第6話 これからの「犯罪」の話をしよう
人いきれでむっと蒸し暑い満員電車から降りても、背後からの人波に押される一方で、結局満足に呼吸するには駅の外へ出なければならなかった。とにかく肺の中の空気を全部交換したくて、
(こうなるから実家には帰りたくなかったんだけどな……)
何しろ両親がつてにつてをたどって探してきた、知り合いの知り合いのそのまた知り合い(『それ赤の他人じゃね?』と梨奈子は内心で突っ込んだ)の会社らしい。父も母も、東京から戻ってきて以来、食っちゃ寝食っちゃ寝でころころしている梨奈子を心配して持ってきた話ということはわかっていた。だからこそ、逃げようがない。このまま家に帰ったら怒られる――いや怒られるならまだましな方で、下手すると泣かれるかも知れない。それはそれで嫌だ。
これを断ったら本当に『さわぐち弁当店』を継いで適当な男を婿に迎えるしかなくなる。それが嫌で仕方ないから、一度は家を飛び出したというのに。
弁当屋なんてやりたくない、都会でモデルになる! と担架を切って家を飛び出したものの、屑みたいな男にひっかかって顔が青黒くなるまで殴られただけだった。ちなみにその男はかなりまずい金に手を出したらしく、強面のお兄さんたちに車に押し込められ、彼女の目の前から消えた。おそらくは永遠に(もちろん、お兄さんからは『長生きしたかったら何も見なかったことにしとくんだな』とたっぷり脅された後で解放された)。
気心の知れた街だ。好きな部分だってたくさんある。だけど時々たまらなくなる。あたしは結局この街で人生を終えるのか、と。
朝の未真名市中央区オフィス街は梨奈子の悩みなど無関係に今日も煌びやかで、にぎやかで、忙しかった。テレビで紹介されているようなお洒落なイタリアン料理店や、宝石のように美しいケーキが店頭に並ぶ洋菓子店も目に付く。今までコンビニや配達のバイトぐらいしか経験がない梨奈子には、自分がここで働くイメージがどうにも想像できなかった。モデルケースの中の他人の人生を見ているような気分だ。
道端に寄ってスマートフォンのミラー機能で顔をチェックすると、朝のラッシュで念入りにしてきたはずのメイクは台無しになっていた。時計を見ると面接の時間までにもう十数分を切っている。しかも何と言うことだろう、ストッキングまで伝線していた。本当に泣きたくなってきた。
やむを得ず、途中でコンビニに寄ってトイレを借りることにした。交差点に位置する朝のコンビニは眠たげな目と「いらっしゃいませ」の明るい声がどうにも不釣り合いな店員やコミック雑誌を立ち読みしている学生、ウェットティッシュを棚から手に取っている中年のサラリーマンらでそれなりに混んでいた。コピー機の前でも、2人の女子中学生がノートのコピーに忙しい。梨奈子は自分が中学生の時を思い出そうとしたが、上手くいかなかった。もう、何百年も昔の話に思える。
便器に腰を下ろし、長々と放尿しながら壁の『いつも綺麗にご利用いただきありがとうございます。』という手書きの貼り紙をぼんやりと読んでいると、実家に戻ってからずっと付きまとっている――いや、本当はその前から離れない薄暗がりのようなものが胸中に広がり始めた。
自分が幸運だったことはわかっている。だが、それが何だっていうんだろう?
梨奈子は時々、そう思えて仕方ない瞬間がある。
しかも就職が決まれば、毎日眠い目をこすりながらこの数倍にも及ぶラッシュに臨まなければならないのだ。朝から死んだような眼の新入社員たちや、努力に反してさっぱり成果が上がらないままテスト当日を迎えた学生たち、辛い浮世に打ちのめされっ放しのとにかく何か可哀想な目つきの中年男たちと一緒に。おそらくは死ぬまで。何ということだろう!
あたしの人生、こんなもんだったっけ? かつての自分は、二十歳を過ぎた自分ならもっと素晴らしい生き方をしているものと――根拠があるわけではないけど――思っていなかったか?
(……やべ、考えてると何かマジで泣きそう……)
それが今じゃ、男に騙されてすっからかんになった挙句、無一文で実家に逃げ戻ってきて、何一つ決められない間に親に言われるまま気の進まない会社の面接を受けるため、慣れないスーツとパンプス姿で街へ出てきて、コンビニのトイレでパンツ下ろして泣いてる。
あたしの人生、もしかして――とっくに詰んでんじゃないのか?
