第14話 ドボクの戦い

 ランシール帝国軍八万が我が方に向けて進軍せり。

 その報を受領したセーヴィル帝国軍四万は少なからず動揺した。

 軍事的な常識に従えば、まともに戦うことは避けるべき兵力差である。

 セーヴィル帝国軍の緊急軍議が紛糾する中、ミハイル・クトゥーホフ将軍は沈黙を守っていた。

 

 クトゥーホフ将軍は軍馬の世話係として入隊して以来、平民の出でありながら半世紀をかけて今の地位にまで上り詰めた男である。

 ランシール帝国への侵攻開始から今に至るまでの手並みは実に的確であり、今少しのところでセーヴィル帝国は新たな領土を得る見込みであった。

 

 その「今少し」とは、トゥーロン港の占領である。

 トゥーロン港は陸軍と海軍とをつなぐ要衝であり、ここを確保すれば新領土を維持できる。

 だが、トゥーロン港を護るセリュリエ大佐の抵抗が予想以上に激しく、一万のセーヴィル帝国軍を釘付けにしたまま時間だけが過ぎていた。

 業を煮やしたように、高級幹部の一人がクトゥーホフ将軍に進言する。


「将軍! 誠に遺憾ながら、ここは軍を退くべきと進言します。援軍が見込めない状況下で倍の敵と戦うなど自殺行為です」


 事実、この兵力差を埋めるだけの援軍を今本国に要請したところで間に合う見込みはなかった。

 セーヴィル帝国は近年の悪天候に伴う凶作によって国内情勢が不安定になっており、軍は治安維持のために各地に散っているという事情もある。


「お待ちください! なるほど状況は危機的であります。ですが、これまで重ね上げた戦果を放棄するのは余りにも無念。占領した都市の中には城砦としての機能があるものもありますれば、そこに籠城して奮戦し、援軍を待つべきではないでしょうか?」

「いや、城砦と言っても大砲の攻撃に耐えうるような城砦は占領地には存在しない。これまでの戦果の放棄は確かに遺憾だが、だからといって兵を大きく損なうわけにはいかない」


 再び喧喧諤諤の議論が始まりかけたその時、クトゥーホフ将軍はむくりと立ち上がり、軍議の場を静かにさせた。

 クトゥーホフ将軍の背丈は平均よりも頭一つ分ほど高く、恰幅が良いためいかにも総大将然とした風格がある。


「皆の意見は良くわかった。ここは軍を退くこととする」


 場が落胆と安堵でざわめき立つ。


「ただちに退却の準備をせよ。占領地にある食料は種の一粒に至るまで回収すること。井戸には毒を投じて使用不能にするのも忘れるな。それと」


 クトゥーホフ将軍は咳払いをした。


「トゥーロン港を包囲している一万については引き続き包囲を継続させる」


 高級幹部たちは顔を見合わせた。


「それでは敵中に友軍を置いていくことに……」

「報告によればトゥーロン港はまもなく陥落する。我ら三万が敵を引きつけている間にトゥーロン港を占領できれば、そこだけは新たな領土として確たるものに出来るだろう」

「しかし、敵が我が方を追わずにトゥーロン港奪還を目指す可能性もあります」

「その場合は一万の兵たちに捕虜になってもらうしかあるまい。トゥーロン港を得る前に敵の援軍が来た場合は、戦わずに降伏して良いと命じておく。捕虜の返還は本国の官僚たちに骨を折ってもらうさ」

「……大きな賭けですね」

「戦争とはそんなものだろう」


 クトゥーホフ将軍は大きな腹を揺らしながら呑気に笑った。

 

 そうして、セーヴィル帝国軍は全面的に撤退を始めた。

 この動きがランシール帝国軍の知るところに至ると、同軍を実質的に率いているヴァイロテル将軍は色めき立ち、軍議にユーグ七世を招いてこう進言した。


「皇帝陛下。敵は我が軍の偉容に恐れおののき、撤退を始めました。セーヴィル帝国が二度と侵略など企まぬよう、ここは急追して撃滅いたしたいと存じ上げます」


 ユーグ七世はその白く長いアゴ髭をさすりながら口を開いた。


「将軍の言や良し。追い出しただけでは内外に示しがつかんしのう。……うむ?」


 ユーグ七世はふと軍議に集った高級幹部たちの方を見た。

 ヴァイロテル将軍が怪訝に思い振返ると、一人の高級幹部が教師に答える学童のように天高く手を上げていた。


「何か意見があるのか。カンバーバッチ師団長」

「恐れながら、現状の我が軍で敵軍に追い付くことは不可能であります」

「何を根拠にそんな弱気なことを!?」

「簡素な計算であります。敵軍の進軍速度に比して我が軍のそれは三分の二。我が軍は八万という多勢であるが故に鈍足であり、進軍速度で敵軍を上回ることは不可能であります。ここは敵主力への攻撃は諦め、トゥーロン港を包囲している一万を攻撃すべきであります。さすれば我が国の領土から敵戦力は消え、最小限の犠牲で領土の奪還という戦争目的が達成されます」


