1-5 自分を何だと思ってんだ?
瑠璃の手を握ってひたすら祈っていた静香の耳に、突然ぶしゅ、と液体が噴き出るような音と、がたんと壁に何かが小さくぶつかる音が同時に入ってきた。
「え……?」
音のした方向に振り向くと、相変わらず銘作が壁に寄りかかった姿勢で眠っていた。
「……何……今の音……?」
よく見ると、銘作の頭と肩の位置が少しずれたような気もする。さっきのがたんという音は彼の体が動いた音だったのだろうか。
ならぶしゅ、という音は?
(俺の体に急に傷が付く事もあるかもしれないんで)
「……いや……まさか……っえ?」
銘作の様子を見ていると、彼のズボンの左脚の付け根辺りに、上からじわりと赤い液体が滲み出てきた。
「ちょ……っ失礼しますよ?」
一応一言断りを入れて、白いスーツと赤いシャツのボタンを外していく。
「――え!?」
胸元を広げると、銘作の左胸の上部から臍の脇辺りまでにばっさりと斬られたような傷が付いていた。
「……!」
どうしてこうなったのかは分からなかったが、とにかくナースコールを押した。
「……何が……起きてるの……!?」
静香は眠り続けている瑠璃を見つめた。
一時落ち着いていた彼女の息遣いが、また乱れ始めたのが分かった。
空中で一撃を受けた銘作が、瑠璃のいる方向へと落ちてくる。
「――由芽乃さん!」
間近まで迫った所で、体を捻って瑠璃のすぐ横に足を滑らせながら着地した。
「……
彼のスーツとシャツは左胸から腹までばっさりと切り裂かれ、その奥から赤い血が滲み出て滴り落ちていた。
「そんな事より!怪我が!」
「皮一枚切れただけだ、これくらいどうって事ねえよ」
そう言うが、垂れ落ちた血が彼のズボンまで濡らしている様は痛々しく見える。
「あ~あ、白いスーツなのに血ぃ付けやがって。シミはクリーニング代高えんだぞ?」
だが銘作は服の汚れを気にしていた。
「ゆ……由芽乃さん……!」
自分の方が困惑してしまっている瑠璃は、思わず化物と銘作を交互に見やった。
だがやっと傷を付けた当の化物は、銘作の方を向いてじっとしていた。
「……てめえ……なんだそれは……」
追撃するでもなく、ただそれだけを呟いた。
「……?」
「おいおい、今まで気付いてなかったのか?」
怪訝そうに見上げる瑠璃の前で、銘作は不敵な笑みを化物に向けた。
「夢の中で誰かを傷付ける事が出来るのは夢魔だけだ。その時点で気付きそうなもんだろうよ」
そう言いながらスーツとシャツの切り裂かれた箇所に左手を掛け、ぐいと広げて見せた。
「……え……?」
瑠璃は茫然と声を漏らした。
銘作の左胸の左半分程と脇腹、そして肩と腕が真っ黒に染まっていた。
その黒と肌の境目は、まるで鍋の中で煮込まれているスープの淵のように、無数の小さな粒のような黒が浮かんでは消えるを繰り返していた。
「俺は、“成りかけ”だ」
そう言って、またにやりと笑う。
「…………?」
どういう事?
何に“成りかけ”ているというの?
