幕間 あなたの美しい馬

「……それまで平原において無敵を誇った青銅製の二輪戦車戦術を無効としたのは、軽く硬い鉄製の鎧兜を装着し、同じく装甲化された騎馬を駆る騎兵たちでありました」

 傾きかけた日の差し込む講堂。教鞭を手に淡々とした口調で語るのは、これまた茫洋とした風貌の老教授だった。席に座る学生の姿はまばらで、ほとんどが適度な暖かさに船を漕いでいるか、講義などそっちのけで隣席の異性とじゃれているかのどちらかである。が、老教授がそれに気を悪くした様子はない――自らが語る歴史に魂を飛ばしている最中なのかもしれない。

 ただ一人、最前列に座る女学生のみが、異様なまでの熱心さでノートにペンを走らせている。

「馬の背にまたがり戦う技を、いつ、どのようにして、誰が実験の域を脱して定番化したのか、私を含めて確たることを言える者はおりません。ただし、最も古い騎馬戦士の図像が、馬にまたがるアッシリアの兵士を表したものであることは確かです。……ええ、講義の時間も残り少なくなってまいりました。何か質問のある人がいましたら……」

「はい」

 早くもテキストを片づけ始める学生の中、目を見張るような美しい挙手をしたのは、件の女学生だった。「緑の黒髪」という古風な表現が似合うような、日本人形を思わせる小作りな容貌と華奢な肢体が一際目を引く娘だ。

「どうぞ」

「やや先走った質問をお許しくださいませ。現代に騎兵の活躍する余地はありますの?」

 からかうニュアンスなど皆無の、真剣さの漂う声色だった。ひたと老教授を正面から見据えながら、手元ではノートにペンを走らせている。

 周囲の学生たちがぎょっとし、あるいは顔を見合わせる中、老教授は少しの驚きを見せたものの、変わらず淡々とした口調で答えた。

「難しいでしょう。歩兵携行火力の向上、馬の運用とそれに伴うコスト、何よりも馬という決して小さくない動物の背にまたがる被弾率の高さなど、兵科として運用するにはリスクが高すぎます」

「……そうですわね」頷きながらも、彼女の片手が動く。

「無論、車両やオートバイを安定して運用することが困難な砂漠などでは、特殊部隊が偵察・運搬手段の一つとして検討することはあります。それ以外ですと――パレードなどの儀礼の際に使われるのみですね」

「……わかりましたわ。とても参考になりました。ありがとうございます」

 頭を下げながらも、彼女の手は力強くノートの文面に二重線を引いている。


『綺麗な人だなあ……あんな人が恋人だったら、人生楽しいだろうなあ……』

『お前、ちょっと声かけてみろよ』

『馬鹿言えよ。きっと大金持ちのお嬢様で、同じくらい大金持ちのお坊ちゃまが婚約者だったりするんだぜ。ナンパしたって相手にしてくれるもんかよ……』

『綺麗な人だなあ……あんな人が恋人だったら、人生楽しいだろうなあ……』

『……こいつ、さっきからそれしか言ってないな』

「…………大金持ちのお坊ちゃまが婚約者の、大金持ちのお嬢様、ですって」

 自分の住居――築後たっぷり十年以上は経つ老朽化した二階建てアパートを見つめながら、彼女――ぐら静華しずかは自嘲気味に呟く。「そんなわけないでしょう……」


「あ、ねーちん、おかえり」

 ドアを開けると、バスケ部帰りで早くもシャワーを浴びたらしい弟のたけるがタオルで髪を拭きながら出迎えた。「風呂空いたけど入る?」

「入りたいけどいい、バイトあるから。それより一息入れさせて。本当は三息ぐらい入れたいんだけど」

「うい。……そりゃ疲れるよな。知ってんだぜ俺、ねーちんがどんだけ外でしてるか」

 うっさい、と拳を振り上げると大げさに悲鳴を上げて逃げた。子供の頃は母に似ていると近所のおばさんたちから言われて大層むくれていたのに、中学に入ってからはかなりがっちりとして上背も伸びてきた。何となく、父に似てきた気がする――もう、微かにしか覚えていない父に。

