8

 貴子の一件があってから二日後、私たちは相変わらず魔物の見えるメンバーで下校していた。今日はアンケート集計があったせいで遅くなり、とっぷり暮れた暗い校舎をそろって出た。

 会長が聞いてきた。

「六道先生が戻ってくるのって、今日だっけ?」

「そう言ってたはず。寄ってく?」

「いや。明日学校で会えるからいいよ。じゃあ今日は取井の家を回って帰ろう」

 私はあわてた。

「送ってもらわなくても大丈夫だってば! 第一、会長の家とは逆方向でしょ」

「取井、遠慮すんなよ。オレたちはヘーキだから」

「遠藤の言うとおりだよ。それに夜道は女子には危険だろ。僕のことも気にしないでいいから、行こう。確か裁判所のほうだったよね」

「はい……」

 有無を言わせない会長の隣では乾が行くぞと促した。同じ生徒会役員なのに、突然女子扱いされると妙にくすぐったい。

 先を歩く遠藤がT字路で振り返った。

「取井。どっち」

 私が指を差すと、会長が聞いてきた。

「え、そっち? 遠回りじゃない?」

「わざと遠回りして帰ってるんだ。魔物見るの、楽しくて」

 皆、同意した。とうに日の暮れた新興住宅地はちらほらと魔物が姿を現している。塀に目をやると、トンボの羽を持ったイワシが鱗を散らして逃げた。庭木の茂った葉の奥には、いくつもの赤い瞳が動いている。

「中村、あれからどうだ」

 めずらしく乾が聞いてきたので、私は驚いた。

「元気だけど。ひょっとして気にしてた?」

「子供相手は初めてだったから加減がな」

 納得した。確かに乾なら貴子の骨を折りかねない。

「元気だよ。今度は本当に局の仕事で大忙しみたいだけど」

「そうか」

「ただね、実は大きな問題があったのよ。どうやら操られてる間、ろくにノートとってなかったみたいなの。つまり倉庫に行った日から丸ごと一週間分、全教科真っ白」

 皆、青ざめる。

「たあこも呆然としちゃってさ。同じクラスだから私の貸してるんだ。手伝おうかって言ったけど、頭に入らないから自分でがんばるって。今度なにかおごるつもりなんだ」

 会長が顔を出す。

「僕からもなにかおごらせてよ。なんか申し訳ないから」

「それで乾が中村をどこかに誘えば、もうバッチリだな!」

「どうして俺なんだ」

「中村から弁当作ってもらっておいて、わかんねえのが疑問だぞオレは」

 男子三人が貴子を気遣う姿に、私はひとりで笑っていた。

 貴子は、次の日にはすっかり元の元気な新聞局副局長に戻っていた。カウンセリング室を嫌ったり罵詈雑言を吐いたことも忘れているので、もちろん私たちも貴子を責めるようなことはしなかった。私と倉庫を脱出したあたりから記憶がおぼろげだったので、思うに、倉庫で逃げ回っているあいだに妖術にかけられたのだろう。今はどういうわけか乾を追いかけるようになり、今日はお弁当を作って渡していた。寝技効果いたのだろうか。

 会長が塀の上で飛び跳ねている魔物を見ながら言った。

「あれから来ないね」

 貴子が元気になってから、私たちはさらに警戒した。六道先生がいないため、生徒会室には行かずカウンセリング室で業務をかたづけていたほどだ。そのためかわからないが、二日経っても鬼憑きが接触してくることはなかった。

「なにもないと、なんかつまんねえよな」

「バカ! なにもないのが良いんでしょう!」

 ぽろりと言った遠藤に対して、乾の拳よりも先に私の鞄が茶髪にヒットした。

「本当、なにもないのが一番だよ」

 会長は夜空を見上げた。私たちも追って見上げる。魔物の群れが飛んでいく。なにもない日々の良さは、家族を惨殺された彼が一番知ってるのだろう。遠藤が小声で謝るのが聞こえた。

「……こんなこと、はやく終わればいいのに」

「終わるよ」

 え、と驚く彼に、私ははっきりと言った。

「みんないるから、きっと大丈夫。上手くいくし、早く終わるよ!」

 乾と遠藤もうなずいた。言われたほうは顔を照れさせる。

「そっか。ありがと」


 PHSが鳴っているのに気づき、あわてて取り出した。時刻は八時すぎ、電話は家から。怒鳴られるのを覚悟でボタンを押した。

‘彩華!! 今どこにいるの!!’

