第4話 神と銃弾(プロローグ、12月24日)
広く、そして肌寒い空間だった。白を基調とした緑のラインで色彩を統一された広大なホールはコンビニエンスストアのように白々とした照明に隅々まで照らされ、映画館のように巨大なメインスクリーンの中央では『警視庁』のロゴがゆっくりと回転している。揃いの制服を着たオペレーターたちが、会話もなく黙々と手元の端末を操作している。
艦橋のように一段高いコンソール席から、近代的なホールを見下ろして数人の男が会話を交わしている。研究職らしき白衣の男が2人、警察官僚らしき男と軍将校の制服を着た男が1人ずつ。
「――ご存知の通りこちらの〈
「そうだろうな。でなければテロ対策での共同運用などできたものではない」若い研究員の朗らかな――朗らかすぎる声に反感を隠し切れないのか、軍服の男の声はやや堅い。
「このシステム独自の売りは何かね?」警察官僚らしき神経質そうな雰囲気の男が訪ねる。「大容量の情報処理程度では今どき子供も驚かんぞ。軍の『お下がり』に毛が生えた程度の備品では予算も下りんだろうしな」
軍服の男は露骨な当てこすりに口元を歪め、そして若い研究者は険悪な空気を気にも留めていない。
「おっしゃる通りです。〈虚空〉の最も注目すべき機能はファクトチェック機能です。情報収集するだけでなく、過去のデータを参照し、自ら真偽を判断してくれるんですよ」
「確かに……通報をいちいち鵜呑みにしていては警官が何人いても足りないからな」
「さらに〈虚空〉が参照するのは国民基本台帳だけではありません。ネット上での買い物やSNS上での発言、電話での会話なども自動的に拾ってくるんです。収集・分析・分類・蓄積・提供の一元化に加え、予想・推論も可能な全国的監視システムを、より洗練され、より緻密なカスタマイズを施されて我が国が持てるというわけです」
「犯罪抑止目的の人工知能など、米本国ではもっと進んだバージョンが使われている……つまりは劣化バージョンということだな」軍服の男がぼそりと皮肉を口にする。
キャリアの男は聞こえないふりをすることに決めたらしい。「しかし、犯罪多発地域での検挙率こそ上がるだろうが、地域そのものへの偏見は増大する、というとかくの意見もあるぞ」
「やむをえませんね。点数を稼ぐには実績も必要、という話ですよ」
話が微妙な領域に触れ始めたのを危惧したらしく、上司らしき年かさの男が背後からしきりと目くばせしているが、研究員は一度話始めると止まらない性質らしい。
「プライバシーを気にしていては犯罪者も他国の工作員も狩り出せませんからね。〈虚空〉はまさに、犯罪を根底から廃絶する究極の兵器と言えるでしょう」
君、と上司の方が鋭い声を出す。さすがに言いすぎたと悟ったのか、研究員は口をつぐんだ。
だがそれはこの場にいる全員の共通認識でもあった――本気でテロ対策をするつもりなら、個人の尊厳には泣いてもらうしかありません。
やや気まずくなった空気を読んでか、軍服の男が言った。「実証試験を用意してあるということだったな。見せてくれ」
「必ずやご満足いただけると思いますよ」研究員はたちまち口調を明るくした。「まずは国内に潜伏中の旧北朝鮮ゲリラの偽装軍事サイトと、彼らと繋がる危険団体認定のカルト集団が保有する資金洗浄ルートの解析です。〈虚空〉の処理能力を持ってすれば、十秒とかからず視覚化が可能ですよ……おい、どうした?」
正面のメインスクリーンが不意に暗転し、今まで自分の作業に没頭していたオペレーターたちの動きに乱れが生じた。それぞれに眉をひそめ、モニターを指さしたり隣の者と顔を見交わしたりしている。
「少々お待ちください。どうも演習用ソフトの調子が悪いようで……」
「おいおい、大丈夫か? ガワは日本でも中身は中国製か?」キャリアの男が失笑する。
「まさかサイバー攻撃ではないだろうな。本格稼働を前にして、ウィルスやマルウェアに汚染されたら笑い話では済まないぞ」軍服の男が眉根を寄せた瞬間、メインスクリーンに幾つかの図表と文字列、そして何人かの男女の顔写真が徐々に打ち出され始めた。
見上げたキャリアの男の顔が強張り、口元からかすれた声が漏れ出た。