「そんなにへとへとなのに、やっぱりバイト行くのか? あんまり割り良くないんだろ?」

「今どき、割りのいいバイトなんてあったらこっちが教えてほしいわよ」

「俺も働きたいなあ。早く大人になりたい」

「そのうち嫌でもなるわよ。それに、なったらなったで大変だって思うわきっと」

「それでも何かできるだけいいよ……俺、軍事請負企業ミリセクに入ろうかな。学歴は問わないし、給料だってすげーいいみたいだし」

「絶対やめた方がいい。すぐ殺されるし。どころか、入る前にそれこそ母さんにぶっ殺されるでしょ」

「……じゃあどうしろってんだよ」

 弟の口調に混じる陰りに、静華は気づかない振りをした。数年前まで、その思いは彼女も他人事ではなかったのだ。では、現状はそれよりよくなったのだろうか――わからない。よけい袋小路に嵌まり込んだ気がしなくもない。

 椅子に腰を下ろしはしたが、ぼんやり過ごす気にもならなかったのでタブレットでお気に入りの動画を観ることにした。

「……やっぱり馬はいいなあ」

 観るたびに何て美しい生き物なんだろう、と思う。人間よりもずっと。

 ふと顔を上げると、弟と目が合った。「何よ?」

「本当、飽きねえよな。毎日それ見てにたにたしてんだもん」

「うっさいわね。好きなんだから仕方ないでしょ」

「悪いなんて言ってねえよ。……ねーちん、本当によかったのか?」

「何が?」

「そんなに馬が好きだったらさ、脇目も振らず騎馬学校とか行けばいいじゃん」

 思わず盛大に溜め息を吐いていた。「よくないわよ。うちじゃ、馬のウの字さえ禁句だってあんたも知ってるでしょ」

「……やっぱり母さん、父さんが死んだこと怒ってるのかな」

 猛はうつむいた。手にしたタオルまでだらりと垂れ下がっている。

 騎手だった父の死因は落馬事故による首の骨折だった。父とてそんな死に方をしたくて死んだわけではないだろう――とは言え、遺された静華や尊にとってもいささか腹にもたれる死に様ではあった。母に至ってはなおさらだろう。

(そうだね。父さんが生きていたら……どうにかなったのかな)

 尊の呟きは彼女自身、何百回と――もしかすると何千回と自分に問うたものだった。そして、満足した答えが出たためしはない。

「怒ってはいない、と思う。ただ……やり切れないのよ」

 静華は弟のまだ乾ききっていない頭髪をくしゃりと掻き回した。「お腹空いたでしょ。何か作ったげる」

「いいよ。疲れてんだろ」

「お腹が空いてるから暗くなるのよ。それに、私も食べたいの」一食作るくらいの食材と時間はあるだろう。そんな顔をしている弟を置いたまま、働きに出たくはなかった。

 鼻をすすりながら笑った弟は、すぐ真顔になった。「そうだ、手紙届いてたぜ」

「私に?」

「うん。それも、何か……すげーヘンな手紙」

 弟が差し出してきた手紙は、確かに奇妙だった。何しろ、封筒からして黒一色なのだ。

「差出人の名前もないなんて気味悪いよな。……やべー宗教の勧誘とかじゃね?」

 封を開けてみると、一枚の便箋が転がり出た。封筒の異様さに反して、素っ気ない文面が一行のみ。しかも今までの人生で数度お目にかかったかどうかという美しい筆跡だ。まるで心当たりがない。

 ――あなたが必要です。明日、件の教室にて。

「……何だこれ?」

「さあ」

 弟と二人して首をひねってしまった。「あなたが必要」からしてわからない。わかるのは「件の教室」のみだ。つまり――あの教室に他ならない。


(……でも、本当にどうしたらいいんだろう……)

 教室に向かう途中で、静華はそう自問せずにはいられなかった。自分のやるべきこと、やりたいこと、誰かに必要とされること。そしてそれを一致させること。簡単なようで、何と難しいのだろう。

 大学を中退して、騎馬学校に――いや、できない。母の反対がなかったところで、弟の義務教育卒業までに家計が保ちそうにない。

(もっと割りのいいバイトに切り替える……水商売とか……)

 いやいやいやいや、と思い直す。今度こそ母に半殺しにされるかも知れない。それでなくとも、男子学生のみならず教授の中にまで静華を「つまみ食い」しようとする者が後を絶たず、彼女は充分うんざりしていたのだ。別に一生独身を貫くほどの覚悟は決めていないが、これ以上男性に絶望したくもない。