「うちの近所。もうすぐ帰るってば。あと五分もしないから」

 こういう時はつい嘘で取り繕ってしまう。本当はあと十五分くらいかかるんだけど。

‘学校から出てどのくらい経ってると思ってるの! なにも起きないうちに早く帰ってらっしゃい! お母さんがどんな……で待……かっ……’

「雑音ひどいから切るよ」

 どこかで工事でもやっているのか、良好だった電波状況が急に悪くなった。私はこれ幸いと早々に切った。帰ったらすぐに親と一悶着ありそうな気配に、ためいきが出る。

 遠藤が聞いてきた。

「大丈夫かよ。早く帰ったほうが良くねえ?」

「いいの。五分遅くなったところで怒られるのは一緒だし」

「おいおい」

「だって今どき門限六時とか言うんだよ。たあこの家にだって外泊させてもらえないし、ちょっと破ればヒス起こして。つきあうこっちも限界きてんのよ」

「まあ、六時はちょっと過保護かもなあ」

「かなり過保護って言うの。着る服まで指定されちゃ参るわよ。室内着にレースびらびらのワンピースなんか着てられる?」

 隣で会長が笑う。

「着てみたらいいのに」

「第一、スカート嫌いだもん。家ではジャージが基本でしょ」

 なごやかな雰囲気に水を差すように、ふいに首すじが寒くなった。風邪でもひいたのだろうか。

 夜の住宅街は妙に静かだった。数メートル先を歩く遠藤の声もはっきり聞こえる。

「なんだあれ。初めて見るぜ」

「どこ、どこ」

 私も興味津々で彼の元へ行った。みると本当にめずらしい魔物がいた。

 駐車中の車上に鎮座したシェパード似の魔物だ。普通のシェパードの倍くらいある身体なのに、ボンネットがへこんでいないのが不思議だ。魔物は質量が違うのだろうか。タカのような前足には赤く鋭い爪が生え、頭の部分に人間に似た首が継いである。間延びした顔にある魚の目は、すこしにごった金色をたたえていた。

 なぜかその時は、私は金目の恐怖をすっかり忘れていた。私と遠藤は、まるで亜種でも見るように魔物に近づく。魔物はこちらを見つめていて、逃げるようすもない。

「人面犬かあ。でも金の目なんてホントめずらしいね」

「だよな」

 手を伸ばせば届くかもしれない所まで近づいた時。

「待て!!」

 尋常じゃない会長の声に驚いて振り返った。乾が走ってきた。緊迫したようすに嫌な予感がした。

 ふいに背中がざわついた。

「どけ!」

 私は遠藤にいきなり突き飛ばされて転ぶ。ほぼ同時に、私のいたところに人面犬が襲いかかり、猛衾類の爪がコンクリをひっかいた。息を呑む私を、魔物は牙をむき出しにしてうなる。牙の間からよだれがしたたり落ちた。そこで私はやっと、金目の魔物は鬼に操られていることを思いだした。

 人面犬が一方を向いた。視線の先には会長と、彼を守るようにファイティングポーズで立つ乾がいる。

「やばい!」

 遠藤が叫ぶよりはやく、人面犬は舗道を蹴ってふたりに飛びかかった。乾は横にかわしながら犬の足を取り、そのまま勢いをつけて地面に投げつけた。人面犬は顔を地面に押しつけてすべっていく。

