宵待草

甘楽

其の壱

 当夜は待宵である。望月を明日みやうにちひかへた月姫は、しかし今宵は何やら機嫌を損ねてゐるやうで、の美くしい白肌のかんばせを薄雲のすだれの奥へと引つ込めてゐる。ひごの隙間から注がるる彼女のあでな流し目は、帝都の郊外を彷徨うろつく一青年を淡く照らし出してゐた。

 彼の名を山内かをると云ふ。夜色に溶け込む黒い外套マントひるがへす長身痩躯の男である。頭を隠した学生帽の合間から烏羽からすば色の黒髪が垂れ、立て襟の白い洋襯衣シャツの上には黒地のあはせを羽織つてゐる。彼の歩みに合はせて踊るうぐひす色の行灯袴あんどんばかまの裾付からちらりと覗いた朴歯ほほばの高下駄はからころと軽快な音色を唄ひ、腰に引つ提げられた一柄の日本刀が其の律動リズムに乗つて首を上下に振るつてゐた。斯様かやう陳腐ちんぷな装ひでありながら、彼の見目たるや目をみは程美麗うるはしく、さながら女のやうな美丈夫である。右の御手おては顎に添へ、左は袷の懐に、なりい眉根を寄せて一心不乱の物思ひに耽る様は恰度ちやうど一枚の絵画の如し。彼の同輩の男共が矢鱈やたらと世話を焼きたがるのもむ無しと云へるであらう。望まぬは常に我が身を雄ゝしくたらんと志す渦中の本人ばかりである。

 彼の胸中を悩ませるのは吾身わがみに向けられる重圧の彼是あれこれであつた。彼の父を山内重臣しげおみと云ふ。先の第一次世界大戦において輝かしい功績を打立て、英雄とさへ謳はれた軍人である。其の息子たる彼の身に、幼子の頃より多大なる期待が寄せられたのも当然の帰結であつたろう。更に不幸なことに、彼は其れを十二分に応へる程の有能の士であつた。益ゝ膨れ上がる期待、彼の才に抱かるる嫉妬、父の名声、其れ等が無秩序に入り混じり、乱れ、融け合ひ、うして出来上がつたのは青年の双肩に負ふには余りに重過ぎる一つの塊である。いつそのこと、綺麗さつぱり捨て去つてしまへば身軽にもならう、然し彼は生来真面目な性分の男であつた。背負はされた荷を放り出すことすらままならず、人の目のない夜分の逍遥せうえうだけが彼の心休める事の出来る唯一の時間なのである。

 やがて、薫の足の向かふ先に、そびえる白樺の巨躯が現はれた。白妙しろたへの樹皮は仄かな光沢を帯び、多岐に分れた枝先の葉は黄に染まり始めてゐる。真直まつすぐに伸びた太い幹の天を衝く様は宛ら月の輝く射干玉ぬばたまの天涯を支へる柱のやうだ。辺りには建物一つとして見当たらず、秋の小夜風さよかぜの前に其の身を晒す憐れな立姿たるや、まさに帝都から見捨てられた者の末路を指し示してゐた。

 帝都は往年より大日本帝國の発展の象徴であつた。政治、経済、文化、有りと有らゆる事物は帝都を発端として始まつた。近代モダン風の建物が理路整然と並んだ広い目抜き通りには灰殻ハイカラな洋服を着こなした紳士淑女が往来し、其処そこは宛ら異國の一都市であるかのやうだつた。人ゝの胸裏には自由と躍動の希望が横溢わういつし、文化人達は喫茶店カフェーの一席にて競ふやうに自らの提唱する人生哲学を語り合つてゐた。其の頃は誰も彼もが帝都に憧憬を抱き、煌びやかな洋装を纏つてメヱンストリイトを闊歩する自らの姿を思ひ描いたものである。かつては薫のゐるの地も又、帝都の一画に位置し、大ひに賑はいを見せる住宅街であつたと云ふ。倫敦ロンドンの風景を彷彿とさせる煉瓦レンガ造の家ゝが立並ぶ洒落しゃれた街並みが人気を博し、多くの人ゝが此処ここに移り住んで、其の儘根を張つて出来上がつた。左様な街の象徴とも云ふべき存在として皆ゝより愛されたのがの白樺の木であつた。春は花穂を実のらせて街を彩り、夏は涼しげな日陰を憩ひの場とされた。秋には見るも鮮やかな黄葉を見せ、冬には葉を散らし、春を今か今かと待ち続ける。彼は街と共に育つた住人の一人であり、街を暖かく見守る長の如き存在であつた。