 少なからず悶々としながらいつもの教室のいつもの席に座ると、珍しく同席者があった。

「ごめんなさい。ここ、いいかしら?」

「……どうぞ」指定席ではないから拒む権利もないのだが、それにしても――あの手紙を受け取った次の日に、か。

 秋色のワンピースを着こなした、一際目を引く娘だった。背は自分より少し低めか。明るめの髪と少し厚めの瑞々しい唇が、顔見知りの少ない純華には眩しすぎる。

 純華が質問する前に、娘の方から口を開いていた。「瀬川夏姫よ。ねえ、悪いんだけど教科書見せてくれない?」

 数秒ほど目を瞬いてしまった。「……小倉静華。今日は仕方ないけど、授業を受けるならケチらず用意なさいな」

「私ね、ここの学生じゃないの。実を言うと大学生でもない」

「サボりなんですの?」

「ええ」

 あまりに悪びれず言うので、かえって咎める気が起きなかった。「怒った?」

「……別に怒りませんわ。今日会ったばかりの人の生き様なんて」実際、自分と家族の人生だけでもいっぱいいっぱいなのに、この上他人の人生まで抱え込んでいられない、という気分だ。「それにしても勉強熱心ですことね」

「そうでもないわ。目当てはあなただから。そう、私の動機は不純そのもの。あなたと違ってね、静華さん」

 夏姫はポシェットから一通の封筒を取り出し、すっと横に滑らせた。あの異様な、黒一色の封筒を。「おめでとう。

 どういうことですの、と問おうとした純華を手で制し、彼女は意外にも真剣な顔つきでノートを開いた。同時に、あの老教授が茫洋とした眼差しで教壇に立つ。授業は真面目に聞くつもりらしい。


「……馬の世話?」

 講義が終わった後、夏姫に誘われて静華は構内のカフェで彼女の話を聞いていた。夏姫はオレンジジュース、純華はアイスコーヒーを注文している。

「そ。それもちょっとばかりのね。知識だけならネットで検索すれば済むけど、やっぱり専門家がいるかどうかでは大違いだからね」彼女はおいしそうにストローを咥える。「あなた、馬、好きでしょ?」

「……好きではありますわ。あまり役に立てるとは思えませんけど」正直、会ったばかりの相手に自分の嗜好を把握されているのは愉快ではない。「それに、専門家云々で言うのならそれこそ騎馬学校から一本釣りしたらどうですの?」

「技能に関して言えばね。でも、これに関してはどちらかと言うと『動機』の方が重要なの」

「好きなことだけで生活が成り立てば、苦労はしませんわ」

「だからブラックバイトに精出すわけ?」夏姫は大げさに目をぐるりと回してみせた。「正直、私たちも手探り状態で人も物も、肝心の研究も同時進行なの。成否にかかわらず拘束時間分プラス交通費は約束する。お金に関してはかなりのものが用意できるわ――少なくとも不満があるならやめればいい、代わりは幾らでもいる、なんて言い放たれるブラックバイトより遥かにね」

 話がうますぎる、とは思ったが、自分の脆弱な部分が突かれていることは認めるしかなかった。

「今すぐ、身一つで来られる?」

「ええ」


「工場にしか見えないのですけど……これが研究所?」

「廃棄された汎用プラントの再利用なの。中身は最新の研究施設よ」

 静華は半信半疑で、錆びていない部分より錆びた部分の方が多そうな工場の敷地を眺め回した。何より驚いたのは、ここまで来たのが夏姫の付き人だという青年の運転する高級外車だったことだ。「なんちゃってお嬢様」の自分よりよほど裕福層だ。

「何を研究していますの?」

 夏姫は悪戯っぽく笑う。「何でも。本当に何でも、よ」

「ようこそおいでくださいました。ここの副責任者の舟橋ふなはしと言います。えーと、そちらの方が……?」

 二人を出迎えたのは、良く言っても優しそうな、としか形容のしようがない痩せぎすの男だった。研究者らしく白衣を纏った立ち姿が病的なまでに細い。色の薄いふわふわした髪と、眼鏡の奥のひどく小さな目が頼りなさげな印象をさらに強める。まあ、間違っても夏姫の恋人ということはないだろう、と静華は冷酷に踏んだ。

「紹介にあずかりました小倉です。よろしくお願いしますわ」

「こ、こちらこそ」舟橋は見事なまでにどもった。どう見ても人付き合いの得意そうなタイプではない。

「ご専門は何ですの? 生物学?」

「いえ、そちら方面はからっきし……むしろ機械工学ですかね。実際、ここに来るまでは食玩メーカーで子供向けペットロボットの開発を行っていましたし」

 静華は眉をひそめた。聞いた限りでは馬と関係のなさそうな経歴だ。それとも『馬』というのは何かの比喩なのだろうか?