「会長、下がっていてください」

 乾は魔物から目を離さずに構えなおす。犬は身を起こし、牙をがちがちと鳴らせた。

 会長が立ちつくしたままなので、私は駆け寄って腕を取る。その時、彼の腰あたりでなにか硬い物に触れたようだったが、気に留めなかった。

「はやく! 会長、逃げて!」

「でも!」

 人面犬が駆けだし、乾の懐に入った。彼は腕を十字にして身を守るも、そのまま犬に押し倒される形となってしまった。犬は大人の手くらいあるかぎ爪で乾の両手首を捕らえ、彼の鼻面に食らいつこうと首を伸ばし牙を剥く。乾はとっさに顔をそらすが、露わになった頬は今にもえぐられそうだ。

「どけよ!」

 遠藤が物干し竿を手に走りこみ、人面犬の脇腹を突いた。

「ぎゃんっ」

 人面犬は悲鳴をあげて片足を乾から離して、横につんのめる。同時に遠藤の頭をつかもうとした。しかし遠藤はすばやく後退したので、爪は髪をすくだけにとどまる。

 その隙に乾は空いた手で魔物のこめかみを打ち、身体がゆれたところで腹を蹴り上げた。すばやく起きあがって身構える。そこで遠藤と目を合わせて、ふたりはなにも言わずに口端を上げた。

 私と会長はすこし離れた位置から格闘を見守り、犬から身を離したふたりに胸をなでおろした。魔物の全長は、立ち上がれば乾よりおおきそうだ。あのかぎ爪に一度でも引っかかれると重傷を負うだろう。

「どうしよう。なんかないかな」

「そうだ。少しは効くかもしれない」

 会長がポケットからあの根付けを出した。

「だめだよ! ヒビ入ってるから、もしかしたら壊れちゃうよ?! そしたら会長が」

 会長はいつもように困った顔で笑うと、真顔で私を見返す。

「僕のせいで友達がやられてるのに、今使わないと僕が後悔する。そんなの、いやなんだ。大丈夫。これがなくなっても武器はある」

「でも」

「取井。僕だけ生き残っても、誰もいなきゃ僕には意味がないんだ」

 私はなにも言えなかった。

 数メートル向こうでは、乾と遠藤にはさまれた魔物が、交互に爪をふりかざしては牙を剥いている。乾は拳を入れようとしては退き、遠藤は竿で振りはらう、埒があかない状態だった。

 突然魔物がふたり以外に頭を向け、後足を蹴った。残されたほうはあわてて後を追い、驚きの声を上げる。

「会長!?」

「吉備、逃げろ!!」

 忠告を無視して、会長はピッチャーのように根付けをふりかざす。そのまま人面の額に押しつければ、犬は倒れるはずだ。

 が、一瞬遅かった。人面犬は獣の早さで飛びかかり、会長の脇腹をかすめる。

 血の気が引いた私の耳に、こん、と小さな音が聞こえた。何か固い物がコンクリに落ちたらしい。

 会長は落とし物を捜すように周囲を見て、魔物をにらんだ。人面犬は黒く長い舌で口を舐める。

「吉備!!」

 遠藤が槍のように投げた竿はあっさりよけられ、より魔物が会長と距離を縮めるだけだった。乾が走っても、魔物はもう会長まで数歩のところにいる。助けが間に合わないのは一目瞭然だ。  あの根付けさえあれば。

 私は祈るように周辺を探し、すぐそばのマンホールに落ちている赤い珠を見つけた。飛びつくように拾ったとき、視界の隅で、魔物が跳躍するのが見えた。

 私の前で彼を消させない。せっかく闇から抜けて、一緒に戦えると思ったのに。一緒に日々を歩き出そうとしているのに。私が生き残っても彼がいなければ意味なんかないんだ。

「えい!」

 私は珠を渾身の力で投げた。

 根付けは乾と遠藤の間を抜け、今まさに会長をかぎ爪でひっかけようとしている人面犬の顔に当たった。

「ギャアアウオオオオ」

 魔物は片目から赤い血を吹きださせて転がる。

 乾と遠藤が驚いたように足を止めて周囲を見渡す中、会長だけが唯一わかっていたらしい。

「取井?!」

 彼の言葉に、ふたりも意外そうな顔で私を見る。

 私は右肩をおさえたまま薄笑いしながら、駆け寄ってくる三人に手を挙げて応えた。まるで腕に力が入らない。肩が抜ける、とはこういうことだったのか。

 これできっと大丈夫。あの犬は立ち上がらないだろう。だって珠が当たったんだから。

 しかし終わりではなかった。

「グルルウウアアアア!!」

 彼らをすり抜け、私に向かって影が飛び出してきたのだ。残った金目は怒りに満ち、耳をつんざく咆吼に私は悲鳴すら上げられない。二秒後には喉に猛禽類の足を押しつけられて、固くとがった爪が食い込み、コンクリに背中を強打して眼鏡が飛んでいた。