「……何だ、これは?」
背後に立つ軍服の男は微動だにしなかった。冷静だったからではない――声も出せないほど激しく驚愕していたからだった。
【12月25日、未真名さいわいショッピングモール】
「夏姫、服はここらへんでいいか? 重いもんは奥に詰めたから、上に乗っけるぞ」
「うん、そこでいいわよ……お待たせ、滝川。車出して」
「かしこまりました」
車が滑らかに走り出す。滝川の腕はよく知っているつもりだが、それにしても見事なもんだ、と思う。
「これだけ買えばクリスマスの準備は万全ね。龍一もお疲れ様」
「どういたしまして」やたらとご機嫌な夏姫の顔を見て、龍一は内心でそりゃこれだけ買えば満足だろうよ、とは思ったが口には出さなかった。彼女がご満悦でいる分には何も悪いことはないからである。ご満悦な状態で言ってくる内容にもよるが。「まあ、君の買い物に付き合って服だの靴だの下着だの買い込む分にはいいさ」今日に始まった話でもないし。「わからないのは――何で俺の服まで見繕う必要があるんだ?」
「あっきれた。まだそんなこと言ってるの?」夏姫は大げさにぐるりと目を回してみせた。「あのね、ファッションセンスなんて『身体に布巻いときゃいい』なんて思っていたら一生向上しないのよ? まあ、当初のもっさい服に比べれば、ずいぶんとましになったけど」
「余計なお世話だよ」龍一はそう答えながらも何となく背筋が寒くなるのを感じた。このお嬢様、本格的に俺を飼い慣らそうとしてやしないか?
「このまま何事もなく年が明ければいいわね」
「何事かあってたまるかよ。去年の冬なんか、ロシアのツンドラ地帯で新年を迎えたんだぞ。帰るまでにどんだけ苦労したか忘れたのか?」
「ああ、あれね……」夏姫の目が幾分か遠いものになった。「『お家に帰るまでが遠足』を地で行く一件だったわね……」
「だろ? 俺の人生をこれ以上ドラマチックに演出してどうするんだ? 盆暮れ正月を
「文句言わない」夏姫はぴしゃりと言った。「その見返りが潤沢な予算ときれっきれの最先端技術、傭兵と比べて遜色ないギャランティでしょ?」
ベクトルこそ俺とは違うがこいつも高塔百合子を信奉する狂信者の類だった、と龍一は渋い顔になる。「そりゃわかってるさ。でも人並みの年末年始を過ごしたいってのがそんなに大それた話なのかってことで」
まるで見計らっていたように、ポケットのスマートフォンが振動した。龍一の顔を見て、彼女は何もかもを察したようだった。「短い休暇だったわねえ」
渋々と龍一はスマートフォンを取り出した。「……はい」
【嬢ちゃんもそこにいるんだな? 好都合だ】挨拶もなしに崇は切り出した。【仕事が入った。初詣は諦めてもらうしかないな】
「……覚悟はしているよ」とは言ったが、龍一は内心嘆息を禁じ得なかった。夏姫にも聞こえるようスピーカーモードに切り替える。「すぐに行く」
【ああ、それなんだが……今日は河岸を変える。車ならちょうどいい、馬越トンネルまで走るようあの運ちゃんに伝えろ】
「……あんな街外れの、幽霊でも出そうな寂れトンネルまでか? 何でまた?」
【待ち合わせをしているんだ。今回はかなり大がかりになる。人も増やす】
「大丈夫なのか? うちは基本少数精鋭、それ以上のものは請負わないって話だったけど……」
【そうも言っていられなくなったんだよ】崇の口調はどこか苦々しげだった。【実は今回仕事を持ち込んできたのな、俺の幼馴染みなんだ】
「へえ?」確かに珍しい。「そりゃ、あんたの紹介なら異存はないが……」
【お前の懸念はわかる。いいか、ご当主の名はできるかぎり出すな。いずれは誤魔化しきれなくなるにしても、ぎりぎりまで遅らせたい。そこにいるおっぱいともよく口裏を合わせておけ。じゃあな】
「待てよ、それだけか?」
【行けばすぐにわかる】通話は切れた。夏姫が盛大に鼻から息を吐く。「あの人、やっぱり私が嫌いなのかしらね。一度ぐらい、お尻をはたいてやったら大人しくなるかしら?」
向こうは君の下の毛をむしってやるって言っていたぞ、と龍一は思ったが黙っていた。そんなことを教えても誰も幸せにならないからだ。
「滝川、悪いけど……」