「百聞は一見に如かず、ね。どうぞこちらへ」夏姫は静華を促した。古びた工場の外観とは裏腹に内部は清潔で機能的で、本格的なマシニングセンタらしき大型機械や強化外骨格の耐久実験室まで、ガラス越しに様々な施設や設備が見て取れた。それにしても、ますます何を目的とした研究なのかがわからなくなる。

 目的の部屋らしき場所へ来ると、夏姫が笑みをさらに深めて手招きした。「小倉さん。あれが何に見える?」

「あれって、それは……」ガラスを透かし見て、静華は確実に、数秒間ほど絶句した。「……………馬、かしら」

 やった、と声を上げた夏姫が舟橋と掌を打ち合わせていたが、そちらに目が行かないほど静華は「それ」に引きつけられていた。

 実際「それ」のシルエットは馬以外の何物でもなかった。――全身を金属の輝きに覆われていなければ、もっと馬らしく見えただろう。

 壁際には幾つもの計測用らしき機器が並び、複雑なグラフや図形を表示している。そこから伸びた何本ものコードやチューブが「それ」の横腹や首筋に接続されている。鈍く輝く金属の背骨は剥き出しで、ボルトやビスで留められている。

「あ……あれは、作り物なんですの……?」

「どう思われますか?」まるで別人のように落ち着いた深みのある声で舟橋が問いかける。「近くへ寄って見てみますか?」

「……ええ」催眠術にかけられたように、静華は頷く。

 圧縮空気の漏れる音とともに、分厚いドアが開く。おそるおそる純華が踏み込むと、黒光りする巨躯が身じろぎした。ゔるるるる、と異様な音が響く。鋼鉄の蹄ががつがつと床を踏み鳴らす。

 「それ」と目を合わせた。カメラとセンサーの複合体なのだろうか。瞳に当たる器官は黄色の真円で、奥で微かな光が瞬いているのが見て取れる。純華の顔に焦点を合わせているらしい。

 無意識に手を伸ばした――拍子に「それ」が後退りした。急激な動きにコードが何本か外れ、計測機械が倒れて耳障りな音を立てる。

「ご……ごめんなさい」

 反射的に謝ってしまった。相手は作り物なのに? ……自嘲する声は、ずいぶんと小さかった。本物みたいだ、と思った。心から。

 息を吸って、ゆっくりと吐きながら思い出す――静華、怖がってはいけないよ。

 怯えない。怯えさせない。顔色をうかがわない。……よし。

「大丈夫よ。いい子……いい子ね」語りかけながら、本物の馬で言えば鼻面のあたりに向け、手を伸ばす。巨躯はわずかに身じろぎしたが、もうそれ以上逃げようとしなかった。金属の冷やりとした感触。様子をうかがった後、逆に静華の掌に鼻面をこすりつけてきた。

 甘えている。

 かつかつ、と金属の蹄が床を踏み鳴らしたが、先ほどよりはよほど穏やかだった。背後で頷き合っている夏姫と舟橋のことなど、意中になかった。


「……すごい技術であることは確かですわ」応接室で淹れられたダージリンティーを口に含みながら、やや冷静になって静華は言った。「でも、あそこまで本物の馬に似せて作る必要がありましたの? ええと……舟橋さん」

「実用性で言えば、似せる必要はありませんよ」舟橋は照れ隠しだろうか、ふわふわと持ち上がる頭髪をかき回してみせた。「何ていうのかな……僕は人間の『友達』が作りたかったんです」

「そういう前職という話でしたわね……でもそれと何の関係が?」

「友達って、必ずしも思い通りのことをしてくれるとは限らないでしょう?」

 おかげで「商品化には癖が強すぎる」って左遷されてしまって、ここにいるんですがね――またもや頭髪をかき回す舟橋を見て、なるほど、と思った。適材適所というわけだ。

「それに『完全な人造物』と言うと語弊があります」

「?」

 舟橋の口調が、あまり語りたくないことを語る時のそれになった。「……何しろ、脳髄と脊椎の一部を除けば、残り9割は完全な機械ですから」

 危うくカップの中身を盛大にこぼすところだった。「生身の部分が残っていますの? あの姿で?」

 ――始めは再生医療の一環に過ぎなかったんです、と舟橋は語り始めた。「実際、再生医療でもなければ生命維持さえ危ぶまれる状態でした――『彼女』がここに担ぎ込まれた時は」

