1-8 俺はやるって決めたんだ

 相も変わらず生気の感じられないこの部屋には、医療機器の電子音だけが規則的に響いている。

 部屋の主はベッドの真ん中で、身じろぎ一つする事なく横になっている。

 自分が小さかった頃は、この人はもっと大きいと思っていたが、今はこんなに小さかっただろうかと驚く程に頼りなく感じられる。

 だが当時よりこの人が本当に小さくなっているのは確かだろう。

 手足は枯れ枝のように痩せ衰え、少し力を入れて握ったらあっさり折れてしまいそうだ。肉だけでなく骨も細くなっているのだろうと容易に想像出来た。

 慎重にその腕に触れ、ミイラを彷彿とさせる土気色の肌をそっと擦った。

「銘作くん」

「――先生、お久しぶりです。珍しいっすね」

 久しぶりに聞いた声の方向に向き直って頭を下げた。

 川本先生も初めて会った頃はもっと大きい男性に見えていたが、今は自分の方が見下ろす身長差だ。白髪もだいぶ目立つようになった。

「こう見えても自分の患者は毎日見に来ているよ?君と出くわさなかっただけだよ」

「そっすか……失礼しました」

 また頭を下げてから、ベッドの方へと向き直る。

「毎日マッサージを続けているのかね?」

「はい。焼け石に水かもしれませんけど、やらないよりはましだと思いますし」

 全く使われていない手足の血流が少しでも良くなるように、肌を傷付けないように慎重に血管をなぞる。

「……銘作くん」

 そんな様子を見てか、川本先生が言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「君の気持ちも分かるが……その状態で二十六年も生きていられるだけでもはや奇跡に等しい。もし意識を取り戻す事が出来たとしてもその体では……」

「お袋は、生きてます」

 今更言われるまでもない。その事はどれだけ考えたかなんて数え切れないくらいだ。

「何回言っても信じてもらえないかもしれませんけど、お袋は精神を夢魔って化物に盗まれたんです。そして盗まれたお袋の精神が殺されたなら体も死にます……つまり、お袋の精神はまだどこかで生きてるんですよ」

「……君に助けてもらった患者は何人もいる。今更君の言う事を疑う気は無いよ」

「なら分かるでしょう、お袋の精神が助かった時に自分の体が死んでたらどうなります?戻る所が無くなったらお袋は……」

「……」

 扉の近くに立ったままだった川本先生が、ベッドに近づいてくる。

「入院費だって何だってちゃんと全部払ってるでしょう、問題はねえはずだ」

「そういう話ではなくて……」

 手足のマッサージを終えて、布団をかけ直した。

「お袋は、俺が必ず助けます。だからそれまでお袋の体を守っていてください」

 先生を振り切るように、早足で病室の扉へと歩いて行き、がらりと勢いよく開いた。

「ひゃっ……!?」

 そのまま飛び出すように部屋から出ると、短い悲鳴のような、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。

「……瑠璃……?」

 扉のすぐ近くで、頭部を包帯でぐるぐる巻きにした少女が車椅子に座っていた。

「す……すいません!盗み聞きする気は無かったんですけど……!」



 時々瑠璃の車椅子を押してやりながら、二人でこの階のロビーまでやって来た。

 この病院のロビーは壁の一面が全てガラスになっていて、高い階は非常に見晴らしが良かった。

「……私の他にも患者さんいたんですね……この階に……」

 何から話せばいいのか分からないようだったが、様子を伺うように瑠璃が口を開いた。

「ああ、この階も時々誰か入ってくるな。今は二人だけだけど」

「……ここには……ずっと通ってたんですか……?」

「八階に移ったのは二年くらい前だ。それまでは脳外科の病棟にいたんだが……ベッドが足りなくなったって言われたんでこっちに移した。こっちが先にいたのになあ」

 この階の方が部屋代が高いので正直ちょっと不満はあるが、そこまで言ってしまうと現在入院している瑠璃が気にするかもしれないのでそれは言わないでおいた。

「……あの部屋にいらっしゃるのは……お母さんなんですか……?」

「ああ。ちなみにどこから聞いてた?」

「……あの先生が入ってから少しした後です……毎日マッサージしてるって辺りから……」

「そうか。昨夜夢の中でも言ったと思うけど、夢魔には眠ってる人間の意識を体から引き離して捕まえちまう力もあるんだ。人間が夢魔になった時は人間とは違うものになるから完全に人間の体と切り離されて体は死ぬ事になるが、夢魔の力で人間の意識が連れてかれた時はそうはならねえ。体は空っぽになるが死にはしねえんだ」

