第2話 嫉妬の炎が身を焦がす~前篇~

至極気持ちの良い朝だった。


我がランシール帝国は今日も晴天で、空は青々と澄み渡っている。


青空の下、俺は自室のバルコニーで朝のティータイムを楽しんでいた。


「これで今日のスケジュールが昨日と同じなら完璧であったな、アルフレッド」


傍らに控えるアルフレッドが、恐れ多いとばかりに頭を下げた。


「お気持ちはお察しいたしますが、どうかご容赦ください」

「君が低頭する必要はない。今日生まれた彼に責任がある」


彼とは、俺の異母兄弟にして帝位継承権第二位の人物。


ネロス・トッド・ポンパドゥール皇太子殿下のことである。


俺と家名が異なるのは、皇帝の妻と子は妻の家名を名乗り、皇帝になってから新たな名を先帝から授かるという伝統があるからだ。


そうして帝位継承の正当性を強調すると同時に、どこの家名にも左右されない皇帝の唯一絶対性を表している。


まあそれはともかくとして、俺はネロスが嫌いだ。


俺の方から嫌ったわけではない。


向こうが帝位継承権第一位の俺を憎んできたから、こちらも向こうを嫌いになるしかなかった。


母親の出自に差があったため、年下の俺に帝位継承の優先権が与えられたという背景も、余計に憎しみを増幅させているのかもしれない。


お家騒動というのは古今東西夢現を問わずこんなものなのだろう。


「それで、生誕祭は船上でというのは変わらないのか?」

「さようでございます。本日はまもなく宮廷を発ち、トゥーロン港へ向かいます。到着の後、港でご昼食を摂り、出港いたします」

「それで夕方から船上で生誕祭か。まったく、宮廷で開催すれば費用は半分以下になるだろうに」

「財務大臣もその件で掛け合ったそうですが」

「正しい行動だな。ここ数年、悪天候に伴う不作で税収が落ち込んでいるから尚更だ。いつまでもあの母親のゆりかごの中にいるから、ネロスはその程度のこともわからんのだ。あれで皇帝になるつもりなのだから最早喜劇だな」


