08-5 ヒトマタタビ幻想

 花音は、少し照れくさげに見えた。


「レイリィかと思ったよ」

「レイリィさんは、今晩は来ないと思うよ。陽芽が――」

「そういや、なんか悪だくみしてたな。ふたりで。……なんか知ってるのか」


 困ったような笑みを、花音は浮かべた。


「とりあえず、入っていいかな」

「あっごめん」


 部屋に通すと、手を伸ばしてきた。


「はい。あーん」

「なに?」

「あーん……」


 なにか持っている。白い錠剤かなにか。小さいから、ミントタブレットかもしれない。

「あ、あーん……」

「はい。イラくん」


 それを口に入れてきた。たしかにミントっぽいハーブの香りがする。


「ごっくん」

「えっ」

「ごっくん。舐めないで」


 言われるがまま、唾液で飲んだ。清涼な香りが、喉を通って降りていく。


「……なんだよ、これ」

「お薬だよ。落ち込んだ気分を、少しだけ変えてくれる」


 こっちが飲んだからか、少しだけ安心したような表情だ。


 ネコネコマタの国にある、精神安定剤のようなものかもしれない。お茶を淹れると、おいしそうに、花音は飲んだ。学校の話が始まった。友達の行動や、先生の面白エピソードとか。リンと自分の命の懸かった状況で、正直、そんな気分ではなかったが、聞いているうちに、たしかに少しだけ苦しい気分が薄らいだ気がする。


「なぐさめに来てくれたのか」


 頃合いを見て、そう尋ねてみた。


「そうだね……」


 少し考えていた。


「それもあるし。花音の決意も」

「決意?」

「うん……」


 じっと見つめてくる。


「今、事態は大きく揺れているんだよ。イラくんを護ろうと、みんなが動いてる」

「そう……だろうな。王室の危機管理もあるだろうし」


 午後の会議を、伊羅将いらはたは思い返した。


「王家なんて、どうでもいいよ」


 真面目な瞳になる。


「ねえイラくん」


 手を握ってきた。


「陽芽は、掴んだ情報を元に、陰謀を辿ろうとしてる。万一決闘になったときを考え、闘鑼はイラくんを鍛える。瀧くんは、情報や古の秘密を陽芽に提供しているよ。それに、レイリィさんも……」

「まあ、そうだろうな」

「それはね、王室のためじゃないよ。みんなイラくんとリンちゃんを救おうとしてるんだよ。花音もおんなじ」

「ありがとうな。花音」

「花音の気持ちは、もう伝えたよね。あのクルメの里の、露天風呂で」


 黙ったまま、伊羅将は頷いた。サミエルとの陰謀結婚を前に、自分にできる精一杯の気持ちを示してくれた花音の姿は、心に焼き付いている。自分の心は永遠にイラくんと共にあると、言ってくれた。大切な思い出だ。


「その気持ちは、今でも変わらない。花音にとっていちばん大切なもの。それはイラくんだよ。王家なんて、どうでもいいの」

「でも、お前は第一王女だろ。そんなとんでもない発言、誰かに聞かれたら超大事になるぞ」

「いいんだよ。花音は廃嫡されて、王位継承権を失ってるし」


 微笑んだ。


「それになにより、あの婚姻の場で、花音は永遠にイラくんのものになった。呪法のためだけじゃないよ。花音の望みでもあるもん。ねえ……」


 じっと見つめられた。


「あと二日で、決闘撤回の期限が来る。それ以降は、どんな理由であれ、どちら側からも撤回はできない。……だからね、最悪の場合、逃げちゃえばいいよ。レイリィさんに命令を出してもらって」

「でも、それだと王家が――」


 唇を指で塞がれた。花音の瞳は潤んでいる。悲しみからではなさそうだ。


「そうなったら、イラくんはネコネコマタの世界には二度と入れないと思う。不名誉極まりない逃亡だから。……でもいいの。罰を受けるわけじゃないし。花音も里には戻らないから。ねっ、ここ日本で生きていこうよ。花音だって働ける。こう見えて、お勉強、けっこう好きなんだ。ふたりはいつでもいっしょだよ。王家やお父様、それに国のみんなと別れてもいいよ。だってイラくんが大好きだから……」


 ゆっくりと顔が近づくと、キスしてきた。熱い唇と吐息を感じる。なにか奥深くでストッパーが外れて、伊羅将は興奮してきた。頭が少しくらくらする。花音やリンとキスをしたことはあるが、こんなに心奪われるような体験ではなかった。まあ、夢の中のレイリィのキスを除けばだが。


