第9話 かいぶつたちのいるところ
――彼女は目を覚ました。
薄闇の中に浮かび上がるデジタル時計の時刻は「AM04:35」を差している。不思議だった。自分は実に寝つきがいいし(実際、よすぎて困ることもしばしばある)いつもなら夢さえ見ずに寝ている時間帯なのに。
首を傾げ、掛け布団を被り直そうとした時に――何かを感じた。物音でも、何かの気配ですらない。なのになぜか――寝ている場合ではない、と感じたのだ。
自分の行為に馬鹿馬鹿しさを感じないでもなかったが、ベッドから這い出た。ドアスコープの向こうに人影、なし。インターホンのカメラ機能で確認もしてみたが、やはり何かが変わった様子もない。
気のせいだったのだろうか?
ドアを開け、左右を見回した彼女は思わず声を上げそうになった。ドアの影、カメラからの死角に、昨夜までは確かになかったはずの段ボール箱が置かれていたのだ。大きさは炊飯器が入るくらい。差出人の名前なし、持ってみるとずしりと重い。
危険物の類ではないか、という考えは微塵も浮かばなかった。急いで部屋に引き返し、封を切る間ももどかしく箱を開ける。緩衝材をかき分けて中身を掴み出すと――出てきたのは黒光りするHMDだった。
黒塗りの鏡のように一点の曇りなく磨かれたヘルメットの表面に、やや歪んだ彼女自身の顔が映っている。
「……ふふ。ふふふふふふふふふふふふふふ」
嬉しくて、腹の底から勝手に笑声が湧き出してきた。これが「あの人」からのプレゼントであることを、彼女は信じて疑わなかった。
「……じゃ、母さん。行ってくるよ」
彼がそう呼びかけると、目をつぶったままの母の顔がほんの少し、こちらに向いたような気がした。いや、実際に動いたのだろう――それがわかるのはもう何年も石のように眠り続けている母を否応なしに見ることになった彼が「そうではない」時を最近ようやく見分けられるようになったからなのだが。
骨と皮、という形容が相応しくなってしまった母の掌が、掛け布団からはみ出ている。彼はそっとその手を握り、掛け布団の中に押し込んだ。
ドアに鍵をかけ、アパートの階段を半ばまで降りた時に近くの駐車場でホーンが短く鳴った。顔を上げると〈未真名クリーンサービス〉と書かれたワゴンの運転席から見覚えのある男が顔を突き出して手を振っていた。
「心の準備はできたかい」男は助手席のドアを開けて彼を招き入れた。短く刈った髪に清潔だが無個性な背広。ヤクザ者の廃れた雰囲気はないが、かと言って他の何者にも見えない印象は、初対面から変わっていない。
「ええ。何から何までありがとうございました。ヘルパーさんが交代で来てくれることになったから、母に関することはほぼ任せられるようになりましたし……できれば引っ越しもしたいんですが、母がそれを望むかどうかは何とも」
「礼はいいさ――それも込みでの契約だからな」エンジンをかけながら、男は少しだけこちらを見た。「本当に月ごとの振り込みでよかったのか? まあ、税務署に目を付けられるのは確かにまずいだろうが、それを気にしているんなら別にやりようはある」
「税務署がどうよりも、一度に大金を手にするのが怖いんです……自分が変わってしまうような気がして。実際、父はそれで早死にしましたから」
「……なるほどね。慎重なのはいいことだ」男は頷く。こちらを見る目が少し改まったように思えたのは、気のせいだったのかどうか。
やがてワゴンは市街を離れ、海沿いの倉庫街を走り始めていた。盗難防止用の監視カメラが街灯に並び、倉庫の天井からは運搬用のドローンが出入りする、人間よりも機械の方が多いような一角だ。
男はそのような倉庫の一つの前でワゴンを停め、リモコンで門扉を開けた。ワゴンを滑り込ませると扉は自動的に閉まり、やがて陽光を完全に締め出した。
「ここは……?」
「まあ、見ててくれ」
男が言うと同時に微かな振動が車体を揺さぶり、やがて倉庫の床自体が鈍い音を立てて沈下し始めた。
振動が止まると同時に照明が着いた。彼は驚きのあまり、息をするのも忘れて周囲を見回した。上の倉庫も決して狭くはなかったが、地下に広がるこの空間とは比べ物にならなかった。大小さまざまなオブジェクトが――小は段ボール箱サイズから大は小さなビルほどまで、統一感もなければ意図もさっぱりわからない物体が所狭しと置いてあるのに、まるで狭く見えない。
