【新春特別企画】悪党どもの大晦日
――相良龍一は原野を疾走していた。
〈20XX/12/31 19:50
ロシア連邦、クラスノヤルスク平原
シベリア鉄道〉
ひねこびた灌木と、わずかばかりの雪と、黒い土以外の何物も存在しない原野。
溶けた鉄のように赤い夕陽が、消える寸前の眩い光を投げかけながら、今ゆるゆると地平線の向こうに消えようとしている。だが相良龍一の意識は、HUDに投影された地形図と現在時刻――そして数時間後に迫るランデブーポイントまでの残り時間にのみ注がれていた。
(ヘリから空中投下されて10時間……しかも道中は舗装すらされていないツンドラ地帯……)時速200㎞近い速度でマシンを繰りながら、龍一は内心で呟く。(このバイクでなきゃ立ちゴケ必至だぜ……)
【到着まであと5分】
男女どちらのものでもない、柔らかな声がヘルメット内に響く。【目標車輌との相対速度調整、開始】
「……こちらでも肉眼で確認」龍一は呟く。「接近を開始……」
腹の底まで震わせる轟音に、耳をつんざく汽笛が加わった。視界の端から端まで伸びる、原野を緩やかに蛇行する線路を驀進する無骨と優美を兼ね備えた長大な車輌。「車輪上のホテル」、ロシア連邦が誇る豪華シベリア鉄道列車『インペリアル・ロシア』号。
驀進する金属の城、その異様に思わず呟く。「あれに直接乗り移るなんて、007どころかハリー・フーディニだぜ……」
意を決し、龍一はぐいとハンドルを切る。全天候型タイヤが泥と残雪を蹴散らし、列車に向けてマシンをさらに加速させた。
これ以上接近すれば車輪に巻き込まれる、という近さまで接近すると、さすがに押し潰されそうな圧迫感を感じた。轟音は既に全身を震わせる域にまで達している。ヘルメット内蔵のノイズ抑制機能がなければ耐え難かっただろう。
「自律走行に移行。相対速度、保て」
【了解。自律走行モード】
バックパックを背負い直し、龍一はハンドルから手を放し――バイクの上に立った。ハンドル自体が意志を持ったように、わずかに左右に揺れている。幽霊が操っているような感じだ。「サイレントモードは続行。脱出地点まで相対速度を保て」【了解。神のご加護を】
緊迫した状況ではあるが、だからこそ苦笑が漏れた。
「神のご加護か」
【おかしいですか? 私が神と口にしては】
「いや、信じれば本当にご加護があるかも知れない。デウス・エクス・マキナの」【はい、ご健闘を祈ります。祈るだけなら人生のマイナスにはなりません】
「わかったよ。あと、ユーモアのレベルは下げろ」
【了解。ユーモアのレベルを60%から40%に下げます】
足元でバイクのサドルが小刻みに揺れている。龍一は軽く息を吸い込み、列車の連結器に向けて飛んだ。胃の裏返るような浮遊感――は、着地した瞬間、腹の底を揺さぶる轟音に変わった。アンダーウェア内に汗がどっと噴き出す。
背後を見ると、無人のままのバイクが見事に列車と並走してついてきていた。まるで滑らかな床面を走っているように決して倒れない。大したもんだ、と龍一は感心した。俺が乗っている時より安定している。
非常口の電子ロックに
列車内に入ると、轟音は劇的に和らいだ。暖かな色合いの照明と、鮮やかではあるが下品ではない絨毯敷きの廊下が龍一を出迎える。洗面所があったのでバックパックから衣類を出して黒と灰を基調にした目立たないスーツへ着替え、身繕いも済ませる。鏡で自分の顔を見て(思ったより)目が血走らず、やつれてもいないことに安堵した。
洗面所を出ると、いきなり冗談なぞ口にしたこともないような顔つきをした女の車掌に出くわした。彼女は龍一を頭から爪先まで一瞥した後で手を差し出した。緊張はしたが、チケットを見せると胡乱そうな目付きは変えないまま、黙って後方の車輌を示した。
食堂車に入ると、今度は非の打ちどころない態度のウェイターに一礼された。談笑、シャンパンの泡が弾ける微かな音。BGMに『美しく青きドナウ』が流れている。10時間を越す走行の後で、ふと目眩を覚えた。
目的の席――そして人物はすぐに見つかった。赤みがかった髪を高く結い上げ、目の覚めるような青いドレスを着た瀬川夏姫は、こちらに気づくなり片方の眉だけ上げて見せた。
金色を帯びたシャンパンのグラスを掲げ、彼女は微笑んだ。
「お疲れ様」
「まったくだよ」
「突っ立ってないで座ったら?あなたの席でしょ」龍一は夏姫を睨みながら椅子を引いた。いつもより念入りに眉を整え、うっすら化粧までした彼女は普段の数倍魅力的で、余計に腹が立ってきた。
「さっきから何を怒ってるの? 仕方ないじゃない、私はバイクの運転もパルクールもできないんだから」