 瑠璃がなんとか後ろへ振り返ろうとしていたので、横に並ぶ位置に移動した。

「夢の中で夢魔に殺されれば体も死ぬ。逆に言えば体が生きてるって事は、どこか遠くに意識が連れてかれてるとしても殺されてはいねえって事だ」

「……どうして……夢魔は人の意識を捕まえたりするんでしょう……?」

 横向きに見上げながら瑠璃が質問する。

「大した理由なんてねえよ。誰かを苦しめるためだ」

「……え……?」

 微かにおののいたようだった。

「人間が夢魔に変わるのは、夢の中で誰かを苦しめるって行為に取り付かれちまった時だ。つまり夢魔って奴は一匹残らず、誰かを苦しめるのが楽しくてしょうがねえって連中なんだよ。そこに理由も必然性もねえ、ただやりたくてやってるだけだ」

「…………!」

 車椅子の手すりに乗っていた細い手に力が入った。

「ただ、苦しめ方の好みには個人差があるみてえで、すぐに殺しちまう奴もいれば、誰か一人の夢に何回も現れてじわじわと苦しめる奴もいるし、色んな人間の夢を次々と渡り歩く奴もいる。そして何人もの人間の意識を集めて捕まえて、拷問して自我を失わせて自分の手伝いをさせる奴なんてのも、な」

「ご……拷問……!?」

「俺が夢の中であいつを串刺しにしたり潰したりしたの見ただろ?夢魔はみんなああいう事が出来る上に本当に痛みを感じさせられるからな、拷問は得意技なんだよ。んで散々酷え目に会わされた結果、夢魔の指示に黙って従うようになった人間ってのも沢山いるんだ。勿論ただ手元で苦しめるためだけに意識を捕まえる奴もいるけどな」

「……そんな……事が……!」

 想像を上回る酷さだったらしい。顔がもっと見えていたら青ざめていたのが分かったかもしれない。

「……え……でも……さっき……お母さんはその状態で……」

「……ああ、そんな奴に捕まえられて、もう二十六年になる」

「――――!」

 瑠璃が息を詰めた。

「俺が産まれた、その日からな」

「……え……」

「お袋は小さい時に病気して、子供は産めないかもしれないって言われてたそうだ。なのに……俺を妊娠した時に、どうしても産みたいって思っちまって……」

「…………」

 瑠璃の雰囲気が、戦慄していた様子とは変わってきたようだった。

「だが結局……臨月になった頃に脳梗塞で倒れちまった。俺は帝王切開で取り出されて、お袋も緊急手術を受けた。手術は成功したそうだが……それ以来目を覚まさなくなった」

「え……それって……?」

「そうだな、正確にはすぐに夢魔に連れてかれたわけじゃあねえかもしれねえ。俺もお袋が空っぽだって気付いたのは物心ついた頃だったしな。だが、俺のこの他人の夢に入れるって能力は生まれつきなんだ。俺は自分のこの力は、お袋の腹の中にいた時にお袋が夢魔に襲われた影響なんじゃねえかと考えてる」

 何とはなしに、自分の手を見つめる。

「……影響……じゃあそれで……“成りかけ”に……?」

「ん?……ああ、いや夢魔に成りかけたのはもっと後だ。六つくらいの時だったか」

「……?」

「俺が産まれてすぐお袋は入院生活になったから、俺は爺ちゃん婆ちゃんに預けられたんだ。んで親父は仕事の都合もあって一人で新居から会社に通いながら、週に一回くらい俺に会いに来つつ、俺の養育費とお袋の入院費を送ってたそうなんだが……俺が六つくらいの時、突然親父が行方不明になった」

「え……!?」

 眺めのいい窓の向こうに視線をやりながら続けた。

「爺ちゃん婆ちゃんが話してるのを偶然聞いたんだ。病院から今月分のお袋の入院費が振り込まれてねえって電話があって、親父に電話したけど出ねえ、新居に行ったら親父の荷物が無くなってたってな」

「…………」

「俺も大変だって事は分かった。んで、その頃には俺は寝た後誰かの夢の中に入ったりするのが普通になってたから、自分でも毎晩色んな人の夢を渡り歩いて親父の夢を探して回ってたんだ。そうやって一月くらいした頃だったかな……見つけたのは」

