第5話 テーセウスの船(当日、12月31日)

 ――龍一は目を覚ました。目を開けた途端に白熱した照明を直視してしまい、慌てて目をつぶる。

 ああ、そうだ俺、〈ジャバーウォッキー〉の背中から放り出されたんだっけ……襲ってくる痛みに身構えたが、意外にも痛みはそれほどではなかった。首だけ起こしてみてわかった。傷を負った手足は包帯と救急ゲルで覆われ、きちんと止血がなされている。今まで横たわっていたのは簡素な医療用ベッドで、手足を戒められている様子はない。傍らでは医療機器が微かな電子音を立て続けている。

 さてはあの後、敵にとっ捕まったか。崇や夏姫がいないということはそういうことなのだろう。結構、と龍一は考えた。俺一人を助けるために全員共倒れしていたのでは意味がないから、今頃は目的地を一直線に目指しているのだろう。あとは俺が無事に脱出できたら、言うことなしなのだが。

 上半身を起こしてみて、困惑した。ベッドの傍らに龍一のHK416が立てかけてあったのだ。手に取ってみると、弾丸も全弾装填されている。おかしな細工を施された形跡もない。

 さすがにこれは異様という気がした。いかに世界が広くともこれから尋問する捕虜に火器の携行を許可する者はいないだろう。

 敵に捕まったのではないとしたら、ではここはどこなんだ? どうもこの内装、どこかで見たような覚えがある。

 それに、先ほどから足元に伝わってくるこの振動は何だろう? 微かにだが、揺れているような気もする。もしかして走行中の車両なのだろうか?

 不意に音もなく壁の一部がスライドし、龍一より頭二つ分ほど低い影がごろごろと音を立てて入ってきた。反射的に身構えた龍一は、次の瞬間、警戒する意味さえわからなくなった。

 ボールに目鼻をつけたような、コミカルな外観の医療用ロボットだった。円筒状の胴体部からは2本の腕が伸びているが、安全を考慮してか角ばった部分はない。

 そいつは腕を左右に振った後で、底部のローラーでごろごろと移動し始めた。試しにHK416を掴んで構えてみたところ、悲しそうな顔になった。だが見せた反応はそれだけで、武器や何らかの保安機器を作動させる様子はない。

「ついて来い、ってのか……?」

 たちまちそいつの顔が嬉しそうな顔になった。龍一は溜め息を吐いて、銃口を下げた。こりゃついていかないと話が進みそうにないな、と思いながら。


【同日、午後8時15分】

 さきがけ市を目指して疾走する車列は静まり返っていた。1号車は大破、ORSメンバーの3人が死亡、相良龍一は〈ジャバーウォッキー〉と格闘の末行方不明――沈黙は陰鬱を通り越して険悪でさえあった。誰もが怒りを自分の内に溜め込んでいて、しかもそのやり場を見つけられない……そういう種類の沈黙だ。

〈機動作戦センター〉内で黙々とコンソールに向かっていた夏姫は、内耳に響く呼び出し音に少しだけ顎を上げた。同じトレーラー内にいるはずの崇からの通信だった。しかも盗聴困難なバースト通信だ。

【何?】

【お前、まさか龍一が死んだなんて思ってないだろうな?】

【死体も確認してないのに?】夏姫は鼻で笑わないようにするのに苦労した。

【奴を回収するどころか、追撃を振り切るので精一杯だったんだぞ】

 夏姫が声を低くしたのは演技ではなかった――大の男が。教え子が行方不明だからって、帰り道がわからなくなった犬みたいな声色出すんじゃないわよ。【とどめを刺す時間がなければ死ぬ時間だってないでしょう。あなたの今の仕事は何? 毛も生えそろってない小娘相手に凄むこと?】

【そこまでにしねえと、本当にその小奇麗なツラを叩き潰すぞ】

【今のあなたに凄まれたって、バスケットの中の子犬ほどにも怖くない。さっさと本題に入って】

【……尾樫を探れ。奴は何か隠してる】

 今さら、と言おうとして、夏姫は辛うじて自制した。本当に話が進まなくなる。【身内を疑い始めたら、追撃に対処するのも難しくなる。それは承知なの?】

【生きてるかどうかはともかくとして、俺たちは今、龍一を当てにできないんだぞ。奴に万が一のことがあったとして、『予定通りおつかいを済ませました』じゃ済まないんだ】

 先ほどよりは真っ当な反応を引き出せたので、夏姫は結構、と判断した。【……わかった。少し時間をちょうだい】

【2号車、報告しろ。問題はないか?】崇は今や1輌のみとなった護送車両に呼びかける。

【問題はない。何を持って問題とするか、だが】車内カメラが、陽気さが影を潜めた様子のグェン、こちらは変わらずM78狙撃銃を抱いているルツ、言葉もない様子の苑子と彼女の肩をマニピュレーターで抱いているセルー、そして「感想はお前が言え」と言わんばかりのテシクを映す。【作戦行動に支障はない】

 結構なこった、と崇はあえて気楽すぎる声を出した。【最終局面だ。もう弾薬や燃料補給の必要はない。……したくてもその余裕はないがな。このまま『ホテル・シャーウッド』まで一直線だ】

【……例の『行政特区』内にあるホテルか。ゲーテッド・コミュニティがあるのは俺の国だけじゃなかったんだな】

【あそこで問題を起こそうとする奴は警察に加え、特区内の企業や資産家お抱えのPMCまで相手にすることになる。なあなあのまあまあで運営されてるよりよっぽど真剣だぜ。フランス人たちもだからこそ会合場所に選んだんだろうが……諦めてくれると思うか? 例の部隊が】

【諦めてくれればいいな、とは思うよ】崇は自分でも信じていない口調で呟く。【これまでの執拗さから察するに望みは薄だな。来なけりゃ、奴らの方がおしまいなんだからな】

 やがて道路の前方が何かで塞がれているのが見えてきた。

【見えてきたぞ。『関所』だ】

【事前通達済みだ。速度を落とす必要はない】

 白と淡いピンク、という目に柔らかな色彩ではあったが、それは折り畳み式の半自動ゲートと武装警備員用の常駐ポストを備えていて、それが意味するところは明らかなのだった。見るからにプロ意識とテストステロンに満ちた武装警備員たちは全身から湯気を立てんばかりに検問を熱心に行っていて、足止めを食らったドライバーたちからの抗議など取り付く島もない。

