第9話 橘姉妹
朝九時過ぎ。
それは香ばしい朝だった。
ナイアさんがコーヒーを両手に持って俺の目覚めを待ち構えていたからである。
それも黒の下着の上に俺のワイシャツを羽織った状態で。
「おはようダーリン」
「誰がダーリンですか。というかなんでそんな格好?」
「君が持っていた扇情動画にこういう姿をした雌が出てきたではないか」
思い当たる節はある。
「この後二人でモーニングコーヒーを楽しみ、朝のまどろみの中絡み合うというのがその動画の……」
「あーもう良いですから!」
「絡み合うのか?」
「合いません。コーヒーだけ楽しみます」
甲斐性なしがという声を無視して、俺はコーヒーを口に付ける。
随分と甘ったるい味だった。
「それで、どうだった議会の方は?」
「対処の難しい問題に突き当たりました」
エルフの入植について、大雑把に説明する。
「なるほど。皇太子殿下は人質同然の上に売国奴一歩手前というわけか」
「茶化さないでください。どうすれば良いのか本当に難しいんですから」
「だが、自分か国かのどちらを優先すべきかはわかっているのだろう?」
こくりと首肯する。
「取りあえず、俺の生存を帝国に伝えるだけで十分ですからね。後は外交交渉の場で国益を守れるよう努めます」
俺の生存を皇帝にまで伝えさえすれば、帝位継承権は変わらない。
帰国は先になるだろうが、致し方なかった。
「さてと、皇太子の方は当面の見込みがついたというわけで、高校生の方に戻ろうではないか。今日は何して遊ぶのだ? どうせ暇なのだろう?」
「暇じゃありません。服を買いに行きます」
「服? 君は学生服か母親が買ってきた服しか着ない童貞坊やだろうに」
「余計なお世話です。買うのは俺の服じゃなくてナイアさんのですよ」
ナイアさんはふと首をかしげた。
「我が輩の服?」
「いつまでも下着やセーターだけで周りをうろちょろされても困るんです」
「他人には認識させていないというに」
「俺が困るんです!」
「やれやれ。欲情しているくせに手は出さないのだから不思議な奴だ君は」
ぶーたれるナイアさんを無視して、俺は学校指定の青いジャージを取り出した。
普段は学校に置きっ放しだが、今日のために持ち帰っておいたのである。
「これを着てついてきてください」
「なんだこの粗末な服は」
「学校に来て言った服は洗濯中ですからこれで我慢してください。だいたいナイアさんが遊びまわるから砂やら埃やらですぐに汚れちゃったんですからね」
「姿を消したままついていけば良かろう?」
「俺一人で婦人服店に入って物色するなんて無理です。ちゃんと姿を現してもらいますよ」
ナイアさんは唐突に仁王立ちになり、腰に手をやって胸を張る。
「さっきからつまらん命令をしおって。我が輩を誰だと思っている?」
「帰りに好きなジュース買いますから」
「いつまで寝間着でいるつもりだ。早く支度しろ!」
一瞬でジャージに着替えたナイアさんが早う早うと騒ぐので、朝食を取る間もなく外に飛び出した。
電車に揺られ、最も近くにある繁華街へと向かう。
いやはやそれにしても……。
俺は横目で周囲をそれとなく見回す。
想定していたとおり、俺とナイアさんは注目の的になっていた。
純白の肌に煌めく銀髪。
男を狂わし、女を妬かせるボディライン(ジャージが小さいせいか余計に挑発的になっている)。
例えるなら雪の精霊か豊穣の女神か。
何にしても、アイドルやモデルなどという枠ではない、神話的な美しさがナイアさんにはある。
そんな女性がダサいジャージ姿でオランジーナをラッパ飲みしているという構図なので、尚更視線が熱い。
それだけなら良いのだが、問題はナイアさんの減らず口だ。
ジュースのおすすめが何とかもっと広い家に住めとか橘さんにラブレターでも書いたらどうかとか。
とにかく良く喋る。
鬱陶しいことこの上ないが、無視すると拗ねてこの電車を銀河超特急にしてやろうかと言い出したので、相手をするしかない。
それが傍からはいちゃついているように見えるらしく、殺意の視線が刺さる刺さる。
発情と殺意の眼に追われながら、何とか電車をやり過ごし、デパートの婦人服店へとたどり着いた。
