10-3 陰謀のことわり
リンの首筋に剣を貫き通したと思った瞬間――。
――ダメよっ。坊や――
頭の中に、大音声が響いた。一生で聞いたことがないほどの音量で。
思わず気が遠くなる。ふと気づくと、リンの首を貫いていたはずの
リンは目を見開いている。初めて感情を露わにした瞳で。悲しみの感情を。
瞬時に、
「リン……お前」
かろうじて、声が出た。
「わざと……だな。……俺に負けようと。たとえ殺されても」
「伊羅将……。お前なんか、嫌いだ」
リンの瞳が潤む。涙が一粒、筋を曳いた。
「伊羅将……。大嫌い。初めて会ったときから、ずっと……ずっと大嫌い」
涙の粒は次々にあふれ、和毛の上を転がり落ちてゆく。陽光に輝きながら。
ニセ告白のために「つるっぱげ銅像」前で睨んできたリンの姿を、伊羅将は思い出した。思えば、あれがすべての始まりだった。あれから、随分遠くまで来てしまった……。数か月も経ってないのに。
「仕方ないだろ。……嫌いになっちまったんだからよ」
泣きながら、リンは、なんとも表現のできない笑みを浮かべた。悲しげな。あるいは楽しげな。
リンの言葉が、不意に頭に浮かんだ。あの王宮裏の丘の上、それに諫早との紳士決闘の控室――。「お前のためなら死んでもいい」、それに「彼氏であるお前を傷つけるくらいなら、あたしは死ぬ」だっけか……。
――あの決意そのまま、言葉どおりに実行したってのか。リン……。
「リン。お前……馬鹿だろ」
寝転んだまま、リンは黙ってこちらの顔を撫でた。ぽつりと呟く。
「ごめんな、斬っちまって。……痛かっただろ」
異様なほど静まった聖地を、風が抜けた。削ぎ取られたリンの体毛が、風に飛ぶ。薫風が、森のいい香りを運んでくる。上空を飛ぶ小鳥の、楽しげな啼き声が耳に入った。
リンの手を頬からそっと外すと、伊羅将は、自分の体を調べた。リンの斬撃で、腹には二十センチほどの裂傷が生じていた。だが、内臓まで達してはいない。激しく痛むが、傷自体は皮膚と脂肪層で留まっている。おそらく、リンが絶妙に手加減したのだ。自分を限界まで追い込み、本気にさせるために……。
血がしたたって、また、リンの体毛に染みを作った。
「平気さ。……加減してくれたんだろ」
「伊羅将。お前……噛み付くなんて、猫又かよ」
初めて、リンらしい笑顔となった。
「噛み付きは、お前に訓練されたしな。体中噛まれて、コツを掴んだ。それに――」
リンの涙を、手で拭ってやった。
「猫又の噛み付きは、愛情表現だ。そう、お前も言ってただろ」
「伊羅将……」
また、涙があふれた。
伊羅将は、右手の花摘丸に目をやった。
「今の声は、お前だな。お前が剣先を逸したのか」
と、また脳内に声がした。今度はささやくような。
――だって坊や、リンちゃんを殺すところだったじゃない。未熟な子ねえ……。剣筋から、彼女の意図を読み取れないなんて――
「ほっとけ。……だが、ありがとう。我を忘れてたよ」
魂を秘めた短剣というのは、真実だった。まさかテレパシーだかなんだかまで使うとは思わなかったが……。
独り言を呟くこっちを見て、リンは不思議そうな表情だ。手を貸して、立たせた。聖地がざわめく。
「止めだ止めっ」
伊羅将は声を張った。叫ぶと腹筋がひきつれて腹が痛むが、とりあえずそれどころではない。
「おかしいだろ、こんなの。自分の意志に反して、無意味な決闘するなんて」
剣を振ってみせた。
「俺はやだね。ネコネコマタの伝統だかなんだか知らないけど、そんなのクソだ。あほらしい」
「決闘を続けよ」
主審と思しき人物が叫んだ。