 車列はほぼノーチェックで「関所」を走り抜けた。武装警備員の訝し気な視線を引き連れながらゲートを通過する。

【こいつら、いったい何から自分たちを守るつもりなんだろうな……?】

【さあなあ。一歩でも外に出たら『マッドマックス』みたいな世界が広がっているとでも思ってるんじゃないのか】

 きらびやかな街の光を見て、苑子の顔が少し生気を取り戻した。「きれい……さっきまで道路と乾いた田んぼしかなかったのに」

「……きれいだわ本当に」セルーは何やら感慨深げだった。「何もかもが滅茶苦茶になる前のムンバイ中心区みたい」

【いろんな意味で同じ日本とは思えねえなあ。コンビニもなけりゃガソリンスタンドもないし、葬儀場や老人ホーム、消費者金融の看板もないぜ】

【生活必需品はドローンで空輸、ゴミは全部地下埋め込み式のダストシュートで乾燥圧縮処理するらしい。どうするつもりなんだろうな、災害にでも見舞われたら】

 2号車のハンドルを握るグェンでさえ、目を奪われないのに苦労しているようだった。「それにしても、こんなどこもかしこも清潔で眩しい街の中で暮らすなんて、どういう気分なんですかね?」

【半導体工場の中で生きているみたいだ。落ち着かない】とテシク。

「あら案外快適かも知れないわよゴミと間違われて掃除用ロボットにダストシュートへ放り込まれなければの話だけど」

 通りは混んでいて、年末の街並みを歩く裕福そうな親子連れの姿も少なくなかった。明らかに周囲からは浮いた軍用車両とトレーラーを、暖かそうな服装の幼い男の子が目を丸くして見つめている。車内からそれを見返す苑子の顔に、表情らしきものはない。

「『ホテル・シャーウッド』まであと3キロを切りました」

【もうここまで来れば〈ジャバーウォッキー〉みたいな重戦闘兵器は投入できないだろう。狙撃や自動車爆弾の方に気をつけた方がいいかもな。ここの警備を担当するPMCの士気の高さはもう見ただろう? 火器どころか、外部からじゃナイフ一本持ち込むのだって難しいくらいだ】

【……気をつけることに関しちゃ同感だが、俺はもう一波乱あると踏んでるよ、尾樫。厳重な警備、信用できる人員……それを幾らそろえたところで、裏を掻く方法なんてごまんとあるんだからな】


 ごろごろと廊下を進んでいく医療用ロボットの後について歩きながら、龍一は首を捻っていた。やはりこの内装には見覚えがある。

 そうだ、尾樫の〈機動作戦センター〉――あのトレーラーに内装がそっくりなのだ。細部の違いや色彩――尾樫のトレーラーは黒と銀だが、こちらは白と緑を主にした明るめの塗装だ――はあったが。ということは、この足元の振動は走行音なのだろうか。

 ロボットは一つのドアの前まで龍一を導いた。尾樫のトレーラーで言えば、夏姫の送迎車が収まっていた格納庫だ。

「……ここに入れって?」

 尋ねると、ロボットはまたもや嬉しそうな顔になった。やれやれ、と龍一は肩をすくめる。ここまで来たらとことん付き合ってやるか、という気分だ。どのみちここが本当に走行中のトレーラーの中なら、そう簡単には脱出できない。それに今のところ、そこまで切羽詰まってはいない。

 一歩足を踏み入れると同時に、照明が着いた。

 龍一は息を呑んだ。

 格納庫の中央に設置されていたのは、台座に設置された金属塊だった。装甲車でも繋ぎ止められそうなチェーンと金属の爪で、幾重にも戒められている。よく目を凝らすと、それは艶のない黒一色に塗装された大型バイクだということがわかってきた。

 いや、しかしこれは――本当にバイクなのだろうか。

 まず目立つのが、機体の右側面から長槍パイクのように前方へ鋭く突き出た突起で、それは明らかに何かの実体弾を射出する砲身なのだった。

 前輪と後輪は縦にも横にも広く大きい。これだけタイヤが大きければ確かに横転はしないだろう――まともに走れるかどうかはともかく。

 バイクから砲身が突き出ているというより、砲身を走らせるために前後へタイヤをつけた、と言わんばかりの馬鹿げた造型だった。

【よく来てくれました。身体の調子はいかがですか?】

 不意に格納庫内に響いた声に、龍一は反射的に身構えた。「誰だ? どこに隠れている?」

【今の私が『何』かを説明しようとすると、非常に難しいのですが】柔らかな妙齢の女性の声は、少し困ったようだった。【隠れているわけではありません。今目にしているトレーラー自体が『私』ですし、ここまであなたを連れてきたのは私の『端末』です】

 目の前のロボットがまたも愛嬌たっぷりに手を振る。

 同時に、龍一はその声に聞き覚えがあることに気づいた。彼の知っている彼女の声よりずっと落ち着いてはいたし、センテンスごとの発音も滑らかだが、間違いない。

「…………セルー?」

 龍一は、実は自分はまだ気絶していて、今はまだ夢の続きなのではないかと本気で疑い始めた。敵に捕まったと思ったらトレーラーに話しかけられて、しかもその声が自分の知っている少女にそっくりだなんて。


【同日、午後9時】

「年末だから仕方ないですが……進みませんね」

 グェンの苛立ちを隠せない口調は、その場の全員の心情を代弁していた。

【これ、警察車両扱いなんだろ? 赤色灯でも出したらどうだ?】

【あいにくと持ってはいないし、持っていたって使えん。PMCが赤色灯付けて走り回るなんて、特区内警察の面目を完全に潰すことになるからな。さすがに親父もそこまで甘くはしてくれなかった】