 然し、平穏は或る時、水泡が弾けるかのやうに呆気なく消え去つた。其れは突然のことである。忘れもしない、大正十二年の九月一日、十一時五十八分三十二秒。風の強い日であつた。地の底を這ふ怪物の唸り声のやうな轟音の響いたかと思へば、刹那の後、大地が大きく波打つやうにうねりを上げた。吾ゝは其の瞬間、平和な昼時の日常が崩れて往く音を確かに聞いた。家ゝは大小問はずことごとくが砂上の城の如くに脆くも倒壊し、人ゝは悲鳴を上げる間もなく瓦礫の底へと埋もれて往く。其処等彼処そこらかしこで火の手が上がつたかと思ふと、旋風つむじかぜに煽られて、家から家へ、人から人へと襲ひ掛り、有りと有らゆるものを焼き尽した。逃げ惑ふ人の波は止め処なく、嘗ての隣人に踏み潰されて死に往く人の多きこと。其の時、吾ゝの誰も彼もが敵であつた。生き残らんとする生物として当然の本能は、吾ゝを原始の頃のやうな知性のない獣に変へたのだ。自分が生き残る為ならば、他人の身なんぞにかまけてゐる余裕等露程もなかつた。悲鳴や呻き声、怒鳴り声やき喚く声、正に此の世ながらの生き地獄の様相である。朝鮮人が暴徒と化して放火し乍ら各地を回つてゐるとの流言蜚語りうげんひごが飛び交ひ、彼方此方あちらこちらで殺傷事件が巻き起こつた。其の噂を助長したのは政府公報や新聞である。疑心暗鬼に陥つた民衆は暴れ、彼等を護るべき自警団や警察も又、噂に踊らされて混乱の極みに達してゐた。軍部は混乱に乗じて政敵を排する事に躍起になり、帝都の其処彼処そこかしこに死体が転がつてゐるやうな有様であつた。政府が流言であつたと認める旨を公表し、事態はやうやく収束したものの、帝都の治安は此の期を境に著しく悪化した。最早其処に栄華等欠片すらも残つてゐない。大日本帝國のへそは一夜にして恐怖と殺戮の坩堝るつぼとなつたのである。

 ことに其の住宅街の損害は凄まじいものであつた。煉瓦造の家ゝは余すところなく沈み、灰塵くわいぢん雪崩なだれとなつて住人達を呑み込んだ。助かつた者は両の手の指にも満たなかつた。外観を重視し、其の街並みのほとんどを煉瓦で魅せてゐた彼の街は只の一瞬で瓦礫の土地と変はり果てた。街路樹の多くが火の手に巻かれて焼け死んで往く中で、一本の白樺が残つたのは正に奇跡とも呼べるものであらう。然し、生き残つた人ゝは廃れた街を捨てて帝都の中心に移り住み、嘗て其処に街が在つたのだと語り伝ふる者は白樺の正真木しやうしんぎただ独り。彼の其の寂しげな佇まひには昔の面影等がうも残らず、何もない郊外に独りぼつちで突つ立つた儘、懐古の情に浸る様の何と憐れなことであらう。

 否、彼は独りきりではなかつた。薫が不図ふと彼の足元に視線を落とせば、其処に映るは根元にそつと寄り添ふやうに花開いてゐる一輪の影である。月明りを斯くも果敢はかなき身に受けて、宵の静けさに身を震はせてよろこぶ可憐な其の華の姿たるや、思はず視線が吸ひ寄せられる程美くしい。