「はあ？ おっさん、あんたも伊和とかいうハリマのクソ野郎の手下かよ。それとも賄賂でももらってんのか」
「ぶ、無礼者」
「伊和。出てこいや。どうせ見てるんだろ。卑怯者らしく聖地のどこか隅っこで。お前となら戦ってやんよ、この場で、命を懸けて」
返事はない。聖地は異様にシーンとしている。腹の奥から突き上がってくる感情に任せ、伊羅将はいっそう声を張り上げた。
「いいか、ハリマの伊和って野郎は、ハリマ族長の座を狙ってる。そのために族内の人気取りの、こすい手段を思いついた。王家に取り入るニンゲン奴隷を罠にはめるってことさ。ナベシマの有力氏族、
聖地にざわめきが広がった。
「ううう嘘つけっ」
叫び声。
最前列から、諫早が場内に乱入してきた。きっと、特等席で「奴隷野郎の絶命」でも楽しんでいたのだろう。
「お、俺はなにもバラしてなんかないぞっ」
「バラすって言ったな、お前」
伊羅将は、花摘丸を突きつけた。
「それは陰謀があるからこその言い方じゃんか。陰謀が事実無根なら、初耳だとかなんとか釈明するはずだ」
場内に唸り声が満ちた。
「待たれよ」
ひときわ通る声。見ると、天蓋付きの貴賓席。老人が立ち上がっている。男子の貴族正装より、さらに豪奢な服を身にまとっているから、かなり上位の人物だろう。
「わしはハリマ族長、
王家の席に向かい、うやうやしく一礼すると続ける。
「先般、畏れ多くも畏くも、神辺澄水統合王からの早使いを賜った。ハリマ族内に存在する、邪悪な陰謀に関する件で。……すぐには信じられない内容であった。族内の団結を揺るがす話だったでな」
老人は、場内を見回した。年相応に痩せてはいるが鋭い瞳を持つことが、離れていてもよくわかった。
「……だが本日の決闘の経緯。それになぜか日程が早まったこと。さらに龍造寺諫早殿のただ今の言動など見る限り、国王のご箴言を否定する卑小な心は消え去った」
右手、諫早が飛び出してきたあたりの後方を、ハリマ族長は睨んだ。
「伊和よ……。
後方、柱の陰から、不承不承といった体で、ネコネコマタ貴族が姿を現した。太っており、貴族正装がはちきれんばかりだ。
「族長。そうおっしゃられましても、この伊和、なんのことやらさっぱり……」
静まり返った聖地に、とぼけた声が響く。
「では、お主は無関係と言うのだな」
「しかり。団結を誇る我がハリマ族内には、そもそも陰謀などないと信じまする」
同意の声を求めてか周囲を見回したが、聖地は異様な静寂に包まれたままだ。
「……ですが、もし……。もし……陰謀があるとするなら」
聖地の様子を見て取ったからか、付け加えた。計算高い男だ。
「……もし陰謀があるとするなら、そは龍造寺家の諫早、その父親の
「そ、そんな……」
諫早が飛び出してきたあたりの観客席から、貴族正装の男がひとり、フィールドに入り込んだ。
「伊和様。あなたのご指示ではないですか。私はあなたに脅迫され、やむなくシナリオを描いただけ。実行部隊はすべて、あなたがお膳立てしたものでしょう」
龍造寺多良見。間違いないだろう。ハリマ族長席をチラチラ見ている。媚を売っているつもりか、むりやり笑っているが、目がマジだ。
「赤松様。伊和様の陰謀で間違いございません。その証拠も保管してありますゆえ」
「き、貴様。あれだけ取り立ててやったというに、裏切るのか……」
伊和の叫びに、どこ吹く風といった表情を浮かべた。
「ハリマを裏切ったのは、伊和様でございましょう」
「もうよい」
一声制すると、ハリマ族長は、国王席に向き直った。
「澄水王。この度は、わしの不行き届きで、醜い争いをお見せいたして恐悦至極。この不始末の償いは、いずれ必ず……。本日はこれ、この不届き者どもを捕縛していただければと。ハリマ族内の沙汰はお任せあれ。わしの命と赤松祖霊に誓って、必ずや蛆虫どもを叩き出す所存」
「この果たし合いに、祖霊の
通る声で宣告した。
「ゆえに決闘申し込みは無効とする」
おおーっというどよめきが、聖地に広がった。
「伊和、龍造寺の両家一族郎党は、今この時点より、族内謹慎。伊和住吉殿と龍造寺多良見殿、龍造寺諫早殿は捕縛。調べ処による調査終了まで、王宮にて蟄居預かりとする」
「くそっ！」
伊和が叫んだ。
「元はと言えば、排除すべき奴隷ニンゲンを王家に迎え入れんとする澄水王の乱心。こちらに非はあらず。ネコネコマタ貴族の皆、我に続けっ」
長剣を抜いた。
周囲、彼に従う一族も剣を抜いて続く。フィールド内の龍造寺諫早と多良見も、嫌々といった体で抜いている。
しかしそれだけ。多く見ても、わずか数十人だ。すでに精鋭近衛兵が百人規模で観客席に包囲網を敷きつつある。
「くそっ。どいつもこいつも腰抜けめっ。ネコネコマタには、私が革命を起こす。国王さえ亡き者にすれば、王家の聖地にある『禁忌の鍵』が外れるからなっ！」
太った体から、伊和が大音声を上げた。
「こんなこともあろうかと、仕込んでおいてよかったわ。……行けっ！」
突然、伊和の側の聖樹のウロが開いた。中からなにかが飛び出してくる。なにか……輝く物体が。
とっさにリンをかばう位置に立ち、伊羅将はその「物体」を凝視した。
今、はっきり見えた。全高二メートルほどの、クラゲのような形。砲弾型の金属と思しき表面には、渦巻きに似た文様が描かれている。多分、呪紋だろう。似たものを見たことがある。バッタかカマキリに似た脚部を四本持ち、上部からは腕部と思われる長い金属が、これまた四本。それぞれに長い剣が固定されている。
中央部はガラス状のスケルトン構造になっており、どうやら液体で満たされている。頭部らしきものが、液体内で固定されているようだ。ゆらゆらと、黒い毛が液体内で揺れていている。七三分けの髪型が……。
「まさか……」
伊羅将は絶句した。
『ケケケケ、ケッ』
身の毛もよだつ叫び声だか笑い声だかが、その化物から上がった。スピーカーなど見えないから、呪力的ななにかなのだろう。
「まさか……お前、サミエル……」
吊り上がり、憎しみにあふれた瞳。嘲笑の形にひん曲がった唇。殴られて切れたままの頬。――間違いない。あれはサミエルだ。サミエルの生首が、「化物」内部に固定されているのだ。
『ににに憎い……憎くくくい……。ネコネコマタもニンゲゲゲンも……。花音……伊羅将。こここ国王……。すべて殺すっ』
死体のように、瞳が濁っている。その瞳で、「サミエル」は国王を睨んだ。
『しししし死ねえいっ！』
頭部が割れると、まばゆい光があふれた。奇妙な轟音も。
煙を曳きながら、なにかが発射された。砲弾らしきものが。おそらく呪力が秘められている。ゆらゆらとさまようように飛んでいるから。「サミエル」の周囲を一周すると、ターゲットを発見したのか、一気に加速して玉座に向かった。澄水王だけでなく、王妃や花音、陽芽が座る貴賓席に。とっさのことで、まだ国王の退避は始まっていない。
澄水王が立ち上がった。すでにすぐそこ、数メートルにまで近づいた「呪力砲弾」を睨む。殺せるならやってみろと言わんばかりに。
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