八. 紫電一閃
久しぶりに耳にした響きだからなのか、ユキは垂れ下がった瞳を見開いたまま静止してしまう。思い出しているのか、現在の状況に繋げようと思考を巡らせているのか。
やっと何か見出したように、一呼吸置いたユキが口を開いた。
「でも秋瀬、あのとき初めてだって……」
「あぁ、樹さんのことだな。確かに彼女とはあれが初めてだったよ。私が言っているのは……母だ」
「母!? なんだ、それなら僕だって子どもの頃によくされていたよ」
表情を和らげたユキは心底安堵しているようだ。しかしそれは早とちりだと教えてやらねばならない。
ついに意を決した夏南汰が流れを変える。
「それが十六までの話だとしたら?」
え、と短い呟きが届くとたまらず込み上げてくる熱に浮かされた。しかし夏南汰はうつむいたまま続ける。おのずと小さく震えながら。
「挨拶代わりのそれとは多分、違う。母は私を男などと思ったことはないのだ。いや、むしろ装い次第で少女にも少年にも仕立てることができる。私を見ればわかるであろう?」
「それ、は……」
「ユキの言う通りだよ。うんと幼ければ何もおかしくはないかも知れぬ。だが十六などもうほとんど大人の身体ではないか。なのに……寝床まで一緒だったのだぞ。この長い髪だって……母の思い通りじゃ。好きな形に結ったりなどしては、
問いかけるところで顔を上げると、上気した自分の頰の上をはらりと伝い落ちる気配がした。
そこからは実に不思議だった。身体がまるで言うことを聞かなくなったのだ。
「少なくとも私は……私以外にそんな男を見たことが無い。兄にも蔑んだような目をして言われたんじゃ。可愛がられる男など……恥じゃと」
「そんな……っ」
「私は悔しかった! だけど事実、私にかけられるのはそがぁな言葉ばかりじゃけぇの、男らしくなりたくたってなれやしないよ。本当は誰よりも小さくて頼りない、少女みたいに扱われる姿では……!」
乱暴に解いた髪を夏南汰は更にぐしゃっと掴む。薄く乾いた微笑で見上げる。
「この髪もな、こんな長くしちょるのがいけんと思って一度だけ短く切ってみたんじゃよ。その日の母はいつもより寂しそうに見えたんじゃけぇ、悪いことをしてしまったんじゃないかと私も怖くなってのう。可愛いと呼ばれる姿でなければ愛されんと思ったんじゃ。男になりたいという気持ちと、母の微笑みを離したくないという気持ちが入り交じった……。体は震え、一晩中眠れんかった。そしてついには体調まで崩してしまった。それだけ母からの愛を手放せなかったということじゃ……」
「秋瀬……」
「家を出るくらいのことをしなければ私はもうずっとこのままかも知れん。のう、わかるか、ユキ? 一度覚えてしまったら抜け出したくたって抜け出せなくなる。中毒性とはこういうことなんじゃ……!」
涙が滲み、震えの治らない自身へ、落ち着けと言い聞かすよう肩を抱いてみる。しかし今度は途切れ途切れな息遣いがますます危うくなってくる。それはもう壊れてしまいそうに。
「弱いんじゃよ、私は。こんな……優しい……」
ちら、と一瞬、目だけで見上げるも、直視はできなくてすぐにまた視線を落とす。
「優しい、ものの傍に居れば……何処までも、甘えて、しまう。例え、鑑賞用の人形だとしても」
「かな……」
「道化になってでも、私は」
「秋瀬……!」
言い切る前に伸びてきたユキの長い両腕に強く引き寄せられた。
思えば久しく感じていなかった。こんな凄く大きく温かいものに包まれる感触、など。
それが却って嫌になる。安心しそうになっている己を叱咤するように必死にかぶりを振った。
やはり守られてばかりではないか。これだからいつまで経っても弱いのではないか、と。
「こんな私を私は嫌いじゃ! 可愛いがられるばかりの男だなんて……っ」
まるで駄々っ子のようにユキの腕の中で散々悶えた。
「秋瀬、ごめん、ごめん……」
いくらか落ち着いた頃に気がついた。ごめん、ごめんって、ユキがいつまでもいつまでも続けていることに。
何故謝る? そんな風に見上げたとき。
「君の気持ちも知らないで、僕は君に酷いこと言ってしまったんだね。そんなに傷付いていたなんて……」
ここにきてようやく思い出した。傷付いていたことを告げてユキを更に傷付けてしまった自身の行いに。
そしてもう一つ思い出したのは……
――可愛いよ、秋瀬は――
あのとき見せてくれたユキの優しい微笑みだ。
慈しむような眼差しをしていた。安らぎを覚えそうになったことも思い出した。
私の知っている“可愛い”と勝手に重ね合わせて、ここで笑い返してはいけないと強がって見せたことも。男らしさに固執するあまり素直になれなかったことも。
だけど……それこそが間違いだった。
「ユキ……っ」
答えに辿り着くとみっともないくらい声が裏返ってしまった。胸が熱くなって、引き始めていた涙が再び溢れ出す。
すまないな、とごく自然に思えた。今の今まで自分を隠していた私も悪かったのだと。
「秋瀬、本当にごめん。そんな意味ではなかったんだ。ただ、僕は……」
一体いつからだったのだろう。少し息を整えて見てみれば、ユキがやけに真っ赤な顔をしているではないか。
「僕は、君が……君の、こと……」
私のこと?
一体何を言おうとしているのか。夏南汰は涙を拭いながらも沸いてくる好奇心のままに首を傾げて覗き込む。
「あの、ね……その……」
それまでの嵐が嘘のように過ぎ去るとと同時に立場も転じていくのがわかった。ユキは相変わらず何かを口ごもっている。まだ自分を責めているようだが……
ようやくわかった。だいぶ遅くなってしまったが、あの日ユキが言ったのは確かに母と同じ意味ではなかったのだろうと。
脳裏にはっきりと蘇った君の表情が答えを示している。
そして今、私の中にもそれが在る。
泣き出しそうに震えているユキの薄い唇を夏南汰の指先が制した。
きっとこういうことだったのだろう。守りたいという想い。きっとそれこそがあの言葉になったのではないか?
指先を宛てがわれたところの隙間から、秋瀬、って、弱々しく零してくる君を見ていたら、涙まみれの私の顔にも自然と微笑みが満ちてくる。
ユキがしてくれたのとは比較にならないくらい小さいけれど、私なりに精一杯両手を伸ばして彼を包み込んだ。言葉以上に伝えたかった。
もういいんだ。
いいんだよ、ユキ。
「悪くない気がしてきた。だって私も、君が可愛い」
「秋瀬? それ、どういう……」
言わなければわからないか? やれやれと小さくため息をつきつつも夏南汰は言い切った。
「離れたって何のことはない。君と私は生涯の友じゃ」
そうだ、大切な親友だからこそ君が可愛い。あの日のユキもそう思ってくれたんだろう?
また会えるさと、ちょっとばかり視線を落としながら囁くようにして締め括ると何秒かの沈黙が訪れた。
……なんだ?
大きな胸元に
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