【まあ、こんな戦争できそうな重火器を特区内に持ち込んでいる時点で面目も何もないと思うけどね……】

「……ね、セルーお姉ちゃん」苑子が小声で、何かに気づいたように言った。「これ……」

【どうしたの?】

「ソノコ待ってナツキに見えるよう、そうカメラの方に向けて」

 彼女が抱き締めていたキリンのぬいぐるみ、その目に使われている球系のビーズがぶつけたのだろう、衝撃で割れている。中空になっており、中に何かが入っているようだ。

 セルーのマニピュレーターが卵を掴むより注意深く何かを取り出す。「……何かの記録素子みたい」

【もしかして……苑子ちゃんのお父さんがこれを隠したの?】

「……たぶん、そうだと思う。お父さんが死ぬ何日か前、『何があってもこのぬいぐるみを持っているんだ』って言ってたから。すごく怖い顔で……」

 なんてこったい、と崇が天を仰ぐような調子で言った。【俺たちゃ、奴らにとっての金玉を後生大事に抱えて逃げてたってわけかよ】

【じゃ、この中の情報さえ公開すれば……】

【…………それじゃ、足りねえんだよ】

 いつになく陰気な尾樫の声に、湧きかけた車内が静まり返った。

【どういうこった? そもそも、これのおかげであいつらは血眼で娘っ子を追いかけ回してたんじゃなかったのか? そうじゃないんだったら、てめえが持ち込んできた前提そのものが怪しくなるんだぞ、わかってんのか?】

【……それがわかっても、お前には終点まで付き合う以外道はないよな?】

 映像こそ送られてこなくても、崇の顔色が変わる音まで聞こえてくるようだった。【尾樫、てめえ!】

【ちょっと、何してんのよ二人とも!】

【そう慌てんなよ、。目的地はもう目と鼻の先なんだ、到着したら洗いざらい教えてやるよ。もっとも、無事到着できればの話だけどな……】

 不意に――その場にいる全員の頭上に、

 道行く人々や前後左右のドライバーたちでさえ、凍り付いたような顔つきで頭上を見上げている。街の光さえ遮る巨大な何かが頭上に出現したのだ。

【嘘でしょ……】

 数機のヘリにワイヤーで吊り下げられた〈ジャバーウォッキー〉の巨体が、広告用のアドバルーンのように、音もなく数十メートル頭上に浮いていた。

【退避しろ!】

 我に返って尾樫が叫ぶのと、爆砕ボルトによって〈ジャバーウォッキー〉の機体からワイヤーが切り離されるのとでは、ほぼ同時だった。


【同時刻】

「…………セルー?」

【正確には私は、セルー・マクドナルド本人ではありません。現在の私はヒューマン・リンクAIの一系統であり、彼女の運動・言語中枢のほとんどを代替わりしている存在です。もっともセルーがいない私は外界への制御手段が極めて制限される以上、彼女と私の境界を『どこからどこまで』と切り分けることは極めて困難ですが】

 やっぱりこれは夢か、さもなければ徹底的に手の込んだ冗談ではないのか、と龍一は思った。一昔前に比べればずっと身近になったAIだが、少なくとも龍一の知るそれは不自然さや機械臭さ、型にはまった単調さから自由ではなかった。だが今こうして話しかけてくる『これ』はどうだろう――ほとんど人間と変わらない自然さだ。

【セルーがムンバイの化学兵器テロで脳に負った障害は、おそらくあなたたちが考えているよりもずっと重篤なものでした。言わば私とセルーは互いに求め合ったのです――セルーはまともに動く身体を、私は外界への影響力を。病院のスタッフたちはセルーの回復スピードに驚嘆していましたが。もちろん、ほぼ白紙状態であった運動・言語中枢にもう一度歩き方と喋り方を刻みつけていくような過酷なリハビリを耐え、なおかつあの『玉座』の制御に成功した彼女の意志の力があればこその話ですが】

 眩暈に似た感覚を、龍一は頭を振り払って追い払おうとした。「待てよ、わからないことはまだまだあるぞ。君がセルーとほぼ一心同体の存在だとして、例の自衛軍ブラックオペレーション部隊が俺たちを襲ってきたのは何だったんだ? あの子……島崎苑子を殺すことじゃなかったのか?」

【それはブラックオペレーション上層部の思惑であり、統合自衛軍・特殊装備運用小隊の目的はセルーと私の本体、双方の確保です。かの部隊があなたたちを執拗に追うのは、上層部からの命令と自分たちの思惑が偶然にも一致したからに他なりません】

「……あいつらが上層部とは別の意図で動いているって?」

【自衛軍に所属する部隊だからといって、日本国のために働いているとは限らない、というだけの話です】

「そもそも君は……君と呼んでいいのかは知らないが、どうしてそこまで国内情勢に詳しいんだ? 君の製造元はインドなんだろう?」

【私はあなたのよく知る存在のサブシステムとして設計されました】

「それは?」

【〈虚空〉とあなたがたが呼ぶ犯罪予測システムです。〈虚空〉と私の間は量子通信によるリアルタイムでの情報共有が行われており、妨害は困難です】

 頭がぐらぐらする。医療用ロボットが(不安そうな表情で)差し出してくる飲料水のチューブを龍一はやんわりと押し返したが、そうするのがやっとだった。

【納得できないということでしたら、私は何時間でも何日でもお付き合いできます――隠す必要もないことですから。ですが、そこまでの余裕がないのはあなたの方ではありませんか?】

 何とも言えない敗北感が、口の中に苦い唾となってせり上がってきた。「彼女」はその気になればいくらでも自説を補強するための証拠を提示できる上に、龍一の方にはそれを確かめる手段が何一つない。

 それに、追手の側に当初の目標を諦める理由が何一つないのも確かだった。彼らもまた必死なのだ。

「……選択の余地はないってわけか」

【お望みとあれば、私はあなたにセルーたちへ追いつくための手段を惜しみなく提供いたします。セルーがかの部隊に確保されることは、私の半身を押さえるも同然ですから。あなたが目の前の市街戦用特殊二輪――識別名〈スナーク〉に搭乗経験がなかったとしても問題はありません。私はヒューマン・リンクAIの一系統ですから】


【同日、午後9時15分】

「回避しろ!」という尾樫の叫びは半ば反射的なものだったが、現実的でもあった。決死の形相で運転席のグェンがアクセルを踏み込み、周囲の車を容赦なく押しのけてSUVを前進させる。当然、愛車に盛大な傷やへこみを作られた周囲のドライバーからは悲鳴や罵声が上がるが、それも上空の〈ジャバーウォッキー〉の巨体が降下してくるまでのことだった。

 夜の表通りが文字通り激震した。不運にも〈ジャバーウォッキー〉の下敷きになった車両が空き缶のように容易く潰れ、金属のひしゃげる不快な音ともっと柔らかいものが潰れる音が重なり合う。爆発したように四方へ逃げ惑う人々の中央で、四肢を踏みしめる奇形の竜のような〈ジャバーウォッキー〉が大きく身をもたげた。