ティーカップを握る手に力が入り、茶の表面が震える。


「……恐れながら殿下。お言葉にはお気をつけください。どこで誰が聞いているともわかりません故」

「そうだな。迂闊だった」


日本にいた頃も政治家の醜聞に悪態を吐いたことはあったが、それが身を危うくするようなことはなかった。


やはり権力者の側になるというのはどうも慣れないなと自嘲しつつ、俺はティーカップを一気に空にした。


「では行こうか」


喜劇王の宴にな、と心の中でつぶやき、俺は宮廷を後にした。


護衛の騎兵隊に囲まれながら、馬車に揺られること数時間。


太陽が真上に近づいた頃、トゥーロン港の門が見えた。


トゥーロン港は、北のセーヴィル帝国と南の我がランシール帝国の国境近くにある。


元々は軍港であるため、港の周囲には見上げるほどの城壁がそそり立っていた。


だが、百年の平和によってトゥーロンは軍港から貿易港へと変わりつつある。


実際、門を抜けた先は会社の社屋とそれを利用する商人たちで溢れており、軍服を着たものは俺の護衛を除けばチラホラとしかいない。


馬車はそうした活況を抜け、軍司令部が入る石造りの建物へと到着した。


ふと見ると、その建物の前に見覚えのある家紋をあしらった馬車が駐まっていた。


「フィッツジェラルド家の馬車があるようだが」


馬車に同乗しているアルフレッドが即答した。


「シュミット閣下とリリス様も招待客に入っていたと記憶しております」

「なるほど。本日初めての朗報だな」


軍司令部では、シュミットとリリス嬢、そして、トゥーロン司令官のジャン・ポール・セリュリエ大佐に歓待された。


シュミットは案の定昼からワインを飲み、リリスは俺の隣で可憐な笑顔を咲かせている。


セリュリエ大佐は五十歳くらいで、アルフレッドのそれと同じ老練さを感じさせる風格があった。


「セリュリエ大佐。貴官はここに着任してどのくらいになる?」

「約十年になります殿下」

「ならばこの辺りのことは熟知しているだろう。貴官から見て、今日は出航日和と言えるか?」


別に気まずくて天気の話を振ったわけではない。


出航できないくらいに悪天候になってくれないかなと、僅かに期待して聞いたのだ。


「本日であれば、問題はございません。この辺りは気候が安定しており、そのために軍港が作られたという経緯もあります」

「……そうか。それは何よりだ」


心にもないことを言いながら、フィッツジェラルド家自慢のワインを口にする。


「しかし、海上では風も強いだろう。そのようなところでパーティーなど楽しめるのだろうか?」

「ご心配には及びません。生誕祭が執り行われる場所は無風海域に近く、風はとても緩やかです」

「無風海域?」

「その名のとおり、風が吹かぬ海域があるのです。帆船にとっては危険ですが、生誕祭を催すには向いてるでしょう」

「無風海域の近くというが、誤って入ってしまうということはないのか?」

「無風海域には濃い霧が立ちこめておりますので、故意でもなければ進入してしまうことはありません」

「……そうか」

「殿下は心配性であらせられる! 船を操るのは海軍の腕利き。問題ありますまい。そうですな大佐殿?」

「そのとおりです」


何故かシュミットがどうだと言わんばかりの表情を俺に向け、豪快に笑った。


「お父様! 生誕祭前というのに酔いすぎです」

「そう怒るなリリス。可愛い顔が台無しだぞ」

「シュミット、私はリリス嬢は怒り顔もまた好ましいと思う」

「殿下!?」


そうしてリリスをからかっている内に昼食会は終わり、俺とシュミットらは生誕祭が催される船へと乗り込んだ。


乗り込んですぐにシュミットらと別れ、自室に案内された。


船内とは思えない凝った造りの部屋で、黄金の調度品や白銀をあしらった家具は宮廷のそれと比べても見劣りしない。


しかし、それにしたって暇だったので、船内を見て回ることにした。


甲板に出てみると、この船の大きさを改めて実感できた。


百人は楽に入るであろう広さの甲板には、料理を載せるであろうテーブルが幾つも並べられ、立食パーティーの準備が進んでる。


何となく甲板を歩いていると、背後から聞き覚えのある少年の声がした。


「これはこれはレオンス殿下」


振返ってみれば、ネロス・トッド・ポンパドゥールとその母ギネヴィアが頭を軽く下げていた。


「ご機嫌麗しゅうございます殿下。本日は我が息子ネロスの生誕祭にお越しいただき光栄の至りですわ」

「兄弟として当然のことだ。暫くお目にかかれていなかったが、お二方共に息災のようで何より」


実際はお目にかからないように避けていたのだが、それは心中に秘めておこう。


それにしても、相変わらず見た目は美しい親子だ。


ギネヴィアの細顔は氷のような冷たい印象を与えるのと同時に、高山に咲く花のような気高さを感じさせる。


媚びない女だが、だからこそ手に入れたいという欲望をそそられる美しさだった。


現代日本なら有能な検事か医師といった印象だ。


息子のネロスはその母親似の、中性的な美少年である。


ただ、俺の一つ上の十五歳にすぎないせいか、母親の冷たさは若干緩和されている。


これで中身まで美しければ毎日だってお目にかかっていただろうに。


ギネヴィアの中身は権力欲に満ち満ち、ネロスはその言いなりだ。


それにしても……まずいな。


何を話せば良いんだ。


まさかこんなに早く、それも偶発的に会うとは思っていなかったため、挨拶以上の話題が出てこない。


三秒以上沈黙が続きそうになったその時、リリスが現れ、ポンパドゥール親子に低頭した。


