3ー3 こんな遠出初めてだわ

 会話が始まった瞬間、片山静香は怯えに似た緊張に体を震わせた。

 夫も母も祖父母も、父親がした事をお前が気にする必要はないと言ってくれている。

 だが自分は、その父親がやってきた仕事、人の気持ちを踏みにじって手に入れてきた金で育てられた。それは紛れもない事実なのだ。

「はい、最近そういう夢を見てるらしいって聞きまして……」

 そんな自分が今の夫と出会い、愛され、このまま幸せになっていいものかと結婚には随分悩んだ。

 その時は彼の「お前と結婚出来ないなら俺は一生結婚しない。俺を幸せにしてくれるのはお前だけなんだ」という言葉に押されて結婚を決めた。

 自分にも幸せに出来る人がいる。それは素直に嬉しかった。

「……いえ、実はその話を教えてくれたのが……」

 でも、何がどうなろうと、今も回復されない名誉に苦しんでいる人がいる。

「……はい……その娘さんです……」

 あの男が侮辱してきた人達全員を把握しているわけでも、その全員に何か出来るわけでもないし、何より「力になりたい」なんて自分が安心したいだけの独り善がりでしかないのは分かっている。

「……はい……はい……」

 それでも、自分は。

「刑事さん」

「……っ!……はい……!」

 ふいに、スマホの下部を手で押えながら銘作が声をかけてきた。

「先方は、『こちらの事は気になさらないでください』っておっしゃってますけど……」

 そう言われるんじゃないかとは思っていた。

 あの旦那さんはとても愛情深く、自分の妻子を殺した元少年に対してすら、三度目の裁判中のインタビューに『あんな真実から目を逸らさせるような戦術を行って、少年が自分の罪と向き合う事が出来なくなるのではないかと心配になります』とその心の在り方を案ずる回答をする程の人だった。

 だから、自分に対しても気を使うような発言をさせてしまうのではないかという想定は出来ていた。

 でも。

「……もし……」

 握った手に力が入る。

 次の瞬間、強張った肩に大きな手が回された。

 皮膚の厚いごつごつとした夫の手から、支えられているという力を強く感じる事が出来た。

「……もし……私と顔を会わせるのがお嫌でなければ……」

 自分は、弱い。

「……会って……いただけないかと……」

 あちらは自分の顔なんて見たくないかもしれないのに、結局自分は、自分が安心したいという個人的な都合を優先させてしまう。

「……だそうです……はい……」

 銘作は自分の言葉をそのまま伝えてくれた。

「…………」

 きっぱり突き放してくれていい。

 自分は正直に言ってしまったのだから、貴方もどうか正直に答えてほしい。

「…………」

 ふいに、長い沈黙が訪れた。

 銘作は相変わらず耳元の電話に意識をやっているようだったが、相槌も打たずただじっとしている。

「…………」

 もしかして、悩ませてしまったのだろうか。

 気を使ったりはせず、正直に答えて下さっていいのに。

「……あの……」

「あ、はい……分かりました」

 その旨を伝えようとしたのとほぼ同時に、銘作が口を開いた。

 続けて、またスマホを押さえてこちらに声をかけてきた。

「先方はしばらく都合つかなくてこっちまでは来れないそうなんで、遠いですけど□□市まで来れますか?だそうです」

「…………!」

 驚きや色々な感情が急に込み上げて来て、思わず息が詰まってしまった。

 返事を返さねばと慌てて声を絞り出す。

「……も……勿論行きます……!最初からそちらにお伺いするつもりでしたので……!」

 電話越しに先方にも聞こえてしまうのではないかというような声が出てしまった。

 それでも銘作はきちんとした言葉で電話の向こうに返してくれた。

「いつなら行けます?俺は今ん所いつでも空いてますけど」

 具体的な日程を決める段階にまで話も進んだようだった。

「次の土日で……大丈夫でしょうか……?その日は必ず休みは取りますんで……!」

 悪夢退治が目的なので、どうしても一晩はかかってしまうだろうと想定していた。

「……だそうです……あ、そうですか、分かりました……その日で大丈夫だそうです」

「――――!」

 こちらの言葉を伝えてから間も無く、銘作が先方からの承諾の返事を寄越してくれて、安心と緊張に同時に包まれるような感覚を覚えた。

 それから時間や待ち合わせ方法など細かい話を詰めた後、スマホの通話終了ボタンが押された。

 通話が切られた瞬間、自分の肩から力が抜けたのが分かった。

「夜行の高速バスで行くから前の日、金曜の夜にバスターミナルから出発するからな?」

 重樹が確認するように銘作に語りかける。

 刑事という仕事はなかなか纏まった休みが取れないので、だいぶ前もって"この日だけは何とか"という日を選んで休みを取り、既にそれなりの予定を組み立てていた。

「バスかー……まあそれが一番安そうなのはいいけど……それでも□□市までって往復でいくらくらいするんすかね?」

「つまんねー事聞くな。こっちが依頼したんだからお前の運賃くらいこっちが払うに決まってんだろ」

「あ、そうなんすか?遠いのにありがとうございます」

「こう見えても社長だからな、それくらいの金どうってこたねえよ」

「社長さん!?いやいやそれはどうもどうも失礼申し上げました!」

 銘作が急にぺこぺこし出した。

「……分かりやすいなてめえ……言っとくがうちは小さな町工場って奴だぞ?」

「あー……」

 今度は目を細めて何度か小さく頷いて見せた。

「……てめえが相手によって態度を変える奴だって事はよーく分かった」

「ちょ……ちょっと……」

 話の本筋とは全く関係の無い所で思わぬ溝が生まれてしまったので、何とか話を変えようと静香は慌てて頭を回転させる事となった。

「えっと……その土日の次の日が、瑠璃ちゃんがもう一度脚の手術をする日って決まったんですよ。その日は瑠璃ちゃんについていたいと思ってたんで、三日分纏めて休みを取れればとも思ってその日にしたんですけど……」