 計算、と言われてヴァイロテル将軍はカンバーバッチ師団長の経歴を思い出した。

 

 帝国大学理学部数学科の俊英、アルバート・カンバーバッチ。

 助言役として出向してきた立場だったものが、その非の打ち所のない論理的思考と何者も恐れない行動力で一万の兵を率いる師団長になった異色の男。

 オールバックの黒髪に良く整ってはいるが冷たい印象のある顔立ちは、軍人というより官僚といった雰囲気だった。

 ユーグ七世は何やら愉快そうに微笑した。


「なるほど。卿の言はもっともであるな。つまり、撃滅は不可能ということかなヴァイロテル将軍?」


 ヴァイロテル将軍は慌ててユーグ七世の方に視線を戻した。


「確かに現状の我が軍の速度では追い付くこと叶いません。つきましては、追撃のために軍を分割して高速化いたします」

「ほう。具体的にはどのようになるのか?」

「軍を三つに分割しそれぞれ異なる経路で進軍させます。さすれば追い付くことは可能です。敵軍を捕捉次第、三軍を合流させて圧倒的な数で撃滅いたします」

「ふむ。それでは三軍は息を合わせて行軍しなければなるまいな。合流せぬうちに敵と交戦すれば数の利が失われる」

「皇帝陛下の仰せのとおりでございます。そのようなことのないよう、万全を尽くします」


 かくして軍議は終了し、ランシール帝国軍は三つに分けられた。

 中央にはユーグ七世を擁し、ヴァイロテル将軍が率いる四万。

 右翼と左翼にそれぞれ二万である。

 速度を増したランシール帝国軍とセーヴィル帝国軍が互いにその姿を肉眼に収めたのは、ドボク高地でのことだった。


「セーヴィル帝国軍およそ三万! ドボク高地に陣取っております」


 その報を最初に受けたのは、中央を行くヴァイロテル将軍の軍四万だった。

 ドボク高地はランシール帝国とセーヴィル帝国の国境線に沿う高地だ。

 ヴァイロテル将軍がいる位置からそのドボク高地まではおよそ半日の距離でしかない。

 セーヴィル帝国軍が逃げずに高地に陣取っているということは、有利な地理的条件でランシール帝国軍を迎え撃つ構えであると、ヴァイロテル将軍は判断した。


「よし、ここは予定どおり、両翼からの軍が到着し次第攻撃だ。この兵力差を持ってすれば多少の地の不利など意味はない」


 当初、ヴァイロテル将軍はそのつもりだった。

 ところが、続いてもたらされた報がヴァイロテル将軍を迷わせた。


「セーヴィル帝国軍に動きあり。頂上からセーヴィル帝国側へと降り始めているとのことです」

「有利な高地を自ら手放すとは、逃げるつもりか!?」


 合流を待っていれば取り逃がす恐れがあった。

 あと少しで敵を撃滅できるというのに、目前で取り逃がしてはこれまでの苦労が水泡に帰す。

 迷った末に、ヴァイロテル将軍は号令を下した。


「ただちに進軍を開始する! ドボク高地を占領するのだ」


 ヴァイロテル将軍は合流を待たないと決断したのである。

 そして、ドボク高地に陣取ったランシール帝国軍四万とそれを見上げるセーヴィル帝国軍三万が対峙する。


 ドボク高地には大きな草木が少なく、本来であれば見晴らしの良い地である。

 だが、その日は朝から濃い霧が立ちこめており、視界は悪かった。

 そのためヴァイロテル将軍は念入りに偵察を行わせ、やがてセーヴィル帝国軍の右翼が薄いことを知る。

 敵中央と左翼にはおよそ一万の兵がいるが、右翼には五千程度しかいないということだった。

 そこで、その右翼に一万を投入してこれを突破し、右側面よりセーヴィル帝国軍を突き崩そうと企図した。

 その献策を受けたユーグ七世は眉間にしわを寄せ、一帯の地図を睨む。

 本来は圧倒的な数的有利を前提にしていたはずが、さほど大きな差にならなかったことを憂慮していたのである。


「……敵を右側から半包囲するという作戦だが、敵の中央や左翼が突進してきた場合の対処はどうなっておる?」

「ご安心ください。敵左翼に対しては一万を割いて牽制させ、中央は二万の兵で堅固に守らせます。元より高地という地の利を得ている上に守備に徹しますればこれを突破されることはあり得ません」