 巨体に全身をつぶされ、首も絞めらていく。苦しい。喉にかかるかぎ爪を取ろうとかきむしったが、ゆるむどころか力が入った。視界いっぱいの人面の顔もぼやけてきた。ぼたぼたと顔に落ちてくる熱い物は、魔物のよだれか、片目から流れ出る血か。苦しい。たすけて。

「やめろ!!」

 会長の悲鳴のような声がかすかに聞こえたが、耳鳴りですぐ聞こえなくなった。頭が拍動して割れそうに痛い。身体も勝手にびくびくとけいれんしている。もうだめだ。

 自分の手が落ちて、コンクリを打った。

 その時。

 のしかかっていた塊に大きな衝撃が走ったかと思ったら、消えた。

 同時にもっとも求めていたものが喉を勢いよく駆けぬけ、あまりの勢いに咳きこむ。耳鳴りが遠ざかり、おぼろげになっていた意識も次第にはっきりしてきた。誰かが上半身を助け起こしてくれて、手にも眼鏡を握らせてくれた。

「取井、大丈夫か」

 乾だ。

 なかなかおさまらない咳をしながら、かろうじて首を縦にふる。喉もお腹もじんじんと痛い。お腹あたりがぬるりとした。手をやるなり血に染まったので、ぎくりとする。怪我をしたかと思ったが、触っても痛みはなかった。

「なに……、これ」

「あれだ」

 乾はいつになく緊張した声で、遠くに目をやった。そばに立つ遠藤も同じ方向を見ているのに気づき、私は眼鏡をかけておそるおそる目線を追った。そして思わず乾にすがりついた。

「なにが」

 起こったの。

 二メートルほど先で魔物が腹から血を滴らせてうずくまり、私たちを守るように立つひとりの姿。

 右手ににぎったナイフを血に染め、肩を怒らせ、鬼気迫る背中で立ちはだかっている彼は、まぎれもなく吉備たずなだった。

「会長があいつに一太刀食らわせた」

「うそ……」

 見上げた乾はつらそうに会長の背中を見つめた。

 やさしくて、静かで、頭も良くて、怒った顔を見せたこともない、澄んだ声で話す物腰の落ち着いた生徒会長のはずだ。血に染まったナイフから一番遠いところにいる存在のはずだった。あんなに怖いことをする人じゃない。

 彼は勢いよく腕を振った。以前の姿から断ち切れ、とでもいうように降られた切っ先からは、血糊が飛んでコンクリに染みをつくる。私は自分が斬られたようで思わず目をつむる。

