2ー3 おいおいなんてこった……

「すいません、お嬢さんのお名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「……はい……斉藤ココナッツです……」

「…………はい?」

「心に夏と書いてココナッツです……普段はココって呼んでました」

 だったらココでいいだろうよ!まだその方がマシだろ!早く死んじゃったけど子供が歳とってからの事まで考えろよマジで!とすぐ喉元まで出てきていたが懸命に堪えた。自分偉いと思う。



 結局銘作が依頼人、斉藤元花もとかの一人暮らしの部屋に赴く事になった。

 昼夜問わず眠ると出てくる時はいつでも娘が出てくるとの事だったが、斉藤もいつでも眠れるわけではないので夜まで待ってほしいと言われた。

 だが斉藤は今から銘作を自分の部屋に案内すると言い出したのでそれはさすがに断り、アパートの場所を教えてもらってから一旦お帰りいただく事にした。

「……は~……無駄に疲れた」

 とりあえず昼食を済ませてしまってから、リビング部分のテーブルに起きっぱなしだったスマホを手に取った。

 依頼人に一旦お帰りいただいた理由はもう一つある。

「斉藤……心に……夏……だったよな……」

 娘が死んだ件はニュースになっていたとの事だったので、一度詳しく調べてみようと思っていた。

「……え……?」

 検索ワードを入力している途中でもう予測ワードに「斉藤心夏」と出てきた。

 そこをタップすると、当時の記事の転載からまとめサイトまでずらりと検索結果が現れた。

 出てきたサイトの見出しには、「四歳次女虐待死で母親と交際相手が逮捕」と書かれていた。

「……この事件だったのか……!?」

 虐待事件はニュースで見る事も多いという印象があり、時間が経つと一つ一つの事件の詳細は忘れてしまっていたが、サイト内の記事を読んでいって、ようやく当時見ていたニュースを思い出した。

 二年前、夜間救急に運ばれ間も無く死亡した四歳の斉藤心夏ちゃんは顔に大きな火傷の痕があり、更に体のあちこちに無数の痣が見られたため警察が呼ばれ、間も無く母親の斉藤元花(当時25)と交際相手の木原大牙たいが(当時30)が保護責任者遺棄致死と暴行の容疑で逮捕された。

「あの人年上だったのかよ……」

 だが取り調べ中、容疑者二人はどちらも「もう一人がやった。自分は止めようとした」と言い続け、その主張はそれぞれの裁判の最中も変わる事はなかった。

「これが凄えムカついたんだよな……どっちもやってねえって言うなら誰がやったって言うんだよ……」

 結局裁判では、母親の斉藤容疑者が木原容疑者に逆らえなかったと認定され、木原容疑者が懲役十二年(控訴中)、斉藤容疑者には執行猶予がついた。

「そういや男がやったって言ってたな……執行猶予中だったのか」

 ニュースで「互いに相手がやったと言っている」と見た時には、二人で責任の擦り付け合いをしているようにしか見えなかった。

 だがもし片方が本当の事を言っていたならば、それは傍目に擦り付け合いに見えてしまうだけであり、他人にそれが責任転嫁だと判断されてしまったら当事者にとっては非常に悲しい事だろう。

「これは余計な事言わねえようにしねえとな……」



 夜になってから電車に乗り、描いてもらった地図を見ながら斉藤の家の最寄りの駅から目的のアパートに到着した。

 随分ひっそりとした薄暗い所にあるアパートだな、というのが第一印象だった。おそらく周囲に明るい建物が無いのでそう見えたのだろう。住宅街ならこんなものかもしれない。

 教えられた二十二号室の扉をノックすると、間も無く大きめのTシャツと膝下までのパンツという服装の斉藤が出てきた。それでもメイクは変わっていなかったが。

「お待ちしてました。どうぞ、狭い所ですが……」

「失礼しまーす」

 外観からも安いアパートだろうなと思ったが、部屋はよりによって一間だった。

(……どうしよう……)

