第7話 犯罪の終末速度【誘拐者のゲーム・SideB】

 音もなくカーゴドアが左右に割れ、どっと強風が全身に吹きつけてくる――いや、正確にはそのような錯覚を覚えたというだけだ。龍一の全身を包むデータスーツが伝えてくるのは微弱な電気刺激と空気圧による、あくまで疑似的な皮膚感覚だ。

 眼下に広がるのは夕闇に沈みつつある市街地の光へ向けて、龍一は一歩踏み出す。ぐらりと視界が揺れ、一瞬自分の身体が宙で停止したように思えたが当然それは錯覚だった。重力が全身を捉え、ゆるやかだった降下速度は次第に増していく。

〈アヴァターラ〉遠隔作業テレイグジステンスシステムを基幹にした全身擬体――それが龍一のだ。

 彼は落下する。自重の半分を優に越える兵装ラックと、人間が背負える量を遥かに越えた装備を全身にまとって。

 もちろん恐怖はある――だがある種の高揚感があるのも否めなかった。認めよう、俺もいかれた奴らの一人だ。


【急ぎの仕事だ】前置きなしに崇がそう切り出すのは珍しいことではなく、内容自体も驚くようなものでもない。基本的に彼が持ち込んでくる仕事は熱いどころか焦げつく寸前のものがほとんどであり――それが龍一たちに支払われる傭兵並みのギャランティの根拠ではあるからだ。

【内容自体は単純だ。ある取引現場にお邪魔する。邪魔者は全部排除する。ブツを奪い、しかるのち脱出する。な、簡単だろ?】

「聞くだけならな」龍一は一体成型のデータスーツに足を通しながら返事した。呼吸や脈拍だけでなく神経間の微細電流まで読み取るデータスーツは下着すら脱いで装着する必要がある。とても他人様には見せられない格好だ。

【注意点が二つある……一つ目。取引現場ってのは誘拐された昭島ファイナンスグループ社長令嬢の身代金受け渡し場所ってことだ。二つ目。つまり邪魔者が必然的に二つ以上発生する。受け渡しに関する全権を任された〈ダビデの盾マゲン・ダヴィッド〉と、身代金を受け取ろうとする〈笛吹き男パイドパイパー〉の双方だ」

 そらおいでなすった、と龍一は無意識に口元を歪めた。焦げつきどころか、真っ赤に燃える炭のごとき案件というわけだ。「誘拐グループとイスラエル系軍事請負企業ミリセクの鼻先で、誘拐事件の身代金をちょろまかしてこいってのか? 百回地獄に落ちても文句が言えないな」

【MDは護衛チームを殺され、社長令嬢が誘拐されたことで顔面に鼻糞をなすりつけられたみたいに怒り狂っている。警察に頼らず、独力で事態を解決する腹だ。もっともそりゃ〈笛吹き男〉の方もお見通しで、確実に現場で罠を張ってる。約束を違える気満々なのはお互い様だ】

 何とまあ、龍一はHUDを装着しながらこっそりと溜め息を吐いた。人質の命は風前の灯火というわけか。偉そうなことを言える立場ではまったくないが、会ったこともない社長令嬢について何も考えないわけにもいかなかった。

【ご令嬢の方には夏姫が対応する。〈スナーク〉の支援付きだ。お前は自分の仕事に専念しろ】

「了解」人間工学エルゴノミクスデザインの長椅子に横たわり、手首の端子にコードを接続しながら龍一は返事をする。想像していた以上に厄介そうな案件だ。だがまあ、驚くほどのことでもない。何より、厄介事は俺の飯の種じゃないか。


 落ちていく。暗闇の中を轟々と落ちていく。パラシュートを使用していない〈アヴァターラ〉がレーダーその他の探知システムに感知されることはない。

 もっとも、擬体に「乗り移っている」龍一にとっては肝が冷える光景だ。暗闇はむしろ救いですらある。

 着地の瞬間、兵装ラックと一体化したバックパックからの逆噴射を行う。大量の埃が舞い散る。膝をたわめ、着地の衝撃を極力殺す。衝撃吸収素材のおかげで着地音は想像よりずっと小さかった。成功だ。

 みまなモール、立体駐車場。時刻は午後8時――昭島ファイナンスの社長令嬢が誘拐されてから半日以上が経過している。ここが身代金の受け渡し場所、のはずだ。

 擬体頭部の望遠カメラがモールの敷地外から接近してくる車列を捉えた。暗視モードと画像強調モードを同時起動。

(……来たか)

 スモークスクリーン仕様のRV車が数台、音もなく立体駐車場へ滑り込んでいく。おそらくは身代金を運ぶMDの交渉チームだろう。当然〈笛吹き男〉側も、どこかからそれを察知しているに違いない。しかし、どこから? あるいは既に駐車場内で待機しているのだろうか。

 それに、ここからでは確認できないが、MDは交渉チーム以外にも実力で社長令嬢と身代金を(最悪、片方でも)奪還するための実力行使部隊を展開しているはずだ。〈笛吹き男〉とその配下は、金を受け取った後でどうやって脱出するつもりなのだろう?