「花音……」


 唇が離れてからも、花音は体を密着させたままだ。温かな体を感じる。花音が服の飾り紐を引くと、どういう仕組みか、前がはらりとはだけた。こちらの手首を優しく握ると、裸の体へと手を導く。柔らかく、吸い着くような肌だ。


 こらえきれない欲望が、体を芯から貫いた。


「花音。お前今日は発情してないだろ」


 自分でも声がかすれているのがわかる。どえらく恥。


「なのに、なんで――」

「花音の気持ちだよ。それに、さっきのお薬……」


 くすくす笑うと、胸が揺れた。


「あれ、ヒトマタタビだよ。気分を落ち着け猫アレルギーも和らげるけど、最大の効果は……」


 自分の手が、意志に反して勝手に花音の体をまさぐる。ぴくりと震えると、花音は吐息を漏らした。


「もうわかったよね。イラくん。……花音は永遠にイラくんのもの。それを確かめ……て」


 また唇が塞がれた。現実の表面を、薄い膜が一枚、また一枚と覆っていく。伊羅将の意識は次第に混濁してきた――。


 その後のことは、明確には覚えていない。夢を見ていたかのようだ。ふたり裸で抱き合った気がする。柔らかな花音に抱かれて、なにか熱いものでくるまれて。花音の涙が頬を流れるのを見た。愛しげに自分の体に手を回す姿も。これが、愛なのか――。頭の隅でかろうじてそう感じたまま、伊羅将の意識は幸せな混迷へと落ちた。


          ●


 目が覚めると朝だった。寮母室には窓がないので明るくなったかはわからないが、小鳥の啼き声が聞こえてきたから、夜明けだろう。


 意識がふと戻ると、部屋は真っ暗だ。自分が多幸感に包まれていることに気づいた。


 ――なにがあったっけ、昨日。


 たしか花音が訪ねてきて、学校の噂をして。そして――。


 急に記憶が蘇った。そう、ヒトマタタビだ。そのせいか細部は思い出せないが、なにが起こったかは、わかる。というか、一生忘れられないはずだ。


 横から寝息が聞こえた。温かな体が、寄り添うように自分に絡んでいる。


 ――夢じゃ……ないんだな。


 無意識になにかもぐもぐ呟くと、しがみつくように密着してきた。


 ――花音。


 愛しさで心が溢れた。王家も国もすべて捨てて、ついてきてくれる。異世界の第一王女は、そう誓ったのだ。


 柔らかな体を思わず抱き締めると、花音はうっすら瞳を開いた。


「痛いよ、イラくん」

「ご、ごめん」

「イーラくん……」


 体を起こすと、キスしてくる。甘い感触。


「あっ」


 花音が体を離した。


「やだ。また――」


 くすくす笑っている。


「よく効くなあ、ヒトマタタビ」

「薬盛るなんて、花音も悪いとこあるんだな」


 とりあえず照れ隠しに、そう答えた。


 王女の地位を捨て、花音は決意を示してくれた。決闘から逃げてもついてきてくれると。それは最悪の選択だろうが、少なくとも自分もリンも命が助かる。自分の名誉は王室の権威と共に地に落ちるだろうが、大海崎家は不戦勝でその地位を保てる。


 ――最悪、そこを撤退ラインにすればいいんだ。俺は、本来の目標、つまり陰謀の打破を目指せばいい。それでこそ、真にリンも自分も、それにネコネコマタも救えるんだから。そうさ。絶望的な状況から、花音の陰謀結婚を阻止した。あのときとおんなじさ。


 なんだか、昨日までの自分から生まれ変わったかのようだ。なんというのか、男としての妙な自信のようなものを感じる。奇妙だ。きっとまだヒトマタタビが効いているのだ。


「全部、イラくんのためだよ。それに本当は……自分のためでもあるんだ。花音が幸せになるための、ワガママなんだよ」


 またキスしてきた。


「今日は闘鑼と鍛錬するんでしょ」

「ああ」


 決闘に向けた鍛錬だ。陰謀暴露が間に合わない可能性が高まりつつある。やるしかない。


「でもまだ早いよ。みんなきっと寝てるね」


 花音に引き寄せられた。


「イラくん……」


 吐息混じりに呟く。


「大好き」


          ●


 その頃、レイリィは夢の世界にいた。伊羅将のではない。ネコネコマタの。

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