 微かにほっとした息遣いが聞こえた。

 残念ながらそんな良い話ではないんだが。

「親父の夢は、知らねえ家で知らねえ女と一緒に知らねえ子供を抱えてる夢だった」

「…………!?」

「何だか分からなくて、とにかく親父の所に飛び込んで呼び掛けた。そうしたら親父の気持ちが現実に戻されたのか、知らねえ家は安そうなアパートの部屋に変わって、抱えてた子供は消えた。でも女は残ってたから……これが親父の“現実”なのかも、って思った」

「……え……」

 瑠璃は困惑している様子だった。

 そういや何でこんな身内の恥の話をしてるんだろうな。まあここまで話したなら別にいいが。

「そうやって俺の顔を見たら、親父はどうしたと思う?」

「え!?……それは……やっぱり驚いて……まずいと思ったんじゃ……?」

 人の親だからと言葉を選んでいるようだ。そんな気を使う必要など無いのだが。

「笑ったよ。嬉しそうに」

「――――!?」

「『夢に息子が出てくるなんて、俺は思ってたより罪悪感を感じてた優しい父親だったんだな』って言ってな」

「……そん……な……」

 ショックを受けたようだが、残念ながらこれで終わりではない。

「更にこう言った……もう二十年は経ったが今でも覚えてるぜ」

 金色に染めた髪を軽くくしゃ、とかき混ぜた。

「『そもそも俺は悪くないんだけどな。産みたいなんて言われたら“なんだ、大丈夫だったのか”って思うだろ?無理そうだったら堕ろすと思うだろ?何で自分の限界も考えねえで無理に子供産んで寝たきりになって何もしねえ嫁のために金やらねえといけねえんだよ』」

「…………!」

 瑠璃は目を大きく開けたまま震えていた。

 そういえば当時の自分もそうしていたかもしれない。

「その時は言葉の意味全部は分からなかったが……ああ、こいつはお袋を……お袋の命を凄え軽く考えてたんだ、って事は分かった」

 髪に通していた指に、力が入る。

「それが分かった瞬間、親父のいる部屋に火を点けてた」

「え!?」

「勿論夢の中でだけどな。急に慌て出した親父を見て、今度はその服に火を点けてやった。親父はのたうち回ったよ」

「…………」

 だんだん察してきたのだろう。瑠璃の反応が抑え目になってきた。

「それから毎晩、全身にゴキブリを這わせたり、堆肥の中に突っ込んだり……子供の頭で思い付く事は全部やった。『とにかくお袋の金は払え』って言いながらな」

「……ああ……」

「そんなある時だ、夢の中で自分の左手が黒くなってるのに気付いたのは」

「――っ!」

 瑠璃が片手で口元を覆った。

「しかも気が付いたらなんか自分の周りに影みたいなもんがまとわりついてくるし、左手の黒い所も段々広がってくるし……これは何かやばい事になってるってのは分かった」

 自分の左手に目をやる。

「あの黒いのが体に付くとな、妙にテンションが上がるっつーか、ハイになって気持ちよくなるんだ。でもまともな状態じゃねえって事も分かった。例えるなら『これはやっちゃいけない事だ』って大人に注意されてる遊びをやって楽しくなってる感じに近い。その頃は俺も素直だったから、『これは悪い楽しさだ』ってなんとなく分かって、その気持ちいいのに捕らわれねえように頑張って抵抗した。そしたら広がるのが止まって、どこまでもまとわりついてきた影もそのうち消えた」

 瑠璃がほっと溜息をついた。

「でも、常に気を強く持ってねえとまたすぐ広がってくるんだ。勿論夢の中にいる間だけだけどな」

「え……それって……」

「まあそうやってるうちに、親父を苦しめてる時も同じ楽しさがあった事に気が付いた。最初はお袋のためだなんて思ってたけど、いつの間にか手段が目的そのものになってやがったんだ」

「…………」

 どこか哀しそうな目が向けられる。

「その頃には親父も疲れきって、お袋の入院費だけでなく俺の養育費までちゃんと送るようになってたらしかったから、それ以来親父の夢に入るのは止めた。それから親父がどうしてるのかは分からねえ。どこに住んでるのかも知らねえし直接会ってもいねえからな。今はお袋の入院費は俺が全部払ってるし一切関わってねえ」

