07-4 一夜の夢
「リン……」
もう一度キスする。伊羅将は、トレーナーの裾から、そっと手を忍び込ませた。柔らかですべすべの腹から、次第に上へと――。
「ぷっ!」
リンがいきなり噴き出した。
「……なんだよ」
「くすぐったい」
「そうか――」
さらに進めようとした手は、リンにそっと押さえられた。
「やっぱいいや」
「はあ?」
「だってよ――」
横を向いてしまい、こちらに背中を見せた。
「もっとロマンチックなのかと思ってたんだ。なんだかフツーに触られるだけなんだな」
後ろ姿で告げる。
「そりゃ……そうだろ」
かろうじて、それだけ口にした。リンのほうがロマンチックと程遠かったせいだろ。そう、一瞬思った。でもそれは言わないであげることにした。意外にも、リンには妙に女の子っぽい瞬間がある。本質はそこにあるのかもしれない。
「ならもういいや。寝ようぜ一緒に」
こちらに向き直った。
「発情は」
「わりいな。あれは嘘だ」
「嘘……」
そう言えば、花音のときのように、いかにも「発情しましたよー」という反応じゃあなかった。
「からかったのか、お前」
「怒るなよ。違うし」
情けなさそうな、そして悲しそうな、不思議な表情を浮かべた。
「こっちも実家で揉めててよ。……ちょっと気晴らしがしたかったんだ」
「お前なあ……」
言ってはみたものの、リンが実家とやりあってるのは聞いている。きっとストレスも凄いのだろう。しかも原因は物部伊羅将、つまり自分だ。
「そうか……。そういやおかしいな。お前が本当に発情してたなら、俺は今ごろ猫アレルギーで大変だ」
「それもあるけど……」
悪い笑顔をまた浮かべた。
「さっきの茶な。あれに抗アレルギー剤、てんこ盛りにしといた」
「お前……」
「だからさ、香りが特段強い奴にしたんだよ。バレないように」
伊羅将は、思わず笑ってしまった。
「あきれたよ、リン。お前でも悪だくみって、できるもんなんだな」
「ごめんな、伊羅将。怒ったか」
素で、かわいい声だ。考えたが、怒りはぶつける場所が見つからなかった。それに薬の話が本当なら、リンは少なくとも途中までは本気だったということになる。からかったのではないわけだ。なんか損した気がして、妙におかしくなった。
「なっ。もう一度キスしてくれ。それで抱っこしたまま寝てくれよ。寒い夜にネコと添い寝するみたいにさ」
「五月だけどな」
ツッコミながらも、キスを交わした。
「はあ……」
長く続いたキスが終わると、リンは、うっとりと息を吐いた。瞳がとろんとしている。
「やっぱしようかな……」
「じゃあ――」
「止めるわ、未練になるかもだし」
「未練?」
「気にするな。気まぐれだ」
「なら仕方ない……」
なんか半端に何度も欲情したせいか混乱していたが、なんだか面倒になった。説得しても、リンはもう口説きには乗らないだろう。
「このまま寝るか」
伊羅将は心を決めた。欲望は押し潰して。なんとなれば、また自分で処理すればいいだけの話だ。いつものごとく。この夜を思い返せば、いいネタになるし。
体を密着させてきたので、手を回してやった。包むように。こちらの胸に顔を埋めると、リンがなにか呟いた。聞こえないほどの小声で。
「……なんて言った」
「なんでも……ない」
さらに寄り添ってくる。今度は体をずらすと、伊羅将の頭を胸に抱え込んだ。
「もう寝ろ。伊羅将」
それからもリンは、たあいない話を続けた。控えめとはいえ柔らかな胸が呼吸に揺れ、温かで強い鼓動を感じる。
どうでもいい話を聞き流しているうちに、疲れが癒され眠くなってきた。欲望はどこか、自分の知らない隠れ場所に戻ってしまったようだ。
次第に暗くなる視野の中、伊羅将は深い安らぎに包まれていった。
●
なにか夢を見ていた。気持ちいい夢。陽に干した温かで清潔な毛布にくるまれてまどろむような。
幸せを感じる――。
ぼんやり意識が戻ってきた。目を開けると、いつもの天井が見える。普段どおりの、男子寮寮母室の。
いい香りがする。甘く、心が安らげるような……。リンの匂いだろう。
「リン……」
ようやく頭が働き出して、伊羅将は思い出した。そう。昨日リンといちゃつきかけたものの、結局なにもせずに寝たのだった。
「リン」
横を向いたが、リンはいなかった。シーツに皺が残り、ブランケットが盛り上がってぽっかり空間が開いている。そこに誰かがいたと主張せんばかりに。
「……やっぱ夢じゃないよな」
ベッドの上に、伊羅将は起き直った。
「それとも夢かな」
なんだか変な夜だった。自分の年齢の男女が一緒に寝れば、普通はアレコレするはずだ。
――これからも、こうした自分でもよくわからない奇妙な経験が、何度もあるんだろうな。エッチなことに限らず。
ぼんやり、そんなことを考えていた。これが人生ってものなのか。学校の教師も父親も、こうした日々を過ごしてきたのだろう。それとも、ネコネコマタや仙狸と関わりを持った、自分だけの特異な体験なのだろうか……。
裏庭に通じるドアのノブが音を立てて回ると、誰か入ってきた。
「お兄様……」
「なんだ……もう鍵返せよお前。いつもいっつも勝手にさあ。鍵ないも同然じゃん。それに今日は週末だ。剣術の稽古ならきちんと行くからさ。頼むから、もう少しまったりさせてく――」
「稽古どころではありません」
緊張に、声が切迫している。
「一大事ですわ。火急の情報が入りまして」
「……なんだよ」
嫌な予感がする。寝間着代わりの安トレーナー姿のまま、起き直った。
「じきに、ここに公証人が来ます」
「交渉人? なんの交渉だよ」
「そっちでなく、公の証人です。決め事やプロトコルがきちんと守られるかを、担保する役職ですわ」
「ふーん……」
――なんだかよくわからないけど、まあいいや。
「なにしに来るんだよ」
「決闘ですわ」
ぶっきらぼうに口にする。
「そいつと? 誰が」
「お兄様が申し込まれるのです」
「またかよ……」
頭をかくと、思い返した。諫早との紳士決闘では、いろいろ嫌な目に遭った。もうやりたくはない。
「その公証人とかいう奴が相手か」
「違います。それに今度は本当の決闘。果たし合いですわ」
「果たし……合い?」
真剣な眼差しだ。冗談や嘘とは思えない。自分の鼓動が急速に高まるのを、伊羅将は自覚した。
「その……命の取り合いって奴か」
黙ったまま、陽芽は頷いた。
「相手は誰なんだ。まさかまた諫早の――」
「リンさんです」
「は?」
「
はっきりと、陽芽は言い切った。
「大海崎家からの、正式な申し込みです」
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