(そろそろこちらも動くか……)

 手近な柱に向けワイヤーを射出、立体駐車場の壁面を蹴って目標の階に降下する。人間が同じことをやれば脱臼は免れない。全身擬体の強みだ。指先のトーチで窓のロックを焼き切って侵入。

 夜間のため、停めてある車は少ないが、それでもかなりの数が停車している。煌々と照明が駐車場全体を照らしており、影は少ない。やはり疑問が湧く。なぜ〈笛吹き男〉はここを指定した?

 擬体の発する熱・光・駆動音を極限まで抑える静寂ミュートモード起動。見える範囲での監視カメラ位置もマーキングしておく。

(……あれか)

 見覚えのあるRV車の傍ら、数人の男がスマートフォンで話している。目立たない服装はしているが、他の買い物客に比べると明らかに雰囲気が浮いてしまっている。プロだ。MDの交渉チームだろう。

 柱の陰に隠れ、カメラアイだけを蝸牛のように突き出して観察する。

 交渉役の男はどうにか譲歩を引き出そうとしているようだが、先方のお気には召さないらしい。口元をズーム、読唇プログラム起動。ついでに聴音機能も最大値に。

「とにかく、彼女の無事な姿を見せてくれ。でないと金は渡せない……!」

【取引できる立場と思うか? 交渉もおかしな小細工もだ。要求金額を確認次第、娘は返す。制限時間は5分。外のお仲間にも伝えろ。行け】

 通話を一方的に切られたらしく、交渉役が顔を歪めた。傍らで聴いていた仲間たちに首を振ると徒歩で立ち去っていく。あの車に身代金が積んであるのだろう。

 さて、これからどうするか。

 駐車場のそこかしこから白煙が噴出するのと、火災警報が鳴り出すのはほぼ同時だった。

【お客様に申し上げます。ただ今、立体駐車場3Fにて火災探知機が作動しております。警備員・スタッフの指示に従い避難してください。繰り返します……】

 不安げなざわめきが起きるが、アナウンス通り警備員たちによる避難指示が始まったためそれほどの騒ぎにはならなかった。客たちは口々に不安や不満を漏らしながら避難していく。あらかじめ停めた何台かの車に発煙筒を仕掛けていたのだろう。

 白煙の噴出は止まらず、フロアは完全に視界が効かなくなった。赤外線と画像強調モードを同時に起動する。実際に火が燃えているわけではないから熱探知に支障はないが、それでも辛うじて確保できる程度の視界だ。

 動きがあった。

(……来たな)

 ガスマスクで顔を隠した男たちが4人、身代金を積んだ車へ接近していく。首から下はポロシャツや背広、Tシャツにジーンズといったありふれた服装であるのがかえって異様だ。マスク自体はそれほどかさばらないから、他の買い物客に紛れるのは容易だったのだろう。

 後部ドアのロックを酸で難なく溶かし、積まれたアタッシュケースを近くのワゴン車に手分けして詰め込んでいく。リハーサルしてあったような手際の良さだ。

(……?)

 冷静に観察できていた龍一が、目を見張ったのはその時だ。ガスマスクの一人が、肩にかついでいた大型ショルダーバッグを下ろしたのだ。

 まさか死体が入ってるわけじゃないだろうな――思っていた龍一は今度こそ自分の目、いやカメラアイを疑うことになった。ファスナーを開いた途端、中から人間の脚がはみ出たのだ。

 バッグの中から引きずり出されたのは、猿轡を噛まされた小柄な少女だった。口を塞がれている上に息苦しい閉所から出されたばかりで、肩どころか全身で息をしている。

(一体何だ……!? 誘拐された社長令嬢か……?)

 いや、データによれば令嬢は龍一や夏姫と同じ17歳、目の前の少女は中学生ぐらいの背格好だ。それに彼女の着ている紺色のジャンパースカートには見覚えがある。そうだ、あれはあの新田真琴と同じ中学校の制服ではないのか。

 じゃ、あれは誰なんだ……?

 少女は猛然と足をばたつかせて抵抗している。体格のよいガスマスクの男たちが手こずるほどの強情さだ。大したもんだ、と感心しながら観ているうちに、業を煮やしたらしいガスマスクの一人が容赦なく拳を振り下ろした。

 ごん、という鈍い音は、龍一の頭をかえって冷やした。

(……やるか)

 逡巡は短かった。何かの罠には違いないが――少なくとも見ない振りをするという選択肢はなかった。どうせ後で罪悪感に死ぬほど苛まれるに決まっている。

 思考トリガーによりバックパックを自動切り離し。静寂モードから近接戦闘モードへ移行。神経系ブースト開始。

 切り離されたバックパックが落ちるより早く、柱の陰から一気に躍り出る。――戦闘開始オープンコンバット

 秒を経ずに最大戦速、振り返るより早くガスマスクの一人に肩から体当たりしている。食らった男は車体がへこむほどの勢いで叩きつけられて気絶した。

 想像より反撃が早い。別の男が懐からサバイバルナイフを抜き出す――前にその手を掌底ではたき、ひるんだ隙に腰から抱え上げて床に落とした。這ったまま切り詰めた散弾銃ソートオフショットガンを向ける背後の男の足を蹴り、バランスを崩し倒れ込んだ男の側頭と首筋に連続して肘を入れる。跳ね起きた背後で撃鉄を上げる音――最後の一人。回避は不可能ではないが、銃弾があの少女に当たる可能性が高い。

