手玉師

@inoueinoue

手玉師

  都市部。背を連ねるビルが、移り変わる光に波打つその無機質な谷間。雑踏は絶えず人々の個々に覆いかぶさり、立ち止まる場所を探すよう急かされている。くすんだ石床が足を前へ前へと送り続け、騒々しい光景に目を見張る隙も、首を反らせるだけの暇も与えられず、そんな事態に陥っている自分や同業者たちに目配せすることが、一種の憧れとしての慰めとなっていた。

 そんな取るに足らない中にも一人、人々の目を惹く者がいた。片側四車線の道路と、混雑することのない程広く小奇麗な歩道の間。近頃再塗装された、四つの脚がある大きな歩道橋の脇に彼はいた。縁石を足場にして、手玉遊びの一芸を披露している彼には、いつからか手玉師という名前が与えられていた。彼自身から名乗り出た訳でもない。彼がいつから芸を見せることになったのか知る人もなし、彼の出現が先か、名称や諸行為が先かということにも、目立たしい決着のついたことは無かった。尤も、それが真面目な問題として取り組まれたことがあったかは定かではなかったが。一説では、往来を眺めていた一人の警備員が、勤務中彼のことをそう呼んだということが発端だと言う者もあれば、社会科見学に訪れた幼い子供たちが名付け親であると言う面白味のあるものまで種類豊富に取り揃えられているらしかった。

 噂と言えば、例えば彼が反社会勢力や盲目的な個人主義者連中の斥候であるだとか言う様な、露骨な敵意の的にされたり、物笑いの種としてわざと大袈裟に、想像力豊かに手玉師の話が展開されていると言う噂を耳に拾ったことも、そう言った物言いの現場そのものに偶然立ち会ったと得意げに話す人物もいた。ただそんな噂の只中にいても手玉師は、道の狭間にいて色鮮やかな丸い布袋をひたすらとっかえひっかえし続けているだけだった。それらを嘲る様に忙しげに手を動かすだけだった。

 手玉師の表情からは何も掴みとれそうになかった。黒ずんで痩せこけた頬は、木皮を糊付けして形作られた様な鷲鼻を支え、目の周りの影や皺は不器用に眼球を縁取っている。とりわけ目立ったのは、下唇と顎の間の窪みだった。何か目に見えぬ彼の煩悶や苦悩、そして喜びの数々がそこに蓄えられてでもいるみたいに、空間的な際限の無さを、見るものに感じさせた。しかし、それも手玉師という彼独自の境遇に影響されての印象に過ぎないのかも知れず、彼の顔において特筆すべき部位は、探そうとしなければ見つからない程度のものだった。

 ある昼下がり、曇り空に包まれた午後。手玉師はいつもの慣習通り縁石の上に立ち、喜劇俳優よろしく滑稽にお辞儀をしてみせた。斑な模様の布袋を三つ、灰のスラックスのポケットから取り出し芸に赴いた。三つの手玉の残す影が、幾何学的な模様を描く。彼自身の方でも、今日という日は好調に思えていた。見物人の数こそはあまり問題として捉えてはいなかったが、心はすっかり落ち着きで満たされ、聴覚によってさえ静けさ以外には何も感受しないようだった。

 そんな手玉師の元へ、珍しく声を掛ける者がいた。それはこの近辺に駐在している警察官だった。腕の毛の濃い、ふくよかな体型の中年の男。見たところ、愛想のいい微笑みを湛えるのは少し不慣れであるらしかった。その笑みは断続的にしか表れることが無く、次の瞬間には疲労が、また次の瞬間には口角が引っ張り上げられるといった具合で、手玉師は誠に奇妙な印象を受けた。彼に声を掛けるるに至る勇気というものは、こうした公務的な外見を借りるか、または好奇と権威が上手く取り混ざって、初めて生まれ、後押ししてくれるよ様なものであるらしかった。

「どうも、こんにちは」

手玉師は動きを止め、斜め上から警察官の男を見下ろした。

「ずっと見ていたんですよ」

「ああ、ありがとうございます」

「いや別に職質ってわけじゃないんだけど、少し気になってですね」こう言っている間にも、男は痙攣的な笑みを絶やさなかった。

「それは良かった」手玉師の表情が少しだけ和らいだ「あなたもやってみます?もしやりたいのであれば、私の部屋でこんなのを買うことをお勧めしますよ」そう言いながら彼は小さな布袋を、手の平の中で軽く振って見せた。

 少しの沈黙の後、警察官の男は、また芸に戻ろうとした手玉師を引き戻す為に「あの少し聞きたいことがありまして」と早口に言った。

「お邪魔になるとは思いますが、あなたに答えて頂きたいことがいくつか――」

「いえ、構いませんよ。私にもいくらかは責任があります。それに結局のところこうしないではいられないんです。」物憂げに手玉師は同意した。

「こうしないではいられないと言うのは、まさにあなたの誇りである、手玉遊びのことですかね?」

「いえ、それじゃなくて、私があなたの質問に応じることに対してです。私の中にもやっぱり、それなりの顕示欲がありますから」こう言ってる間にも手玉師は、指先で布袋を弄っていた。これを警察官の男は直ちに緊張の現れであると解した。そして、そんな隙を見出した自分の観察の力を意識する間もなく、その無意識の内に生じた優越感による、気分の高揚をそのまま手玉師の前で広げてみせた。