「びっくりするのはまだ早いぜ。お前さんに見せるつもりだったのは……そら、あれだ」
数秒の間、彼は瞬きすら忘れてそれを見つめた。「望月……さん。あれは……何です?」
「スーパーマシンさ」彼の顔を見返し、男は満足そうに笑った。とっておきの宝物を見せる子供のような笑い方だった。「ようこそ、大人のおとぎの国へ」
未真名市中央区。重要な商談などに使われるような格調高いカフェとなると、例えば糊の利いたワイシャツと黒いベストを粋に着こなした従業員の、きびきびした足取りにまでそのような自負が感じられる。客同士の声も控えめで、静かに流れるクラシックと相まって、店内には穏やかな波の音のようなざわめきのみがある。
「……別れる!? 別れるとはどういう意味なんだ!?」
だからそのような男女の会話が一角から発生していると、声には出さずとも周囲から咎めるような視線を向けられることになる。
「別れるっていうのは、言葉通りの意味ですよ。『お互いに大人なんだからもう終わりにしましょう』飾り気もレトリックもなし、そのままの意味です」
「……人事部から聞いたぞ。もう私物まで引き払ったそうじゃないか。僕に何の相談もなしに……!」
「相談したら、あなたに邪魔されるじゃありませんか」
さすがに周囲を憚ったらしく、どうにか声のトーンを落とした男に対し、女の方は冷ややかな声色を隠そうともしていない。
「当然だろう! 僕の話を聞いていなかったのか。今後のことに関しては、それなりに真剣に考えるとあれだけ言ったじゃないか……!」
「それなりに、ねえ」女の声に含まれた温度がさらに数度下がった。彼女は無造作に手を伸ばし、男の髪を搔き上げて額を露わにした。「そんなふうにさも他人を慮っているような振りをしていると、余計に生え際が後退しますよ。ご家族のことだけ気にしてた方がいいんじゃありません? 週末に末の息子さんがサッカーの試合なんでしょう? 奥様が不妊で夫婦仲が冷え切っている? どこがなんですか。アツアツじゃないですか」
「な……何のことだ!?」男の口調は威厳を取り繕おうとして、無残なまでに失敗していた。
「本当に隠し通したいことがあれば、最初からネットに上げないことです。ああ……『結婚しよう、妻とは別れる』なんて、できもしないことを言うのはやめてくださいね。私は家庭崩壊の原因になんてなりたくないですし、お子さんがいるんだったら尚更です」
周囲の視線を引きずったまま、女は伝票を手に立ち上がる。「実りのない恋愛ゲームはほどほどにしておきましょ。お互いに大人なんですから」
「待つんだ! まだ話は終わって……」踵を返す女の肩に、男はうわべの虚勢すらかなぐり捨てて手をかけようとする。その手が、
一瞬で振り払われ、反対側の拳が顔面に飛んだ。
ふわり、と男の前髪が軽く持ち上がるほどの拳圧だった。すくみ上がる男の鼻先に、女の拳が触れんばかりに突きつけられる。
「……実りのない恋愛ゲームなんかより、もっと熱くなるものを見つけたの。邪魔しないで」
先ほどの声が氷点下なら、今の声は噴火寸前の火山だった。へなへなとその場にしゃがみ込んだ男に今度こそ背を向け、女はすくみ上がっているウェイトレスに伝票を差し出した。「見苦しいものを見せてごめんなさい。会計お願いできる?」
店を出、傾きかけた陽光に目を細めながら彼女はスマートフォンを取り出す。
「……終わったわ。何もかもあなたの言った通りになったわね、〈
【どういたしまして】男とも女ともつかない柔らかな合成音。【あなたがこれまで培ってきた職務と人間関係を投げ打っていただく以上、この程度のお手伝いは労働の名にすら値しません】
「ありがと。少しだけど胸がすっとしたわ」女は苦笑。「で、これから……何をすればいいわけ?」
【差し当たっては、今のうちに心身を充分休めていただきたいのです――戦端が開かれるのは、それほど遠い将来ではないでしょうから】
「そうね。会社をやめても、蓄えはまだだいぶあるし……アホな男に貢ぐよりは有意義な使い方ができそう」
一定のペースで土を踏みしめる、規則正しい足音が背後から近づいてきた。足音の主に悪意がないことは明白だったので、彼は手を休めず言った。