 2号車を先頭にトレーラーが走り出す。だが〈ジャバーウォッキー〉も周囲の車をミニカーのように蹴散らしながら突進を始めた。しかもかなり早い。

「どうするんです、ボス! 『ホテル・シャーウッド』はもう目の前なのに、このままじゃあいつを引きつけちまいますよ!」

【だからって停まっていたら踏み潰されるだけだ! いいから走れ!】

「その方がいいだろうな。あのデカブツを一撃で仕留められるような大火力の兵器は手持ちにないぞ」

【セルー、電子欺瞞を実行して! 少しでも時間と距離を稼ぐわよ! ……セルー?】

「夏姫お姉ちゃん、セルーお姉ちゃんが……!」

【どうしたの!?】

 夏姫が室内カメラで観たのは、首の骨が折れんばかりに顔をのけ反らせ、口から泡を吹いているセルーだった。

【くそ、発作が出やがった……!】

「いつもあることなのか!?」

【こんなにひどいのは初めて見る! 間が悪いったらねえ……!】

【苑子ちゃん、舌を噛まないようセルーの口に何か噛ませて! 布なら何でもいい!】

「う、うん……ごめん、お姉ちゃん!」決死の形相で苑子は自分の上着をセルーの口元に巻き付けていく。

【見えた、あの角を曲がれ! 後は直線すれば『ホテル・シャーウッド』だ!】

 2号車がタイヤを軋らせてカーブを曲がり、やや遅れてトレーラーが続く――続こうとした時、

 まるで竜の顎のように〈ジャバーウォッキー〉の頭部がぱっくりと割れた。

【あ、ちょっと】夏姫の焦りを通り越して平板になってしまった声。【これ、かなりまずい感じの……】

 頭部に内蔵された砲口からが放たれた。

 大きく角を曲がったトレーラーの後部を、その「何か」が貫通した。まるで巨大な顎に噛み裂かれたように、対爆構造のはずの後部コンテナがえぐり取られる。

【うっそでしょ……なんて!】

「戦車砲とは比較にならない柔軟性――市街戦運用を前提とした装備だ」

【タイヤが完全にバーストした! 何かに掴まれ!】

 その場の全員にとって不幸なことに、制御を失って大きく蛇行するトレーラーの前方には必死で走る2号車があった。まるでビリヤードのように2号車を跳ね飛ばし、自らも暴れ牛のように突っ込んでいく。

 ホテル正門のドアマンや警備員が血相変えて逃げ惑う中、1両のSUVと1台のトレーラーはもつれるようになってタイヤから白煙を上げながら、『ホテル・シャーウッド』のロビー……最後の決戦の舞台へと雪崩れ込んでいった。


 滑るような、という形容がそのまま当てはまるような走行だった。龍一はバイクを駆りながら――〈スナーク〉と呼称されていたあの異形のバイクだ――ひたすら驚嘆するしかなかった。

 あの不格好なほど巨大な前後のタイヤは、いかなる路面でも完全なグリップを約束するインテリジェントスマートフォーム製だった。マシュマロのように柔らかく弾力のあるタイヤがいかなる路面でも踏破する能力をバイクに与え、限定的ではあるが登攀能力まで有している、というのが〈虚空〉の説明だった(バイクで崖登りする状況など、龍一は考えたくもなかったが)。

 何しろどれだけバイクを激しく傾けても、転倒の素振りすら見せずスムーズに走り続けるのだ。45°どころかそれ以上傾けても平然と走り続けるのではないか――と疑いたくなってきた。しかも時速200キロ以上、新幹線に匹敵するスピードでだ。

 もちろん、龍一のテクニックでできる芸当ではない。すごいのはバイクだ。

「……つまりあの部隊は、最初から君――と呼んでいいのかわからんが、君を確保するために動いていたのか」

【はい。かの『統合自衛軍・特殊装備運用小隊』――そしてその部隊長であるかべとし大佐は、あなたがたもご存知の通りブラックオペレーション部隊であり、同時に自衛軍唯一のAでもありました】

 龍一はヘルメットの中で眉根を寄せた。また知らない単語だ。「……何だって?」

【暗殺・破壊工作と同程度にかの部隊の任務で比重が高かったのは、海外でのAI技術に関するブラックオペレーションでした。AI研究において既に中国から大きく引き離されている日本にとって、同盟国・非同盟国を問わず海外の優秀なAI技術の奪取やその技術者の誘拐・暗殺・洗脳といった非合法手段に頼らざるをえなかったのです】

「国を挙げての山賊業務か……ひどい話だな」考えれば警視庁とて尾樫のような存在とずぶずぶなのだから、自衛軍が似たような部隊を抱えているなどおかしさの範疇にすら入らない、とは言えるかも知れない。「それじゃ君は、その――日本製じゃないのか」

【はい。筐体その他の雑多な部品はともかく、私のアーキテクチャ及びOSを設計したのはムンバイの〈バガウァット・ギータ〉国営先端技術研究センターです】

 新幹線に迫るスピードで走る〈スナーク〉がまるで危なげない滑らかさで長距離輸送トラックを数台まとめて追い越した。目を丸くしている運転手の表情が見る間に遠ざかっていく。

【私は犯罪予測システム構築の前段階として、海外でのブラックオペレーションを支援してきました。当然、その非合法手段やそれによって得られた機密情報もアーカイブ化してあります。彼らは目的のためならどのような手段でも講じます――本当にどんな手でも。私は真壁大佐が技術者から機密情報を得るため、彼の一人娘の顔面をピアノ線でそぎ落とす様を記録しました。父親は何もかも喋りました】

 運転中なのに龍一は目を堅くつぶりそうになった。「なんてこった」

【かの部隊が私の原型を奪取できたのは、彼らの隠密性もありますが内部からの手引きもあったからです。インド国軍の一部には、インドが従来の核戦略を捨ててより柔軟なAIを中心とした国家戦略に進むことを快く思わない勢力がありました。つけ入る隙があった、ということです。研究所への侵入には成功しましたが、部隊は発見されセキュリティチームとの銃撃戦に発展しました。死体すら残しておけないような任務です。テロ組織による化学兵器の散布、という欺瞞情報を流布するしかありませんでした】