 思わず低い天井を仰ぐ。

「お茶でいいですか?」

「いえ、お構い無く。なるべく早く治療に取り組みますので」

 さっさと済ませてさっさと帰りたい。

 なのでなるべく早く眠ってほしいのだが、時計はまだ夜十時少し前を指している。目の前の依頼人はそんなに早く寝るタイプには見えなかった。

「えっと……私は三十分くらい部屋の外に出ていましょうか?中に戻った時にちゃんと鍵はかけておきますんで」

「え……そんな、外で待たせちゃうなんて……中にいてもらって大丈夫ですよ?」

「いえいえ、さすがにそういうわけには」

 別に依頼人が寝るまで部屋にいるのを断るのはおかしな事ではない筈だ。むしろ自然な行いだろう。

「……あの……」

 また玄関に戻ろうと踵を返したら、今度は甘えたような声が後ろから聞こえてきた。

(聞こえねえふり聞こえねえふり)

 無視してすたすたと歩けば、狭い部屋の中ではほんの数歩で玄関に到着した。

「寂しくて……一人だとなかなか……」

「でしたらまた眠れそうな時に日を改めましょうか?」

 営業スマイルで振り向きながらそう言ってやると、案の定上目遣いでこっちを見ていた。

「……いえ……大丈夫です……」

 その目つきが急激に不機嫌になっていくのが分かったので、即座に靴を履いてドアノブに手をかけた。

 背後で舌打ちの音が聞こえた直後、さっさと部屋を後にした。



 ドアの横の壁に寄りかかってスマホをいじりながら時間を潰している間、幸いにも他の住人と出くわす事はなかった。

 三十分を少し過ぎるくらい時間が過ぎたのを確認してから、音を立てないように慎重にドアノブを回した。

 ゆっくりと扉を開けると、部屋の中が真っ暗になっているのがすぐに分かった。

 一瞬嫌がらせかとも思ったが、真っ暗にしないと眠れないという人も少なくない。靴を脱いで玄関のすぐ横の流し台に手をかけながら慎重に歩を進める。

 流し台を手すりのように伝っていると、ふいにかさ、と紙が手に当たる感触がして思わず声が出そうになる程驚いた。

(これは……薬の袋か?)

 さっきも部屋をよく観察していたわけではなかったが、その時は無かったと思う。

 いつものように竹ノ内病院の精神科医である真木先生の紹介なら、以前から精神科に通っていて睡眠導入剤でも貰っていたのかもしれない。それなら助かった。

 そっと足を畳に付けたまま滑らせるように移動してみると、間も無く足に布団らしきものが当たった。

(いたいた)

 その布団の方に向けて右手をかざす。

(……ここは頭じゃねえか……)

 敷かれた布団と畳の間を爪先でなぞるようにしながら布団の向きを探り、頭の位置を探した。

(あったあった)

 ある位置に手をかざすと、ようやく気配を感じる事が出来た。

(まだ夢は見てねえか……)

 とりあえず畳に腰を降ろす。

 真っ暗な中で目を閉じ、依頼人の頭の中を覗き続けていると、やがて映像が自分の頭の中に浮かんできた。

 こことは違うアパートの一室のようだ。この部屋より物があるし一間でもないようで、ここより家賃は高そうだな、と思った。

『いやあああああああ!』

 そんな事を考えていると、突然けたたましい悲鳴が響いた。

 斉藤が酷く怯えた顔で一点を見ている。

 その視線の先には、どこかよたよたとした歩き方の幼い子供の姿があった。

『やだっ!こないでえ!』

 母親の姿を見つけた子供そのものの様子で真っ直ぐ歩み寄っていく幼児に対して、斉藤は化物でも見たかのような怯え方を見せていた。

(…………?)

 その様は、酷く妙に見える。

 覗いているだけでは分からない事があるのだろうか。

 とりあえず体が眠っても斉藤の上に倒れないように体重を後ろにかけながら、彼女の夢の中に潜り込んだ。



 他人の夢の中に入る感覚を誰かに説明する時は「水より密度のあるゼリーのようなものに潜り込んでいく感じ」と言う事が多いが、そう聞いた相手は液体に潜る感じを想像する事が多いようだった。

 正確にはそれは少し違う。

 確かに夢の中に入る事が出来れば、しばらくは重い液体の中を潜っていくような感覚だが、そもそもゼリーというものは液体でなく固体である。

 いざ入ろうとする瞬間は、密度のあるゼリーのような壁に体を押し付けてずぶん、と突き抜けて入り込むという感覚に近い。ようするに柔らかい固体に潜り込む感じだ。

 そうやって入り込み、重い液体のような空間をどんどん潜っていくと、段々と体――正確には自分の意識だが――に感じる抵抗が少なくなっていき、空間の重みが無くなる頃に当人の夢の内容が見えてくる。