 子宮も性器も皮膚も筋肉も骨格も全て機械に置換して、どうにか最低限の生命維持には成功しました、と舟橋。「問題はそこで予算が尽きたことです。大いに弱りましたよ。僕たちだって仙人ではありませんからね。霞を食っては生きてられない。こちらの――瀬川さんの口添えがなければ、誰かが誰もやりたくない役目を引き受けなければならなかったでしょう。こんなことなら手術前に安楽死させるべきだった、と思いながらね」

 子宮も性器も皮膚も筋肉も骨格も、全て。果たしてそれを「馬」と言えるのだろうか。身体の9割までも機械に置き換えたものをそもそも生物と呼べるのだろうか――興味は尽きないが、それ以上に重要な問題がある。

 静華はカップを置いた。「それで、夏姫さん。そろそろ教えてくださらない? 私に何をさせたいのか」

「何のことかしら?」

「おとぼけはおよしになって。あの『馬』、どう見ても戦闘用ではありませんこと? ただの愛玩品に完全防弾仕様のハニカム構造複合装甲なんて必要ありませんもの。私が馬好きだからって、材料工学にまるで無知と思われたら残念でしたわね」

 さすがにバレたか、と夏姫は大して悪びれもせず笑う。

「テロや犯罪なら、幾らお金を積まれてもお断りですわ」

「テロや犯罪ではない、とは言っておくわ」夏姫はやや表情を改める。「完全に合法とも言い切れないけど」

「ミリセクに入れ、ということですの?」

「より正確には、犯罪集団に対し即時かつ致命的な攻撃を行う私設警察、といったところかしら。ミリセクが守るのは結局、一部の富裕層のみだもの」

「正義の味方ごっこ?」

「否定はしない」打てば響くような回答だった。「私たちは目の前の命を全力で守り、目の前の脅威を全力で潰す。その意味では正義ですらない。まあ、犯罪者を狩る犯罪者、と思ってくれて結構よ」

「例えば――この話を、私が警察なり報道機関なりに漏らしたらどうしますの?」

「漏らさないでしょ。何一つメリットがないもの。正式な契約はまだだから詳しくは言えないけど、うちの選抜システムは優秀なの。あなたが思っているより遥かにね――〈神託オラクル〉の名は伊達じゃないわ」

 密告するような手合いは最初からふるい落とされている、ということか。

 それに、と夏姫は明るい色の瞳で静華を正面から見据える。「こう言っては何だけど、あなた、テロでも犯罪でも構わないって顔してるわよ――もう一度あれに近づけるなら」

 気遣わしげに二人の娘を見比べている舟橋と違い、静華は冷静だった。彼女の言う通りだ、と思った。ミリセクや水商売は駄目で、正義の味方ごっこならオーケーか――そんな皮肉も浮かばなくはなかったが、それでもどうしようもなく自分の心が高揚していることは否定できなかった。

「あの子に名前はありますの?」

「まだないわ。誰もしっくり来るのを思いつかないから、私が適当につけるつもりだったけど。〈グレイトスーパークレイジーホース〉とか」

「私がつけますわ」断固として言った。「それ以外の条件は、今後の相談次第。それでよろしくて?」

「大いによろしくってよ」笑いながら夏姫が手を差し出してきた。「契約成立ね」


 吹きつける夜風は、潮と鉄錆の臭いを含んでいた。

 叩けばぼろぼろと崩れそうな黒雲の立ち込める空の下、ある意味ではそれにふさわしい灰色の陰気な街並みが続いている。建物の大半が爆撃でも受けたように崩壊し、窓ガラスは一枚残らず割られている。

「再開発地区」という名称が皮肉にしか聞こえないこの地域は、市の都市開発計画から取り残された病巣のごとき――そして今では珍しくもなくなった――光景だ。無事な建物は何らかの犯罪組織や反政府組織、怪しげな宗教団体に占拠されており、日没後はホームレスですら近づかない。

