第8話 Student,Fixer,Rider,Killer

 ――新田真琴は進路について頭を悩ませていた。


「真琴、知ってる? クラスの男子から割りと人気があるんだって」

「誰が?」

「真琴が」

 真琴はやや顔を上げて、こちらを向く佳澄のにんまり笑った顔を見た。朝のHRが始まるにはまだ少し間があるから、佳澄がこうして話しかけてくるのは別におかしくもないのだが――内容自体は大して面白くもなさそうだった。

「人気があるって、どういうこと?」

「人気があるってのは『人気がある』って意味だよ。なんかこう……髪も短めで独特の雰囲気があるし、大人っぽいし、一人称も『僕』で独特の雰囲気があるし」

「『独特の雰囲気』って2回も言ってるよ」

 髪を短めにしているくらいで皆何を勘繰っているんだよ、と思った。真琴としては髪を短めにするのも、「僕」と自称することにも、特別の思想はない。ただ髪が長いと何だかうっとおしいし「私」という自称も、それはそれで何だか気恥ずかしいというだけだった。「大人っぽい」だの「独特の雰囲気」だのにしたところで、それは見かけであって真琴の中の何を見抜いたというわけでもない。いずれにしても他人の褒め言葉を聞いているような気分だ。別に不快ではないが、嬉しくもない。

「……ま、それはそうと」真琴が乗ってこないのを見て取ると佳澄はすぐ話題を変えた。このあたりの呼吸が、2人が上手くやれている理由かも知れない。「進路、何て書いた?」

「何って、選択の余地はないよ。母さんが進学以外許すはずないもの」

 あー、と佳澄は頭のてっぺんから納得したような声を出す。「まこっちの母ちゃん、うちの百倍は厳しそうだしなあ」

「あえて母さんに逆らうほどやりたいことがあるわけでもないしさ。でも、そんないい加減な気持ちで進学していいのかなあ……」

「いいんじゃないの? はっきりした夢があって進学する奴の方が少ないんだしさ」

「そうかなあ」

「そうだよお。真琴は地頭も悪くないんだし、母ちゃんが金出してくれるっていうんだからそうするのが無難なんじゃないかな」

「そういう佳澄だって成績は悪くないじゃないか。その、まあ、何ていうか……びっくりするくらい努力しない割りには、だけど」

「私は実家の手伝いしながらイケてる動画配信者になって、がっぽがっぽ稼いでやるのが夢だからな。そう話したらこの前、父ちゃんと大喧嘩しちゃったんだけどさ!」

「……佳澄は佳澄で夢があるじゃない」

 ひひ、と得意げに笑う佳澄を半目で見上げながら、真琴は少し羨ましくなってきた。確かに危うげだし上手くいくかはわからない(上手くいかない可能性の方がたっぷりある)が、少なくとも佳澄には自分の夢なり目標があるのだ。

 比べて自分はどうだろう。何ともお寒い限りじゃないか。

「……それよりさ、勿体ぶってないでそろそろ話してくれよ。この前の『あれ』何だったんだよ?」

「またその話かあ……」真琴は机に突っ伏しそうになった。正直、進路と同じぐらい胃にもたれる話題だ。「だから、ちょっと知ってる人に似ているってだけだって。それだってたぶん勘違いだよ」

「まこっちの知り合いってのは、女3人抱えた上に高いビルのてっぺんまでひとっ飛びできるのかよ? それはそれですげえぞ?」

 こんな調子で、真琴は連日に及ぶ佳澄の追及に四苦八苦している。何かが佳澄の琴線に触れてしまったのかいつまで経っても諦めてくれない上に、突っ込みのセンスまで鋭くなってしまっているのが余計に厄介だ。

「まこっち、親友の私にも話せないことがこの世にあるってのか? 私はそんなふうにお前を育てた覚えはないぞ?」

「僕も佳澄に育てられた覚えはないよ……」

 真琴がすっかりお手上げになっていた時、がらりと教室の扉が開いて意外な――意外すぎる顔を覗かせた。

「……有坂さん?」

「ちっす」彼女――有坂可乃子は数週間ぶりに自分の席へ腰を下ろすと、可愛らしい顔に似合わない不貞腐れた態度で真琴を一瞥した。「超久しぶりに来たと思ったら、また寒い夫婦漫才やってんのかよ」