 ユーグ七世は少しの間地図とヴァイロテル将軍を交互に見比べて思案した後、その策を承認した。

 

 そして太陽が天頂へ今少しのところまで昇り、霧が晴れ始めた頃、開戦の火ぶたが切られた。

 ランシール帝国軍左翼一万がセーヴィル帝国軍右翼五千を目指して高地を駆け下り、襲いかかる。

 高地を降りきったところで、ランシール帝国軍は足下のぬかるみに気付いた。

 朝に濃い霧が出ていたということはそれだけ気温が低いということであり、当然地面には霜が降りている。

 昼に近づくにつれ気温が上昇し、、霧が薄らぐと同時に霜も解けて地が泥になるのだ。

 こうなってしまうと軍の進軍が遅くなり、重い大砲の動きは特に鈍くなる。

 対するセーヴィル帝国軍右翼は待ち構える立場であるから、それほど泥の影響を受けない。

 そうして、大砲が足りないランシール帝国軍は火力で劣り、半数に過ぎないセーヴィル帝国軍を突き崩せないでいた。


「まだ敵右翼を突破できないのか!?」

「敵に比して我が方の大砲が少なく、攻めあぐんでおります」


 事態を打開するには援軍を送るしかなかった。

 問題はどの程度の数を送るかである。

 特にこれといった根拠があったわけではないが、ヴァイロテル将軍はすぐさま中央から五千の援軍を送った。

 

 ちょうどその頃、セーヴィル帝国軍右翼は少しずつ退き始めた。

 撤退ではなく、ランシール帝国軍の攻撃に対応しつつ徐々に後退していった。

 こうすることで敵の攻撃を緩和し、跳ね返すことは出来ずとも突破されることはないように動いたのである。

 そうしてランシール帝国軍は自然と敵陣深くへと入り込んでいき、そこに援軍の五千が加わる。

 やがて、ランシール帝国軍右翼は一万、中央に一万五千、左翼に薄く伸びた一万五千という形に変化していた。

 

 これを知ったクトゥーホフ将軍はしめたと手を打ち、拳を振り上げた。


「突撃せよ! 目標は敵左翼。重騎兵を前面に押し出して穴を穿ち、大砲と歩兵でもって広げるのだ」


 それまで戦場を静観していたセーヴィル帝国軍中央より重騎兵が出撃し、歩兵と砲兵が後に続く。

 その頃には霧は晴れ、重騎兵はどこに突撃すべきかがよく見えていた。

 通常、重騎兵の仕事はトドメの一撃である。

 砲兵や歩兵の攻撃によって敵が崩れたところに突撃し、勝利を確定させるのが普通なのである。

 ところが、今回は最初の一撃として重騎兵が用いられた。

 

 上半身に鎧を身に付けた重騎兵が長いサーベルを掲げ、突撃!の号令で一斉に突進していった。

 騎馬の脚が兵士を踏み砕き、サーベルが首を刈り取っていく。

 ランシール帝国軍左翼は坂を下る最中で十分な迎撃態勢をとれず、しかも薄く伸びているため呆気なく突破されてしまった。


 軍隊というのもは集団行動が出来てこそ戦力を発揮できる。

一か所でも突破されて分断されてしまうと兵は動揺し、命令は上手く伝達できなくなり、戦力は大きく低下するのだ。

 

 続いて砲兵が一斉砲撃を行い、騎兵が開けた穴を更に広げる。

 仕上げに、歩兵が銃剣突撃を敢行して分断を決定的にした。

 状況は両軍に伝わり、防御に徹していたセーヴィル帝国軍右翼は待ってましたとばかりに猛烈な反撃を行い、それを浴びたランシール帝国軍左翼は挟み撃ちにされるという恐怖に呑まれた。

 一度発生した恐怖は容易に伝染し、重症化する。

 ランシール帝国軍士官たちの怒声も虚しく、兵士たちは慌てふためいて戦場から逃げ出し始めた。

 ヴァイロテル将軍もその状況は理解していたが、対応できる余裕がなかった。

 ランシール帝国軍左翼を突破したセーヴィル帝国軍が中央にも攻撃を行い、更に他のセーヴィル帝国軍も一斉に高地を目指し始めたのである。

 