 もっとも、だからこそ襲撃地点として選ばれたのだが。

【〈教師ティーチャー〉より各員。標的接近。準備しろ】

 ヘルメット内蔵の無線からリーダーの指示が届く。

【〈夏の令嬢サマーレイディ〉準備よし】

【〈戦車タンク〉準備よしです】

 返答する。【……〈騎兵キャバルリー〉準備よし】

【〈騎兵〉、今回の要はあんたに一任する、が――厳しくなったら〈戦車〉の火力支援を要請しろ】

【〈騎兵〉より〈教師〉、承りましたわ。もっとも、皆様の手は煩わせないつもりですけど】

〈教師〉の鷹揚な笑い。【その意気だ。上手く行くに越したことはない――健闘を祈る】

月の裏側ダークサイド・オブ・ザ・ムーン〉と呼ばれる私設警察――より正確に言えば犯罪者を狩る犯罪者集団だ――の居心地は、意外にも悪くなかった。彼ら彼女らは静華の技能に驚嘆し、惜しみなく賛辞を贈った。自分がそのように誰かから敬意を払われることは、静華の人生でも生まれて初めての経験だった。馬の扱いに関して褒めてくれたのは、死んだ父親のみだったからである。

 暗闇の彼方に目を凝らす。ヘルメット一体化ゴーグルの望遠機能が作動、接近してくる車列を捉えた。黒塗りのトラックが数台、その周辺に護衛らしきバンと4WDがそれぞれ数両。

 黒塗りのトラックには、横腹にのみ血のように赤い塗料で兎が描かれている。目を血走らせ、巨大な牙を剥き出しにした、戯画化された兎の横顔だ。

【〈殺人兎ボーパルバニー〉の定期便だ。運んでいるのは人か、それとも違法薬物か】

【夜とは言え豪気なものねえ。まるで麻薬マフィアの私設軍隊だわ】

【最近じゃ素行不良で首になった自衛軍やミリセク経験者まで雇い入れて、重武装化と凶暴化をさらに推し進めているらしい。あそこまで行くとバイカーを通り越してコンバットギャングだな……】

【油断はしない方がいいわね】

 彼ら彼女らの通話を黙って聞きながら、静華は薄く笑っていた。確かに油断はできない――だが仕掛ける前から恐れおののく必要もないだろう。

【幼稚園のバスに車載機銃を乱射する手合いだ。遠慮は無用だ〈騎兵〉、存分にしろ】

「承りましたわ」ぞくり、と全身が震える。「起きて、〈夜を這う者ナイトクローラー〉。仕事をしましょう」

 静華はグローブで自分がまたがる金属の塊をそっと撫でた。ぶるり、という振動が指先に伝わり、夜の底で巨大な影が身を起こした。液化天然ガスを燃やして動くモーターの駆動音は驚くほど静かだ。

 一歩、金属の蹄がアスファルトを踏みしめる。数歩、ギャロップ。そこから先は全力疾走だ。

 車列に変化が生じた。護衛車両の中で男たちが訝しげに背後を向き、そして、顔を引きつらせた。無理もない――月のない夜、荒れ果てた路面を巨大な金属の馬を駆る黒づくめの影が後方から突進してくるのだから。

 くくっ、と奇妙な音が生じた。自分の口から漏れる笑いだった。

『……それにね、静華さん。あなたのは、たぶん騎馬学校へ行って騎手になっても満たされないと思うわ』

 夏姫の言葉を思い出す。

『あなたは蹂躙したいのよ。馬上から切り裂き、矢を射かけ、蹄で踏みにじりたいの。でなきゃ、ノートに延々と現代戦における騎兵運用なんて何十ページに渡って妄想を書き連ねたりしない』

『あなた、まさかあの一瞬で……』

『一瞬で充分だったわ。人に見られたくないものは、ノートに書かないことね』

 夏姫はわざとらしく溜め息を吐きながら首を振る。『他人事ながら気の毒だわ……真っ当なやり方じゃ、あなたはその叶えられない欲求を必死で矯めて生きるしかない。……そう、私たちに協力する以外はね』

 本当ムカつく女、と思う。(……全部当たってるだけにね!)

 苛立ち紛れに思考トリガーオン。〈夜を這う者〉の脇腹がスライドし、内蔵されていた杭が電磁圧で立て続けに射出された。誘導機能を一切持たない反面、電子妨害では止めようのない重金属の杭だ。荒れ地をやすやすと踏破する頑丈な強化タイヤが一瞬で爆ぜ、車体が大きくスピンした。たちまち傾いた電柱に正面衝突し、あっという間に後方へ消える。まず一台。

 前方を走るバンの後部ドアが開き、自動小銃より一際重い轟音を吐き出し始めた。車載機銃だ。ひび割れたアスファルトを穿つ弾痕が蛇のようにうねりながらこちらへ迫る。

 機銃弾の風切り音を聴きながら、だが静華は笑みをさらに深める。

(……上等!)