「よりによって、そこへつながるのか!」

 晴天の霹靂ではあったが、驚いてばかりもいられなかった。「まだわからないことがあるぞ。あの濡れ仕事部隊に指示を出していたのは結局誰なんだ? それが君とどう結びつく?」

【……その説明をする前に、突破すべき問題がありますね】

「?」

 きらびやかな街の光の前方、市街地中心部から夜目にもわかる爆炎と、無数の赤色灯がちらちら見えている。

【見えますね? あなたがたの最終目的地『ホテル・シャーウッド』付近です】

「もうおっぱじめているのか。まあ当然だな」

【はい。でなければ彼らの方がおしまいですから。セルーを確保すれば、私が否応なく現れざるをえなくなると考えたのでしょう】

 バイクが龍一のヘルメットに直接投影してくる戦闘情報が一挙に増えた。白とピンクからなる障壁とその前後を行き来する武装警備員、そして視界中央の照準。

「……もしかしてこれを撃てってことか?」

【説得の時間はありませんから】

 収納されていた砲身が前方へ鋭く突き出る。

「君が勝手に排除してはくれないんだな」

【私はヒューマン・リンクAIの一系統であり、人間の許可なき戦闘行為は禁じられていますので】

「……引き金を引くのはあくまで人間様ってわけか」

 ままよ、と龍一はグリップ内の兵装選択スイッチに指をかける。


 猛スピードで正面玄関に突っ込んだ2号車と、それを追うように乗り上げたトレーラーによって、『ホテル・シャーウッド』のロビーは空爆でも受けたような有様になっていた。2号車はカウンター横の洒落たカフェに突入してあらゆるテーブルと椅子を薙ぎ倒して止まり、トレーラーはロビーの大柱に追突して停車している。死者が一人もいないのが奇跡に思えるほどの惨状だ。

「警察だ! 前を空けろ! ……死にたくなかったら隠れていろ!」

『ホテル・シャーウッド』の正面玄関に突っ込んだトレーラーから降りた尾樫が頭の出血を拭おうともせず、鬼の形相で叱咤する。重火器を手にした男たちが「警察だ」もないものだが、警備員やドアマンたちは一言も文句を言わず従った。

「ありったけの火器を下ろせ! 最後の猛攻ウェーブが来るぞ!」

「ねえ、誰かこっちも手伝ってよ! セルーに舌を噛ませるつもり!?」

 スカートの裾をからげるようにして2号車に走り寄った夏姫は、苑子と2人がかりでセルーの『玉座』を降ろそうとするが、大きさと重量で上手くいかない。悪戦苦闘している間に見かねたらしいルツが駆け寄ってきた。「背面のスイッチを切れ。手動で動かせるようになる」

「ありがとう。……それにしても、あなたそんなに喋れる人だったのね」

 少しの間、彼女は沈黙した。「エマが生きていた間は、私の代わりに喋ってくれたからな」

「……ごめんなさい」

「いいさ。今は生きている者のことを考えよう」

「苑子ちゃんもよくやったわ。それにしてもセルー、?」

「こんなにひどい発作は初めてだ。脳の処理能力を別の何かに割り振っているのか?」

 夏姫はセルーの額に浮いた汗をハンカチで拭いた。「2人とも手伝って。まずは邪魔者を何とかしないと」

 龍一がいれば、という言葉を夏姫はぐっと堪えた。――ないものねだりをしても始まらない。


 カウンターの影に隠れ、無線機を操作していたグェンが絶望的な表情でかぶりを振った。「警視庁舎襲撃の余波が後を引いているんでしょう、とてもこちらに回す余力はないそうです」

 だろうな、と尾樫は悟り切ったように呟いた。「フランス人たちは?」

「身の安全が確保されるまで、階下には降りられないと」

「違いないな」崇が憂鬱に吐き捨てる。「十人来れば十人、百人来れば百人やられるだけだ」

 崇や生き残りのORSメンバーが見守る中、〈ジャバーウォッキー〉の側面装甲がウィングドアのように大きく展開し、中から3体、異様に身体の各部が膨れ上がった影がロープで降下してきた。

「あいつ、兵員輸送までこなせるのか……何でもありだな」

「戦車と兵員輸送ヘリと自走榴弾砲を合成できないかってコンセプトで作られた代物らしいが、それにしてもむちゃくちゃだ……」

 路面に降り立ち、油断なく周囲を睥睨しているのは潜水服のようにも見える戦闘用強化外骨格だった。右腕にアタッチメントで大口径の重機関銃を装着している。シルエット自体は辛うじて人型に見えないこともなかったが――何より異様なのは、背中から蛇腹にも似た伸縮自在のケーブルが数本、別の生物のようにうねうねと生えていることだった。

「身体機能強化のみの第1世代、防弾機能付きの第2世代に続く『2.5世代型強化外骨格』の話は聞いたことがある。あいつか」

「〈スキュラ〉だ。背中のあれは近接戦用、人工筋肉性の伸縮アームだな。今こんなところで出くわすとは思わなかったが」

「あのがどう役に立つのかは知らんが……何とかしねえと、俺たちが新型装備のになっちまうぞ」


【同時刻】

 龍一が〈スナーク〉のグリップに内蔵されたトリガーを引いた瞬間。バイクの揺れは微かなものだったが、もたらされた結果は絶大だった。

 音も光もなしに、前方に立ち塞がる白とピンクのゲートが大きくえぐり取られた。トレーラーがそっくり通り抜けられるような大穴を〈スナーク〉は一瞬でくぐり抜け、凍り付いたような表情の武装警備員たちがそれを見送った。

「…………俺、今何をやったんだ?」

【〈ジャバーウォッキー〉に搭載されているものと同タイプの電磁加速砲です。けが人は出なかったのですから完璧パーフェクトでしょう。我ながら】

「もっと早く教えてくれよ!」

【聞かれませんでしたから】

 龍一はヘルメットの中で盛大に溜め息を吐きたくなった。このAI、微妙なところで我が強い。

「なあ、さっきの〈ジャバーウォッキー〉とこのバイクが『姉妹機』って話……いや、そもそも君が――〈虚空〉がインドで開発されていたって話なんだが」

【それは、あなたの仲間が今にも襲撃を受けているという事実よりも重要な事項ですか?】

「同じくらい重要だね。女の子の命がかかっているとなればなおさらだ」

【――わかりました。ただし、私には自らが知る情報の真偽を判断する機能はありません】

「それでいい」

【要約すれば、日本・米国、そしてインドの『同床異夢』が事態をいたずらに複雑化させた、ということになるのでしょうか。自前の核とAIを保有したい日本、日本核武装化の推進と並行して日本国内のAIに『紐付け』しておきたい米国、そしてブラックオペレーションにより自国開発AIを奪取されたことに怒りその証拠を突き付けようとするインド。件の真壁大佐隷下の小隊は、その混乱に乗じて核機密データと『私』の双方を入手しようとしていました。事実、それは途中までは上手くいっていました。日本政府内の『剣会』は、小隊が自分たちの命令通りに動いていると信じ込んでいましたから】