しっかりしろ、と梨奈子は自分に活を入れるべく両の頬をはたいた。面白くないイベントはさっさと終わらすに限る。小学校でされる注射と同じ要領だ。心はともかく顔では笑え。
ストッキングを換え、トイレから出るとおかしな光景を目にした。店内で買い物をしていた客だけでなく、店員までもがガラス窓に鈴なりになって外を眺めているのだ。しかも何だか外が騒がしい。工事現場から聞こえてくるような大型重機の駆動音と、建物の崩れる大きな音が響いている。いやこれはもう「轟音」に近い。
「…………は?」
一瞬、梨奈子は自分の目より先に、まず自分の正気を疑った。
「それ」自体は珍しくもない。工事現場で見かける大型重機、そう、ショベルカーとか「ユンボ」とか呼ばれている、あれだ。
ショベルカーがその鋼鉄のアームを振り上げ、梨奈子がこれから就職する(かも知れない)社屋を破壊していた。
アームの先端に取り付けられたバケット――土や石をすくい取る、あの部分だ――がビルの外壁に刺さり、一掻きしただけで砂糖細工のようにぼろぼろと崩していく。そのたびにスチールデスクやプリンターやホワイトボードといったオフィスの内装をごっそりと掻き出していく。飛び出してきた社員たちが「やめろ、何をしているんだ!」「危ないじゃないか、降りてこい!」と悲鳴交じりの怒声を上げているが、運転手には聞こえていないのか無視しているのか、止める様子はない。まるで通常の工事をしているように、ビルを淡々と崩していく。
「すっげー……」
他の客同様、梨奈子は目と口を全開にして見入っていたが、そこで重大なことに気づいた。――これから面接を受けるオフィスが破壊されていたら、どこで面接を受ければいいのだ?
「……よっしゃ、次だ次」
「待って佳澄、ページ飛ばしてる! いったんコピー機開けて!」
「マジで? あ、やべ、ようしこれで……何とかなりそうだ……」
改めてコピー機を閉じた
「要するにオンライン対戦ゲームにハマりすぎて課題ド忘れしてたってことだよね?」
「う……まあ、そのさ、この埋め合わせは必ずするから。そうだ、今度チョーお勧めのライブチケット手に入れたからさ、一緒に行こうぜ。元々は佐賀のご当地アイドルなんだけど、この未真名市でも今度ライブを……」
「別に恩に着てくれなくていいよ」真琴は大きく溜め息を吐いた。「ゲームが悪いとは言わないけど、それで昨夜は一文字も課題を進めなかったんだろ? しかも神妙な顔して謝るんならまだしも『てへ、ごめんちゃい☆』で済ませようとしたら、そりゃ先生だって怒るよ」
「うちのオカンみたいな説教しやがって……いいかまこっち、よく聞けよ。人は生きている限り何回だってやり直せるんだ」
「そういうのいいから」真琴はわざと冷たい声を出した。悪い娘ではないのだが、彼女とつるんでいると駄目夫をかばう共依存の妻になった気がしないでもない。「僕としては、遅刻ぎりぎりになって『一生のお願い』をしてこない方がありがたいんだけどな。第一、君の一生は何回あるんだよ?」
「う……まあ、そのさ、ライブの話は考えといてくれよな。マジでお勧めなんだ。あいつらは今後絶対当たる。あたしの審美眼を信じろ。この前観た『第10地区』だって面白かっただろ?」
「面白かったよ、あんな血がブッシャー肉片ドッバーの映画とは思わなかったけどさ……そんなことより手動かして! 本当に遅刻するよ!」
佳澄の返事が店外から聞こえてきた轟音で消えた。工事現場で聞こえるような重機の駆動音と、それに何かが崩れるような音。人の悲鳴や怒号まで聞こえてくる。
「さっきから何だろうね? 工事かな?」
「やけにうるさいな……このへんで取り壊し予定の建物なんてあったっけ?」
2人が伸び上がって店外を見ようとした瞬間、突き出されたバケットが数メートルと離れていないガラス窓を突き破り、雑誌コーナーを粉々に粉砕した。
その絵面のシュールさに2人は顔を見合わせ、まったく同じタイミングで疑問符を発してしまった。
「…………は?」
「ちょ……ちょっと何してんだよ!? あたしの会社に何てことすんの!?」
怒鳴りながら梨奈子はうっすらと思った――いや、別にあたしの会社じゃないけどさ。