「君、喧嘩しに学校へ顔出したの?」むっとして真琴は言い返した。正直、彼女の眼光といい、うっすらと左頬に浮き出た古傷といい、直視するのも恐ろしい――相手は真琴より頭一つ分背が低いのにだ――とは言え、黙って聞いていられないこともこの世にはある。

 可乃子は一瞬何かを言おうと口を開いたが――すぐに閉じた。これまた以前の彼女からは想像もつかなかった反応だ。「……やめた。そういうのやめたくなってガッコ来たのに、いちいちキレてたら身が持たねえからな」

 いつになく殊勝な態度に、かえって真琴の方が面食らった。「聞いていいのかわからないけど……何かあったの?」

「あー……あんまり詳しくは言いたくないんだけど、とんでもない目にあってさ。オヤジからはサボりがバレて思いっきり怒られるし……あんなことになるくらいなら大人しくガッコ通ってた方がましだわ……」

 心底嫌そうな顔だったので、真琴まで一緒に神妙な顔となってしまう。

「そ……そうなんだ。実を言うと僕らも、結構大変な目にあってさ、その……死にかけたんだ」

「は? 何でだよ。新田のお袋さんって普通の会社員だろ? 別に私の家みたくヤクザやってるわけじゃないだろ?」

「……普通の会社員の家に生まれたって死にそうな目にあう時はあうっていう貴重な経験だったよ。二度と経験したくないけど」

 ふーん、と可乃子は妙に感じ入ったような声を出した。

「ホントにスゲかったんだぜ! ショベルカーがガーって襲ってきてさ!」いきなり佳澄が割り込んできた。「そしたら顔面ピカピカで全身ツルツルのカッコマンがビューッって飛んで来てさ!」

「……新田もよくこんなのとつるんでるよな。こいつの言いたいこと、5パーセントもわかんねえよ」

「5パーセントわかれば上等だよ。佳澄は1パーセントぐらいしか自分の思いを人に伝える気がないからね……」

「親友のあたしをほっぽってなんでそいつと意気投合してんだよ!」と佳澄が怒り出した時、真琴の机に誰かがふらふらとぶつかってきた。

「わ!」

「あ……ごめん……」

 真琴の机を盛大に揺らしたのは、女生徒だった。

 何しろ彼女の横幅は男子生徒2人分――真琴だったら3人分は優に並べられるほどなのだ。極端に痩せていたり太っていたりする同級生を真っ先にからかいそうな意地の悪い男子たちでさえ「お」と呻いて脇へ退いたくらいだ。

 真琴と佳澄と可乃子、それに周囲の生徒までもが見守る中、彼女は自分の席にどかりと腰を下ろし、机へ伏せ、数秒と待たずに寝息を立て始めた。

「……そういやあんな奴もいたっけ。何で今まで忘れてたのかってくらいキャラ濃いよな……」

安達あだちさん、やっと学校に来たと思ったら速攻で寝てるよ……」

「なんか……悪いビョーキかってくらいよく寝るよな。トドの奴、最近特にひどくないか?」

『トド』というかなり心ない呼称は言うまでもなく、彼女――安達はなの仇名である。とにかくよく寝る。先生方も彼女にはつくづく手を焼いていて(この件に関してだけは真琴も先生に同情している――何しろ寝ている以外、彼女の行動にはまるで叱る余地がないのだ)校内で目を開けている時間より寝ている時間の方が多いんじゃないか、と噂されるほどだ。それでいて成績は優秀。安達さんに比べれば僕なんて薄味もいいところだろ、と真琴は思っている。