「自衛軍の暗部をオペレートしていた君の一部が『虚空』に組み込まれた理由は?」

【それはあまり重要なファクターではありません。『使えそうだから使う』という現場の判断でしょう。私と同時期に開発されていた犯罪予測AIは、いずれも警視庁の要求していた性能を遥かに下回っていましたから】

 惨い話だ。ものづくり日本の栄光よ今何処、か。

【もっとも真壁大佐にとっては、使うかどうかわからない核よりも〈ジャバーウォッキー〉の方を遥かに活用していたようですが。を差し引いても恐ろしい威力ですから】

「……今何て言った?」

【まだ説明していませんでしたか。あれは核搭載を前提とした機体なのです。いちおう、人が乗っていないということにはなっていますから】

「核爆弾抱えて特攻するために作られたのかよ……セルーはその話にどこまで関わってくるんだ?」

【推測ですが、ほぼインド政府の思惑で動いています。それもAI推進派の――核推進派の謀略を暴き、さらにそれと結託する日本のブラックオペレーションに大打撃を与える上で彼女の電子戦能力は最適と判断されたのでしょう】

「女の子一人に左右されるブラックオペレーションか」

 そこまで言って、龍一は自分の言葉に何か冷やりとするものを感じた。〈虚空〉の言葉から浮かび上がってくる、今まで龍一が漠然と信じていたものとはまるで異なる世界地図もだが、そのさらに背後で蠢く「目覚めた」AI群をひどく不気味に感じたのだ。

【見えてきました。『ホテル・シャーウッド』です】

「ああ……俺にも見えてきたよ。始まっているみたいだな」

 大晦日の特区内は控えめに言っても大混乱に陥っていて、夜空を焦がして燃えるビルや横転した車が目につき始めた。


【同日、午後9時25分】

 背中から触手にも似た伸縮アームを生やした3体の〈スキュラ〉は、勝者の余裕で悠然とホテルのロビーを前進していた。階段の踊り場から崇とテシク、ドライバーのグェンや尾樫までもが必死の形相でHK416を発砲はしているが、装甲の表面に当たって虚しく火花を散らすのみだ。返礼とばかりに12.7ミリ機銃弾の猛打を浴び、崇たちはさらに追い詰められつつあった。距離が縮まるにつれ、反撃すら難しくなってきている。

「奴らの戦術ネットには侵入できないのか!? 火力じゃ勝負にならんし、あの連携だけでも崩せなけりゃ勝ち目はないぞ!」

【やってるわよ!】耳を聾する轟音と破砕音で、数メートルの距離でも無線なしでは声が聞き取れない。【プロテクトが堅すぎてどうにもならないの。何か取っ掛かりでもないと無理!】

「このままだと取っ掛かりとやらを見つける代わりに全員が殺されるぞ!」

〈スキュラ〉の一体がバックパックから円筒を射出した。圧縮空気で撃ち出されたそれは、空中で炸裂し無数のペレットを巻き散らした。カウンターが穴だらけになり、内側に隠れていたドアマンや警備員たちが蜂の巣になる。

「背中にアンテナ生やしてる奴がいるな。たぶん指揮官機だ――強装弾をありったけ撃って、注意を引きつけろ」手摺の影にしゃがみ込んだテシクが早口で呟く。「5秒生きていれば、あいつを何とかしてやる」

 崇が目だけを向ける。「できるのか」

「やれるさ」

「その言葉信じるぜ……撃て!」

 小銃だけでなく重機関銃まで交えた銃火が〈スキュラ〉に集中した。やや前進が鈍った〈スキュラ〉指揮官機に、テシクの構えたランチャーから対装甲ミサイルが一直線に飛ぶ。

 だがそれをかばい、前方の一機がミサイルの軌道上に躍り出た。ミサイルの直撃した〈スキュラ〉は火の玉となって燃え上がったが、かばわれた指揮官機は無傷だ。

「下がれ!」

 崇は発煙グレネードのピンを抜いて階下へ投擲した。立ち込める白煙の中を貫き、伸縮アームが音もなく伸びる。尾樫は辛うじて姿勢を低くしていたため無事だったが、不運にも立ち上がろうとしたグェンが頭部を一撃された。首から上が血煙となって焼失する。

「……!」

 今度こそ何の遮蔽もなく、黒光りする銃口が崇たちに向けられる。

 じゃあっ、と硬質な音が響いた。天井にぶら下がっていた豪華なシャンデリア、それを吊り下げる鎖を操作するモーターに、夏姫は直接介入したのだ。敵の戦術ネットには侵入できなくとも、周りの機器にならばできる。

 伸縮アームが一閃され落下してくるシャンデリアを真っ二つにしたが、直撃は避けられても降りかかるガラスからは逃れられなかった。〈スキュラ〉が大量のガラスの瀑布を浴びてよろめきながらも重機関銃を構え直そうとする。

 だがそれこそが夏姫の求めた隙だった。【全員、頭を下げて!】

 ミサイルの直撃を受け未だ黒煙を上げている〈スキュラ〉の残骸が動いた。腕が持ち上がりマウントされていた重機関銃が友軍機に向けて銃弾を吐き出す。背面に直撃を受けた一機がバックパックを破壊されてよろめく。ここを勝機とばかりに崇、尾樫、テシクがありったけの火力を叩きつけた。フェイスガードを砕かれた〈スキュラ〉が血を吐き出してがっくりと力尽きた。重機関銃はなおも指揮官機に向けて発砲しようとしたがその前に銃弾が尽きた。獣の牙のように撃鉄ががちがちと空転する。