 軽く両腕を持ち上げて、伸びの姿勢をした。

「ま、その黒いのも上手く調整すれば、人間のままでもある程度は夢魔の力を使う事が出来るからな。そのおかげで夢魔に攻撃も出来るから……お袋を捕まえてる夢魔を見つけられれば、きっと助けられる」

「……由芽乃さん……」

「そこまで気付くまでも結構かかったけどな。色んな夢を覗いて、夢魔を見かけて、人間が夢魔に変わる瞬間に出くわしたりして、夢魔の事とか段々と分かってきたんだが……もっと早く気付いてれば、もっと早く……お袋を助ける事が出来てたかもな」

「……そんな事……!」

 急に瑠璃が声を荒げたので、思わず驚いてそちらに目をやった。

「今までずっと……ずっと頑張ってたんでしょう!?お母さんが空っぽだって気付いて、夢の中を探して、夢魔を見つけて、何も分からなかったのに一から調べて、戦って、入院費も稼いで……全部、一人で!」

「……瑠璃……?」

 驚いた。

 僅かな会話で、そんなに自分の事を理解してくれたとは。

「小さい頃から、誰にも頼らないで自分だけで出来る限りの事をずっとやってたんでしょう!?それなら……たらればの話なんかで苦しまないでください!由芽乃さんは……充分やれる事をやってきたじゃないですか!」

「…………!」

 泣き出しそうな勢いで、瑠璃が続ける。

「もしどうしても気になるなら……私も手伝います!私も一緒に探しますから……!」

「……瑠璃……」

「見つけましょう、必ず……!」

 圧倒された。

 こんなにも自分の事を分かった上で親身になってくれる誰かがいるなんて、思ってもみなかった。

「…………」

 自分の前髪をくしゃくしゃとかき回してから、瑠璃の頭頂部の髪が出ている部分をそっと撫でた。

「……くれぐれも無茶はしないでくれよ?お前が怪我でもしたら俺があの女刑事さんに逮捕されちまう」

「……ええ!?静香さんはそんな事しませんよ!」

「それくらい心配するだろ?だからもし夢魔を見つけたらすぐ俺に知らせるんだ。絶対に深追いするな」

「……はい……!」

 想像通り柔らかかった髪から手を離すと、瑠璃は力強く頷いた。

「……あ、そうだ静香さんそろそろ……」

 そう言いながら、瑠璃は恥ずかしそうに窓の方へと車椅子を向けた。

「…………」

 細い背中を見つめながら、銘作は考えを巡らせていた。

 ――顔はこっちの方が好みだったけど、まだ十代なんだよなあ……流石にちょっと歳離れ過ぎてるか?だったら向こうの方が……。

「あ、あれ静香さんですよね?」

 そんな事を考えていたら、丁度頭の中で天秤にかけていたもう一人の相手がやって来たようだった。

「あれっぽいな……ん?」

 八階の窓からだとだいぶ小さく見えるが、黒っぽいスーツの女と、その隣に中年らしい男が歩いているのが分かった。

 あの刑事は女としては背が高い方だったが、その彼女と並んでも頭一つは大きく見える事からかなりの長身なのだろうと伺えた。

 加えてこの距離でも分かる程顎や口周りに髭を蓄えているのが見えて、イメージだが中年なのだろうな、と思った。

「何だ?あのおっさん。上司かな?」

「旦那さんですよ」

「…………へ?」

 思いもしなかった言葉が耳に入った。

「……あの人結婚してたのか?……あんなおっさんと……?」

「一七歳差の歳の差婚だそうですよ。二人で撮った写真も見せてもらいましたけどすっごくラブラブでした」

「……つか何で旦那連れてきてんだ……?」

「私の後見人になってくださるそうです。私もう十九だからそんなに必要ないんですけどね……」

 そうは言うが口調はどこか嬉しそうだった。

「…………」

 少し考えてから、瑠璃の車椅子の持ち手に手をかけた。

「病室で会うんだろ?送ってってやるよ」

「え!?あ……ありがとうございます……!」

「……何か食いたいもんとかあるか?あんま高いもんじゃなけりゃ今度持ってきてやろうか」

「え、ええ!?いえまだそんなに食べれないんでお気遣いなく!」

 急に優しくなった銘作と、戸惑う瑠璃はそんな会話をしながら病室へと戻っていった。

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