 ここにきて、ヴァイロテル将軍は自らが半包囲されかけていることに気付いた。

 一連の突破劇と完全に連携した敵全軍の一斉攻撃は偶然出来ることではない。

 クトゥーホフ将軍の策略にまんまと乗せられたのだ。

 現状の戦力差は二万五千で同数。

 しかし、勢いは向こうにあり、こちらが半包囲されているのでは勝敗は見えていた。

 ランシール帝国軍にユーグ七世がいる以上、取るべき道は一つだけだった。


「……やむを得まい。防戦しつつ撤退する。皇帝陛下を最優先でお送りせよ!」


 が、セーヴィル帝国軍の勢いはヴァイロテル将軍の想定を超えていた。

 特に際立ったのが、ランシール帝国軍左翼を最初に突破した重騎兵である。

 

 その重騎兵を率いるはエレーナ・ラスコーヴァ。

 セーヴィル帝国貴族きっての武闘派であるラスコーヴァ伯爵家に生まれ、女性ながら馬術の腕は軍でもトップクラスだった。

 女性であるため実戦部隊からは距離を置かれていたが、その技量を知ったクトゥーホフ将軍が直々に取り立てたのである。


 エレーナにとってこれが初の実戦であるにも関わらず、彼女は十二分に突破と分断の役を果たしていた。

 そして、エレーナは後に絵画や戦史書に描かれる更なる戦果を上げようとしていたのである。

 その時、エレーナの部隊は敵陣に最も深く侵入した位置で小休止をとっていた。

 周囲には、先ほど潰走させたばかりのランシール帝国兵の死体や装備が散乱している。

 突撃の際に最先端にいたエレーナは多少の疲労を覚えていたが、まだ十代後半ということもあって体力士気共に十二分にある。

 

 そこに、偵察に出ていた軽騎兵より、ランシール帝国近衛兵が後退しつつありとの報が入った。

 ドボク高地の向こう側に隠れていてわからなかった近衛兵の姿が、初めてセーヴィル帝国軍の知るところになる。


「……近衛兵がいるということは、ユーグ七世もいる可能性が高いのう」


 エレーナはその紅い瞳を輝かせて笑った。

 部下の一人が興奮を隠さずに進言した。


「早速クトゥーホフ将軍にお伝えして指示を仰ぎましょう!」

「伝えるのは結構じゃが指示は知れている。皇帝の身柄を押さえるのじゃ!」


 おおと場が沸き立ち、それに呼応して馬たちも前足を振り上げる。

 エレーナは愛馬にまたがると、サーベルを天高く掲げた。


「総員! 休息は終わりじゃ。これより近衛兵に突撃を行い、ランシール帝国皇帝に拝謁を賜ろうぞ!」


 エレーナが率いる重騎兵一千が近衛兵に向かって突撃を開始したのは、ヴァイロテル将軍が撤退を決意してから半刻も経っていない頃である。

 近衛兵は三千からなる部隊で、本来は更に通常の帝国兵を加算して護衛するはずだった。

 ところが撤退を急がせる余り、近衛兵だけが突出してしまっていたのである。

 更に悪いことに、騎兵に対して有効な大砲を足が遅いからということで放棄していた。

 

 そこに戦意猛々しいエレーナの重騎兵一千が襲いかかった。

 流石に近衛兵だけあって逃げ出す者は皆無だったが、重騎兵を跳ね返すには火力が足りず、撤退の足が止まる。

 状況を察知したヴァイロテル将軍が慌てて軍を急行させるも、それによってドボク高地におけるランシール帝国軍の防衛ラインが緩んだ。

 そこをセーヴィル帝国軍に突かれたことで、防衛ラインが総崩れになってしまう。

 結果、ドボク高地を登り切った別のセーヴィル帝国軍重騎兵も近衛兵に襲いかかり、ついにユーグ七世が乗る馬車がセーヴィル帝国軍の手中に落ちてしまった。


 世界史上でも誠に珍しい捕虜皇帝がここに生まれたのである。


 流石にここまでの展開はクトゥーホフ将軍も想像していなかったのか、歓喜と困惑の両方を抱えて笑った。


「これは本国に指示を仰がねばなるまい。それにしてもあのお嬢さん、思っていた以上のじゃじゃ馬だったな」


 ユーグ七世俘虜の報が決定打となり、ヴァイロテル将軍は降伏。


 その凶報によりカンバーバッチのいる四万のランシール帝国軍は足止めとなり、両帝国の宮廷は良い意味と悪い意味とでそれぞれ大混乱に陥った。

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