「それでは、好きな服を選んでください。ただし予算は一万円です」
二ヶ月分の小遣いは痛いが、精神安定のためには仕方ない。
ナイアさんはぶらぶらと売り場に入っていったが、流石のルックスというべきか。
早速若い女性店員が食いついていた。
「お客様、とてもお美しいですね。もしや芸能活動などされてます?」
「しとらん」
「これは失礼いたしました。本日はどのような服をご所望でしょうか?」
「わからん。あそこの坊やに服を買ってこいと言われて来ただけだ」
あららと店員が俺を見て、すぐに眼をそらす。
悪かったな釣り合ってなくて。
「それでは私めの方でコーデさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「かまわん。だが予算は一万円だと言われているからそのようにな」
そんな露骨に残念そうな顔で俺を見るな店員。
そうして、ナイアさんと店員は店の奥へ引っ込んでしまった。
俺は近くの椅子に腰掛けて、彼女が出来たらこんな出費が何度もあるのかなぁとかぼんやり考えていた。
彼女かぁ。
まあ橘さんになら多少高い服だって買っても良いかなとかぼんやり考えていてしばらく経った頃だった。
覚えのある香りと共に、よく知っている声が耳朶を打った。
「あれ?」
橘さんだった。
白いロングコートにすっぽりと身を包んだ橘さんと眼が合ったのだ。
それも普段とは違い、今日はその長い黒髪を一本に結っていて、白いコートとのコントラストが印象的である。
「橘さん。こんなところで偶然だね」
「敷島君こそ、どうしたの? もしかして彼女のお伴?」
橘さんの興味ありげな笑顔が可愛い。
そうだ言われてみればここは女性向けのフロアなのだ。
「まさか。ちょっと友達の付合いで来ただけだよ」
ふと、橘さんのすぐ隣に、黒い誰かが寄り添うように立っているのに気付いた。
見えてはいたが、橘さんに注目していて認識が遅れたのである。
橘さんもそれを察したのか、そのフードで顔が見えにくい誰かの肩に手を置いた。
「この子は私の妹で小百合っていうの。小百合、こちら同級生で同じクラスの敷島君」
小百合と呼ばれた女の子は、こくんとうなづいて、フードをちょっとずらして顔を出した。
「え、えっと。小百合と言います。姉がいつもお世話になっております」
良く通る声だったが、眼は伏せがちだった。
図書委員か文芸部員か、あるいは家出少女といった印象である。
そんな小百合ちゃんの調子とは対照的に、橘さんの方は底抜けな明るさだった。
「ね? 可愛いでしょ? 抱き締めたくなるでしょ?」
「お、お姉ちゃんこんなところで」
こんなところじゃなければ抱き締めてるのかと思うと、脳内にほわほわした妄想が浮かんできた。
なるほど。
確かに小百合ちゃんの身長は橘さんよりも頭一個分くらい低く、身も細いので抱き締めやすそうではある。
しみじみとそう思っているところに、例のあの人の声が割り込んできた。
「この店員がいくつか服を選んだぞ。一万円以下で揃えてやったから、脱がせたいと思う服を選べ」
「ナイアさん! もっとこう穏当に言ってくれませんか?」
いつの間にかすぐ背後まで這い寄っていたナイアさんが数着の服をハンガーに引っかけて見せびらかしていた。
「ほう。意外な客人が来ているようだな」
「敷島君。この方はどなた?」
「あ、あーっと、ナイア・ラトテップさんっていう俺の友達で。えーっと、そうだ。外国からの留学生なんだうん」
「私は橘桜と申します。こっちは妹の小百合です」
俺は心中でナイアさんに訴える。
初対面ということにしてくださいと。
「……うむ。初めましてと言っておこう。そうだちょうど良い。君の目線から見て、どの服が良いと思う?」
「私で良いんですか?」
「ああ。我が輩には良し悪しの判断が難しいし、そこの甲斐性なしでは心許なくてな」
はいはい悪うございました。
まあそれはともかく、服選びなら橘さんの方が適任だろう。
俺は首肯し、ナイアさんら三人は試着室のある奥へと引っ込んだ。
女性陣の黄色い声が交わされること幾ばくか。
……それにしても長い。
たかが服選びに何故女性はこうも時間をかけるのか?