やはりショベルカーの運転手に聞こえた様子はなかった。周囲の怒号や悲鳴などどこ吹く風といった様子で、今度はお洒落なオープンカフェに手をかけた。巨大なバケットが天井を濡れた紙のように突き破り、ガラスを粉砕し、椅子やカウンターを粉々に押し潰していく。とどめとばかりに店舗へ体当たりし、鋼鉄の巨躯でもって店をばりばりと突き破り、内装を履帯で踏みにじって反対側へ抜けた。
「すっげえ……」
いや――もしかすると、本当に聞こえないのかも知れない。その時に梨奈子は気づいた。このショベルカー、運転席周りを鉄板でぐるりと囲って溶接している。あれでは外へ出たくても出られないではないか……いや、実際に出る気はないのかも知れない。
「マジの奴だ……これ絶対マジの奴だ」
ショベルカーの足元の履帯――要するにキャタピラだ――ががちゃがちゃと音立てて動き、車体が向きを変えた。黄色く塗られたバケットが、ぴたりと梨奈子たちのいるコンビニへと向けられている。そう、ホームランを予告する大リーガーのように。
誰かがぽつりと呟いた。「……こっちへ来る」
今度こそ、店内で手のつけられないパニックが炸裂した。
真琴は自分の目が信じられなかった。もっともそれは先日、ヘリコプターから垂らされたワイヤーで「一本釣り」された時もそうだったが。
コンビニエンスストアとショベルカーのバケットという、単体ならおかしくないものが組み合わされるとこんなシュールな光景が展開されるのか、と妙なところで感心してしまった。「手術台の上のコウモリ傘とミシンの出会い」という言葉をなぜか思い出す。
だが、そんな真琴の他人事のような感想も、駆動音とともにショベルカーが動き始めるまでの間だった。ぶん、と重々しく空気を切る音とともに鋼鉄の腕が一振りされ、悪い冗談を見せつけられたように立ち尽くしていた学生が雑誌の棚ごと吹っ飛ばされた瞬間、今度こそ本当のパニックがコンビニ店内で炸裂した。客も店員も当然ながら会計などそっちのけで悲鳴を上げて逃げ出す。腕が再度振り下ろされ、先ほどまで真琴と佳澄がかじりついていたコピー機を紙細工のように粉砕する。
「佳澄、逃げるよ! ……佳澄!」
まさか、と店内に目を走らせた真琴の視界に、立ち尽くしている佳澄の姿が映った。怪我している様子はない。ただし、事によると怪我以上に深刻だった。
「あ、あ、」
小刻みに震えている佳澄の様子にどうしたのか、と目を凝らした真琴は、それが全然おかしくないことに思い至った。要するに今の佳澄は、相良龍一に助けられた時の真琴なのだ。常軌を逸した暴力を目の当たりにした時、何とかしようとして身体が動くのは要するに真琴が「慣れた」からなのだ――あまり愉快な考えではないが。
「佳澄ってば!」
理屈がわかったからといって、状況の深刻さが変わるわけではない。必死に腕を引っ張ったが、本当に根でも生えたかのように動いてくれない。
「佳澄……!」
(ちょ……ちょっと! それはマジで洒落になんねえって!)
店の三分の一ほどもある大穴が空いたせいで崩壊しかけているコンビニの中、完全に硬直してしまった少女と、その腕を引っ張って逃げようとしている少女を見て、梨奈子は自分の安全と同じぐらい重大なことに気づいた。これ、あたしがどうにかするしかないのか?
(いや! いやいやいやいや無理無理かたつむりだって! あたしだって逃げないとやばいんだぞ!)
しかも他の客は店員も含めて逃げてしまい、店外からこわごわと遠巻きに眺めているだけだ。眺めているだけならまだしも、スマートフォンで撮影している輩までいる始末だ。何て奴らだ、とは思うが梨奈子もいち早く安全なところに逃れていたらそうしていたかも知れない。
しゃあねえ、と腹を括った。本当なら泣いて逃げ出したいところだが、そんなことをしようものなら一生気に病みそうだ。幸い、成人男性ならともかく女の子2人だ。担いで逃げるのは無理でも、タックルして店外へ突き飛ばすぐらいならできなくはない。自分が間に合わない可能性は――考えないことにした。
(頼むぜあたしの俊足……これでも高校の頃はハンドボール部だぜ!)
猛然と梨奈子は走った。2人の少女が驚愕の表情でこちらを向いた――瞬間、彼女は盛大につんのめった。
(……あれ?)
しくじった。履き慣れないパンプスだったことを忘れていた。
(えーっと……)
真琴は呆然と思っていた。助けられといて言うのも恩知らずな話だけど――これだとあなたも助からなくない?
