。」
「では、ヤシロ殿が私に、私がヤシロ殿に好意を抱くことに何の意味がある?」
「だって、夫婦になるのですよ。」
その答えにメイさんは鼻で笑って言う。
「お戯れを。
紙と印さえあれば、婚姻は結べる。
そこに恋愛感情があるかないかは関係ない。」
「僕は例え面識のない婚姻でも、愛情を育むことはできると思っています。」
「育む必要がないと言うておる。」
ぴしゃりとそう言ったメイさんは、苛立ちよりも冷淡さが主張しているように見えた。
多分、本当に、心からそう思っているのだ。
温もりの感じられない人だから。
「何故です?
だって妻と夫ですよ。
そうあるべきではありませんか?」
「夫婦は愛を持つべきだとは、ご高尚でいらっしゃるな。
全ての女と男に聞かせてやりたい話だ。」
「随分と否定的ですね。
貴女は愛することにトラウマでもおありですか?」
「トラウマ?
私にそのような感情はない。
ただ、愛するべきものに優先順位を付けているだけだ。
第一に家族。
第二にお国。
第三は部下。
それ以下はない。」
「僕は家族になるのです。」
家族、のところを僕は無意識に強く言ってしまった。
まるで懇願するように。
しかしメイさんは御構い無しに、問答無用に応えた。
「お前は他所者にすぎん。
重要なのは婚姻関係による強い関係性の存続であって、その者の名前や感情ではない。
そのことを見誤ってもらっては困る。」
「貴女も政略結婚の犠牲になる者でしょう。」
「かようにちっぽけな犠牲ならば幾らでもくれてやる。
はっきりさせておこう。
私は例えそなたと籍を入れたとして、馴れ合うつもりは一切ない。
シヴィー、お連れしろ。
仕事の邪魔だ。」
メイさんがキセルを振ると、シヴィーさんが僕の肩を掴んだ。
シヴィーさんは礼儀正しいがそれは忠実さも示していて、戦闘経験のない僕などが少しばかし抵抗しても、なす術もないといったところだった。
強引だが決して怪我などしないように部屋から出されて、一呼吸おいて、メイさんの顔を思い出してみる。
メイさんが父親を殺したなんて。
でも、彼女なら本当にやりかねないし、なんだか、簡単に想像できる。
兄さんは猛反対するだろうなと思った。
規則ごとには厳しい人だから。
でも、別に僕は気にしない。
メイさんが誰を殺していようと、それはメイさんの事情であって、僕や僕の兄が口を挟むべきことではないんだろうし。
それにしても。
この婚姻、上手くいかないんじゃないかという思いが大きくなった。
だって、あの人は僕と話し合い、微笑みながら卓を囲む気は毛頭ない。
別に良いけど。
ちょっと残念だなぁと思った。
そして、"残念だなと思って"、ふと気づいた。
僕は見返りを求めているのだと。
僕はただ、愛して欲しいだけなのだと。
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