「心得ております」滝川の手が滑らかにハンドルを操作した。
【同日、未真名市馬越トンネル近辺】
「お嬢様、トンネルに入ります」
「あの人にしちゃずいぶんふわっとした指示ねえ……」首をひねっていた夏姫だったが、急に前方を見て平板な顔になった。「あれじゃないかしら」
「……なるほど」
前方を走っていた黒塗りの大型トレーラーが、コンテナルームの積込口を全面展開していた。走行しながらここに入れということらしい。
「望月さんの幼馴染みって話、嘘じゃなさそうね。何となくだけど、似たようなスメルを感じるわ……」
「似た者同士ってことか……」
滝川が車を非の打ちどころのない手際でトレーラーのコンテナに滑り込ませると、床面から自動的に伸びてきたストッパーが車体を固定し、背後で扉が閉まった。一瞬遅れて白く強烈な照明がコンテナ内に灯る。
「……滝川はここで待っていて。龍一、行きましょ」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ。龍一様、夏姫様」
用心しいしい降りた龍一に、奥から歩み寄ってきた長身の男がにこやかに笑いかけてきた。
「ようこそ、俺の〈機動作戦センター〉へ! 君たちが崇の言っていた秘蔵っ子だな? なかなか好いたらしい坊っちゃん嬢ちゃんじゃないか!」
肩まで届く長髪によく整えられた髭。イタリア製のオーダーメイドらしき三つ揃い。一見するとホストのようにも見えるが、体格は程良く引き締まっている。崇とはまた別の意味で職業の判然としない男だ。「君が、相良龍一君だね? 崇からいつも聴いているよ、若いのに優秀だってね。〈ORS〉代表取締役社長の
「こちらこそ」龍一はひとまず丁寧に頭を下げた。崇に「優秀」と言われることは並大抵のことではないが、それを単純に喜んでいいのかという疑問もある。
「そちらの美しいお嬢さんが瀬川のご令嬢だね? まったく、相良君が羨ましくなるよ」
「ま、お上手ですのね」言いながらもその顔が、そうでしょうよ、と満面の笑みを浮かべている。君は意外と社交辞令に弱いな、と言いたくなったがやめた。
さらにその背後から歩いてきた崇は、してやったりと言わんばかりの顔をしていた。「『
「わかりやすいだろ?」男は胡散臭いなりに魅力がなくもないウィンクを放ってよこした。「まあ、〈
「俺たちと同じ隙間産業ってとこだな」崇はにやにやしていたが、不意に真面目な顔になった。「そろそろ本題に入れよ。厄介な案件なんだろ?」
尾樫もまた表情を改める。「そうだ。厄介な案件なんだよ――少なくともお前に助っ人を頼むくらいにはな」
コンテナ内部の一角は小さいながらもソファ付きの応接間になっており、呆れたことに値の張りそうなコーヒーメーカーが湯気を立てていた(さすがに固定されてはいた)。崇は断りもなくさっさとそれを使い始め、尾樫の方もとがめる素振りすら見せない。確かに、付き合いが長いというのは嘘ではなさそうだ。
「警視庁が導入予定の犯罪予測システム、聞いたことがあるか?」
崇は肩をすくめた。「あるか、どころか。死活問題ですよ」
「だろうな――その実証試験中に、〈虚空〉がデモ用プログラムにない分析結果を弾き出し始めた。自衛軍の兵器導入にまつわる一大汚職と、それによって殺されるかも知れない未来の被害者をだ」
龍一がその内容を咀嚼するのにだいぶ時間がかかった。「警察の犯罪予測システムが、自衛軍のスキャンダルを開陳した……?」
「穴の奥まですっぽんぽんでな」と崇。
「モザイクなしの無修正でな」と尾樫が受ける。幼馴染みだからってそんなところまで息をぴったり合わせないでほしいと思う。
そろいもそろって救いようのないセクハラ野郎どもが、という目つきになっている夏姫の方を気にしながら龍一は質問する。「確かにきな臭い話ですね。きな臭いし……よく隠蔽されなかったもんだ」
尾樫は大げさに肩をすくめた。「隠蔽したくてもできなかったんだろうな。何せ視察に当たっていたのは現職の警視監殿と、自衛軍の東部方面隊総司令官殿だ」
「天上人の眼前に、下々の『不都合な真実』が開陳されてしまったってわけですか」