梨奈子も漠然と悟っていた。あ、やべ、これあたしも一緒に死ぬコースだわ。
――そして大量の瓦礫が2人の少女と1人の女の上に降り注いだ。
あー、やっぱこうなったか……自分たちの頭上へ降りかかる瓦礫が奇妙にゆっくりと見える刹那の時間、梨奈子はぼんやりと思っていた。慣れねえ人助けなんかするからこれだよ。やっぱあたしの人生摘んでたのかなあ……親には悪りいことしちまったなあせっかく仕事まで見つけてもらったのに。できるだけ泣かないでほしいな、個人的にはあたしが間抜けな死に方したってことなんだから。あ、でもこの女の子たちは可哀想だな。ごめんよ、あたしでなきゃもっと上手い助け方ができたのにな。それだけが心残りだ……。
黒い影のようなものが自分たちへ向けて超高速で突き進んでくる。ほら、なんか死神みたいなのまで見えてきた、と梨奈子は思った。あれ間違いなくそーゆー系だよね? でなきゃ、大量のコンクリ片とガラスを雨みたいに浴びながら、
あたしたちを抱きかかえて、
店内を一直線に突き抜け、
勢い余ってビルの壁を蹴って、
三角飛びで何十メートルもある屋上までたどり着けるわけないじゃん……。
…………は? ちょっと待って? あたし、もしかしてまだ死んでない? 助かったの?
いや……そもそもあんた誰?
「まこっち。……おい、まこっちってば!」
全身を襲う衝撃に、真琴は堅く目を閉じたが――いつまで経っても意識は途切れず、予想していたような激痛もなかった。恐る恐る目を開けてみた真琴は、すぐ目の前に見慣れた佳澄の顔を見た。
「佳澄……ここ、あの世じゃないよね」
「あたしとまこっちが仲良く昇天したわけじゃなかったらね」佳澄は外れかけた眼鏡を直した後で、親指で自分の背後を刺すような仕草をしてみせた。「ところでまこっち、さっきっから気になってるんだけど……これ誰?」
「え?」
そこで初めて、彼女は自分が佳澄と一緒に、まるで手荷物のように誰かの腕で横抱きにされていることに気づいた。
反対側にはあの女の人がやはり抱えられていて、自分が生きていることが信じられないというように目を瞬いている。騒音やサイレンの音から察するに、あのコンビニから何キロか離れたビルの屋上らしい。
真琴はこわごわと顔を上げ、そして自分を抱えている「誰か」に見覚えがあるような気持ちになってきた。
「……龍一さん?」
目も耳も口もない「それ」の顔が、確かに真琴を見下ろした。
全身に青黒いウェットスーツを着ているため、均整の取れた体格が露わになっている。顔には何かのセンサーなのだろうか、幾何学状の多面体が組み重なったようなおかしなデザインの仮面をかぶっているため素顔は見えない。背格好も龍一と同じぐらいだ。
だが、真琴は奇妙な違和感を覚えた、目の前の人物には、何というか中身がないように思えたのだ。
だが自分と佳澄と女の人をビルの屋上にそっと降ろした手つきはやはりあの青年のもので、その違和感はすぐに消えてしまった。武闘家やバレリーナに特有の、一挙手一投足に常に意識を払っているような優雅な歩き方。どうして一瞬でも、これは龍一さん「ではない」などと思ったのか?
「龍一さん!?」
真琴の呼びかけにその人物は答えず、黙って背を向けると――助走もせず思い切り屋上を蹴り、着地した建物をさらに蹴り、瞬く間に林立するビルの谷間へと消えた。ゲームキャラクターの挙動を見ているような現実離れした跳躍力と素早さだった。ビル風よりも強いごうっという振動が真琴の顔面を叩き、制服のスカートをはためかせた。
「今の知り合い?」
半ば腰を抜かすようにして座り込んでいた女の人が、やや気を取り直して真琴に尋ねる。
「たぶん……いえ、知り合いに似ているような気がする、ってだけなんですけど……」
答えながら真琴は内心で首を傾げていた。確かに以前から人間離れした人ではあったけれど、女子中学生2人と成人女性を担いだ上に、ビルからビルへ大ジャンプするなんて、ちょっとやりすぎじゃないの? それとも犯罪者からアメコミヒーローにでも転職したんだろうか?
「すっ…………げーーーーー! まこっち! 今の何!? 何だよ!? 何であんなおもしろそうな奴、あたしに隠してたわけ!? 水臭いじゃんマブダチだろあたしたち!?」
佳澄の腹の底から吐き出されたような歓声を聴いて、真琴は頭を抱えそうになった。まさに一難去ってまた一難だ。さて、これをどうやって佳澄に説明しよう?
(……何だ? 何だったんだ今のは?)