 暗視装置でも併用しているのか、機銃の狙いはかなり正確だった。十数発が疾駆する〈夜を這う者〉の周囲をかすめ跳ぶ。うち二、三発が首筋に命中するが、いずれも甲高い音を立てて弾き返される。滑らかな表面装甲は12.7ミリ弾程度なら至近距離からの直撃に耐えうる。だが、立て続けに食らうのは得策ではない。

 それに、わざわざ標的に甘んじる必要もない。

「……仕掛けますわよ!」

 蹴飛ばされたように馬がぐんと速度を増した。〈夜を這う者〉の横腹に装着したラックへ差していた鉄棍を手に取る。

「吠えて!」

 静華の号令に従い、〈夜を這う者〉の頭部が花弁のように開き、そして。目に見えない衝撃波が数メートルを走り、銃火を吐き続けるワゴンの車体を直撃した。全ての窓ガラスに罅が入り、乗者たちが吐く血で内側からどす黒く染まった。本来なら暴徒鎮圧用に使う衝撃砲ショックカノンの威力だ。

 衝撃波で胸骨をへし折られながらも、機銃手がなおも銃口をこちらに向けようとする。その頭部へ向けて、鉄棍を一閃した。

 ぱん、と頭部が水風船のように弾け、首を失った胴が機銃にもたれかかる。油圧式の錘を内蔵した鉄棍は見た目より遥かに軽く、早く振れ、そして鉄槌並みの破壊力を叩き出せる。

 そのまま運転席へ鉄棍の先端を叩き込む――必要はなかった。パニックに陥った運転手がハンドル操作を誤ったのだ。カーブを曲がり損ね、ガードレールを突き破って数メートル下の斜面を転がり落ちる。

 いささか拍子抜けした静華だったが、ヘルメットからの警告音で表情を引き締めた。前方4WDから射撃が始まった。自動小銃による銃撃だけでなく、助手席から乗り出した男が携帯ロケット砲を構えている。

(ごろつきの群れにしては、異様な戦意の高さですのね……)

 よほど大きな「バック」があるのか。いや、考えるのは後だ。

「駆けて!」

 先ほどの加速が投石なら、今度はロケットエンジンだった。瞬く間に数十メートルが後方へ流される。ロケット砲の射手が目を剥くのがはっきりと見える。後方へ爆炎を引いてロケット弾が射出され――まるで見当違いの方角で爆発した。スーパーカー並みの瞬時加速とスーパーカーを遥かにしのぐ旋回速度の〈夜を這う者〉に命中させるのは、たとえ対戦車ミサイルでも容易ではない。無誘導のロケット砲では難易度はさらに跳ね上がる。

 槍を構えて突進する馬上騎士のように、鉄棍を小脇に抱えて前方へ突き出した。獣のようなおぞましい断末魔が上がる。鉄棍の先端が、射手の胸板を深々と貫いていた。腕の一振りで、射手は助手席から振り落とされ、小石のように後方へ消えた。車内から仲間の死に様に悲鳴が次々と上がったが、次の瞬間、打ち込んだ金属杭の猛打に全員が沈黙した。自分のもたらす惨禍に罪悪感はなく、ただ自分が本来このような、人を土塊のように壊す度し難い人間なのだ、という自覚を、静華は生来のもののように受け止める。

 再びの警告音に前方を見る。トレーラーの一台がウィング上のドアを展開していた。しかもそこから見えるのは積荷ではない――まるで遊園地で子供が乗るような寸詰まりのボディを持つ小型バイクが次々と路上へ落下、走り出していた。運転席に人の姿がない。二輪駆動の偵察戦闘ドローンだ。

【〈騎兵〉、新手だ。あと5分持ちこたえろ――〈夏の令嬢〉がドローンの操作元を割り出し中だ。発見次第〈冥土の使者チョスンサジャ〉が対応する】

「了解しましたわ」静華は鉄棍を握り直す。どうも他人との共同作業は苦手だ――だが誰かの役に立ちたいという思いは人並み程度には持っているつもりだし、自分のできない部分をカバーしてくれる誰かがいるのは悪い気分ではない。