 迷わず、這うような姿勢で突進した。銃口にのみ意識を凝らす。そのぶれが停まったと思った時には、掌を前方に突き出していた。甲高い音を立て、銃弾が跳ね返される。煙を上げる掌で銃身を掴み、ポリマーフレームの銃本体を力一杯握り潰す。ガスマスクの奥で男の目が驚愕に見開かれる。その顎に、アッパー気味に正拳突きを叩き込んでいた。

 最後の一人が倒れ伏すまで数秒すら要さない、龍一自身ですら舌を巻く擬体性能だった。寸分の狂いもないトレースどころか、もしかして使いすぎるとそのうち――そんな馬鹿げた思いすら脳裏をかすめた。

 縛られた少女は驚きのあまり丸い目をさらに真ん丸にしてこちらを見ている。片方の手で足元に落ちた身代金入りのアタッシュケースをバックパックに放り込みながら、もう片方の指先で猿轡をずらしてやった。スピーカーをオン。【君は誰だ】

「そ……そ……そりゃこっちの台詞だよ!」声は震え気味だったが、この状況でそこまで言葉にできれば大したもんだと思った。「お、お、お前こそ何なんだよ、この……えーっと……でかぶつ!」

 名乗ってないんだからまあそう呼ぶしかないよな、と内心苦笑する。【悪いな。いろいろあって名乗るわけにはいかないんだ。その方がお互いのためだと思うよ】

「じゃあ……へ、変態!」

【……やっぱり別の呼び方にしてくれないか】

「でかぶつ」

 妥協することにした。

 プラスチックの手錠は本人が外すのは当然不可能だが、切断は容易だった。少女は「ふん」と鼻を鳴らして床に降り立つ。髪はショートカット。小づくりでどちらかと言えば可愛らしい顔立ちに、ふてぶてしい態度が妙にそぐわなかった。よく見ると左の頬に、うっすらと数センチほどの古傷が白く浮き出ている。

 龍一の視線に気づいたのか、少女はやや顔の位置をずらした。

【それで、君はどうしてこんな場所で縛られていたんだ?】

 少女は自分より頭二つ分以上頭身の開きがある異形の巨人を、信じられないような目つきで見上げた。「おい、でかぶつ……お前もしかして、私が誰かもわからずに助けたのか? 親父に頼まれてとかじゃなくて?」

【見ない振りすると寝覚めが悪くなりそうなんでな。それと君のお父さんがどういう関係があるんだ?】

「……本当に知らないみたいだな」少女の目が半信半疑から信七疑三程度に変化した。「それじゃ、私が名乗らないと話が進まないじゃないか……」

 まいったなあ、と少女は溜め息を吐く。「私は有坂ありさか可乃子かのこ。有坂って名前で何もわからないと、こっちはすごく困るんだけど」

【有坂……君のお父さん、もしかして有坂の会長なのか?】知らないどころの騒ぎではない。【椿木会でも最大手の『枝』じゃないか。どうしてこんなところに?】

「私の方が聞きたいよ」可乃子は口を尖らせる。「学校には行きたくないし繁華街の方じゃ補導員が目を光らせてるし、でも家には帰りたくないしでちょっと腐ってたんだ。そうしたら、いきなりワゴンで拉致られて」

 どういうことなんだ――生身だったら、思わず腕組みしていたに違いない。泣く子も(殺して)黙らせる関西系暴力団体会長の娘が、何だって別の誘拐事件の現場に連れてこられたんだ?

【……つかぬことを聞きたいんだが】

「何だよでかぶつ。『つかぬこと』って時代劇かよ」

 相変わらず口が悪いな、とは思うが、こちらの質問に答えてくれるようになったのは助かる。【『昭島』って名前、お父さんの口から聞いたことはあるか】

 うーん、と可乃子は小さな頭の天辺から出すような声で唸り始めた。「親父の話すんの気が進まないんだけどなあ……ある。それも、その話する時、親父あんまり楽しそうじゃなかった。手形が焦げついてるとか、あそこの社長が首さえ縦に振れば済むのに、とかなんとか」

 何となく、何かが見えてきた。【もう一つ、君にとってあまり愉快な質問じゃないが】

「今さら何遠慮してんだよでかぶつ。お前は会った時からずっと無礼だったじゃないか。どうせ話が進まないんだから聞きたいことがあったらさっさと言えよお粥の煮えたような声でぷちぷちぷちぷち言ってやがると本当にキレるぞ」

 本当に口が悪い――がそれを言われるとぐうの音も出ない。【君がもし誰かに殺されたら、君のお父さんはどうすると思う?】

 可乃子は真顔になった。「そりゃあ間違いなく、殺した奴を地の果てまで追い詰めて八つ裂きにするね。ついでにそいつの一族郎党も赤ちゃんからお婆ちゃんに至るまで殺して吊るすと思う。私のためにそうしてほしいとは思わないけど、親父ならやるね」