 其れは小さな待宵草であつた。四弁に分たれた黄色の花唇くわしんを一つの花束コルサアジュに纏めてゐる様は何とも可愛らしいと云ふのに、其の階下に螺旋を描く新緑の葉にはたくましき鋸歯きょしを隠してゐる。其の姿は縦令たとひ薔薇さうび絢爛けんらんでなからうとも、百合ゆり程優雅でなからうとも、彼女の身に灯る魅力の光輝は決して後塵こうぢんを拝することはない。昼の日輪の陽光を慎み、夜の人目の付かぬ頃にそつと顔を見せる様は筆舌尽し難い程いぢらしく、其の純粋無垢な立姿たるや、宛ら穢れを知らぬ処女をとめのやうである。

 薫は彼女から目を離すことが出来なかつた。手弱女たをやめの如き貧相な体躯であり乍ら、彼女の白樺の木に寄り添つてゐる様は、むしろ彼女こそが彼の巨躯を支へてゐるやうにも見えた。其の果敢なくも美くしい立姿に、薫は見惚れてゐたのである。其の時、薫を支配してゐたのは彼自身の意思ではなかつた。何か堪へ難い衝動が胸の内から湧き上つて来たかと思へば、彼の意識は途方もない無意識の掌中に捕はれて胸懐の奥底へと沈み込み、代はりに台頭せしめるは美を至高として崇める耽美主義的思想である。宛ら夢路を辿つてゐるかのやうに、あるいは恋の熱に浮かされてゐるかのやうに、薫は心此処に有らずと云つた風情でそつと口を開いた。


 「遣る瀬無い釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る」


 厳かに紡がるる其れは竹久夢二の詩歌『宵待草』であつた。彼の唄は囁くやうな小さな声であり乍ら、鏡のやうな凪の水面みなもに葉の一片ひとひらが落ちて波紋を立たせるかの如く、宵の静寂に融け込んで往つた。其の詩歌に込められた哀愁の、何と物悲しきことであらう。言葉の端ゝから伝はる待ち人の来ぬ寂しさは、正に胸を引き裂くやうであつた。


 「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき」


 其の折、一陣の風が吹きすさぶ。初秋に似合はぬ凍てつくやうなこがらしである。白樺の葉がさわゝゝと騒ぎ立て、待宵草は揺蕩たゆたつて其の果敢なき身を震はせる。風は月を隠してゐた雲の簾を払ひ除け、奥に引つ込んでゐた彼女の姿を夜の空の画布カンバスに晒した。薫は背筋に一滴の水を垂らされたかのやうな悪寒を覚へ、不図夢現ゆめうつつから我に返る。かと思へば、白樺の樹上より舞ひ降りた一声が詩歌の前文を受けて後を継いだ。


 「想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな」


 透き通るやうな女の声である。其の調べたるや、此の世のものとは思へぬ程婉美であつた。鈴を鳴らすやうな清らな声色は冷たい夜気を伝ひ、薫の耳を震はせて内側から身体を叩く。其の甘美な響きの感覚に、薫は酩酊したかのやうに酔ひれたが、同時に彼の心中の警鐘が囚はれてはならぬと激しく騒ぎ立ててゐた。清純なる声音乍らも、其の内には女の醸す甘い芳香を孕んでゐる。然し、其れは彼の最も苦手とする強い香水ヘリオトロオプの匂ひではなく、云ふなれば風信子ヒヤシンスのやうな、淡く包み込むが如く柔らかな芳香であつた。

 薫はゆつくりと仰ぎ見るやうに白樺を見上げた。天上へと伸びる太い幹を中心に据へ置き、彼の四方からは幾本もの広がる枝葉が腕を伸ばして虚空を掻いてゐる。其の巨腕の中の一朶いちだの付根に、佇む一つの影があつた。

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