「護衛隊は全滅だ! 〈ティンダロスの猟犬ハウンドオブティンダロス〉まであの化け物に蹴散らされたんだぞ。何のためのハイグレード機材だ!」

「ぼやく暇があったら増援を要請しろ。このままだと積荷を丸ごと持っていかれるぞ!」

「……その心配はないよ」

 襲撃地点からやや離れた小高い丘、停車したキャンピングカー内で半狂乱になっていた男たちの会話がぴたりと止まる。まるで、冷たい手で首筋を撫でられたかのように。

 全員が操作パネルから手を放し、懐に手を入れた。それぞれが銃なりナイフなり自分の得物を引き抜こうとして。

 全員の手首が瞬時に寸断され、次の瞬間、一人を除いた男たちの胸を山刀に似た大ぶりの刃物が抉った。

「馬鹿な……お前、いつの間に入ってきたんだ……」

「おや、気づかなかったのかね?」腕の一振りで鮮血を振り飛ばし、その初老の男は事もなげに言った。ずんぐりとした体格は男たちの誰よりも低く、頭部には一本の毛もなく、目も鼻もコンパスで描いたかのように丸い。「私はずっとここにいたんだよ――君たちが気づかなかっただけでね」


【〈騎兵〉、ゲームセットだ。〈冥土の使者〉が目標の無力化に成功した】

「あら」蹄で入念にドローンの残骸を踏みにじる〈夜を這う者〉の上で、静華は残念そうに言う。「こちらは全部片づけてしまいましたわ……間の悪いこと」

【すまんね、手を抜いたつもりはないんだが。やっぱり若者には敵わんよ】

「お気になさらないで」〈冥土の使者〉からの通信に静華は笑いを含んだ声で返す。彼の背後からはひっきりなしに小動物のような泣き声が聞こえているが、あえて尋ねなかった。「〈夜を這う者〉はご満悦のようですし――存分に暴れられて」

【大したもんだよ、その馬もお前さんも】

【さ、本日のパーティーは仕舞いだ。ブツを回収して上がろうや】

「ええ。再開発地区とは言え、いつまでもいるのは得策ではありませんものね」

 静華は馬上から空を見上げた。雲が切れ、やや歪んだ月が出ている。白々とした光が鉄棍の先端に付着した鮮血を照らし、彼女の頭をやや冷ました。

 父が生きていたら、今の静華を見てどう思うだろうか。それは私の望んだ生き様とは違う、お前をそんな娘に育てた覚えはないと、嘆くだろうか。

 無意味な仮定だ。父はもういないのだから。

(……ごめんなさい、父さん)

〈夜を這う者〉の首筋を撫で、静華は仲間たちの方へ馬首を巡らす。(私、自分の本当にやりたかったことを見つけたの)


「……なあ、ねーちん」

「何?」

 夕飯の下ごしらえにジャガイモの皮をピーラーで剥いていると――少し前までは包丁で行っていた作業だ――尊が話しかけてきた。

「最近、何かいいことあったのか?」

「どうして?」

「ここんとこ、ずっと機嫌いいじゃん」

「まあね。問題がまとめて片付いたから」

 嘘ではない。実際〈月の裏側〉からの報酬は家計と学業の不足分を補って余るほどのものだった(それもたった数回の『仕事』でだ――我ながら情けないが、貰い慣れていない大金に震え上がった挙句、その大半は夏姫に頼んで別の口座へプールしてもらっている)。もうブラックバイトに甘んじる理由もない。結果として家事と自分の勉強を両立させ、なおかつ自分の自由時間も幾らか持てるようになった。いいことづくめだ。

 もっとも、静華としてはそれらは副次的な作用に過ぎない。

 しげしげと静華の横顔を見ていた尊が、思い切ったように口を開く。「ねーちんさ、彼氏でもできたのか?」

「ええ?」危うくピーラーで手を切るところだった。「どうしてそうなるのよ?」

「だって……すげー幸せそうなんだもん。割りのいいバイト見つけたってだけじゃ、そうはならねーだろ」

 確かにこのところ、気がつけば「彼女」のことを考えている金属の肌の光沢を、首のもたげを、排気ガス交じりのいななきを。それこそ恋焦がれるように。

 だがこれは本当に「恋」なのだろうか。子宮も性器も皮膚も筋肉も骨格も失い、脳と脊髄以外のほとんどを機械化した馬に?

「……彼氏とは限らないでしょ」

「え」

「彼女かも知れなくってよ?」

「ええ? ……えええええ?」

 弟が本気で狼狽し始めたので、思わず笑ってしまった。

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