分からない。
いや分からないと思いたかった。
あの黒には見覚えがある。
というより今自分達の前にいる。
とりあえずはっきりと分かるのは、彼が左手にだけしていると思った黒い手袋は、手袋ではなく彼自身の手の色だったという事だ。
「……て……ん……めえ……!」
黒い化物が怒りで震えた声を上げる。
「散々偉そうにしやがって!てめえこそ夢魔だったんじゃねえか!」
「――――!」
やめて。
言わないで。
無意識に両手が耳を塞ぐ。
「一緒にすんな。夢魔の力を使える程度に侵食を調整すんのは結構大変なんだぜ?あっさり飲み込まれたてめえとは違うんだよ」
「……調……整……?」
恐る恐る彼を見上げる。
また右手を横に伸ばし、いつの間にか消えていた鎌をまた出した。
「分かってんのかどうか知らねえが、夢の中の勝負は精神力の勝負なんだぜ」
ぶん、と鎌を一回転させると、柄の先端を敵に突き付ける。
「つまり、てめえじゃ俺に勝てねえって事だ」
「…………!」
不敵に口角を上げた笑みが、その時は酷く頼もしく見えた。
「……っざ……け……ん……なあ……!」
また化物が叫ぶと、今度は両手を鎌に変えて向かってきた。
ふ、と一度鼻を鳴らし、銘作も敵に向かって跳躍する。
「おらあ!」
振り下ろされた右手の鎌を躱すと、今度は一撃でその腕を切り落とした。
「ああああああ!?」
絶叫が響く中、勢いに乗った腕が瑠璃を飛び越えて後ろまで飛んでいった。
「ひゃっ!」
思わず頭を抱える姿勢で首を引っ込めた。
銘作はそのまま化物の懐に飛び込むと、長い首目がけて鎌を振り上げた。
「――っ!」
すんでで躱され、首は半分程切り裂かれた。
恐らく今の一撃で首を落とすつもりだったのだろう。
「…………」
やっぱり凄い、この人は。
完全に夢魔になった相手を圧倒しているのだから、どれだけ夢魔になったかで強さが決まるわけではないのだろう。
ず。
彼の言う通り精神力で強さが決まるのなら、自分にも攻撃する事は出来なくても抵抗するくらいは出来たのかもしれない。
ずず。
「…………」
なら、歩く事も出来るのだろうか。
夢の中だけとはいえ、彼が治してくれたこの脚は。
ずずっ。
「……!?」
自分の脚に目を落とした時、今座り込んでいる足元に微かに伝わる揺れに気が付いた。
銘作の戦いの振動と音に混じって気づかなかったが、ほんの僅かに後ろからも近づくものの音があった。
ばっと背後に目をやった時には、自分の後ろにあった腕から生えた鎌が横薙ぎに回転するようにこちらに向かってくる所だった。
「――っ!?」
銘作もようやく気付いたようだ。
勝てないのならば、せめて標的だけでも殺すつもりなのか。
黒く鋭い鎌の先端が目に映った。
「瑠璃!」
銘作の声が聞こえた次の瞬間、ど、と目の前のコンクリートから鋼鉄の壁が飛び出してきた。
「なに……っ!」
「…………!?」
化物も、銘作も驚いたようだった。
「……できた……」
大きな鋼鉄製の壁が下から出てくるイメージ。
強くイメージした瞬間、その通りのものが瑠璃自身の目の前に現れた。
がきいんと激しく衝突する音が響く。
壁は大きく震えたが、鎌に貫かれる事はなかった。
「……何だと……っおい……!」
化物の震える声が聞こえたと思うと、自分が出した壁を含めて斬られた腕を囲うように四角く鉄の壁が現れ、腕を閉じ込めてしまった。
「ひゅう……」
今のは銘作がやってくれたようだ。
「ふざけんな……何で俺の一撃がてめえなんかに防がれるんだよ!何でてめえなんかに出来るんだよ!」
「分からねえのか?」
喚き散らす化物の頭上から低く落ちた声が降った次の瞬間、その頭を銘作が蹴り上げた。
「っが……!」
化物よりずっと小さい銘作の蹴りを受けて、四つん這いの体がひっくり返る。
天を仰いだ黒い頭を、銘作がずん、と踏み付けた。
「ぐ……う……!」
「夢の中の勝負は、精神力の勝負だって言ったろ?」
その靴と黒い頭の間から、黒い煙のようなものが微かに噴き出しているのが見えた。
「精神力で、加害者が被害者に勝てる訳ねえだろうが」
みき、みき、と軋むような潰れるような音が聞こえる。自分の重さを上げているか空を飛ぶ要領で体を沈めているのだろうか。
「自分より弱い相手に粋がって、我慢も出来ずに思うさま暴力振るったり盗みしたり女襲ったりするような奴が、理不尽な苦しみに耐えてきた相手に勝てる訳ねえだろうが……!」
残った左手の鎌が振り下ろされるが、それを向けられた男は見もせずに切断してしまう。
そうして銘作が振り上げた鎌が、足元の頭に向けられる。
「てめえは弱いって事だよ、犯罪者野郎」
「て……!」
何か言おうとしたが、その前に長い頭が真っ二つにされた。
そのまま刃を後ろに大きく振り払うようにすると、首と胴体まで切断され、化物の体が左右に二つに分かれた。
巨体が完全に切り離されると、その体は穴の開いた風船の様にふしゃ、と潰れた。そのまま黒い体は折り重なった影が次々と流れ落ちる様に左右に散っていき、やがてその影もじわじわと消えていった。
後ろを振り返ると、腕を閉じ込めていた鉄の壁が、自分が出したもの以外が蜃気楼の様に消えていった。その中にあった腕も跡形もなく消えている。
気が付いた時には、化物もあの男も、一片の痕跡も残る事なく完全に無くなっていた。
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