 うんうん、と自分でも納得したように頷いてから、怪訝な顔に代わる。「でも昭島と、私が拉致られたことと関係があるのか?」

【あるよ。それも大ありだ】

 つながった、と思った。

 昭島ファイナンスの社長令嬢が誘拐され、身代金が奪われた現場で暴力団組長の娘が遺体で発見される――冷静に考えれば突拍子ないことこの上ない状況だが、その突拍子なさこそが必要なのだろう。昭島と有坂の対立がどれほどのものかは不明だが、死人が出てしまえば穏当な解決はまず不可能だろう。何しろ

 警察の介入があればまだ責任を転嫁できたかも知れないが、昭島社長は警察への不信感を隠さずMDに依頼して独力での早期解決を目論んでいるはずだ。その過程で無関係な娘が犠牲になれば、MDもその依頼主である昭島も責任を問われる。それが以前から事業をめぐるトラブルを発生させていた相手ともなればなおさら問題は複雑になる。誠実に対処すればするほど、話はこじれるだろう。

 昭島と有坂の対立を煽り立てる、その先の意図は不明だが――〈笛吹き男〉やその背後のスポンサーにとって都合のいい展開になっていくのは間違いない、と思った。

 可乃子はここに連れてこられてからすぐ薬物か何かで殺すことになっていたのか――龍一の介入はまさに間一髪のタイミングだったわけだ。

 いや、まだ安心するには早いぞ、と自分に言い聞かせる。それは彼女を連れてここから脱出したらの話だ。

「でかぶつ~、急に黙るなよ私はか弱い女の子なんだぞ不安になるだろうが。空気読めない奴だな」

 下を見ると、可乃子が擬体の脛あたりをがしがしと蹴りつけていた。言っていることとやっていることのギャップがすごいと思う。

【わかったから蹴らないでくれよ……君を何が何でも安全な場所へ連れていく必要があるな、と考えていたんだ】

「マジか」可乃子の顔がぱっと明るくなる。良くも悪くもわかりやすい娘ではある。「そ、そうか……なかなか見上げた心がけじゃないか。お前は失礼だけどめちゃくちゃ強いし、いい奴だな。それさえ忘れなければ親父に口利いてやってもいいぞ。親父、いろいろと気難しいところはあるけど、少なくともケチじゃないからな」

【別に、金はいらないんだ。欲しくないとは言わないけど、困ってもいないから】

「ふーん……そうなのか」一転して眉を下げる。犬に餌を上げようとしたらそっぽを向かれたような顔だ。これまたわかりやすい。

【それに、報酬の話をするのはまだ早いと思うぜ】

「どういうことだよ?」

 動体センサーに反応――背後から多数。【こういうことだよ】

 床に落ちていたソートオフショットガンを掴み、投げる。くぐもった悲鳴が上がり、アサルトライフルをこちらに向けていた完全武装の兵士が投擲された銃身を顔面に食らって吹き飛んだ。

 MDの実力行使部隊――!

 硬直している可乃子を肩にかつぎ上げる。【逃げるぞ!】

「何て運び方するんだよ! 放せ馬鹿ひとさらい! 私を何だと思ってるんだ!」

【荷物】

「言い切りやがったな!?」

 車の影から躍り出てきた新たな兵士2人を、さらに背後から突進してきた鉄の塊がゴムボールのように跳ね飛ばした。

 下部から蜘蛛のような節足を生やした兵装ラックが、絶妙なバランスを保ったままがちゃがちゃとこちらに歩いてきた。背を向けて装着し、口元をわななかせている可乃子を安心させるために頷いてみせる。【この機能、なかなか可愛いだろ?】

「めっちゃキモいよ!」


 唸りを上げて無数の弾丸が空を切り裂く。

 MD兵士たちが着実に背後から、側面から追いすがってくる。黒のヘルメットと黒のボディアーマーに身を固めた、全身これ昆虫のような完全武装だ。非電気/人工筋肉式の強化骨格を使っているのか、重装備をものともしない移動速度は〈アヴァターラ〉にもひけをとらない。

 やりづらいな――走りながら龍一は内心舌打ちをしたくなった。全身擬体はアサルトライフルの高速弾に対してもかなりの耐久性はあるが、それはあくまでも人間と比較しての話だ。同一箇所に集中して銃弾を浴びせられれば、深刻な被害は免れ得ない。

 なによりの脅威はその隙の無さだった。無駄弾を撃たず、必要以上に距離を詰めず、複数のセルからなる攻撃チームがお互いを支援し合っているその陣形は、先ほどの誘拐グループよりはるかに手強い。

 対して、こちらは可乃子という生身の弱点を抱えている上、戦意でも問題がある――彼らが本気で殺しにかかってくるのに、龍一側はそこまでの理由がないのだ。

(手持ちの火力で強引に突破することはできるだろうが……)

 その分MDの報復も過酷なものになるだろう。厄介事が後で千倍、一万倍になって返ってくるのもそれはそれで恐ろしい。つまり、うかつには殺せない。

 逡巡を神経系へのちりちりとした刺激がかき消す。擬体の各種センサーが何らかの脅威を検知、微弱な電気刺激という形で伝えたのだ。

(考える暇もなしか……!)

