07 発情の「お相手」

07-1 モンスター急襲

「困ったなあ……」


 伊羅将いらはたは天を見上げた。


 旧鉄鉱山に向かい森を抜けて行軍していたが、皆とはぐれてしまったのだ。周囲を見渡しても頭上高くまで生い茂る木々が視野に入るばかり。おそらく皆が辿ったであろう獣道は見える。誰もいないどころか、音や気配すらない。


 王領鉱山を出発し、二時間ほど進んだだろうか。休憩の折にひとりトイレに立った。用を足して戻ったら、誰もいなかったのだ。


 最初は、全員魔物に襲われて消えたのかと焦った。だがすぐ思い出した。置いて行かれた経緯を。


 日没を考え、斥候隊は急いでいた。早足で追いつけ、この獣道を先に行く――と、隊長は言ったのだ。それを聞いて、自分たちも一時留まると、近衛兵は進言した。それを断ったのは自分だ。半人前扱いされるのも申し訳なかったから。それに斥候隊のひとりが、靴ずれを手当てするから自分も残ると申し出たし。


 ――てっきり一緒に立つと思っていたのにあいつ、なんで先に行ったんだ……。


 そう、高杉の奴だ。たしかに慣れない衣服で用足しに時間がかかったとはいえ、待ってくれていてもいいじゃないか。やっぱりニンゲンを卑下しているのだろう。ふたりっきりで歩くのが気詰まりだったのか……。薄情な奴だ。


 高杉が腰掛けていた岩の上に、炭のようなものが残されていた。香りが強い。おそらくこれが、靴ずれ手当ての薬かなにかなのだろう。


 念のため大声で呼んでみたが、返事はない。声に鳥が飛び立ち、かえってこっちが驚いただけだ。


 ――レイリィの根付を持ってくればよかったか……。


 悔やんだ。あれさえあれば、レイリィと魂が繋がる。こっちの状況は向こうから見えるはずだ。花音経由で隊長まで連絡を通じてくれるに違いない。


 検討してはみたのだ。ただ、ただでさえネコネコマタに嫌われているのに、さらに宿敵たる仙狸の気配を持ち込むことに、なんとなくためらいがあった。


「ま、いいか。この道を進めば追いつくんだ。隊が道から外れる場合は、そこで誰か待っていてくれるだろうし」


 早足で辿れば、すぐ追いつくだろう。なにしろせいぜい十分かそこら先行されているだけだし。それに大声で叫び続けて、変に妖怪を呼び寄せるのも嫌だ。


ほっと息を吐くと気持ちを切り替え、伊羅将は歩き始めた。


          ●


 二分も進んだだろうか。背後に音がして振り向くと、休憩場所になにかが見えた。なにか蠢く影が。岩に残された、高杉の薬を嗅いでいる。


 体長は二メートルくらいだろうが、尾を含めると三メートルは超えていそうだ。尾……そうだ。尾だ。そいつが生えていて赤錆のようなくすんだ体色。おそらく赫蜥蜴だろう。サイズと体色からして、きっと成体だ。


 体長に大小があるから、つがいかもしれない


 あわてて太い樹木の後ろに隠れた。心臓が割れんばかりに鼓動が高まっている。急に手のひらに汗が噴き出してきた。


 こっそり窺うと、まだ連中、例の薬を嗅ぎ回っている。大きなほうがひとくちに食べる。大きく裂けた口は毒々しい赤色。白く鋭い牙が見え、恐ろしくなった。


 周囲を見回し始めたので、また隠れた。直接見られないよう注意して、こちらもあたりを観察する。


 静かだ。動きはない。


 どうやら他には個体がいないように思える。まあ連中が叫んで仲間を呼び寄せる可能性は否定できないが……。


 ――どうすればいい。


 必死で考えた。


 木に登って隠れるのか。でも音で気づかれそうだし、この木には、足がかりになる枝もない。それに木登りなんか、ガキの頃この方、やったことないし。


 なら走って逃げるか。それともここで隠れおおすか。


 呼子を吹く手もある。二キロ四方には届くと言われた。気づいた先行隊が戻ってくるはずだ。しかし呼子を吹けば、もちろん相手にも気付かれる。無駄に危険を冒すのは避けたい。