 怖い。ただ、怖かった。身体はふるえ上がり、目もそむけられず、声も出ない。これはまるで、保健室で味わった恐怖。それほど彼は豹変し、鬼に近いように感じた。

 人面犬が、地の底から響くような低く重いうなり声をあげ、ガチガチと牙を噛み鳴らしている。腹から多量の血が塊となって落ちた。

 彼が一歩踏み出す。

「グアウオオオオオ」

 獣はおそろしい咆吼を上げながら、頭から食らわんとばかりに襲いかかった。

 むかえ撃つ方はひるむことなく、開かれた魔物の口に右腕を根元まで突き入れた。咆吼が止み、一度大きく血を吐いた。彼は頭から血を浴びたのに、表情ひとつ変えもしない。

「僕の前では誰も殺させない。消えろ」

 冷たく言い渡すと、腕を一気に振り下ろした。人面犬はコンクリに叩きつけられ、さらに多量の血を吐いて、それきり動かなくなった。

 終わったのだ。


 彼がふりかえる。

「だいじょうぶ?」

 いつもの、澄んでいてやさしさを帯びた声だとわかっていても、私はうなずけなかった。私を支えている乾の手さえこわばり、遠藤すら側に行くこともしない。行けないのだ。

 そこにいるのは、私たちの知っている彼ではなかった。頭の上から浴びた血で全身を赤く染めた人間。いや、血を浴びた人型の魔物のようにも見える。

 私たちの反応に彼は表情を硬くした。視線を自分の服や手元に落とす。

「あ」

 はじめて自分の状態に気づいたのだろう。驚き、恐れたように後ずさった。血だらけの手に握られたナイフがすべりおち、金属音が閑静な住宅地に響きわたる。そのまま彼は弱々しく血の海の中でへたりこんだ。

 誰もなにも言わず、動こうともしなかった。

 私は彼を見つめながら、ぼんやりと今までのことを思い出していた。お茶を出せば笑ってお礼を言って、遠藤の冗談に一緒に笑って、乾の頑固さに一緒に苦笑していた。保健室でどんな話をしたんだっけ。あの時の会長が想像以上に力強くて、驚いたんだ。今も、どこから出したのかナイフで虎くらいある魔物を倒してくれた。

 私も彼の力になりたくて、このポジションにいるのに、今、助けずにどうする。彼は誰よりもショックを受けてる。こんなことするつもりなかったって顔をしてるじゃない。

 私は乾から身を起こした。血だまりの中で座りこんで放心している彼の元へ歩いていく。血が靴を濡らすのも構わなかった。

 怖くない。目の前にいるのは、うつろな目をして顔を返り血でぬらぬらとさせている、ひどく傷ついている人間のひとり、吉備たずなだ。

 右手をのばしたとき、自分の手も血だらけになっていることに気づいた。あわててセーラー服になすりつける。彼が私を助けてくれた証だと思うと、この血すら誇りに感じる。きれいになったのを確認して、あらためて手を差し出した。

「行こう」

 崩れたものは必ず修復できるはず。形は変わっても、強固になることだってある。

「会長。松雪寺に行こう。着替えくらいあるだろうし、私もこのまま家に帰るのはいやだから。もう六道先生も帰ってきてると思うし。そこでお風呂借りて、それからまた、一緒に帰ろう」

 遠藤がやってきて、私の横に立つと同じように手をのばす。

「吉備、行こうぜ。手かせよ」

 それでもぼんやりと見上げるばかりなので、ふたりで息を合わせて引っぱり、肩に腕を回して立たせた。身体に力が入らないらしい。

「大丈夫か」

 乾がナイフを拾って近づいてきた。難しい顔つきをしていたが、さっきに比べたらだいぶ表情が和らいでいる。

 乾はナイフを彼の眼前に差し出した。彼はナイフを恐れているかのように、身体をびくりとさせ、支えている私たちまでよろけた。

「バカ、それ早くしまってよ。まるでいじめてるみたいじゃない。それともなにか言いたいことでもあるわけ?」

「おい、もういいだろ」

 遠藤も同意し、乾はナイフを下げた。拾ったのだろう、そのまま鞘に納める。

「……ごめん」

 彼の消え入りそうなつぶやきに、誰もなにも言わなかった。彼はなにも悪いことをしていない。それなのになぐさめの言葉すら浮かばなくて、私はなぜか泣きそうになった。

 ふいに、乾は会長の頭をなではじめた。泣いている子供をなぐさめているかのように。

「会長、戻りましょう」

 彼は小さくうなずいた。

 会長を乾にまかせて、遠藤は全員の鞄を回収し、私は携帯電話を取り出す。お寺に行くなら、先に電話を入れるのが約束だ。

「あれを見ろ」

 乾が顎で指したものを肩越しに見ると、魔物の身体が血の色で泡立ち、沸騰しながら地面に消えていった。あとにはべったり広がった魔物の血が残っているだけ。

 私たちは早々にお寺に向かった。すこしでも早く、血溜まりから逃げたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る