第5話 テーセウスの船(エピローグ、1月1日)
【エピローグ】
「
「彼らには過ぎた玩具だった、という話ですわね」
「……そうだ。私にはわかっていた。何処の国の精強な軍隊でも、強大な情報機関でもない。あの2人こそが、我が悲願を為すに最大の妨害者となると。……休息の必要はない。次の案件に取りかかろう」
「御心のままに、〈
秘書が去った後、男は目を閉じ椅子に身を沈めようとした――だがすぐ身じろぎもしないまま、独り言のように口を開いた。「……君か」
まるで空間からにじみ出てきたかのように、全身白ずくめの青年がひっそりと立っていた。仕立ての良いスーツも白、ネクタイも靴も白。ただその髪と瞳だけが茶色い。
「驚かないんだね」
「今さら君の訪問を咎めるほど、私も無粋ではない」男は低い声で呟いた。「這いつくばる必要も認めないがな」
相変わらずだなあ、と青年は無邪気な、いささか無邪気すぎる声で笑った。「これでも僕はかつて神と呼ばれたこともあるんだよ? 長い長い歴史の中で本当に一瞬だったけどね。天使や妖精、悪魔や精霊と呼ばれた時期の方がもっと長かったけど」
「君が何であろうと、少なくとも神ではない。もっと別の何かだ」
「君は本当に、本当に自分の頭上に、神以外のものがいることを認めないんだね」
「少し違う。神と天だ。それ以外のものは、私の頭上には必要ない」
つまらない冗談を聞き流すかのように、男の声は低く揺るがない。
「君が真に全知であれば、私の本当に望むものが何か当ててみせろ。
君が真に全能であれば、私の本当に望むものを腸から引きずり出してみろ。
それができないのであれば――」男は急に疲労が倍になったように、目を閉じた。「私は君にかしずく必要を認めない」
青年は嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。「さすがだ。やはり君を選んだ僕の目に狂いはなかった。君ならばあの2人を殺せる――相良龍一と、瀬川夏姫を」
青年は消えた。出現と同じようにその消失は一瞬だった。人が夢に落ちる瞬間を知覚できないように。
別にどうということはない、と男は今度こそ自分以外の誰もいなくなった室内で呟いた。「地獄に落ちる前にやることが一つ、というだけだ」
訪れた黒服の男たちは、丁寧ながらも冷ややかな物腰を隠そうともしなかった。
「陸将。あなたを逮捕します。罪状は、ご承知ですね」
「……言われるまでもない」顔を強張らせる護衛たちを制し、軍服の男は深々と溜め息を吐いた。
「各〈剣会〉の方々も現在、別室にて事情聴取中です」
「君たちにはわからんだろう……これが為されるべき議論であったということを」
「核武装の是非に関する議論は幾らでもやればよろしい。議論自体は5分で終わると思いますがね。現状で日本の核武装にはメリットよりもデメリットが大きすぎる――しかも事の顛末が海外の報道機関にリークされてしまった。〈剣会〉はあらゆる意味でおしまいですよ」
「……結局、私も君たちも、あのシステムに最初から最後まで振り回されたというわけだ」
陸将は立ち上がった。「身支度する時間ぐらいはくれるだろうな?」
「どうぞ」
陸将が自らの執務室へ入ってから正確に5分後、一発の銃声が響いた。黒服の男たちは、ただ黙ってそれに聞き入った。
「……俺ぁ正月なんて寝て過ごすって決めてる類の人間なんだが、こうして見ると、初日の出ってのも悪くねえな」次第に明るくなっていく東の空を見つめながら、崇は呟いた。「朝のぴりりと冷えた空気は澄んでいて身が引き締まるし、空の色だって見ていて飽きない。……本当にもったいないよ、お前が死ぬ朝としてはな。尾樫」
崇は傍らの頭から、かぶせておいたコンビニの空き袋を乱暴に剥ぎ取った。その下から目の周りを腫らし、鼻血を垂らした尾樫の引きつった笑顔が露わになる。
「言ったじゃないか……あの小娘の前では、俺を殺さないって……」
「ああ、あれか。嘘に決まってんだろ」崇は尾樫の髪を掴んで腹に一撃食らわせ、うずくまった隙に頭上の鉄骨にかけたロープの輪を引き絞った。さらに数度ほど尾樫の尻を蹴り、がたついた木製の椅子の上に押し上げてしまう。何十回とこなしたような手際の良さだった。