「……あ、そういやそんな話聞いたな。その手術が上手くいけばリハビリに入れるとか……」

「そうなんですよ、順調にいけば歩けるようになるかもしれないんです。由芽乃さんも行きますか?」

「そっすね……」

 銘作は目線を上の方にやって、何か思い浮かべながら話している様子だった。

「よし、話が纏まった所で次は何でてめえが瑠璃ちゃんを呼び捨てにしてたのか聞かせてもらおうか」

「は……え……!?」

 話を変えはしたものの、新しい溝が生まれるきっかけになりかねない方向に行ってしまった。

「あ、それは是非聞かせてください」

 とはいえ、そこは自分も気になっていたので一緒に詰問する姿勢を取った。

「由芽乃さんも瑠璃ちゃんの所に通って下さってるというのは瑠璃ちゃんから聞いてますけど……」

「てめえまさか変な事してねえだろうな?」

「へ、変な事って何すか!?あんな怪我してる相手に変な事するわけねえでしょ!?呼び捨てにしたのは……なんかノリというかその場の流れというか……ついぽろっと出ちまった呼び方をそのまま続けちまった感じで……」

「どんな場の流れでぽろっと出るんだよ?」

「あ……いや別に……変な状況では全然無いっすよ……!?」

 狼狽えているように見えたので、追及の手は緩めない事にした。



 それから約一週間後、金曜日の夜に三人で高速バスに乗り込み、何時間も掛けて翌日□□市内の駅に隣接するバスターミナルへと到着した。

「……あ~~やっと着いたか~~……」

 バスから降りると、銘作は鞄を肩に掛けたままの姿勢で器用に伸びをした。

「いやお前ずっと寝てただろ」

「ぴくりとも動かないから正直ちょっと心配になっちゃいましたよ……でも降りる時になるとまるで最初から寝てなかったみたいにすっと起きるから……あれは寝てたんですか……?」

「ぐっすり寝てましたよ。それでもこの距離はさすがに疲れますって」

 言いながら首や肩を回す。

「まあいい、行くぞ」

 重樹がそう促し、三人で駅のタクシー乗り場へと向かった。

 初めは先方が駅まで迎えに行くと言ってくれたのだが、そんな面倒をかけたくはなかったのでこちらから向かうと説得して、タクシーで自宅まで行く事になっていた。

 三人でタクシーに乗り込み、助手席に座った銘作が、以前に貰っていた名刺を取り出して書かれている住所を運転手に指し示している様子を、静香は後部座席からじっと見つめていた。

「…………」

 ここまで来たのだ。

 そう思うと、自分で望んで来たというのに膝の上の手が震えてくる。

 バスの中でも、どんな顔をして会えばいいのか、まず何から話すべきかなどずっと考えていた。

 それでもこうして近づいていくと、時間をかけて考えた事もみるみる緊張に押し流されてしまうかのように纏まりが無くなっていってしまう。

 こんな状態でちゃんと話が出来るのだろうか。

 もし先方の気分を害してしまったら。

「…………っ」

 そんな自分の気持ちを読んだかのように、震えていた手に隣から伸ばされた手が重ねられた。

「大丈夫だ」

 小さな声でそう言うと、夫は自分の半分程の大きさしかない手を優しく握ってくれた。

「あ、あそこかな?」

「そうですね」

 ふいに銘作と運転手が口を開いた。

 前に目をやると、いくつかの建物の向こうにコンクリートの壁に覆われた五階立てくらいの集合住宅が立っているのが見えた。

「――――!」

 当時事件の現場になってしまった家からは引っ越したらしいという噂は聞いていた。今はあそこがあの人の居住地なのか。

 建物と建物の間を通り抜けて、タクシーはどんどん目的地に近づいていく。

「…………」

 夫に握られた手の内側が汗ばんでいくのが分かる。

「……あ、すいませんあそこで止めてください」

 そんな事を気にしていると、前を見ていた銘作が急にある一点を指差して声を上げた。

 その指の示す先には、一人の男性が立っていた。

「――――っ!」

 塀の前に立っていたその人は、記憶の中よりも歳を重ねた姿になっていた。

 当時のニュースでは、鋭い怒りをマスコミに訴える厳しい顔や、妻子を思い涙する顔を見る事がほとんどだったが、今のその人は柔和な笑顔を浮かべた優しそうな普通の男性だった。

 その人の少し手前でタクシーは停まり、代金を払っている間に先に降りた銘作が挨拶をしていた。

「…………っ」

 震える手を押さえながら、急いで支払いを済ませてそれに続こうとする。

「――っあ、すいません――!」

 焦って小銭を落としてしまった。

 別の小銭を出している間に夫が拾ってくれ、なんとか会計を終えて外に出た。

「……あ、どうも、初めまして」

「――――っ」

 タクシーから飛び出すように出ていくと、こちらの姿を目で捉えた男性――光石陽二氏は微笑んで挨拶をしてくれた。

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悪夢退治屋 由芽乃銘作 水神竜美 @tattyi

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