家族サービス中の父親の気分で、座して待つこと約一時間。
ようやく、ナイアさん一行が会計を済ませて出てきた。
ナイアさんの服が、ダサいジャージから身体のラインを強調したスタイリッシュなものへと変身していた。
広告でたまに見る、仕事がバリバリできる系の外国人女性を彷彿とさせる。
これできっちり一万円以内に抑えたというのだから、やっぱり女性の服は女性に任せるものだなと思う。
ちょうどその時、お昼の到来を知らせる時計の音がデパート中に響き渡った。
「もうお昼ですね。せっかくですから、皆でご飯食べに行きませんか?」
朝から何も食べていないだけに、橘さんの提案は素直に嬉しかった。
看板作りを手伝ってくれた件もそうだが、橘さんは本当に女子力が高い。
俺は快諾し、デパート上層階のレストランへと向かった。
レストランでは窓際に座った。
賑わう街を眼下にするのは心地良い。
座るに当たって一同は上着を脱いだのだが、ここで気付いたことがある。
小百合ちゃんの胸が、結構立派だということだ。
中学生にして既に大玉メロン級なのである。
橘さんだって割とある方なのだが、小百合ちゃんと比べるとオレンジ級と評せざるを得ない。
しかもフードから解放されて露わになった小百合ちゃんの顔もこれまた儚げで、庇護欲をそそられる。
たわわ実ったボディでしかも大人しい美少女とあっては、男どもは放っておかないだろう。
告白されることが多いのもうなずける。
そんな心中を知ったのだろう。
ナイアさんがまた余計な口を挟む。
「ふふん。今君が思っていることを音読して良いかね?」
「な、なんのことだかさっぱりですね」
絶対に言わないでくださいお願いしますと心中土下座して何とかやり過ごす。
「ナイアさんって日本語お上手ですね。留学は長いんですか?」
「うむ。もうこの国に根を張っても良いくらいには長いな」
「そんなにですか。日本は住みよい国ですからおすすめですよ。ところで敷島君、こんな美人なお姉さんとどうやって知り合ったの?」
「え、えーっとそれは」
どういうストーリーにするか脳をフル回転させて考えているところに、ナイアさんが意地の悪い笑顔で割って入る。
「実は我が輩のホームステイ先が坊やの家なのだ」
「へぇ。こんな美人さんと同居なんて羨ましいね」
「だが此奴はそう思ってないらしくてな。我が輩との交友をなかなか深めようとしないのだ」
「ナイアさんが美人だから恥ずかしいんでしょ?」
半裸で同じ布団に入ればそりゃ恥ずかしいだろうよ。
「ナイアさんはなんというか、スキンシップが多いから、なかなか慣れなくて」
「外国の人ってよくハグするもんね。でも大丈夫。思い切ってしちゃえばすぐ慣れるよ。私も小百合とハグするのにはもうすっかり慣れたし、結構良いものよ?」
「……私のことは良いから」
「ほうほう。君の妹はそんなに抱き具合が良いのか」
「後で試してみます?」
「お姉ちゃん!?」
そんな会話をしているうちに料理が運ばれ、食事が進む。
そのうち、ふと今の俺は客観的にはハーレムなのだなと気付いた。
従業員や客の目線が羨望と疑問の色に染まっている。
本音を言うと悪くない気分だ。
橘さんと一緒に食事ができたというのも大きい。
一緒に作業して、一緒に下校して、一緒に食事するに至った。
なんだか順調に距離を縮められているとうに見える。
