第2話 帰宅

重い腰をベンチから引き剥がすようにして立ち上がると楽器ケースを肩に掛け、そろそろと歩き出した。

駅から家までは歩いて15分ぐらいだ。バスもあるが待ち時間を考慮すると歩いてもバスに乗っても家への到着時間はさして変わりは無い。はっきりしたメリットが感じられないため、大抵は歩く。日常生活の中で通勤時に歩く以外の運動は全く行っていないため、バスにはなるべく乗らない。金の節約にもなる。

15分というと近いようで遠く、遠いようで近い中途半端な距離だ。自分の人生のように中途半端だ。

そう思うと鼻の奥の方がツンとし目頭がじんわりしてくる。歩きながら泣くのは本位では無いため鼻をぐすぐす啜る。

身体の中のどこかが、すうっと頼りなくなり出血したのが分かる。体を動かしたからだ。いつもの事だが自分の意志とは全く関係無く、止めようとしても止まらない出血には驚きを感じてしまう。自分の身体なのに自分の意志通りにならない、全くもっての驚愕であり純粋な驚き以外のなにものでもない。

駅から家までの道は住宅街で以外と人通りが少ない。街灯も思ったより少なめだ。5分ぐらい歩くと小学校だか中学校が右側に有り白いブロック塀が暫く続き、その後金網になり、校庭が見える。いつも思うが、校舎の明かりが灯っていない窓は骸骨の眼孔のように見える。白塗りの建物にぽっかり空いた虚ろな穴だ。街灯の白々しい光が余計に白黒のコントラストを際立たせている。校庭も白っぽく浮き上がり今自分のいる空間とは別の次元にある空間のように見える。

更に歩くと親水公園に差し掛かる。昔の用水路を整備して公園にしたものだ。夏などは小学生ぐらいの男の子がたもを持ってしきりに用水路を覗き込む姿を目にする。結構、ザリガニがいるらしい。指をさしたり、あそこあそこと言ったりして賑やかだ。近くで母親達もお喋りしていたりする。眩しくかつ和やかな風景だ。

今は街灯ね明かりに夜色に染まった黒々と見える水がごぼごぼと奇妙な音を立てて流れてゆく。

橋を渡ろうと顔を上げると向こう岸に警官が立っているのが見えた。橋と言っても5、6歩足らずで渡りきれてしまう橋とは言えないような代物だ。そんな間近な物を見逃していたのに驚いたが、更に驚く事にやや高齢と思える、65〜70歳ぐらいの男性が道路にうつ伏せに倒れているでは無いか。その傍らには配偶者と思える女性がひざまづいて悲鳴のような半泣きの声で「しっかり」を繰り返したいる。

駆け寄ろとも思うが既に警官が付き添っている。警官が辺りを見回しているのは連絡した救急車の車体を探しているのだろう。この場面で出来る事はなにも無い。心がしくしくと痛んだが声をかけるのも無意味だろう。

森閑とした心を抱えたまま、地面の二人にも警官にも目をやらず、側を通り過ぎた。出来る事は何も無いのだ。本当に。

橋を渡って数分歩くとやや広い通りにぶつかる。

その通りを渡った所に建っているマンションが自宅だ。

とぼとぼのろのろとマンションの入り口に向かう。

エンタランスを入ると掲示板を取り敢えず見る。マンション内のお知らせを把握していないと怒られるからだ。ざっと目を通すまでも無い。新しいお知らせは無い。

溜息をついてエレベーターのボタンを押す。

1Fに止まっていたらしく、エレベーター内の明かりがチカチカと瞬いて点いた。

これも白々しい。照らし出された庫内は別空間のようだ。その中に入った自分は白っぽく死人のようにみえるかもしれない。

微かな機械音を立てエレベーターが上昇を始める。

自宅は9Fだが、あっと言う間に着く。

一瞬、エレベーターから下りようかどうしようか迷うが、他に行く所が無いと思い至り、足を踏み出す。

背後でエレベーターの扉が閉まりマンションの廊下に一人取り残された。廊下から家の扉までほんの数歩だ。

その数歩で途方にくれた。

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