棺桶のように、という形容が誇張でも何でもない――ただでさえ一人用の狭いスペースが、溶接された装甲版や付属機器のせいでさらに狭くなっているのだ――操縦席で増設したモニターに目を走らせながら、彼は疑問符で頭の中を一杯にしていた。
彼の駆るショベルカーの前に、友人を助けようとして中学生の女の子が飛び出してきた時は肝を冷やしたし、さらにそれを助けようとして別の女性が走り寄ってきた時には悲鳴を上げたくなった。あわや大惨事というところを防いだのだから、あれには感謝してやってもいい――彼の目的はあくまで建造物の破壊であって、無意味な殺戮ではないからだ。
だが、俺の邪魔をするつもりなら容赦はしない。
【ただちにショベルカーを停め、降りてきなさい! 従わない場合は発砲もあり得ます――!】
パトカーから降りてきた警官たちが拡声器で呼びかけてくる。うるさい奴らだ……犯罪者は見て見ぬ振りをするくせに、みすぼらしい格好をしている俺には街を歩いていただけで、人を犯罪者予備軍扱いして職質をかけてきやがる。
殺しはしないが、赤っ恥はかいてもらうぜ公僕さん方よ――彼はすばやくアームを操作し(教習所で教官から絶賛された素早さと的確さは、彼の数少ない自慢だった)バケットを容赦なくパトカーに振り下ろした。先端の爪が赤色灯を粉砕し、ルーフを突き破り、防弾仕様のパトカーを踏み潰された缶のように真っ平らにした。警官たちが恥も外聞もなく悲鳴を上げて逃げ惑う。中の数人は勇敢にも発砲してくるが、もちろん装甲の表面で弾き返されるだけだ(今の未真名市で発砲を躊躇う警官など長生きできないから、判断自体は悪くないが)。
何とまあ、彼はその無様さに笑うより先に失望した。そんな様でよく「市民を犯罪から守る」なんて綺麗事を言えるもんだ、恥知らずどもめ。
もっとも一般の警官はあんなもんだろうが、そのうち対テロ部隊のような精鋭部隊が繰り出されるかも知れない。素人が手慰みに作った急造の装甲に覆われたショベルカーなど一蹴されるだろう、と予想する程度の理性は彼にも残っていた。構わない。それまでに少しでも多くの破壊を巻き散らすまでだ。
今でも思い出す――大型重機の教習所で初めてこいつに触れた日のことを。痩せてひ弱な自分の身体が何倍にも大きく、何十倍にも力強く拡張されていくようなあの感覚のことを。レバーの微細な動作、アームの上げ下げで土を掘り返し、アスファルトを鋤き返す力強さを。履帯でのあくまでもゆっくりとした、それだけに安定感のある移動を。あの日、彼は自分が生涯触れていくべき力に出会ったと思ったのだ。何と素晴らしい!
――思えばそれが良くなかったのかも知れない。彼はそれに魅せられるあまり、技術の更新を怠っていた。気づけば同僚たちは皆もっと安価でメンテナンスも容易な……ついでに言えば高給取りのドローンオペレーターに転職しており、彼に回ってくるのはそこからあぶれたような、要するに安くてきつい割りに合わない作業ばかりになっていた。
自分がどこかで歪んだ人間になってしまった、という自覚は彼にもあった。自分が技術の「アップデート」(とかいう洒落臭い流行り言葉、としか彼は捉えていなかった)とやらを怠ったことも。
でも、俺には他に何もなかった。
他に自慢できるものを知らなかった。
他に誰かに差し出せるものを知らなかった。そして、気づいたら独りになっていた。
作業機械との付き合いを優先するような、自分がいかにパワーショベルを上手く扱えるか得々と喋りたがる(そして、その話しかしない)男と好んで付き合いたがる者は多くない。結局、友人は1人また1人と減っていき、同居していた女も愛想を尽かしてアパートから去っていった。
喫茶店、ブティック、オフィスビル……古い建物を壊し、土を掘り起こし、地ならししなければ、この世に存在しなかったはずの建造物の数々。なのに、誰も俺のことを知らないのだ。皆、楽しそうに自分たちの人生を満喫している。俺が……この俺だけが、ひとりぼっちだ!
鼻の奥がきな臭くなり、堪えるために歯をぎりぎりと噛み締めた。力一杯アクセルを踏み込もうとした時――前方に誰かが立っていることに気づいた。いや、確かめるまでもない。
(……また、お前か)
おかしな仮面なんかかぶりやがって、ふざけたコスプレ野郎め。
何よりも、ショベルカーの威容などどこ吹く風、といった調子の平然とした立ち姿が気に食わなかった。余裕をかましやがって。何でお前も、他の奴らみたいにすっ飛んで逃げない?
脅すつもりで、「そいつ」から数メートルほど離れた路面にバケットを振り下ろしてやった。硬いアスファルトがまるでクッキーのようにたやすく割れ、破片が「そいつ」の顔面近くまで飛び散る。だが「そいつ」に動じた様子はない。自分には傷一つつかないと確信しているように。
(この野郎……!)