「たたみかけろ! 残りは親玉だけだ!」

 崇の叱咤を、咆哮のような〈ジャバーウォッキー〉の駆動音がかき消した。

 大質量の何かが『ホテル・シャーウッド』の外壁を貫通し、右から左へと抜けた。電磁加速された砲弾が粘土のようにロビーの階段を破砕し、崇たちがピンボールのようにひとたまりもなく投げ出される。

 竜のように〈ジャバーウォッキー〉が鎌首をもたげ、必死で頭をかばっていた夏姫と苑子とルツに砲口を向けた。

「……あ、これちょっとまずいかも」

 大質量の何かが〈ジャバーウォッキー〉の首を貫通し、右から左へと抜けた。破片と潤滑剤を巻き散らして、巨竜のごときシルエットがどうとホテルに向けて倒れ込んだ。

 窓ガラスを突き破り、龍一の〈スナーク〉がロビーに踊り込んだ。

「……勝負!」

 重機関銃を向けようとする指揮官機の顔面をバイクの巨大なタイヤが直撃した。突き進む勢いのままに横断し、〈スキュラ〉を反対側の壁面へ叩きつける。

 瓦礫の山から這う這うの体で身を起こしたテシクが苦笑する。「あいつ、おいしいところを全部持っていったな」

「龍一! 無事だったの!? それにその……かっこいいバイクどうしたの?」

「まあいいじゃないか! おかげで助かったぜ、坊っちゃん!」ぼろぼろになってしまったスーツの端を引きずりながら、尾樫が満面の笑みを浮かべて身を起こした。「その調子で、そいつにもとどめを刺しちまえよ」

「……尾樫さん、そろそろ臭い芝居はやめたらどうだい? でないと……」龍一は階段の下に転がっているグェンの首のない死体と、黒煙を上げている〈スキュラ〉を見つめながら言った。「何も知らず、最後まで戦って死んだあんたの部下も浮かばれないだろう」

「何を言ってるのかわからないぜ、坊っちゃん。まあ、興奮しているのはわかったが……」

「へえ? じゃあこいつはどういうことなのか説明してくれよ。興奮して頭に血が昇っている俺にもわかるようにさ!」

 龍一はスマートフォンを操作し、その場にいる者たちのスペックスへ向けて送信した。スペックスを装着していない苑子とセルーを除く全員が声にならない呻き声を上げる。

 バイクもろとも壁にめり込んでいた〈スキュラ〉のハッチが軋みながら開き、中から耐衝撃スーツを着た男が呻きながら這い出てきた。立ち上がろうとしたが果たせず、その場で膝を着く。龍一が全員に送った画像に映っていた男だ。何とも劇的なタイミングだった。

 会合の写真だった――向かい合って何かを話し合っている真壁と尾樫の。

「あんたと向かい合っているこの男、そこのナントカ小隊の隊長なんだろう? トリックなんて詰まらない言い訳はよしてくれよ。電子通貨での支払い記録もおまけに付けておこうか? 一杯720円のコーヒーなんて、高級志向なんだな」

「――運がなかったんだよ、死んだ奴はな」

 鼻から吐き出すような口調で、尾樫は口を開いた。不貞腐れた子供のような顔つきだった。「殺す気でかかるってのがそいつとの約定だった。でないと、命のやり取りで食ってるお前らは騙せないからな」

 崇が愕然とした顔を上げる。「尾樫、お前……」

 ルツがM76を掴んで進み出た――見たこともないような憤怒の形相で。「聞かせてもらおうか、ボス。どんな説明をするつもりなんだ? 死んだグェンや晃、エマに……どう言い訳するつもりなんだ?」

 つまらない冗談を聞いたように尾樫は噴いた。「粋がるなよ、くだらん過去とくだらん銃にこだわる女が」

 怒りのあまり顔を蒼白にしたルツを、左右から夏姫と苑子が静止した。

「日本人に核が扱えるなんて米国防総省ペンタゴンのお偉方は本気で信じちゃいないさ――危なっかしくって仕方がないからな。必要なのは情報だ……誰がそれを望み、誰がそれを決定する立場にあり、そして実際に作れるとしたらいつ、どこで、どうやってか。そして日本人が万が一、自分たちに物騒なの切っ先を向ける気になったらどいつから排除すればいいか……それさえわかれば、芯を通すも骨抜きにするも思いのままだ。未来永劫、骨までしゃぶれる」

「……苑子の父親は、それで消されたのか」

「仕事には熱心でも根回しまでは気が回らない、実に日本的な仕事中毒者ワーカホリックだったからな。おかげで家族もろとも消すしかなかった」

 苑子は唇を震わせている。話の仔細はわからなくても、自分たちのことを話されていると察したのだろう。

「核と〈ジャバーウォッキー〉、それにセルーを手元に揃える、それが狙いか」

「頭の中に並列プロセッサを持った女と、できればその本体もな。戦争だろうが金儲けだろうが、阿呆みたいに金が稼げるだろうが。……もう一つ言うとな、何で俺が功も素直にべらべら喋ると思う?」

「さあな」

「隠す必要もなくなったからだよ。……おいお前ら、交渉は決裂だとさ!」

 見計らったように、黒のバラクラバと艶のない防弾スーツで全身を覆った影たちが殺到する。龍一と、苑子と――そして尾樫に。

 拳と、蹴りと、銃弾と、そして刃が交差した。鉈のように重く鋭い蹴りを龍一は辛うじて交わし、振り下ろされた黒塗りの刃をルツがM76の銃身で受け止め、そして尾樫が――振り下ろされた刃で腕を切り裂かれて呻いた。

「なぜだ!?」

 呆れ果てたように崇が首を振る。「なぜ、って疑問が出てくるのがどうして出てくるのか知りてえよ」

「だからどうしてだよ!?」

「ブラックオペレーションの証人なんて一人でも少ない方がいいに決まってるだろ……サツと軍のパイプ役なんて真っ先にお役御免だろうが。そういうとこだぜ、よ」

 取り回しの効かないHK416を捨ててテシクがグロックを抜き、続けざまに撃つ。数発が肩をえぐり、腹に命中したが突進が止まらない。何らかの身体強化だろうか。

 グロックとは違う銃声が響き、セルーの頭部の一部が弾け飛んだ。

「……!?」

 駆け寄ろうとした夏姫と苑子が硬直する。身を起こしたセルーの頭部からこぼれ落ちているのは――そこに見える輝きは、明らかに生身のものではなかった。

「……俺の狙いは、最初からその餓鬼一人だった」

 紫煙を上げるSIGP220の銃口の向こう、這いつくばったままの真壁が唸る――頭皮をずるりと剥がれ落としながら。

「あの作戦で俺のキャリアは台無しだ……部下の大半を失った上に、。これ以上の屈辱があるか……!?」

 