「上手いたとえだ」彼は白い歯を見せた。「警視監殿は泡を食って日本に一人しかいない自分のトップへご注進、隠して事の一件は隠蔽どころか蜂の巣をつつく騒ぎになったってわけだ」
「ハッキングの形跡は?」と夏姫。彼女の専門分野と近いだけに、黙ってはいられないのだろう。
「ない。今のところ、という但し書きは付くが……実際、あの研究施設はイスラエル製の
「しかし……こう言っちゃ失礼ですが、見てきたような話ですね」龍一は思い切って質問してみた。「そもそも、どうしてそんなに警察内部の事情に詳しいんですか?」
尾樫はこともなげに肩をすくめた。「まあ、当然の疑問だよな。でもまあ、それもまた種も仕掛けもある手品さ……ここだけの話、俺の親父は警視総監なんだ」
数秒後、龍一と夏姫の疑問符が実に美しいハーモニーとなった。
「…………はあ?」
彼は茶目っ気たっぷりに肩をすくめた。「お袋とは離婚したから名字は変わっているんだが、昔から何だかんだ言って俺には甘い人でね。警視総監殿もまた人の子なのさ……ああ、正確には人の子の親だが」
そりゃまた情実人事どころの騒ぎじゃないな、とは思ったが、同時に納得もした。そんな理由でもなければ、警察が自分の商売敵に保護対象の護衛を依頼するなんて前代未聞の横紙破り、易々と通すはずもないだろう。
「それにしても今さらだけどよ、親父さんよく反対しなかったよな。今の日本で軍事請負業やろうなんて、警察に喧嘩売ってるも同然だろ」
尾樫は屈託のない、いささかなさすぎる笑い方をした。「親父もかえって安心したんじゃないか? 左翼思想やイスラム原理主義にかぶれるよりはましだってな」
夏姫がやや半目になって呟く。「そろそろ笑うか突っ込むか引くか帰るかしていい?」
「少なくとも笑うところじゃないだろ。それと話終わる前に帰るな」
「ちょっと驚かせすぎたかな。よくないなあ、若い者がそんな仏頂面じゃあ」尾樫は本当に楽しそうに肩を揺すった。「お前らも大いに楽しめよ。御国の権力を背景に好き放題だぞ。権力ってのは女よりも、酒よりも、ドラッグよりも遥かにイイね」
「またボスの悪い癖が始まったわねあまり気にしないでこの人いつもこうだから」
コンテナ奥の自動ドアが開き、流暢ではあるが妙に抑揚の乏しい声が聞こえてきた。
まるで櫛を通していないように見える、うねるような豊かな黒髪と黒に近い褐色の肌。電動式の車椅子に乗った――というより、車椅子に埋もれているようにも見える小柄な少女だ。
いや、それはそもそも「車椅子」なのだろうか――ロボットアームとカメラアイと複合センサー、頭部を茨冠のように取り巻く非侵襲型の脳波測定装置、それに酸素ボンベをはじめとする生命維持装置を混ぜこぜにしてキャタピラで移動する代物を「椅子」と呼ぶなら、そうなのかも知れない。
「初めましてようこそ何か飲むコーヒー紅茶緑茶ジュース? コーヒーにしておくわね他に自慢できるような飲み物はないから砂糖とミルクは一つずつ?」呆気に取られている龍一と夏姫の目の前に、車椅子から伸びた2本のマニピュレーターが湯気の立つカップを突き出してきた。
龍一はついまじまじと彼女を見てしまった。年齢は15、6歳ほどだろうか。瞳よりも白目が目立つ爛々とした眼光、頑丈そうな顎に固く結ばれた口元。身長は夏姫より遥かに低いのに、えらくふてぶてしい雰囲気がある。尾樫のような男と行動を共にしているというだけではない、確かにこいつは只者ではなさそうだ。
「龍一」夏姫に服の袖を引っ張られる。
「あ……ああ、ごめん」
気にしないで、というようにセルーは片側の眉を上げてみせた。「気を遣わないで自分がどんな風に見えるかはわかるつもりだし」そう言われるとかえって立つ瀬がない。「それに見てくれほど不便ではないのよ移動や食事はもちろん入浴も排泄も全部これだけでこなせるから」
「……龍一、今想像したでしょ」
「何をだよ!」
尾樫が背後でくっくっと笑う。「セルーは我が社の電子戦担当だ。生まれつきの持病で直接の戦闘には加われないが、十人分の働きはできる。お前らなら、敵に向かって銃をぶっ放す以上にこの世には大切なことがあるってわかるだろう」