 とっさに身を沈める。一瞬前まで頭部のあった空間を、衝撃波が貫く。対軽装甲目標を撃ち抜く大口径対物ライフルによる狙撃だ。立体駐車場のさらに外部、隣接するビル群が狙撃地点だろう。

 バックパックに搭載されたアクティブ防御システムが作動した。銃弾の放たれた方向へ攪乱用レーザーの光をきらめかせつつ、発煙弾を射出して周囲を白煙に包む。肩にかついだ可乃子が盛大に咳き込む。

「おいでかぶつ、私をゴキかなんかと勘違いしてるだろ! お前は平気かも知れないけど一緒に燻すなよ!」

【すまん、もうちょっと我慢してくれ!】

 抗議はもっともだが、今はそれに対応している余裕がない。

 それに、どうやら不毛な追いかけっこも終盤に達したようだ。センサーが敵兵力のさらなる増大を感知する。考えてみれば、この場にいる全てのMDを排除したところで、増援は幾らでも送り込まれるのだ。

 考えろ。

 北側――もっとも多くの敵兵力を感知。これ見よがしすぎる。おそらくは囮。

 南側――勢子だろう。こちらを追い詰め、苛立たせ、罠の中へ追い込むための部隊。もちろん、油断できる数ではない。

 西側――一般車両による壁。もっとも、対弾性を期待できるほどではない。

 東側――手薄すぎてかえって怪しい。こちらのセンサーを何らかの手段で欺瞞している可能性もなくはない。

 ふと、西側車列のさらに向こう側、未整理の段ボール箱が積み重なっている様を視認する。これは――使える。

【先に謝る。ごめん】

「え、いきなり何を……」可乃子の言葉の後半は魂消る悲鳴となった。自分の身体が放物線を描いて放り投げられたのだから無理もないが。

 一瞬、本当にほんの一瞬、突拍子もない行動に兵士たちの注意が逸れる。だがそれで充分だった。

 周囲からの圧が高まる――前後左右の誰がトリガーにかけた指を動かすか、龍一はそれにのみ集中した。

 恐れがないわけではない。だが確信もまたあった。銃には明確な弱点がある――。そしてセンサーでは人の殺気を感知することはできないが、この擬体ならできる。

 奥の手――本当に最後の手段、十数秒間程度しか連続起動できない高速戦闘モードを思考トリガーにより作動。バックパックを切り離す。

 ダンスの時間だ。

 後方で殺意が高まり――弾ける。回避はしない。背後に趣向を回して跳ね返す。

(……!)フィードバック機能が数段上の衝撃を伝えてくる。通常のアサルトライフルよりさらに口径の大きいバトルライフル弾。強化された視覚の中で擬体の細かな破片が散る。連続しては受けられない。

 思考トリガーで兵装選択、対人用ハンドガンが兵装ラックから手元に滑り出る。抜き撃ちクイックドローで前方から突入する兵士の一人を撃つ。胸板に2発。致命傷ではない――ドラゴンスキン仕様のボディアーマーはかなりの耐弾性がある、激痛で膝を折った隙に一気に距離を詰め、銃身を跳ね上げ、もう一人の兵士を巻き込む形で手首を巻いて投げた。

 投げる寸前、手首から投げた兵士のチェストリグに装備された音響閃光手榴弾スタングレネードの安全ピンを抜いている。

 連続して殺気が膨れ上がる――味方を巻き込む覚悟で発砲しようとする兵士たちの中心で、轟音とともに音響閃光手榴弾が炸裂した。

(……勝負!)

 対閃光・音響防御を備えた最新の歩兵装備でも、一瞬の硬直は免れ得ない。その隙こそが龍一の欲したものだった。連続してハンドガンを発砲、射出された銃弾を追い抜く速度でスライディング。軽自動車にでも跳ねられたような勢いで吹き飛ぶ兵士の両隣、兵士らが構えたライフルの機関部と銃床に銃弾がめり込みあらぬ方向へ銃口が逸れる。両手で別々の兵士の頭部を掴み、思い切り

 後方へ回転宙返り。ありえない動きに目を剥く兵士の頭頂部に蹴りを突き刺し、着地と同時に別の兵士へ体当たりする。その身体を盾に突進、後方から発砲してくる兵士3人に近づき力の限り突いて蹴って砕いた。

 ――最後の一人が倒れるとほぼ同時に、安全措置により高速戦闘モードが自動終了した。常人の運動能力をはるかに上回る擬体の運用は反動も激しい。接続を切ってもしばらくは深刻な疲労に悩まされるだろう。

「何すんだよでかぶつ! 本当に女の子を何だと思ってんだ! アンコが出たらどうするんだよ!」段ボール箱の中から這い出てきた可乃子が顔を真っ赤にして歩み寄ってきたが、すぐ周囲を見回して真顔になった。「……やっぱりすげえよお前。これ全部倒したのかよ」