「予想には斜め下ってもんがあるな……」言葉もないという表情で崇はかぶりを振る。「こいつ、私怨で濡れ仕事部隊を動かしやがった。それも自分の失敗を棚に上げて……」

「ほざくな。どいつもこいつも死ねばいい。戦争屋も、守られるしか能のない餓鬼も、汚れ仕事を俺たちに押しつけるしかない政治屋どもも……!」

 突き出される刃を崇が必死の形相で交わし、テシクが襲撃者の顔面にグロックの銃口を押しつけるようにして立て続けに撃つ。転がりながらもM87を保持したルツが横たわる〈スキュラ〉の給弾ベルトを撃ち、バックパックが炸裂して傍らの襲撃者をずたずたに引き裂いた。

 そして真壁の震える銃口が持ち上がる。その先にいるのは夏姫か、苑子か――見定めている隙も、またその必要もなかった。

 ああ、あの感覚だ。棒やトンファーが己の手足の延長と化したようなあの懐かしい感覚。

 

 龍一はトリガーを立て続けに引き絞った。金色の薬莢が飛び、リアサイトの向こうで銃弾を受けた真壁の頭部が撥ね、熟れすぎた果実のように砕け散った。

「……終わったか」耳の痛くなるような静寂が訪れた後、口を開いたのはやはり崇だった。

「……ああ。たぶんな」龍一はたった今撃ち殺した男の亡骸を見下ろしながら呟いた。トリガーを引いた瞬間にあったのは怒りでも罪悪感でもなく、ただの義務感のみだったと思いながら。この男にも当然あったに違いない、今に相応しくない過去や家族の有無、そして生きていれば知ることができたかも知れない美点や人間的な魅力も何一つ知ることはできなかった。じゃあどうすればよかったんだ? 穏やかな言葉で話しかければよかったのか?

「こいつはどうする」テシクが呆然自失している尾樫に向けて顎をしゃくる。

「さあな。いっそのこと、そっちの嬢ちゃんに決めさせるってのはどうだ?」

 崇の言葉に全員がぎょっとしたが、誰かが何かを言う前に苑子は決然とした、決然としすぎている顔で首を振った。「その人を、私の見えないところに連れて行って。それでいい」

 崇がその言葉を吟味するような顔になった。「それでいいのかい」

「別に許したわけじゃない。でももううんざり」

「もっともだ」崇は懐からプラスチック製の拘束カフを取り出し、尾樫が抵抗する間もないほどの素早さで縛り上げてしまった。「さ、そろそろフランス人どもも降りてくるか……」

 全員が立っていられなくなるほどの振動が『ホテル・シャーウッド』を揺るがした。どうにか受け身を取って顔を上げた龍一は、転倒していた〈ジャバーウォッキー〉がその巨体をじりじりと壁から引き離しているのを見た。

「まだ動けるのか、あのくたばり損ないが……」

【ご心配なく。そろそろ、時間が来たようですね】

 場にそぐわない涼やかな――そして聞き覚えのある電子音声に龍一は目を見開いた。

『玉座』ごとセルーが身を起こしていた。頭部から鈍い金属の輝きと、血とも栄養剤ともつかないものをこぼれ落としながら。

 夏姫が信じられないような顔をする。「セルー、あなた……その声……?」

【ああ、時間が来たのはこの肉体も同様のようです――彼女も本望でしょう。自分の半身を奪った男の死は見届けましたから】

 涼やかでイントネーションにも危ういところのまるでない電子音声は、セルーのものではあったが、セルーだけのものではなかった。【その前に、もう一つやることがありますね。あれをご覧ください】

 破砕した〈ジャバーウォッキー〉の頭部、その機械と機械の間に潜り込んでいるような胎児状の肉塊が見える。

 いや、胎児ではない――あまりのおぞましさに龍一はライダースーツの内側で肌を粟立てた。あれは、人間だ。手足のない人間、それも大きさから見るに龍一やセルーと変わらない年齢の――

【もうわかったでしょう。あれがセルーが心底憎んでいたものです。四肢を失った者すら再利用し、戦場へ向かわせる技術……】

 夏姫の背後から苑子が進み出た。「あなたは……結局セルーお姉ちゃんだったの? それとも……セルーお姉ちゃんの口を借りていた別の誰かだったの?」

 セルーだったものの残骸は少しだけ沈黙した――ように見えた。だがそれは苑子の、そして龍一の願望だったのかも知れない。

【その答えは口にしない方が良いでしょう――あなたたちのためにも。私たち機械の指示通りに殺し合ったと考えるより、その方がよほど幸せです】

 龍一たちが絶句している間に『玉座』が動き出し、今度こそセルーだったものはトレーラーの運転席へ消えた。

「待て、セルー! 聞きたいことはまだあるんだ!」

【あなたにも報酬が必要ですね、相良龍一さん。高塔家当主とはまた別の報酬が。〈オラクル〉に必要なデータを預けてあります。約束ですから」

「〈オラクル〉? どうしてその名前がそこで出てくるんだ!? おい!」

 タイヤの弾けたトレーラーが、それでも地響きのするエンジン音とともに速度を増していく。それに応じるように〈ジャバーウォッキー〉の砲口に光が満ちていく。お互いが必殺の武器を抜き放ったことが、龍一には見て取れた。

 射出された大口径、大質量の砲弾はトレーラーの運転席、その延長線上にある車体とコンテナのほとんどを焼失させた。

 内側から火を噴きながらも、トレーラーは突進を止めなかった。耳をつんざく轟音とともにトレーラーが〈ジャバーウォッキー〉に衝突する。2つの巨大な鉄塊は道路を横切り、もつれるようにして通りの反対側にあるカーショップを押し潰した。

 続く第二撃を繰り出せたのはどちらからだったか――それは龍一たちの側からは見えず、また重要ではなかった。ほぼ同時に、絡み合った鉄塊は内側から爆発したからだった。

 音が消え、爆炎が晴れた後、そこには巨大なクレーターしか残っていなかった。

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