もっともらしい説明ではあったが、もっと重要な部分を隠しているという気はした。持病云々は本当かも知れない――だが彼女の「車椅子」は、明らかに医療目的以上のもので作られたものと思える。
同時に、そのような者だからこそ尾樫は彼女を雇っているのだと納得できた。警察や正規軍どころか、傭兵部隊でも見かけないような異様な風体だ。要するに、龍一たちに「近い」人間なのだろう。
「それで……その人工知能様の『ご託宣』は、どこまで確度があるんだ」と崇。
尾樫は頷いた。「十中八九、クロだな。自衛軍の地上攻撃用ドローン導入にまつわるディベートの額と流れ、内務監査への対処と関係者各位への硬軟含めた口止め……表に出た組織と人名は全て実在のものだし、自衛軍側の解答が『現在調査中』の一点張りなのも含めて実に臭い。第一、あれが全部架空のものなら人間様に奉仕するための犯罪予測なんかやめて小説書いた方がよほど世の役には立つ」
「なるほど……もう一つの『未来の被害者』は?」
心なしか尾樫は渋い顔で頷く。「実在した。セルー、資料を」
「はいボス」壁面そのものがモニターになっているらしく、無機質な内装がテレビの一場面に切り替わる。少女が指先一つ動かした様子はない。何らかのマンマシン・インターフェイスだろうか。「気づいた?」というような視線を投げかけてくる。頷き返す。おそらくは尾樫が彼女をスタッフに雇い入れた理由もそのあたりだろう。
壁面に映るのは、壮年の男女と小学生らしき女の子、それより年下の男の子の写真。
「……この子たちは?」夏姫が妙にトーンの低い声で呟く。いや、と龍一は即座に気づいた。感情を抑えている声だ。そして龍一も、この話が向かう方向へ、話される前から気づいてしまっていた。
「防衛装備庁の監察担当官――の家族だ。
「……飲酒運転? 家族そろってのドライブ中にか?」
尾樫が口元を歪める。「それも事故発生時には、120キロ近い速度でぶっ飛ばしていたそうだ。後部座席にいた長女が助かったのは、弟の身体がクッションになったからだ――なかなかに香ばしい話だろう?」
崇がぼそりと口を開いた。「殺しにしても薄汚い」
「そうね。ただの口封じなら、家族まで巻き添えにする必要はないもの」夏姫の口調には、抑えきれない憤怒の響きがあった。
「実際、〈虚空〉が弾き出したリストには、取り調べに当たった警官たちによる調書に十数か所以上の手抜きと改ざんがあったことまで解析されていたそうだ。自衛軍とのいざこざを嫌ったか、親分の立場を慮っての忖度か、どっちにしても職務怠慢のそしりは免れないな。あんまりこういう
「人間が人間を人間扱いしてないんだからな。まったく、AIが一番人道的とは……」
龍一は「開いた口が塞がらない」という言葉の意味が実によくわかると思った。警察の捜査なんて通り一遍のものだろうが、これはひどすぎる。
「それじゃ、〈虚空〉の異常がなかったら……」
「ああ。ただの事故で片づけられていただろうし、子供の命だってどうなっていたかわからない。児童福祉施設をたらい回しされている間に『不慮の事故』に遭うか、変質者の仕業に見せかけられるかだ」
「それで一兵卒の不祥事に、元帥閣下が怒鳴り込んできたわけか……身から出たサビとは言え気の毒に」
「この案件に関わった警官全員の寿命が5年は縮まっただろうな。担当官は懲戒免職処分、そのとばっちりで上司や部下も厳重注意だとさ」
龍一は何と言っていいのかわからなかった。命を狙われ家族を亡くしただけでなく、彼女は既に少なくない人の人生を狂わせ始めている。それを知った時、何を思うだろうか。
「そこまでわかっているんだったら、後は報道機関にリークして一件落着じゃない? 命を狙われる心配もなくなるわけだし」
「そこまでわかっているから、千日手に陥っちまったんだよ」崇は奥歯が痛むような顔をしている。「もっとも、そのおかげで俺たちに出番が回ってきたわけだが」
「というと?」
「現在、生き残りの長女は都内某所で厳重な警備体制に置かれている。まあ当面は安心だ――即座に殺される、という危険性はないだろう。ただし、ここまでの手を打ってくる連中だ。マスコミと接触しようもんなら確実に襲撃を受けるだろう。監視の目は確実に光っている」