今度は目の前に振り下ろしてやるつもりだった。びびって一目散に逃げ出せば、それで勘弁してやったのによ……!
だがレバーを前後させた瞬間、ぐわぁん、と凄まじい振動がバケットから伝わり、車体まで揺るがした。
(何だぁ……!?)
彼はモニターに目を凝らし、そして自分の目よりも先に正気を疑った。
「そいつ」の眼前に振り下ろしたはずのバケットが、まるで見当違いの路面に突き刺さっていた。そしてただ突っ立っていた「そいつ」のポーズも変わっていた。まるでボールを投げた直後のピッチャーのように、右の拳を振り切っている。
弾いたのだ。拳で、人間の何十倍もの質量があるバケットを、殴って軌道を強引に捻じ曲げたのだ。そんな馬鹿な!
(ありえねえ……! 手品だ! 何かのトリックに決まってる!)
悲鳴を押し殺し、レバーを素早く前後させる。今度は警告でなく、直接ぶち当てるつもりだった。当然、鋼鉄のバケットが直撃したら肉と骨でできたもろい人間などひとたまりもないわけだが……知るか! 逃げないお前が悪い!
振り上げられたバケットを見たらしい野次馬から悲鳴が上がる。だが「そいつ」は、あろうことか肩をすくめてみせさえした。お前にできはしない、そう言わんばかりに。
ぶん、と空を切ってバケットが振り下ろされ、路面に血の染みが広が――らない。異様な金属音が響いている。まるでショベルカーの悲鳴のように。
悲鳴を上げたのは彼の方だった。バケットがじりじりと持ち上がっている。先端の爪状の部分をがっしりと握り締めた「そいつ」が、足を踏ん張ってバケットを押し返している。軽自動車がダンプカーを正面から押し戻しているような、悪夢じみた光景だ。
(何だ……! 何なんだ、畜生!)
履帯を回転させ、車体をバックさせようとする。できない。「そいつ」がバケットを放そうとしないのだ。踏ん張った両足は路面にじりじりとめり込んではいるが、「そいつ」以上にショベルカーの方が限界だった。履帯は路面を削って空回りするばかりで、エンジンへの負荷を示す警報が鳴りやまない。
(もう、こいつを使うしかない……!)
彼はコードが剥き出しになったハンドメイドの「発射装置」を掴んだ。こんなものを街中で使おうものなら巻き添えは防げないし、この後出てくるであろう対テロ部隊相手に温存しておくつもりだったが――こんな化け物と出くわすとは思ってもいなかったのだ、仕方がない。
「挽肉になりやがれ!」
ボタンを強く押し込む。車体前面に無理やり溶接した、
炸裂音とともに、正面に立とうものなら人体など文字通り粉々にするはずの無数の鉄球が扇状に、音速で飛散する――だがいったいどのような力が働いているのか、「そいつ」がすっと右腕を掲げただけで、鉄球群は一つ残らず、かざした掌に吸い込まれた。
「嘘だろ!?」
彼が驚愕から立ち直る暇さえ与えず、「そいつ」は鉤爪のように曲げた指先を、何かを放るようにぱっと開いた。それだけで、
右掌に集中していた鉄球群が、放たれた勢いそのままに、ショベルカーへ向けて跳ね返された。
「わああああああ!」
まるでドラム缶の中に入れられて、無数のバットで乱打されているようだった――轟音とともに装甲板が弾け飛び、アームが曲がり、履帯が火花を上げて四散する。無敵のはずだった彼の「相棒」は、火花を巻き散らして一瞬で停止した。
鋼鉄の引き裂かれるような音が操縦席内部に響き渡り、彼は身をすくめた。いや比喩ではない、「そいつ」が鋼鉄の隙間を力任せに引き裂こうとしているのだ。
彼の数十センチと離れていない頭上、わずかな隙間が大きく口を開け、「そいつ」の目も鼻も口もない顔を覗かせた。
「あ、あ、」
警笛を大音量で浴びせられた仔猫ほどにも頭が働いていない彼に向かって「そいつ」は手を伸ばし、鋼鉄の裂け目から首筋を掴んで無造作に引きずり出した。
一気に視界が広がった。破壊しつくされた建物と、車と、もう永遠に動かなくなった彼の相棒、それを遠巻きにして見守る警官たちと野次馬たち、その全てが彼の目の中に飛び込んできた。
意に反して「そいつ」は彼を縊りも引き裂きもしなかった。初めて現れた時のように、ただ力みを感じさせない姿で突っ立っている。どうした? と小首を傾げているようにさえ見えた。
もうおしまいだ。その思いが、汚水のように彼の胸の中に浸み込んできた。失職し、女に去られ、自分の手がけてきた全ての建築物を破壊し尽くそうとして――そしてそれさえ、こんな形で阻止された彼には、もはや何も残されていない。
生涯で一度も出したことがないような、悲鳴のような大声を上げて、彼は「そいつ」に殴りかかった。
俺の輝かしい人生はどこへ行った? どこかにあったに違いない、素晴らしい人生はどこへ消えた?