「落ち着いてくださいよ」微笑の穴、男の歯がちらと覗いた「どこにも連れて行きはしませんから」

「それは承知しています。ただ周りの人間には、あなたが公務的な接触を私に仕掛けているように見えるだろうことは否定できないと思うんです」

「仕掛けるだなんてとんでもない!まるで悪事を働いているみたいな言い方じゃないか。確かに私は最初、私的な用事だという風にあなたに話し掛けました。その時は私の方でも、市民と同じ位にあなたへの好奇心がありましたし、少しだけお喋りを楽しむつもりで声を掛けたんです。しかしやはり、こう話してみるとですね、少しあなたに、手品師様にお話を聞いておく必要性が生じたのを不本意ながら認めねばならない」

手玉師は黙っていた。露骨すぎる皮肉は肉が飛び出している有様。所々に、敵意が抱え込まれているのを肌身で感じ、喉が急激に収縮し始める。彼はそうしているより他なかった。そうなっている自分を見ているより他になかった。往来にを通り過ぎる人々に目が釣られる。横目でこちらを見やる者、顔を向けながら心持ち歩く速度を緩める者。しかしそのほとんどが、ただ警官がいるというそのことだけに注目し、手玉師の視界を颯爽と横切っていく。

「私は――その、私自身もよく呑み込めていないんです」彼は言った「自分の置かれた実情云々に関しては。いや、言える訳が無いじゃありませんか」

警察官は肩をすくめ、溜息をついた。呆れっぷりを示す様な所作も欠かさず、隠さなかった。

「あぁ、いいですよ。今日はもういいです。人と話をするのにこんなに疲れるとは思わなかったんでね。次会うときは役所の向かいのスズヤさんのコーヒーにでも行きましょうや」そして男は半身の体勢で「お手玉師さん」と、力と嘲りのこもった言葉を、煙草の煙でも吹き出すかのように捨て、背を向けて去って言った。まるで、その意向に副わない返答をした場合には、手玉師にとって都合の悪い何らかの措置を検討させてもらうといった様子だった。警察官の男の真っ平な背中が、彼の一歩一歩に使う筋肉を、彼自身信頼しきっていることの証拠になっているように思えた。

 二度と会うことはないだろうな、と手玉師は思い、演技的に恭しく敬礼した後で、右手から手玉を跳ねさせた。

 三時十二分、歩道橋から伸びている時計が偏った鋭角を形作っている。この指し示られていない部分の空白は、一旦は埋められはするが、またすぐに次を待つ羽目になる。それら一連の流れが瞬間の出来事へと圧縮されて、手玉師の厚ぼったい手の中へ次々と入れ替わっていった。

 普段通りの行い――左に落下してくる手玉を左手で受け取り、右手は別の手玉を放すと同時に受け取るよう構える。これがまた左右別で行われる。決して芸達者とは言えず、まだぎこちなさが見受けられたが、ただ続けることに対しては狂おしく鮮やかな物腰だった。観ているものに瞬間を感じさせることはない。一つ一つの玉は常に移ろい、円を描いて流れていく。始まりも終わりも認識することなく、ただ目を注がれている。

「これこそ人の生だ!」自分の内から聞こえてくる言葉に物憂げになる。しかしこの声との付き合い自体は誰よりも長い。やがて返事が聞こえる。

「けれどそうも言ってられない」

 それから十数分が経過した頃突然、彼の手が小刻みに震え始めた。人の目を盗んで動き回るような痙攣だった。目の肥えたものでもその変化に気付くのは容易ではなく、二、三の見物人の内に、異変を感じ取ったらしい様子を見せた者は当然いなかった。手玉師の方でもそれを認識するのは、それをそれだと知るには、極めて困難なことだった。人の目を欺く震えは止まらず、芸のリズムが徐々に乱されていく。跳ねる玉も、自分達の体重を見失い、平穏を取り戻すためにあちらこちらへもがき始める。それらを受け取る手玉師の手から落ち着きが消え去り、その代わりに彼の、根本的な歪みの証拠が腕に叩きつけられている。報復の時だった。

 小さな丸い布袋は手玉師の手に戻ることなく、彼の乾いた口内目がけて落下する。彼はふと、この手玉の中には何が入っていたのだろうといった些細な問いを、今まで投げかけなかったことに気が付いた。三つの布袋は一寸の間も手玉師には与えず、喉元まで身をねじ込んで彼の呼吸を乱す。指定されていた狭い足場から追い出され、車道の側へ身体がよろめき、ついには倒れこんだ。息も絶え絶えになり、手玉師は地上で溺れているかの様に手足をばたつかせる。

 少ない見物人も漸く異変を感じ取ったらしい。白い顎髭を蓄えた初老の男が恐る恐る歩み寄ってくる。二人組の中年女性は口をぽかんと開け、訝しげに顔をしかめる。歩道橋の上から覗いていた青年はその欄干に片手を付き、手玉師の許へ駆け出そうかと決めかねている。そして彼ら見物人達の顔に一斉に電気が走った。

 一つの衝撃音が響いた。鈍くこわばった四角い音。その音がこの光景を紡ぎ、広げたかの様だった。手玉師は道路の脇、たった今血の底から引き上げられたかの様に突っ伏している。辺りには恥辱を含んだ血液だけが、淡々と躓くことなく流れている。様々な足音が手玉師の恥に、その周囲に谺した。彼が耳にしていたのは、自分の帰る場所を踏み締めている、親しげで遠い、弱々しい雑音だけだった。

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