高嶺の花だと思っていたが、もしかするともしかするかもしれない。
わき上がる期待感のお陰で、食事がよく進んだ。
やがて、話題がナイアさんから橘さんへとスライドする。
「そういえば、今日は橘さんは買い物しに来てたの?」
「それでもあるんだけどね。朝一で映画を観に行ってきたの。マイティ・ソーの新作をね」
『マイティ・ソー:バトルロイヤル』
言わずと知れたマーベル映画シリーズの一つで、要はヒーロー映画である。
「へぇ。女子がそういうの見るって意外だね」
何気なく言ったつもりだったが、その一言で橘さんの顔が曇った。
「……やっぱり、そうだよね」
まずい。
どうやら地雷を踏んだらしい。
爆発する前に手を打たねば。
「お、俺もマーベルは好きだから身近に同志がいて嬉しいなぁなんて」
「そうなの?」
橘さんの顔の雲から若干の陽の光が見えた。
「アイアンマンからずーっと観てるよ。ちょっと前にローガンとスパイダーマンも観たし。ソーはまだ観てないけど楽しみにしてる」
「そっか。私も語れる人がいて嬉しい。小百合はあんまり食いついてくれなくて」
「だって血がたくさん出て怖いんだもの。主人公がいきなり高速道路でたくさん人を殺す映画が好きなんて信じられない」
ごめんごめんとばかりに橘さんが笑う。
「いきなりデッドプールは刺激が強かったかな」
良かった。
地雷原は回避できたらしい。
ふと、会話についていけないナイアさんが袖をちょいちょいと引っ張ってきた。
「その何たらソーとは何者だ」
「映画の主人公で、神様ですよ」
「なんだ私の仲間か」
突っ込んではいけない。
そう心に戒めてストローを吸った。
そうして食事が終わり、レストランを出たところで、一行は別れることになった。
名残惜しいが、元々偶然の出会いだったのだからこれで良しとしよう。
「それでは、最後に橘妹を抱き締めたいのだが、構わないかな橘姉?」
「ええどうぞどうぞ」
当人には聞かないんだなと思っている間に、ナイアさんは小百合ちゃんの背に手を回し、ぎゅっと締めた。
小百合ちゃんはあわわと言いながら、結局はされるがままになる。
「おお、なかなかの抱き心地だ」
その数秒後、ナイアさんは満足したという風に小百合ちゃんを解放した。
「どうだ? 君もしてみるか?」
が、橘さんが割って入る。
「ちょっと待って。男の子とは駄目だからね!?」
「わかってるって」
ナイアさんの呼びかけにちょっと乗り気になったのは黙っておこう。
すると何故か、小百合ちゃんが申し訳なさそうにしていた。
「ご、ごめんなさい先輩」
「良いって良いって。こっちこそナイアさんが無理を言ってごめんね」
先輩……か。
良い響きだ。
後輩の女子にそんな風に呼ばれるなんてもしかしたら初めてかもしれない。
そんな思いを噛みしめて、俺とナイアさんは帰路についた。
橘さんと別れて緊張の糸が切れたのか、電車に揺られていくうちについ眠くなる。
睡魔と戦ってみたが、ナイアさんの妙に優しげな声がそれを諫めた。
「心配するな。着いたら起こしてやる。君は眠りたい時に眠ってそちらに行くと良い。その宇宙は君の宇宙なのだからな」
その意味を考える間もなく、意識は向こう側へと沈んだ。
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