6月の前の雨
Kmaimai@文フリ東京ア-25
第1話 駅のホーム
この時間、この場所に来ると逡巡してしまう。
先週もそうだった。先々週もそうだった。もしかしたらその前の週も、いや、もっと前の週からだったかもしれない。
日は既に暮れて暗い。皆、足早に通り過ぎ、家路へと加速度的に急いでいるように見える。
もちろん、駅のホームにあるベンチにちんまり腰掛けている自分になんか目もくれない。
皆、ほこほこ、もこもこ暖かそうな服装をしている。勿論、冬だからだ。首にマフラー、手に手袋…。
手袋、良いなぁ…、ふわっふわっ、暖かそうだ。
膝の上の楽器ケースを握りしめた手は感覚が無くなりそうに冷たい。剥き出しの手は寒さに曝されて白っぽい紫となっており、爪部分を含めた指先は蝋色だ。本当は蝋で出来ているのかもしれない。おまけに指は痺れてしまっており、しっかり握っているはずの楽器ケースを落としてしまいそうな、ゾッとする感覚に襲われる。
手袋は「絶対にしてはいけない」と家人から厳しく言い渡されている。靴下を履いて寝るのも禁止されている。謂く「体の末端を温めてしまうと脳が体全体が暖まったと感違いし体を温めようとしなくなる」と言う理屈らしい。如何にもな感じの理屈だ。
「そうは言っても」と心の中で呟く。
「そうは言っても手や指は冷たいままで更に冷たくなるし、特に体も暖かくなんかなんないし、指先から体全体に冷えが侵攻する気がする」
半眼で相手の顔を下から隙見しながら心の呟きはいつも止まらない。
たまらなく寒いと思いながら定まらない思考があちこちを彷徨い、そんなくだらない手袋の事なんかに思考が停まってしまう。
ホームのベンチに座り続けながら次々に現状とはあまり関係の無い所に思考が停まり進み当て所なく飛び回る。
時間はどんどん過ぎて行く。電車に飛び込むのでなければ早く家に帰らなければいけない。遅くなると怒鳴られる事必至だ。正確にいうと帰り道に時間がかかり過ぎると怒られるのだ。怒鳴り声が耳に蘇る。
「いったい、何処に寄り道してたんだ、ぐずぐずしやがって。夕飯もまだなんだぞ。レッスンなんか辞めてしまえ」
怒りに煮えたぎった顔が迫ってくる。
ベンチに腰掛けたまま逡巡は続く。他に帰る所が無いのだから仕方が無いのだ。家に帰るとか電車に飛び込むのか二者択一だ。電車に飛び込んだとしたら、このConcept TTはどうなってしまうのか。もちろん、一緒に飛び込めばただの使えない金属のゴミとなってしまう。ベンチに置き去りにしたら誰かが持って行くのか家人の手に渡るのか。Concept TTには自然に壊れるまでこの世に存在して欲しい。
ああ、また取り留めの無い考えに彷徨い出してしまった。そんな事に答えは無い。無いのだ。
強張った手で楽器ケースの上から楽器を撫でる。
この中にはConcept TTが寝んでいるのだ。この楽器を何処かにやる事は出来ない。生産が中止されてしまった今となっては本当に何処かにやる事は出来ない。この楽器の同族が生産されることは将来に向かってもう無いのだ。
また、堂々巡りになってしまう。
本当に帰らなければいけない。もう、20:00近い。
池袋の教室を出てから1時間近く経ってしまってる。
早く早くと思いながらも中々ベンチから腰があがるものでは無い。飛び込むか止めるのか…
自分の勇気の無さに悪態をつきながら、今日は電車に飛び込まないと決めると、ほっとした。そしてそんな生にしがみつく自分に嫌悪を感じる。
ホームを大勢の人達が行き交っているのに誰一人知り合いはいないのだ。何という驚愕すべき事なのだろう。果たして自分は今、存在しているのか疑問に思えてくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます