10-2 逆襲の蓋然性
「敵」の動きを、しっかり見なくては――。
目を見開くと、集中力を高めるため、
突っ込んできたリンが、三メートルほど手前で、高く跳躍する――。
――来るっ!
跳躍したリン。限界まで伸ばした体のライン。陽光に体毛を黄金に輝かせている。
――きれいだ……リン。
場違いな言葉が湧いた。
伸ばした体を縮めるように動かしながら、殴ってくる。
「うわっ!」
必死で花摘丸を振り回した。想定内だったのだろう。体を捻って、短剣の剣筋を器用に避ける。捻りを利用し、回し蹴りの要領で、こちらの左腿を蹴ってきた。
「くそっ」
なんとか立ち上がる。無我夢中で剣を構え直して見ると、リンはまた距離を取っていた。なぶり殺しにするつもりかもしれない。
――痛え……。
たった一撃受けただけなのに、左脚が痺れるように痛む。もう迅速な移動はしにくくなった印象だ。自分の情けなさに、絶望的な気分だった。
また突っ込んできた。跳躍する――と見せかけて、思わず踏ん張って動きが鈍ったこちらの逆をついて走り込み、今度は右腿を蹴ってきた。
なんとか倒れずに済んだが、もう走るのは無理だろう。両腿の筋肉が痛む。
――リンの奴。斬撃リスクを減らすため、こちらの動きを封じたんだな。
わかってはいても、どうしようもない。すでに相手の戦略は成功している。
ひょこひょこ動く手負いの獣のような奴隷ニンゲンを見て、観客が喜んでいる。自分を応援してくれる声は、背後からのレイリィと瀧のみだ。花音も陽芽も、王族としての立場からだろうが、静かに王族席に腰を落ち着けている。
動きが落ちたのを知ってか、リンは三メートルほどの位置まで近づいてきた。様子を探っているのだろう。声を掛けるべきかどうか、伊羅将は迷った。
だが、掛けるにしても、なんと言えばいいのか。今さら「決闘は止めよう」か。それとも「急所を外してくれ」か……。どんな言葉も、相手の心には響きそうにない。瞳を見れば、それはわかる。もう悲しみも、それに憎しみすらもない。心を感じない。肉食獣が獲物を狙うときの、ただただ本能に支配された瞳だ。
――リンはすでに自分の心にケリを着けて、決闘に臨んでいる。
そう感じた。それこそが、物部伊羅将の尊厳を最後に守る手段だと考えたのかもしれない。決闘相手に対する、愛情だと。戦闘部族たるナベシマの、最大限の敬意だと……。
――なのに俺は、まだ迷っている。決闘だけの話ではない。この世界にどう対応していけばいいのかと。自分の心すらまともにコントロールできないのに、リンが象徴する異世界と――異種の妖怪の世界と折り合いを着けろというのか……。
こちらの逡巡など気にもせず、リンはまた突っ込んできた。剣筋から逃れるためだろうが、右に走りこちらの左半身側から。信じられないほど脚が高く上がると、頭を狙ってきた。
「わわっ」
かろうじて頭への打撃は避けたが、左肩を痛打された。思わずよろめいたところに、今度は背後から背中への強い蹴りを受ける。
バランスを崩し、また倒れた。花摘丸が手から離れ、転がる。
「くそっ」
なんとか仰向けになってリンを見た。絶好のチャンスだが、襲っては来ない。静止したまま、こちらを睨んでいる。
――リン?
右手を上げると無言のまま、リンが花摘丸を指差した。どうやら拾えということのようだ。
体中が痛い。よろけるようにして、花摘丸を拾った。リンに向き直ると、リンはこちらに背を向けた。もはや襲いかかるだけの余力がないと見て取ったのだろうか。そのまま頭上で手を打ち鳴らす。応えるようにして、満場から手拍子が巻き起こった。「ニンゲンを殺せ」という声が、あちこちでする。
「くそっ」
――これではまるで闘牛だ。観客の楽しみのためだけに、なぶり殺しにされる。……そして哀れな牛はもちろん、この俺、
初めて、伊羅将は憎しみを覚えた。リンに。ふたりでなんとか生き残りたいというこちらの願いも知らず、お気楽に観客を煽っているリンに。
「やるってのか、リン」
思わず口に出た。そっちがその気なら、自分だって、むざむざ殺されはしない。少なくとも……死ぬ前に一撃くらいは食らわせてみせる。
こちらの呪詛が届いたのか、リンが振り返った。残忍な笑みを浮かべて。
「くそっ」
こちらから攻撃に出た。脚がなるだけ痛まない方向に進んで、リンの左脚を狙って花摘丸を突き出す。少しでも傷を負わせられたら、動きが鈍るはず――。
だが目論見は潰えた。体勢が崩れたところに付け込まれ、また左脚を攻撃され、倒れる。
今度は、距離を取りもしない。倒れたところで右手の甲を蹴られ、思わず落とした花摘丸を、リンは遠くに蹴飛ばした。そのまま、体幹を中心に執拗に蹴ってくる。体を丸めて頭を抱え込み、なんとか腹と頭への打撃を軽減させようと、伊羅将は努めた。それが精一杯だ。
どのくらい攻撃されていたのか。一瞬、気を失っていたようだ。ふと気づくと仰向けに倒れていて、体中に激痛が走っている。リンは見えない。異世界の太陽がぽかんと浮かぶ空を、自分は見上げている。
頭を起こすと、リンが花摘丸を拾ったところだった。何度か振ってみている。確かめるように剣筋を太陽にかざしていたかと思うと、こちらに視線を戻した。
瞳に殺意が浮かんでいる。闘鑼との鍛錬で、殺気を感じた。あれ以上だ。リンが剣を高々と掲げると、観客席の興奮がピークを打ったのを感じた。とてつもない歓声――もはや騒音だ――が聖地を包んでいる。
――殺りに来る。間違いない。
伊羅将は、腹をくくった。急所を避けて生き残るなど、無理だ。こちらの甘い戦略など通用しない。なにしろ向こうが強すぎるし、こっちはもうヘロヘロだ。
――急所を避けるように腹を出すなんて……。なんて大笑いの戦略を、真面目に考えていたんだ、俺。
ふと、真実に気づいた。きっと闘鑼は、こちらの死を確信していたに違いない。それで俺が絶望に沈むのを避けるため、お情けとして、希望を与えてくれたんだ。
実際、自分はそれにすがっていた。だから心が耐えられた。しかしもう無理。圧倒的な力量差。それはどうしようもない。
なんとか立ち上がった。それを見て、リンが、頭を傾げて首を鳴らした。一歩踏み出す。二歩、三歩――。また跳躍した。
「彼氏」であるこちらを苦しませないため、即死させやすい刺突で来る――そんな見込みは外れた。腹を狙い、水平に斬撃してくる。これではどちらにしろ、奇跡が起きたって急所を避けるのは無理。無様に内臓を満座に晒して失血死するだけだ。
最後の力を振り絞った。剣筋が届く瞬間、腹を凹め背後に飛ぶように避ける。だが、リンの剣筋は、信じられないほど伸びた。体が柔軟だからだろう。服が切れ、激しい痛みが体を走った。
――やられたっ!
もうヤケだ。どうせ自分は死ぬ。剣を振り切ったリンの手にかじりついた。
逃げてもどうせやられる。リンは女子だから、力自体はさほど強くない。剣を奪い取れればチャンスはある。間合いはゼロ。いくらこちらがヘナチョコ剣士だろうと、距離ゼロなら、なんとかなる。奪い取ったら攻撃すればいいのだ。腹を割かれた自分は死ぬだろうが、無念の一撃を与えることはできるかもしれない。
そのまま、ふたり倒れた。転がるようにして、剣を奪い合う。こちらの血が、リンの体に、鮮やかな飛沫を描いた。
――なんとか、失血で力が抜けてしまう前に……。
転がって偶然、体が上に来た。マウントを取る形。目の前の右手に噛み付いた。リンがうめく。固く握られていた拳が開いた。
――今だっ!
花摘丸を奪い取る。そのまま体を起こすと、逆手に構えた花摘丸を、体重をかけるようにして、リンの首筋にまっすぐ突き通す。
はっきりと、食い込む手応えがあった。
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