「……このクラス、変わった奴が多いよな」

 可乃子の妙に感慨深げな呟きに「お前が言うんかい」と佳澄が間髪入れず突っ込む。

 ちょうどタイミングよくチャイムが鳴り始め、真琴は「さ、話はまた今度ね!」とわざと教科書を出し始めた。佳澄がしまった、という顔をしながらも前を向く。

「起立! ――礼!」

 教師はまず不貞腐れた様子の可乃子を見て目を剥き、さらに花の席をちらりと見たが、結局は何も言わなかった(当然、今日に至るまでの彼なりの苦労があっての話である)。

 あれはあれでちょっと羨ましいかな、花の寝顔を密かに横目で見ながら真琴は思う。体型と同様、顔も丸パンのように真ん丸だが、無心に眠る顔立ちそのものは意外と可愛らしい。

 それとも彼女も彼女なりに、悩みや屈託があったりするんだろうか?


 ――澤口梨奈子は憂鬱な顔をしていた。


「梨奈子、焼肉弁当5人前!」

「はーい、今行く! ――お待たせしました、焼肉弁当5人前!」

 ありがとうございましたー、と頭を下げて客を送り出した後で、梨奈子はレジの影で深々と溜め息を吐いた。……結局、またここに戻ってきちゃった。

 あの暴走ショベルカー事件で就活が一時的に棚上げになった後、予想に反して両親は彼女を責めはしなかった(実際、責められてもどうにもならないのだが)。代わりに言われたのが「無理に就職しなくていいから、本当にやりたいものが見つかるまで店を手伝え」だった。梨奈子自身、何もせずに実家でごろ寝を決め込んでいることに多少のやましさを感じないではなかったから、文句はなかった。それにやりたいことが何なのか一向に見えないのも――2回も命の危機にさらされて、なおかつ見えないのも――確かだった。

 注文をさばき、会計を済ませている間は悩んでいる暇がなくなる――楽しくはないが、ある意味楽ではあった。

 ただ、時々たまらなくなる。あたしの家出は、結局ただのモラトリアムに過ぎなかったのか、と。

「……すみません。注文、いいですか?」

「あ? ……は、はい! ただ今!」

 気がつくと、最近よく来る客が気づかわしげに覗き込んでいた。あわてて居ずまいを正す。

「カルビ焼肉弁当1つ、唐揚弁当1つ、シャケ弁当2つで」

「はい、カルビ1つ、唐揚1つ、シャケ2つで!」

 まだ真っ赤になっている梨奈子に、客の青年は鷹揚な笑みを浮かべた。長身にダンガリーのシャツと洗いざらしのジーンズがよく似合う。髪は短め。粗削りな輪郭の顔だが、涼し気な眼差しをしていた。骨太な好青年、と言ったところか。

「ありがとうございましたー!」頭を下げて彼を送り出しながら、梨奈子は思った。あんなお客さんばっかりだったら、もう少し楽しくなるんだけどな……。


「お待たせしました。買ってきましたよ」

「おうお疲れ」

「あれ、こちらの方がよかったですか?」

「いらねえよ」

「はい平野。……はい。了解しました」

 わずかに先輩格の男の声が緊張を孕んだ。無線を切ると、アクセルを踏む。「署へ戻るぞ」

「事案発生ですか?」

「ああ。未真名市警に来て初の仕事だぞ、新入り」


 ――高塔百合子は望月崇の報告を受けていた。


「〈神託オラクル〉のおかげで大幅なショートカットができるのは助かりました」

〈ホテル・エスタンシア〉最上階、VIP専用ルーム。崇が手を一振りすると空中に投影されていた幾千、幾万もの老若男女の顔写真が半分消失した。二振りでその半分、三振りでさらにその半分。

「……とは言え、それなりの苦労はありましたがね」と付け加えるのも忘れない。百合子の前だろうと誰の前だろうと、減らず口が叩けなくなるくらいなら死んだ方がましだと思っている――本当にそう思っている。

「住民基本台帳システムと紐付けされた個人情報――ネットショッピングや電子カルテ、各種アンケート結果や通話記録。それに各〈ヒュプノス〉からリアルタイムで送られてくる視覚・聴覚情報を統合すれば、目的に合致した人間の選出は造作もありません。もちろん、今回は目的が目的だけに慎重な選出が必要となりましたが」