【死んじゃいない。後々面倒だからな】

「それはそれですごいって」

 ――センサーが「何か」の接近を捉えたのは、その時だった。暗がりから、照明が割れた薄暗がりから、軽自動車ほどの鉄の塊がゆっくりと進み出てくる。

「ど、どうしたんだよ?」

【……ああ、くそっ】

 MDの突入部隊に完全に気を取られていた。が本命か。

(MDと俺をぶつけ、さらにこの『本命』をぶつけてとどめを刺すつもりか)

 なりふり構わず逃げればまだ脱出はできたかも知れない――いや、あの局面では可乃子を見捨てるという選択肢は取れなかっただろうから、詮無い話ではあるが。

 ドラム缶から象の鼻のように砲身が突き出たような味も素っ気もないシルエットだったが、その素っ気なさが余計に物騒だった。

 30ミリ機関砲と40ミリ擲弾銃の複合型自動砲塔、側面に装備された四連装の対戦車〈コルネット〉ミサイル発射筒。そして複数のアームに取り付けられた近接戦用散弾銃。

 情報処理システムが即座にそれの機種を分析する。ロシア製〈ツィタデーリ〉拠点防衛システムが、じれったくなるほどの鈍足で照明の下へ這い出てきた。

 躊躇わず可乃子の首筋を掴み、背面のバックパックへ放り込む。ぎゃー、と猫のような悲鳴が上がるが気にしないことにした。

「何すんだよでかぶつ! 私は閉所恐怖症なんだぞ!」

【死にたくなかったら絶対出てくるなよ】さっさと逃がしておくべきだったという悔いはあるが、どうしようもなかった。卵大の金属塊を音速で全身にぶつけられて原型をとどめている人間など聞いたこともない。生身で放置しておくよりはるかにましだろう。

 前方の旋回砲塔が、ぎちり、と音を立てたような錯覚を覚えた。

(……来る!)

 横っ飛びに飛んだ瞬間、灼熱の火線が一直線に空間を薙いだ。

 ごうっ、という轟音と熱気が、擬体を通して五感に襲いかかってきたような錯覚があった。

 火線の通り道にあった一般車両が、熱風を浴びせられた飴のように溶けて膨れ上がり、立て続けに爆発した。主力戦車以外なら軽々と貫通する、30ミリ機関砲弾の猛打だった。

 バックパックの中で可乃子が悲鳴を上げる。「でかぶつ! 外で何が起こってんだよ!? 今の音何!?」

【知らない方がいいぞ】

「不吉なこと言うなよ! 怖くて泣いちゃうだろ!」

 実際、慰めている余裕がなかった。あんなのと正面切って撃ち合っていたら、全身擬体を幾つそろえても足りない。

 疾走を開始。数メートルと離れていない路面を機関砲弾が次々と砕いていく。

 安全柵を乗り越え、窓へ向けて跳躍。ガラスを破り3階建て駐車場の外へ飛び出した。

 空中で身を捻り、アンカーを射出。上階の手摺へ引っかかる手ごたえを感じると同時に、ウィンチを最速で巻き上げる。少しでも上昇速度を上げるために連続で壁を蹴る。

 このまま上階へ――と思った時、甲高い音を立てて傍らの外壁に拳大の穴が開いた。隣接するビルの屋上に陣取っていたMDの狙撃チームだ。突入部隊は全員戦闘不能状態だが、彼らの戦意は衰えていない。

(その根性は認めるが――おととい来てくれ!)

 背面のバックパックが展開、攪乱用フラッシュライト数基が夜空の底を焦がすほどの閃光を放つ。目を焼かれる狙撃手の悲鳴が聞こえたように思えたが、もちろん幻聴だろう。プロにセミプロが立ち向かうんだ、これくらいはさせてもらおう。

 狙撃が止まった隙に4階へ飛び込む。敵影は――ない。

 次の瞬間、全身に悪寒が走った。

 まったく同タイプの〈ツィタデーリ〉が新たに2基、階下のスロープから先ほど振り切った1基。じれったくなるほどののろのろとした移動が、今では勝者の余裕にさえ見える。

 計3基。龍一を中心に三方から接近してくる。完全な包囲だ。

(やられた。向こうも静寂モード持ちかよ……)

 機械仕掛けの伏兵。こちらの逃走ルートを完全に読んでステルス状態で待ち構えたのか。あんなもの、駐車場のインテリアとしては物騒すぎるが――トラックか何かに積み込んで、前日から待機させていたのかも知れない。

 自動砲台という性質上、〈ツィタデーリ〉の移動速度は速くない。底面部のタイヤで徒歩と同程度の速度で移動できるのみだ――だが一分間に3000発、大口径の機関砲弾を360度で「一薙ぎ」できるのに、それが何だというのか。しかもそれが3基。お互いに駐車場全域をカバーできる射角だ。

 レーザー警報――残る2基の自動砲台からの照準。

(……!)横にロールを打って回避。一瞬前の立地を機関砲弾の猛打が粉々に撃ち砕く。滑らかな床面が爆撃でも受けたようにひび割れて弾け、埋め込まれていた水道管が破裂して即席の噴水が吹き出した。

 襲いかかってくるのは機関砲弾だけでなかった。アームの先端に装着された対人用散弾銃まで火を噴き始める。距離があるために表面装甲で火花を散らし弾き返されるだけだが、うっとおしいことに変わりはない。

(そんなもの……)

 内心舌打ちした龍一が握った対物ライフルを後方に向けた瞬間――がくん、と予期しない衝撃で膝が折れた。

(!)