「日陰で待っていてくれ。ちょうど切りがいいところなんだ」
足音は数歩退いたが、それ以上は離れなかった。作業が終わるまで待つ、という意思表示だろう。
目についた雑草を畝から抜き終わると、彼は腰を伸ばして軍手をはめたままの腕で額の汗をぬぐった。猫の額ほどの家庭農園とは言え、くまなく手入れしようとすればそれなりの重労働にはなる。
「待たせて済まなかった。〈
おかまいなく、と目の前の男は怜悧な容貌にふさわしい声で答えた。「押しかけたのはこちらからですから」
「……しかし、よくここがわかったね。痕跡は徹底して消したつもりだったんだが」
「それはこの国の公安に対しての話でしょう」男の黒目がちな目はこちらに向けられ微動だにしない。「在日コミュニティから辿れば、手繰り寄せるのは困難ではあっても不可能ではない。俺が指名されたのも、まあそういうことでしょう」
「……なるほど、確かに。仙人になったつもりはないからな」彼は苦笑したが、目の前の男はにこりともしなかった。パジャマと同じぐらい着古しすぎてくたくたになったチェックのシャツとジーンズに比べ、男はタイトなワイシャツにぴんとした細身のスラックス。何もかもが正反対だ。「次に身を隠す時の参考にさせてもらうよ。それで……かつての同胞がこんな年寄りに何の用だね」
「あなたの技能を」
「断る」半ばという以上に予想した言葉だったが、返す声色が硬くなるのはどうにもならなかった。「もう大量殺戮に加担するのは嫌なんだ」
「人を殺す方法は、活かす方法にも転じられます」
「そういう戯言も聞き飽きた」彼は軍手を外し、庭の一角にある蛇口で手を洗い始めた。「くににいたころならともかく、今の私は一民間人だ。命じられての殺しはうんざりだよ。……それとも君の『ボス』が」
爪の間に詰まった黒い土は、水で洗ってもなかなか落ちない。「かつての私やその『上』よりもましな人間だとでも?」
「否定はしません」男の声は動じない。「少なくとも彼女は、これからこの都市に襲い来る悪意に対し、最後まで戦い抜くでしょう」
「君がそう信じるなら、それを否定はしない」完全に洗うのは諦め、彼は手を振って水気を切った。「彼女の傍らで己が戦いを続けたまえ。こんな世捨て人気取りの年寄り抜きでね」
心の中で何を思ったにせよ、男がそれを表に出すことはなかった。「わかりました。本日はこれで失礼します。ただ、一つだけ言わせてください」
「いいとも」
「それがあなたの理想のくたばり方ですか? この畑が今のあなたの全世界ですか?」
「――そうとも。何もかもかなぐり捨てて逃げたから、今の私がいるのさ」
男は軽く頭を下げてその場を辞した。訪れた時と同じような静かな挙措だった。
しばらくの間、彼はわずかに俯いて動かなかった。――それがあなたの理想のくたばり方ですか? この畑が今のあなたの全世界ですか?
「そんなわけがないだろう」
自分がそう声に出したことに、彼は驚いた。まるでたった今目が覚めたように、彼は自分の庭園を見回した。猫の額ほどの狭い庭園が、今日はやけに白々として見えた。急に農作業中は意識していなかった疲れが全身にのしかかり、彼は幾らか足を引きずるようにして邸内へ入った。
執筆道具よりも生活必需品の方を多く置くようになってしまったデスクの上から、彼は写真入れを取り上げた。
「仕方ないだろう。俺が仙人みたいな暮らしをしたくても、世間の方で俺を放っておかんのだから」意味がないとはわかっていたが、写真に向けて苦笑せざるをえなかった。「それに、あの若造の目も剥かせてやりたくなったのさ……死人扱いどころか、死人の方がまだましだった、とあいつに言わせてやるまでな」
写真の中の若く美しい――この人が自分の配偶者であったことが信じられなかった――女性もまた、どこか苦笑しているように見えた。
「進行状況は?」
「順調です。〈
「結構」秘書の報告に男は軽く頷いたが、すぐに片手を上げた。「……いや、待ってくれ」
「はい。何か、ご懸念でも……?」
「ああ、もう一つぐらい手を打っておきたい。そうだな……たまには警察にも仕事をしてもらうか。そろそろ彼らも『無法者の時代』には付き合いきれなくなる頃合いだろう」
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