「『既存の犯罪組織と接点を持たない』が第一条件とは」

「ただの破壊活動なら、秘密裏に軍事請負企業へ依頼すればいいだけの話ですからね。全くの無欲ではこちらのスカウトに応じていただけないでしょうが、金のことしか頭にない、という人間でも困ります」

「……輝夜姫の無理難題を聞いている気分ですよ」ついでにという単語も思い浮かべたが、それを百合子の前で口にしないだけの分別は崇にもある。

「現場に出せそうなのは7、8名も残ればいいところですが、そうでない者も後方支援や予備役として使い出はあるでしょう。向き不向きってもんがありますからね」

「結構です」百合子は頷いた。「選出が終わり次第、2ndセカンドフェイズに移行します。実働可能な要員は全て投入してください。『インフラ』への『爆撃』を開始します」

 崇は思わず顔を上げたが、彼女は軽く頷いてみせただけだった。

「第3次世界大戦でも始めようって魂胆ですか?」

「まさか。一度や二度の攻撃で、しかも小隊規模のそれで根絶できるほど『インフラ』は甘くありません。ただ、待つだけの時間は終わりました――龍一さんとの約束もありますから」

「それはいい。あいつらへの教育も一通り済ませましたし、そろそろ本格的に始めますか。何より、少しぐらい真実に近づけてやらなきゃあいつらもやる気をなくすでしょう……テンションってのは馬鹿になりませんしね」


 ――瀬川夏姫はひたすらバイクを駆っていた。


 バイクというより戦闘機に乗っている気分だった。一瞬にして壁が床となり、一転して床が壁となる。完璧なジャイロとスタビライザー、そして人間の生理と直接連動した戦術管制AIは、時速数百キロで駆けながらあらゆる悪路と障害を平地同然に変える。こんなでたらめな動きを許したらレーシングゲームだって非難が殺到しそう、と夏姫はメットの中で舌を巻く。

 大型バイクどころか自転車にさえ乗った経験のない夏姫でさえ――いや、だからこそか〈スナーク〉の秘めた性能の凄まじさに気づくまで時間はかからなかった。バイクの性能以上に、ずぶの素人同然だった夏姫が数時間程度のシミュレーションでプロ顔負けの挙動を実現させている。〈スナーク〉の教習システムが一般に公開されたら、教習所の教官たちは飯の食い上げだろう。

 もっとだ。もっと早く。鋭く。正確に――さらに速度を上げようとした夏姫の視界が一変した。今まで走っていた荒れ地は無機質な金属の壁となり、手足のようだったバイクは急速にエンジン数を落とし始めた。

「……どうしたの!?」

安全措置フェイルセーフが実行されました】男女どちらのものでもない柔らかな合成音。【脈拍・呼吸共に正常値を越えています。シミュレーションを一時的に中止します】

「待ってよ、馬鹿なこと言わないで!? まだやれるわ!」

 憤然とした瞬間――視界が傾いだ。「…………あれ?」

 ――気がつくと、猪首の青年に身体を支えられていた。言うまでもなく相良龍一の顔だ。

「大丈夫か?」気遣わしげに顔を覗き込んでくる。たぶんこちらの調子がおかしいことを察して、シミュレーターが停止するよりも早く室内に踏み込んだのだろう。まったく、無骨な顔に似合わずそつがない。

「……平気よ」ちっとも平気ではないからこそこうなっているのだが、それを認めるにはばつが悪すぎた。礼を失しない程度に龍一の手を外し、壁にもたれかかる。眩暈はひどいが、どうにか倒れずに済んだ。

 龍一は怒らず、黙ってスポーツ飲料のボトルを差し出した。こちらも黙って受け取る。蓋を開けて一気に飲み干すと、自分がいかに水分を失っていたか実感した。

記録ログを見たぜ」一息吐いたところを見計らって龍一が口を開いた。「空き時間のほぼ全てをこいつに注ぎ込んでいるのか。そりゃ短期間でプロ顔負けのドライビングテクニックを身に着けるわけだ」