 なにしろ一対二。こちらはただのガキだし、向こうは言ってみれば猛獣だ。ヒグマ二頭に襲われたとしても、この短剣一本ではおそらく殺されてしまうだろう。


 ――とりあえず落ち着こう。


 深呼吸して考えた。


 30分くらいここに隠れてやり過ごす。それがいちばん安全な対応策だ。連中が消えたら、急ぎ足で先行組を追う。それに自分がいつまでも現れなければ、誰かしら探しには来るだろう。だからすぐ会えるはずだ。


 やり過ごせずに見つかれば……。見つかれば……。もし……見つかれば……。


 どうしても、考えはそこで止まってしまう。


 どうしたらいいのか。戦うしかないのはわかっている。妖怪と言えども、相手は知性のないタイプ、言ってみればモンスターに近いと聞いた。話し合いなど無理だ。


 ――でも、どうやって戦えば……。


 こないだのような「おぼっちゃま決闘」ではない。ガチに殺しにくる。しかも二体。同時に飛びかかられたら、対処できるとは思えない。


 陽芽に提供された妖怪情報を、必死に思い返した。赫蜥蜴はたしか、つがい同士、強い絆を持ち、常に一緒に行動する。攻撃は咬み付き。大きな妖怪に襲われると尻尾を切り、囮として放置して、身軽になった体で遁走する……。


 むりやりいいほうに解釈してみた。一体さえ制圧できれば、勝つのは無理でも、逃げる隙くらいは生まれそうだ。今はそのチャンスにすがるしかない。


 ――なら、どう戦う。


 伊羅将は必死に考えた。


 ――まず剣で相手を威嚇する。怯んだところで一目散ってのはどうだ。でも相手は素早いと聞いた。追いつかれそうだ。


 なら威嚇後に振り回しながら後じさりする。相手が諦めればいいのだ。勝つ必要はない。こちらのほうが、生き残りの可能性は高そうだ。


 もしそれでも襲ってきたら……。よくわからないが、そうなれば、とにかくやるしかない。


 これ以上、自分には戦略が検討できない。そう考えた伊羅将は、心を決めた。いざというとき迷うのがいちばん危険だ。今はただ、決めた方針に従って行動するだけだ。


 木陰からわずかに顔を出し、様子を探ってみた――ら、二体がこちらに向かい、素早く這い寄ってくるところだった。


 ――み、見つかった!


 もう隠密行動は意味がない。肺も破れよとばかり、思いっきり呼子を吹いた。


 ともかく逃げる。恐怖のせいか、なんだか現実感がない。駆けているのが夢の中のようだ。ただ自分の荒い息と、下草をかき分ける音だけが聞こえてくる。


 走りながら振り返ると、連中、ところどころに突き出た岩の前で立ち上がり、避けてからまた四つん這いになっている。どうやら直立での高速移動は苦手のようだ。


 追いつかれそうになると、岩場を選んで進んだ。すごく長く感じたが、おそらく一、二分だろう。息が切れめまいがして、立ち止まらざるを得なかった。連中は二十メートルほど向こう。もうすぐ追いつかれる。


 やるしかない。鍛え方が足りなかったなどと、今、後悔しても意味はない。生存を賭け、互いに命を獲り合うしかない。


 覚悟を決めた。背後を取られないよう、大きな岩を背にする。なるだけ向こうの足場が悪そうな部分に立った。


 もう一度呼子を吹くと叫んだ。


「こっち来んな。このトカゲ野郎っ!」


 花摘丸を抜いた。鞘と擦れて、剣が金属音を発する。相手によく見えるよう、振り回してみる。


 足がガクガクする。手汗で滑り、剣を落とさないか心配だ。だが幸い汗を吸うのか、むしろグリップは吸い着くようにすら感じられる。さすが伝説の名剣だ。


 それに少し心を強くして、相手を伺った。


 向かって右手に大きな奴。おそらく雄。先ほどの動きからして、つがいとしての主導権を握っていそうだ。


 左は小さな奴。今気づいたが、近くで見ると、色が少しだけ違う。鱗に艶があり、表面が虹色にうっすら輝いている。


 武器を見た妖怪は、移動を止めた。ゆっくりと立ち上がる。二体で見交わし、左右に割れると、じりじりと近づいてくる。どちらかに腕でも咬まれたら、もうおしまいだろう。反撃している間に、残りの一体が喉とかの急所に咬み込んでくるに決まってる。


「くそっ」


 冷や汗が流れた。

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