 体勢を立て直そうとした途端、センサーが飛来物の接近を捉える。放物線を描いて放たれた、数発の40ミリ擲弾。

(何だと……!?)

 立つのをやめた。身を投げ出し、連続ロールで逃げる。次々と飛来する擲弾が炸裂し、床をえぐりながら生身の人間などずたずたに引き裂く小片を撒き散らした。少なくない数の小片が擬体表面装甲に突き刺さる。

(散弾の合間に一粒スラグ弾を混ぜたか!)

 効き目の弱い散弾で油断させておいて態勢を崩し、強力な火器でとどめを刺しに来た。自動戦闘プログラムの挙動ではない。

 向こうもこちらと同じ遠隔操作か。無機質なセンサーの向こうに、人の悪意が透けて見える。

 思考トリガーで兵装選択、バレット社製・XM109ペイロード対物ライフル。本来なら三脚なり車両なりに搭載して使う大型銃器、それも全身擬体でなければ運用は不可能だ。サブアームが兵装ラックから掴み出したそれを握り締める。まずは――

 真横に走りながらライフルを撃つ。強靭な四肢と複合センサーによる目標捕捉により、25ミリ弾は確実に〈ツィタデーリ〉へ命中。

 だが、貫通はしない。装甲の一部をえぐりはしたが、致命傷とはなっていない。

(くそ……!?)

 その隙に30ミリの砲火が襲いかかる。ステップで交わしはしたが、着地の瞬間に思いがけない衝撃を立て続けに食らう。機関砲だけでなくスラグ弾までが炎を貫いて飛来する。銃身の破損をものともしない強装弾の連打だ。ダメージはなくとも、動きは一瞬止まってしまう。そこへさらに擲弾が三方から飛んでくる。

 龍一はぞっとした――先ほどより狙いが正確になっている。こちらの回避行動を読まれ始めている。

 時間が経てば経つほど不利になるということか。短期決戦しかない。しかしどうする――どうやって勝つ?

 手がなくはない。一発だけ兵装ラックに装備されているジャベリン対戦車ミサイル(それだってまさか必要になるとは思わなかったが)。だがこれは本当に一発のみ、1基しか破壊できない。しかも狙いを定めている間に、他の2基の火線にさらされることになる。

 こいつでどうやって他の2基も同時に仕留める――?

 戦術情報システムからのレーザー警報。……前方の1基がコルネット対戦車ミサイルの照準を合わせている。回避したところで他の2基からの砲火に晒される。敵も遠隔兵器、同士討ちなど痛くも痒くもないだろう。

 兵装選択――XM109をもう一丁。左右両方の手に兵装ラックから滑り出たXM109を握り締める。一瞬、〈ツィタデーリ〉のオペレーターは戸惑ったに違いない。だが、こちらの意図までは察せないはずだ。

 龍一とて絶大の自信があるわけではない。失敗したら死ぬまでだ。

 轟音とともに対戦車ミサイルが撃ち出された瞬間――龍一は動いた。

 膝をたわめ、跳んだ。

 ミサイルを踏み台にさらに天井すれすれまで飛び、反転して後方の〈ツィタデーリ〉に照準ロック。ジャベリンを発射。主力戦車の装甲を貫通する二重タンデム弾頭は、自動砲台には過剰火力オーバーキルですらある。命中を見届けず、跳躍の勢いを殺すことなく前方の〈ツィタデーリ〉上方に着地。突きつけられる散弾銃装着アームを、

(邪魔だ!)

 回し蹴りでまとめてへし折った。両手のXM109を同時にセンサーへ突きつける。装甲などこの距離では問題ない。

 轟音。ずんぐりとしたドラム缶のような〈ツィタデーリ〉が内側から一瞬膨れ上がり、火花と黒煙を噴き上げながら踏み潰されたアルミ缶のようにひしゃげた。

 残るは1基――だが、その最後の1基こそが、まさに立ち尽くす龍一へぴたりと30ミリの砲身を向けている。

 。龍一はほくそ笑む。でも俺の勝ちだ――

 機関砲が火を吐くまさにその寸前、先ほど蹴飛ばした〈コルネット〉対戦車ミサイルが真横から〈ツィタデーリ〉の胴体を深々とえぐった。

 爆発。

 生身だったら大きく肩を回したいところだ、思いながら龍一は焼けた金属塊と化した〈ツィタデーリ〉から飛び降り、ついでにバックパックの表面を軽く叩いてやった。【火器管制に敵センサー欺瞞、誘導兵器へのハッキング。君には助けられっ放しだな】