「本日はお招きいただき恐悦至極でございます」

「おおリリス嬢! 久しいな」


ネロスの顔がパッと輝いた。


まあ気持ちはわかる。


そしてほんの一瞬だが、息子とは対照的に、ギネヴィアの顔が歪んだのを俺は見逃さなかった。


ギネヴィアが冬の女王なら、リリスは春の姫君といったところか。


「ギネヴィア殿下。そちらの指輪、珍しゅうございますね。もしや極希にしか流通しない、エルフの宝玉ではありませんか?」

「これはこれはよくご存じですわね。そのとおり、馴染みの宝石商が持ち込んだ逸品ですの」


少しだけだが、ギネヴィアの頬が緩んだ。


ギネヴィアのような氷の女でも、この手の話題は好きらしい。


「見たこともない輝きを放っているはずです。金銭だけでは手に入らない美しさ、誠に雅でございます」


言われてみれば、ギネヴィアの細指にある宝石は、透明感のある赤・青・緑色がらせん状に交わる世にも珍しいものだった。


こんなものは現実でも見たことがない。


エルフと言えば、この世界のどこかにはエルフという人間とは別の種族がいるそうだ。


外洋のどこかにはいるようだが、具体的な場所はわかっていない。


エルフと人間との接触はエルフが望んだ場合にのみ起こり、その際にエルフの宝玉のような品が取引されるのだ。


リリスが金銭だけでは手に入らないと言ったのには、そういう事情がある。


「貴女は物の良し悪しがわかっていますのね。その髪飾りも、北方の宝石が使われているようだけれど」

「おわかりになりますか? 殿下のお召し物には遠く及びませんが」

「謙遜を。宝石だけではなく、造りもよく出来ていますわ。どこの職人に造らせましたの?」

「我が家が代々贔屓にしてきた職人がおりますの。よろしければご紹介しましょうか?」

「まあ素敵。それは是非お願いしたいものね」


どうやら、二人は男には踏み込めない会話を始めてしまったようだ。


ネロスも困っているようで、俺の眼を見て苦笑してくる。


ここは呉越同舟か。


俺は助け船を出すことにした。


「ネロス殿下。せっかく海に出たのです。大洋を眺めにでも行きませんか?」

「おおそれは良い。母上、よろしいでしょうか?」

「くれぐれも落ちぬように気をつけるのですよ」


そうして、俺とネロスはペチャクチャと長話を始めた二人を置いて、船の前部へと向かった。


前部に着いてみると、前方に本船に負けず劣らず巨大な船が浮かんでいた。


その船には、我がランシール帝国海軍の旗が揺らめいている。


「ネロス殿下。我が軍の艦艇が見えます」

「護衛の戦列艦です。壮観なものですね」


戦列艦。


そういえば軍学の講義で教わったことがある。


約百門もの大砲を備え、分厚い木の装甲で護られた海上の要塞。


海軍の強さは戦列艦の強さと比例する言っても過言ではないそうだ。


そんな艦艇が、本船の前後左右を囲っている。


これでは海賊はおろか海軍でも簡単には手出しできないだろう。


男の子なら大なり小なり興奮しそうなものだが、ネロスの顔はどこか憂いを帯びている。


「……何か心配事がおありですかネロス殿下」

「顔に出てしまいましたか」

「生誕祭の主役としては、随分と思い詰めた顔をされていましたので」


ネロスは苦笑し、その長めの髪を掻いた。


「さすが兄弟といったところでしょうか。兄弟で争い合うのはどうも疲れてしまうものです」

「ネロス殿下それは……」

「ここにいるのは我らだけ。隠すことはありますまい。実は、帝位を巡る争いが嫌になってきました」


素直に驚いた。


これまで母親の言いなりだったネロスの本音を、初めて聞いた気がした。


「私もネロス殿下と争いたくはありません。兄弟の不仲によって、大陸を戦乱へと導いた大帝国と同じ轍を踏んでいるように思えてなりませんから」

「なるほど卓見です。ですが、母上はそうは考えてくれません。合法非合法を問わぬやり方でレオンス殿下から第一継承権を奪うつもりです」

「ネロス殿下はそうではないと?」


ネロスは苦笑いした。


「私は今日で十五歳。成人です。母上の言いなりはもうこれまでと思い切りました」

「それでは、ギネヴィア殿下をどのようにお諫めするかが問題ですね。なかなか難しいことと思いますが」

「今ここで解決策を導き出せるとは思っておりません。ですが、今後二人で話し合う機会を持ちたいとは考えております。いかがでしょうか?」

「反対する理由が見当たりません」


きな臭いことにならないのであれば、それに越したことはない。


俺とネロスは互いの意を確認し合うと、その場は別れた。


帰ったとばかり思っていた橘さんが教室に現れたのと同じく、思いがけないことというものは案外よく起こるものだ。


現実がそう悪いものばかりではなかったのと同じく、ネロスとの関係も案外悪いものではなくなるかもしれない。


そう思うと自然と気持ちと足取りが軽くなり、部屋に戻った頃には生誕祭の開催を心待ちにするくらいになっていた。


そうして、陽がその身の半分を水平線に沈めた頃、船は帆を畳んだ。


部屋の窓からは、セリュリエ大佐が話していたとおり、濃い霧に覆い隠されたような海域が見えた。


あれが無風海域というものかとぼんやり眺めていると、戸を叩く音が耳朶を打つ。


「殿下。まもなく生誕祭が開始されます」

「わかった。すぐ向かう」


アルフレッドを伴って、俺は甲板へと向かった。


誕生日を境に、ネロスが生まれ変わると信じて。

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