「改めて聞くぜ。何でこんなことをした? いや、何で俺を裏切った?」
「お前を裏切る? お前が?」喉を締められる尾樫の顔に、毒々しい嘲笑が浮かぶ。「お前なんか最初から眼中にねえよ! 俺がハメたかったのはあのガキ一人だ! お前なんかな、あのガキのおまけなんだよ、崇!」
「そんなこったろうと思ったよ」崇の声が少し低くなったが、それ以上の変化はなかった。「誰にそう吹き込まれた? そいつの名は?」
「さあな……でも、俺がわざわざ教えなくても、お前の方が心当たりがあるんじゃないのか?」
崇は立ち上がった。「だろうな。俺の聞きたいことはそれで全部だ」
「なあ、崇、俺とお前と何が違う? ガキに犯罪の片棒を担がせてるのはお前だって同じだろ?」
「足手まといになったら見捨てるし、俺の時はそうしろとも教えたつもりだ……でもな、用済みになったら始末しようなんて夢にも思ったことはねえよ。それが俺とお前の違いだ」
尾樫は黙った。足が小刻みに震えているのが見えた。寒さとは別の種類の震えだった。崇が人生の中で何度も見てきた――見送ってきた震えだった。
「……なあ、タカちゃん、助けてくれよ……俺はまだ、やりたいことがたくさんあるんだ……何でもやる、言うことを聞くよ……だから殺さないでくれ……」
崇は一瞬、確実に何か言おうとした――その言葉を飲み込んだ。「俺が許したくてもな、許すわけにはいかないんだよ。サダちゃん」
尾樫が何かを言い返す寸前に、断ち切るように、崇は椅子を蹴り飛ばした。
目の前で揺れる尾樫の爪先が痙攣し、そして止まるまで、崇は一瞬も身じろぎしなかった。長い沈黙を挟んだ後で、ひどくのろのろとした動きでスマートフォンを取り出し、耳に当てた。数秒とかからず相手が出た。
「お久しぶりです、おじさん。……ええ、全て終わりました。位置を送信します。お手数ですが人の手配を。え? ……いいえ、あいつは立派でしたよ。泣き言なんか一言も口にせず逝きました。ええ、立派でしたよ、本当に。はい……それではそのように。では」
周囲が明るくなる中、崇は黙って、揺れる尾樫の靴先をぼんやりと眺めていた。やがて、ぽつりと言った。
「……お前の言う通りだな、龍一。こんなの、元旦からやる仕事じゃねえよ」
応急処置により止血はしたものの、龍一は全身傷だらけ――致命傷になっていないという程度の――だった。歩いて帰るなど論外な状態であり、結局、夏姫を通して滝川の運転する車で帰る羽目になった。
島崎苑子は(ようやく恐る恐る這い出てきた)フランス側のPMCと、結果的にORS唯一の生き残りになってしまったルツに付き添われて空港へ向かった。彼女はあのキリンの縫いぐるみの代わりに、奇跡的に原形をとどめていたセルーのマニピュレーターを聖遺物のように握りしめて放そうとしなかった。別れ際、彼女は龍一たちに向かって、ただ一度だけ頭を下げただけで、何も言わなかった。去っていく苑子の小さな、小さすぎる背を見て、龍一は俺のやったことは何だったんだろうと思わずにいられなかった。セルー=〈虚空〉の最後の行動に比べれば、命を救ったのかどうかさえ怪しかった。
あの白いトレーラーは現場の混乱に乗じ、姿を消していた――〈スナーク〉もろとも。〈虚空〉がどこまで〈オラクル〉と通じていたのかは想像するしかないが、自分にとって最大の障害である尾樫と真壁たちを始末したという点では満足のいく結果だったのだろう、とはうっすら思った。
結局、最後の戦場となったホテルを出る頃には夜が明けようとしていた。
「……やっぱり今年も、とんだ元旦になっちゃったわね」
夏姫の声は努めて明るく振舞おうとしているそれだった。「一眠りしたら、せめて今年はお正月らしいこと、たくさんしましょ。初詣……は混むから、三が日過ぎでもいいんじゃない? おみくじ買って、お雑煮食べて……」
声が途切れた。そちらを見なくても、彼女が肩を震わせているのがわかった。龍一は何も言わず、軽く彼女の手の甲に触れた。
雲が割れ、車内に差した光が龍一の顔を照らした。夏姫が息を呑む。
「龍一……」
「眩しいだけだ」
誰のための夜明けだろう、と龍一は思った。
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