「そうよ。いけない?」

「いけなくはない。やりすぎでぶっ倒れさえしなけりゃな」龍一は改めてこちらを見た。「俺の目でここから見ていると、君はずいぶんと何事か思い詰めているように見えるんだが。そもそも〈スナーク〉の使用だって君から言い出したことだろう。百合子さんからの許可は出ているから、それについて俺からは何も言わない。だが――なぜだ」

 笑って済ませられそうな目つきではなかった。夏姫が何を言うか思いつくまで、少しかかった。「そうね……タブレット端末じゃ銃弾は受け止められないし、完全防弾装備の敵を殴っても痛いとも痒いとも言わないからよ」

「それが理由か?」

「それが理由よ。それでわからないんだったら、説明してもしかたない」

あの子セルーを助けられなかったのは自分が無力だったからだ、なんて思ってるんじゃないだろうな」

 龍一は馬鹿と程遠い男であり、何より彼もあの場所にいたのだ。すぐ思い当たると予想はしていた。にもかかわらず――言葉が詰まった。

「あれは君のせいじゃない。君に助けられなかったら、誰にも助けられなかった」

「……わかってる」わかっていれば割り切れる、という問題でもなかった。「でもね、助ける暇がなかったら、死ぬ暇だってないわ」

 龍一もまた沈黙した。あるいは彼も、助けられなかった誰かのことを思い浮かべるような眼差しになっていた。

「ごめん。もう大丈夫だから」夏姫は壁から離れた。まだどうにかふらつかずに歩ける、という程度だったが、充分だと思った。「ぶっ倒れない程度にやるわね」

 龍一はまだ何か言いたげだったが、夏姫の顔を見て何も言わないことにしたようだった。「百合子さんが今、望月さんと『爆撃作戦』を準備中だそうだ。いよいよこちらから仕掛けるぞ」

「この街の悪党どもを一網打尽、ってわけね」

「油断するなよ。一網打尽にされるのがどちらかはまだわからない。何しろ目標は世界規模の『インフラ』だ。どんな防衛システムがあるかわかったもんじゃない」

 夏姫はヘルメットをかぶり直した。「やることは変わらないわ」

 龍一は頷き、シミュレーションルームを後にする。

 見計らったような――実際そうなのだろう、絶妙のタイミングで例の合成音が語りかけてくる。【バイタルサイン正常。ただし先刻のように急激なブラックアウトに陥る可能性は消えていません。シミュレーションを再開しますか?】

「ええ。少しセーブすることを心がけるわ……でないと、デカい男と健康管理AIの両方からお母さんみたいな目を向けられるものね」

【それはジョークですか?】

「わかってるじゃない」


 ――〈ヒュプノス〉の端末たる青年は月に見入っていた。


 指先から、息絶える直前の痙攣が伝わってきた。

 痙攣が完全に止まるまで待ち、慎重に指を動かした。肉の中に深々と埋まっていたとはまるで感じさせない容易さで「針」が耳孔から引き抜かれる。先端に小粒の宝石を思わせる血の滴が一滴膨れ上がっていたが、慎重に柔らかな布でぬぐうと跡形もなく、消えた。

 自分で設計し、自分で作り上げた道具だった。ナノファイバーをベースに構成され、金属とガラスの両方の性質を合わせ持つその「針」は、蜘蛛の糸とほぼ変わらない細さとしなやかさを保ちながらも鉄塊を吊り下げられるほどに強く、決して折れず、曲がらず、切れない。細すぎて、直接肌に刺しても痛みすら感じさせないほどだ。人を殺すにはまったく向かない道具だった――他の誰かが使う限りは。

 自分が使えば、検死解剖しても心不全としか判断されない。

「目標」の顔に手を添え、仰向かせる。死につつある人間の物とは思えない、血色の良い顔には苦痛も恐怖も浮かんでいなかった。あるのは純粋な驚きのみ――自分が致命傷を受け、たった今死ぬことが信じられないとでも言うような。そして肌から温もりが失せ、目から光が消え、無表情という表情すら失って、肉塊に還る。すべての死者と同様に。