「そいつ」のウエットスーツのような服に包まれた分厚い胸を殴りつけた。びくともしない。硬いゴムを殴っているような感触だ。
「そいつ」のどこが顔ともわからない仮面を殴りつけた。小揺るぎもしない。彼の拳の方が裂け、血がにじんだだけだった。
わめきながら、自分でもどこに残っていたのかと驚くほどの力で「そいつ」を殴り続けた。殴るだけでなく蹴り、体当たりし、頭突きを食らわせ、唾を吐きかけた。いつまで経っても「そいつ」は動かなかった。まるで甘んじてそれを受けるかのように。
怒りを掻き立てるために、今までの人生で忘れることも許すこともできない、憎い憎い相手の顔を、「そいつ」の無貌の顔に重ね続けた。パンを買うために彼をパシリに使い続けたクラスのいじめっ子、寝ずに完成させた渾身のレポートを鼻で笑ってちり紙のようにデスクへ放り投げた大学教授、履歴書を一瞥しただけで鼻で笑った面接官、振り向きもせずにアパートから出て行った昔の女、そして最初から彼を見ることさえない無数の顔、顔、顔……。
やがて全ての顔は掻き消え、「そいつ」の視線さえ定かではない顔が残った。視界がにじみ、彼は初めて自分が泣いていることに気づいた。
最後の力を振り絞って繰り出した拳が「そいつ」の顔面に当たり、ぺちん、と情けない音を立てた。
全力疾走していたように全身が汗まみれだった。こんなに誰かを殴ったことなど生まれて初めてだった。限界などとっくに越えていたのだ。膝から勝手に力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「もういいよ……早く殺せよ……」
生きていたいとさえ思わなかった。破壊の限りを尽くして射殺されるまで暴れてやる、そんな激憤がいっそ懐かしいくらいだった。一分一秒でも早く死にたかった。破壊された操縦席の上に、彼の涙がぽたぽたと滴り落ちた。
【――気は済んだか?】
「え……」
初めて「そいつ」の声が聞こえた。思ったより静かな声だった。
顔を上げると、まるで大気内に溶けて消えていくように「そいつ」の輪郭がぼやけていくところだった。彼にもう少し軍事知識があれば光学迷彩とわかっただろうが、彼にできたのは呆然とそれを見守るだけだった。
長い夢から覚めたように、彼ははっとして周囲を見回した――戸惑う顔や、ぽかんと口を開けた顔、あれをどう思う? というように隣の者と顔を見合わせている顔――しかし少なくとも、嘲笑う顔は見当たらなかった。
ああ、俺は――
先ほどとは別の涙を流しながら、固唾を飲んで見守っていた人々に深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました……」
「まったくだよ」と吐き捨てる声は聞こえたが、その一瞬で周囲に安堵が満ちた。警官たちは戸惑ったような顔で、降りてくるよう身振りで示した。
「はい、お疲れ様」龍一がHMDのバイザーを額の上へ跳ね上げると、夏姫が微笑みながらタオルを手渡してきた。「初の実戦テスト、大成功じゃない」
「ありがとう」龍一は汗まみれの顔を拭いた。タオルの感触が心地よい。「大成功じゃなかったらどうなったかと考えただけで肝が冷えるよ。まさかあの子たちがいるなんてな」龍一は
「確かに悪くない」龍一の心境は正直悪くないどころではなかったのだが、興奮を抑えるためわざとそう言った。照れも少々ある。「あれ一体で最新鋭のジェット戦闘機とほぼ同じ値段だって? 玩具にしては過ぎた代物だ」
「それだけの価値があると踏んだから、ご当主もGOサインを出したんだよ。
「知ってはいるけど、こんな芸当ができる奴は知らない」龍一が見たことがあるのは、人間には危険な高所で重量物を運んだり、ビス止めや溶接作業を行うようなものばかりだ(それとて相当の熟練が必要だろうが)。まるで現実の世界に顕現したゲームキャラのように、音速に近い速さで疾走し、ビルを文字通りに一またぎするような擬体など聞いたことがない。
「原型となったのは〈アヴァターラ〉遠隔作業システムだが、お前にこれから使ってもらうのはそのカスタマイズバージョンだ。超高密度・超高精度の