 バックパックは何も言わなかったが、節足を底面から出して「滅相もない」というように振ってみせた。


 バックパックのロックを外すと、ハッチが勢いよく開いて怒り心頭の可乃子が顔を出した。「大概にしろよ、でかぶつ! 一緒くたに詰め込まれたアタッシュケースがガツガツぶつかってきて、めっちゃ痛かったぞ! ……で、もしかしてまたやったのか?」

 周囲に気づいて急速に毒気を抜かれたらしい口調に、無理もないかと龍一は苦笑する。【とりあえずな。正直ハードだったよ。ミサイルを飛び越えたりな】

「……もうお前のやること、いちいちツッコまないからな」

 返事をしようとして、龍一は膝を折ってしまった。どうやらがもう限界らしい。可乃子がぎょっとするのが見えた。

「だ……大丈夫なのかよ? あっちこっち撃たれてる上に、身体のあっちこっちが欠けてるぞ?」

【あー……実を言うと、これ中に俺が入ってるわけじゃないんだ。遠隔操作なんだよ】

「でかぶつ、お前には驚かされっ放しだよ……」溜め息も出ないや、という顔になる可乃子。「ま、リモコンのオモチャだって関係ないや。たとえお前の中身がろくに風呂に入らない上に女の子の目を見て話せないキモデブでも大したもんだよ」

 本当に口が悪い。

 その時になって、ようやくPCのサイレンが近づいてきた。さすがにモールの立体駐車場であれほど重火器が使用されたのだから当然だが。

「今頃マッポがお出ましか……来たら来たで困るんだけど」

【普通の警官の出る幕でもないしな】

「……なあ、私のために強行突破とかやめてくれよ? 死人でも出たら親父も困るしさ、私も寝覚め悪いから」

【最初から考えてないよ】真っ当な心配ではある。【だから、そうだな……ちょっと眠っててくれ】

 え、と聞き返した彼女の首に擬体の指先を近づける。内蔵された無痛注射器から麻酔薬を注入。

「あっそれずる……」一瞬で意識を失う。

【悪いな。これから行くところは見せたくないんだ】我ながら言い訳がましく呟くと、龍一は


 がはっ、と異様な音が龍一の喉から漏れる。今まで忘れていた呼吸の仕方をようやく思い出したように、龍一は長椅子の上から跳ね起きる。

 鳩尾に鉄塊でも落とされたような鈍痛が疼き出す。〈アヴァターラ〉の運用はまったくのゼロリスクではない。擬体との接続を切っても脳と神経をフルに使った疲労感はそっくりそのまま残る。目の裏の痛み、吐き気、異様な脱力感は何度使用しても慣れない。

 傍らには膝を折った姿勢でうずくまる〈アヴァターラ〉と、麻酔薬で眠っている可乃子が見える。その表情は安らかで、この子が生きていてよかった、と改めて思う。

「また面倒な荷物を持ち込んできたな」崇が笑いながらスポーツドリンクを投げて寄こす。

「荷物っていうな。生きた女の子だぞ」受け取ったスポーツドリンクをほとんど一息に飲みつくしてから龍一はようやく息を吐く。この世にこんな美味い飲み物が他にあるもんかと思う。「それに、放っておいたらもっとまずいだろ」

「まあな」

 ――船のドッグのように無機質で殺風景な内装は、この部屋が未真名市上空数千メートルに浮いていることを考えれば無理もなかった。余計な装飾を施す余裕がないのだ。

 市の上空をプログラムに従い巡航する3機の環境観測・記録用飛行船、そのうちの一機を百合子はダミー会社を介して保有している。行き来にはヘリなりオートジャイロなり何らかの飛行手段を使うか、さもなければ全身擬体で直接乗り込むしかない。

 崇がやや表情を改める。「戦闘ログを見た。やっぱり罠だったな」

「ああ、罠だった。あれを罠と呼ばなきゃ、何を罠と呼ぶんだってくらい罠だった。〈ツィタデーリ〉なんてれっきとした軍事兵器じゃないか」

〈笛吹き男〉とその一党がただの誘拐グループではなく、マフィアや違法企業に雇われて破壊工作を行う「傭兵」であるという噂はどうやら嘘ではないらしい。

「昭島と有坂の対立を煽る。身代金はいただく。さらに俺たち〈月の裏側〉も引っ張り出してバラす。一石三鳥を狙ったわけか」

「この分だと、夏姫たちの方も推して知るべし、かな?」

「……察しがいいな。ちょうど今、現場でが発生しているらしい。〈スナーク〉じゃ重装備の敵には対応しようがないからな。装備を換装後、すぐ降下しろ」

「ああ」

 壁にもたれた可乃子は実際の年齢よりずっと幼く見える顔で眠っていて、龍一はしておかなければならないことを思い出す。

「その子の目が覚める前に、安全な場所まで運んでくれないか? もう一日のうちに見る悪夢は充分だろう」

「わかった。それは任せろ」

 少しでも身体を休めようと龍一は目を閉じる。全身擬体を全力で使用した肉体的・精神的疲労は軽くない。明日はまともに起きられるかどうか自信がなくなってきた。

 だがまあ、気に病むほどでもない。何より、厄介事は俺の飯の種じゃないか。

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