 見慣れたものだ。

 いかに豪奢な衣服を纏い、いかに四海の美食を貪り、いかに屈強な護衛たちに守られようと、すべての死者は等しい。死は万人に降り注ぐ、光や重力よりも厳然として在る法則であり、またそうでなくてはならない。

 祈りは必要ない。死者たちに与える言葉があるとしたら、一つだけだ。――

【終わったか】

 甲高い、かすれた声が響いた。直接の音声ではない。だ。

「処理はよろしく」返事も声に出す必要はなかった。「あなたも心配性だね。失敗したなら、今ごろ僕は返事などしない」

 予想通り、鼻を鳴らすような吐息が返ってきた。【ただの確認作業だ】

「あなたぐらいのものだよ、僕の進捗状況を気にするのは」

【〈親方マイスター〉はお前に甘い】返ってきたのは苛立ちというより、シーツの感触が気に入らないかのような鈍い感情の漣だった。【くだらない皮肉を言う前に戻れ。次の『処理』が控えている】

「矢継ぎ早ですね」

【不服か】

「いえ。死を撒く業に終わりはありませんよ」

【お前が良くてもこちらが困るのだ。歳若いお前が思う以上に、殺しの業は精神に負担をかける。無理にでも休息を取ってもらう必要がある。それだけ重大な仕事と認識しておけ】

「重大でない殺しの業などあってはならない、というのがあなたがたの信条だと理解していたつもりですが」

【皮肉を言うなと言っただろう】声がわずかに尖った。【装備や人員にかかる資金は全部依頼主が負担する、確実に遂行さえしてくれれば幾ら使っても構わんとのことだ。準備でき次第発て。場所は、日本だ】

「……彼の地とはどうも縁がありますね」日本。東洋の島国。「政府高官ですか? 実業家、それとも軍関係者?」

【いずれでもない――〈黙示録の竜〉と〈バビロンの大淫婦〉だ】

「なるほど……あなたにとっても因縁の相手、ということですか」

 死体に背を向け、歩き出した。意識せずとも音一つ生じさせない歩法を会得してから久しい。【お前にとっても、だろう。その名は】

「確かに――でも相手が誰だろうと、僕のやってきたこと、やっていること、やろうとしていることが変わるわけでもない」

 天窓から降り注ぐ月光を仰ぐ。少し歪んで見える青みがかった月が、音もなく夜の底を照らしている。

「老若を問わず、男女を問わず、貧富を問わず、貴賤を問わず。死は平等に、万人に降り注ぐものでなければならない」

【神でも物理法則でもなく――只人が人に与える死は、最大限の技量と余人には真似のできぬ砕身によって、その恐怖と苦痛を最小限に抑えなければならない。それは〈ヒュプノス〉の名を持つ者の、責務だ】

 彼の国からでも、あの月は見えるのだろうか。

「誰であろうと与えなければならない――苦痛なき、眠るがごとき死を」


 ――そして〈犯罪者たちの王〉は薄く笑っていた。


「プレゼン、ですか?」

「そうだ」首を傾げる金髪の女性秘書に、男は軽く頷いてみせる。「私のような枯れた爺が語るよりは、君の方がふさわしいだろう」

「かしこまりました。……よい兆候ですね。HWに興味を示す顧客が現れたということは」

「ああ。ブラックマーケット経由で流した実戦テスト映像を見たのだろう。ほとんどの者はよくできた偽物フェイクと判断するが――そのうち、ことに何人かが気づき始める。軍関係者……人の皮を被った猛禽どもが」男は口の端をやや緩めた。「彼らにしてみれば、あれは魂を売り払ってでも欲しい夢のテクノロジーだ。耳障りのいい言葉で脳髄を満たしてやれ、便宜は可能な限り図ってやれ――『肥えていく豚は幸せではない』という、あの格言を思い出す暇もないほどに」


 時間は誰にも平等に流れる。

 新田真琴にも。相良龍一と、瀬川夏姫にも。望月崇と、高塔百合子にも。

 そして、〈犯罪者たちの王〉にも。

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