「〈アヴァターラ〉は深海・宇宙空間活動用に開発されたから、半端な軍用擬体よりも遥かに頑丈だ。お前に合わせてカスタマイズした結果、ガワも中身も完全に別物だが」崇が愉快そうに肩を揺する。「今のお前ならスポーツカーと徒競走をし、モーターボートに平泳ぎで追いつき、ヘリコプターを投石で叩き落とせる。名実ともにアメコミヒーローだな。ただしリモコンの」
「その代償はたっぷりと払った気がするけどな……」あまり思い出したくはないが、思い出さずにはいられなかった。何しろこのシステムを初めて試した時は、擬体の運動性能に脳の処理速度が追いつかず、盛大に胃の中のものを戻したのだ。
「痛覚までは危険すぎて再現できていないが、何の感触もないとかえって違和感があるからな。微細な電気刺激とスーツ自体の膨張によって、ある程度は触覚のフィードバックを可能にしてある」
龍一はデータグローブと一体成型のVRスーツに包まれた自分の全身をしげしげと見下ろした。「至れり尽くせりだな……」
俺の人生もずいぶんとおかしな方向に向かってしまっているものだ、とは前から思っていたが、遠隔操作で正義の味方をやる羽目になるなどと、予想の遥か斜め上だった。
「よく考えたら、いくらお前だって銃で撃たれたら死んじまうし、戦車と戦っても勝てないからな」
「もっと早く気づけよ」龍一は瞬時に突っ込んだ。あんた、それを承知で俺をトラックだのパワードスーツだのと戦わせてたんじゃなかったのかよ。
「何にせよよくやった。こいつが使い物になるってことはわかったんだ、いろいろと試したいこともあるしな」
龍一は思わず半目になってしまう。「次はどんなことをやらせるつもりなんだ?」
「まあ、おいおいとな」その含み笑いは気に入らなかった。「当面は〈オラクル〉と連動した人助けに専念してもらう」
「俺たちは国際救助隊か何かなのか?」
「人助けもする。その片手間に犯罪行為もする。まあ……マフィアや麻薬カルテルだって、孤児院や病院に寄付するだろ。あんな感じだよ」
「そうかなあ……」
「それに、全部を龍一だけでやる必要はなくなるかもよ」と夏姫。「データ収集を今後も続ければ、いずれはこの〈アヴァターラ〉を半自動で動かすこともできるかも。もちろん、安全に考慮して充分なテストが必要だけど」
「へえ、そりゃいいや。だったらそいつに任せて俺は昼寝でもしてるさ」
「残念でした。『データが集まれば』よ。当分は龍一に動かしてもらいますからね」
「お前に合わせてかりかりにチューンナップしちまったから、お前以外に動かせる奴は今んところいない。昼寝だと? 寝言は寝てから言え――いや、当分は寝る暇もないと思えよ」
龍一は盛大に溜め息を吐いた。お役御免どころか、この〈アヴァターラ〉は単に頭痛の種を増やしただけらしい。
「遠隔操作式の超高精度全身擬体か……」男は呟いた。「明らかに〈ヒュプノス〉あるいは〈HW〉への対抗措置だ」
「しかも例の〈オラクル〉の支援まで得ているとなれば、かなり厄介です」
「どうやら高塔家当主は軍拡競争をお望みらしい」男は静かに呟く。「なら、受けて立とうではないか」
傍らに立つ若い金髪の女性秘書へ向かってわずかに顔を向ける。「〈茨の冠〉の進捗状況はどうなっている?」
「生成に手間取ってはいますが、おおむね予定通りです。全体の60%というところでしょうか」
「では〈星の冠〉は?」
「それは」滑らかだった秘書の口調がわずかに陰った。「申し訳ありません、まだ20%にも満たない状態です。各分野の専門家による共同作業になる上、原料の調達からして困難な状態ですので、実際の進捗はそれ以下ということに……」
「君が謝る必要はない。予定は予定、狂うものだ」
男はわずかに顎を上げた。何かを思いついた時の癖だ。「日本で進行中のプロジェクトが幾つかあったな。あれと連動させてみるか」
「それは……はい、可能です。ですが万が一、高塔家をはじめとする〈
「予定は予定と言っただろう。彼らの力を削げれば言うことはない。〈四騎士〉の投入も考えたが、周囲への被害が大きすぎる」男の声はあくまで低い。「害されたところで全体の進行に支障はない――それに、これ以上彼らを調子づかせるのは得策ではないからな」
「かしこまりました。御心のままに、〈犯罪者たちの王〉」
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