「ただし、それはあくまで『日本の』だ」と尾樫が後を続ける。「フランスのジャーナリスト一行が年末に隣接するさきがけ市の『ホテル・シャーウッド』に入る。名目は日本国内の違法人身売買の調査だが、俺たちは彼らとのセッティングを取り付けた。彼らに護衛対象の少女を託し、国外へ脱出、安全を確保した後に海外報道機関と東京地検特捜部に証拠を提出する」
「敵に回せば鬱陶しい連中だが、味方につければとことん歯向かってくれるだろう。フランス人は日本政府が嫌がることなら喜んでやるからな。自分たちの懐はこれっぽっちも痛まないとあっちゃなおさらだ」
「実際、そうするしかないんだよ」と苦り切った顔で尾樫。「今回の
「海外の権威に弱い人たちを納得させるため、海外の報道機関の力を借りる、ですか……」確かに、いろんな意味で溜め息を吐きたくなる話だ。
「だがあまり猶予はないぞ――ジャーナリスト一行は31日にホテル入りし、元旦朝には出国することになっている」
「ケツは詰まっているのに、護送は31日の早朝からしか始められないってわけか……せめて迎えには来てくれないのか?」
「おいおい、報道機関は報道機関であって軍事請負企業じゃないんだ。来たって死人の数が増えるだけだよ」
龍一にまで崇の渋面が移るところだった。お前たちがこちらの都合に合わせろ、と言わんばかりだ。
同時に、そんなふてぶてしさがあればこそ軍を敵に回して徹底的に戦ってくれるのかも知れない、とも。
「それに幸い、準備するだけの時間はある」崇は表情を引き締めた。「ORSの他のメンバーがフィリピンで実弾演習をするそうだから、お前も便乗しろ。今夜中に出発すれば間に合うからな。付け焼き刃でも構わない、最低限の銃器訓練は受けてもらうぞ。生きて帰れよ」
とんでもない方向から流れ弾が来た、と思った。「……銃器って、あの銃器か?」
「当たり前だ。それともお前、重機関銃に素手で立ち向かう気か? それ以上の得物が出てきたらどうするつもりなんだ? 尻尾巻いて逃げるのか?」
夏姫が憮然と言う。「まさか私まで兵隊になれっていうんじゃないでしょうね。爪が割れちゃうじゃない」
「いや。だが考えようによっちゃそれ以上の大役だぞ。〈システム〉そのものの運用を任せる」
夏姫は『愕然』というタイトルの絵のような顔つきになった。「……ちょっと待ってよ。私があれを? 本当に総力戦じゃない!」
「だからそう言ってるだろ。ご当主の許可も下りてる」
「あなただって他人事じゃないのよナツキさん」機械に埋もれた少女が感情の読めない笑みを見せる。「私がしばらくの間あなたのパートナーよよろしくね。あなたには以前から興味があったの私の得意分野にも近いものを目指しているみたいだし」
「2人とも覚悟しろよ。これから寝る時間だって惜しくなるぞ」
龍一は夏姫と顔を見合わせた。人並みの元旦どころか、生きて年を越せるかどうかも怪しくなってきたらしい。
【同日、ホテル・エスタンシア、VIP専用フロア】
「とにかく奴は夜間発のフィリピン便に放り込みました。さんざんぶうたれていましたが、何、構いやしません。現場で穴だらけにされるよりはましですからね」
「望月さんには、また憎まれ役を任せてしまいましたね」
百合子の微苦笑に、崇もまた肩をすくめる。「恨まれるのもインストラクターの仕事ですからね」
「付き添いは?」
「テシクに任せます。奴の技能は金を払ってでも習う価値がある」
「結構です。〈ハリウッド・クレムリン〉の口座を開けておきます。必要と思う分だけ引き出してください。足りなければ都度、申請して構いません」
部屋を後にする寸前、崇は振り向いた。「本当にいいんですね? あいつに銃を使わせたら、ゲームのルール自体が変わりますよ」
「承知の上です。そもそも、私たちが思い悩む段階は既に過ぎています――あと私たちが心がけるべきは、いかに気持ちよく眼前の仕事に集中してもらうかです」
色素の薄い、灰色に近い瞳がこちらを見ていた。自分と同じ目をしている――何かのスイッチを切った目だ、と崇は思った。
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