 とん、とフローリングの上に着地すると、歩く幼児の後ろの位置だった。

「……どうして……?」

「早く!助けてえ!」

 壁際に追い詰められた格好の斉藤は、覚束無い足取りの年端もない子供が近付いてくるのを心底怖がっている様子だった。

「おーい…お嬢ちゃん?」

 とりあえず子供の前に回り込む。

「――――っ!」

 思わず息を飲んだ。

 うっすら笑っているように見える少女の額の右半分から右頬にかけて、皮膚が赤く焼けただれたようになっていた。左側も目の周りが赤黒い痣になっている。

 確かに顔に大きな火傷の痕があったとの事だったが、文字で読んだ時と直接見た場合では受けるショックがまるで違う。

 こんな幼い少女の顔に、どうすればこんな傷を付けられるんだと不思議になるくらいだ。

「どうして……?」

 そんな自分の気持ちを読んだかのように、小さな子供のか細い声で疑問を訴える言葉が聞こえた。

「どうして……どうして……?」

 足も怪我をしているのだろうか。よちよち歩きをする程幼くは見えなかったが、その歩みは一歩で小さい足の半分程の長さしか進んでいない。

「何してんの!早くなんとかしてよ!」

 背後からもはや怒声となった斉藤の絶叫が響いた。

「……え~と……お嬢ちゃん?どうしたの?なんか言いたい事とかあるの?」

 とりあえずしゃがみ込んで目線を近付けながら話しかけてみた。

「――――っ!?」

 すると、今までこちらが見えているのかどうかも分からない様子だった少女の顔が急に強張った。

「……あ、そか」

 母親の交際相手に虐待されていたのなら、大人の男は恐怖の対象になっているのかもしれない。顔を見せたのは不味かったか。

「……う……わああああああああ!」

 突然火が点いたかのように、少女は大声で泣き出してしまった。

「え……あ……ちょ……ど、どうしよ……」

 子守りなんてした事も無いし、母親はいるけどとても頼れる状態ではない。慣れない状況に思わずきょろきょろと辺りを見回しながら狼狽えてしまった。

「あらら、どうしたの?大丈夫?」

 困り果てていたその時、ふいに聞き慣れた女の声が聞こえてきた。

 その声の方に顔を向けると、少女の後ろの方向から瑠璃がぱたぱたと駆け寄ってきた所だった。

「どこか痛く……は無いわよね。何かびっくりしちゃった?」

 瑠璃は少女のすぐ横で両膝を着くと、泣きじゃくるその顔を覗き込むようにして語りかけた。

「大丈夫よ、なんにも怖くないから。大丈夫、大丈夫……」

 優しく囁きかけるようにしながら、自分の胸に顔を埋めさせるようにしてそっと抱き締めた。

「わああああああん!」

 少女は相変わらず泣き叫んでいたが、自分を抱き締める瑠璃の服をぎゅうと握り締めていた。

「ちょっと泣き止むまで外に連れて行きますね」

「あ……ああ」

 手慣れた様子で抱き上げると、瑠璃はそのまま少女を玄関へと連れていった。

「……助かった……」

 そういえば瑠璃は児童養護施設で育ったという話だった。周囲には子供が沢山いただろうし相手は慣れているのかもしれない。だとしてもあの顔の状態を見ても目の色一つ変えなかったのは正直驚いたが。

「……何です?あの人……」

 ふいに後ろから声が聞こえて思わず驚いた。

 そういえば存在を忘れていた依頼人へと振り返ると、驚きにどこか怪訝そうな色が混ざった顔をしていた。

「……アシスタントです。あ、料金は変わりませんのでご心配なく」

「…………」

 一応説明はしたが、斉藤は納得していないのか、瑠璃が子供を連れて出ていった玄関の方を細めた目でじっと見ていた。

「……あ、ちょっと見てきますね!」

 とりあえず自分も何かしなければと、銘作は慌てて自分も玄関へと向かった。

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