「別に怒ってないし、怒っていてもそれは君にじゃない」
「ならよかった。そうだ、何か頼まない? 何も食べてないんでしょ、仔牛のローストと鱈のコンフィ、どちらも絶品よ」
龍一はメニューを脇へ押しやった。「スープとパンでいい」
「それだけでいいの?修行僧みたい」
「満腹時に腹を撃たれると助からない」本当は目が回りそうなほど腹が減っているのだが、豪勢な食事なんてもっと尋常なシチュエーションで取りたいもんだというのが龍一の本音だ。
「はいはいハードボイルドハードボイルド嫌になるほどハードボイルド」夏姫はわざとらしく溜息を吐きながら、ハンドバッグからタブレットを取り出した。「じゃ、すぐ仕事に入って問題ないのね?」
「ああ」
龍一は今日一日でもう何回目になるかわからない溜息を押し殺した。まったく、去年の今頃はこんな形で大晦日を迎えるなんて思ってもみなかった。
――望月崇は信号待ちをしていた。
〈20XX/12/31 21:32
日本、未真名市
豊市交差点付近〉
ヒーターを入れていても湿った寒さが足元から這い上がってくる運転席で、崇はひたすら耐えていた。十字路に街灯以外の光源はなく、街の喧騒も断ち切られたように遠い。遠くに居並ぶ倉庫群のシルエットも相まって、無人の舞台を思わせた。
懐のスマートフォンが数度振動したが、すぐに沈黙した。それが合図だった。人気のない場所とは言え(いや、だからこそ)十字路を見下ろせるポール上には監視カメラが昼夜を問わず無機質な視線を注いでいるのだが、それらは幸運なことにこれから数分間、突然のメンテナンスで機能を停止する。
握り込んでいた使い捨てカイロを足元のゴミ袋に放り込み、イグニッションキーを捻った。最後に顔にかぶったガスマスクがずれないかどうか点検する。サバイバルショップで買った中古品で防毒機能はほとんどないが、顔さえ隠せれば十分だ。
街の方から光源が近づいてきた。ハイブリッドエンジン特有の走行音、目立たない自家用車だ。
アクセルを踏む。タイヤがアスファルトを噛む感触があり、慣性が加わり次第に弾みが付いていく。スモークガラスの向こう、運転手の驚愕する顔が見えた気がするがたぶん錯覚だろう。
十トントラックは速度を緩めず、自家用車の横腹に激突した。耳をつんざく激突音と金属を引き裂く耳障りな音。トラックはバンパーを自家用車にめり込ませたまま、数メートル動いて止まった。
崇は傍らのゴルフバッグを開き、円筒形の減音器を装着したベネリM4ショットガンを取り出した。銃身下のポンプを前後させ初弾を装填する。
トラックを降りる。スモークガラスは無残にひび割れ、運転手と助手席のボディガードらしい男がエアバッグと座席の間に圧し潰された姿で、血塗れになって喘いでいた。無線で助けを求めるつもりか、弱々しく身を起こそうとしている運転手に、割れたフロントガラス越しに一発撃ち、わななく手を懐に入れたボディガードの顔面に向けてもう一発撃った。
歪み切った後部座席のドアを無理やりこじ開けると、運転手とボディガードの返り血を頭から浴びた恰幅のいい男が路面に転がり落ちた。這いずって逃げようとする男の肉厚な顎を崇は登山靴で容赦なく蹴上げた。血と歯の欠片が口から飛び、濡れた路面に落ちる。
「チップ」
それ以外の答えなど聞きたくない、と言外の意味を込めて銃口を突き付けると、男は顔に似合わない小娘のような悲鳴を上げた。「やめてくれ! 渡す、渡すから撃たないでくれ!」
男が差し出したパスケースをひったくり、銃口を向ける。
「待て! 私を殺すつもりなのか⁉ 私が進めているのは、既存の医療技術を陳腐化させる偉業なのだぞ! ゴッホが、ジェンナーが、そしてパスツールが遺した以上の次世代医療技術なんだ! それをお前ごとき薄汚い殺し屋に」
崇は無造作に撃った。
男の肩から上が血飛沫とともに消し飛んだ。アッパーを食らったボクサーのように首を失った身体がのけぞり、一瞬遅れて路面に鈍い音を立てて転がった。
「ヨゼフ・メンゲレの間違いだろ。マッドサイエンティストめ」崇は吐き捨てる。「安心しろ。お前がくたばったところで、誰も上っ面の涙さえ流さねえよ」
まるでタイミングを計ったように――実際そうなのだろうが、音もなく一台のワゴン車が交差点を徐行してきて、崇の傍らで停まった。スモークスクリーンが微かな電動音とともに下がり、助手席に座る男の顔が親しげに崇へ微笑みかけた。よく日に焼けた、えらの張った精力的な顔立ち。ただほとんど光を映していない右目だけが、男の容貌をややアンバランスなものに見せていた。義眼かも知れない。
「お疲れ様です。首尾は上々のようですね」
高級車のセールスマンめいた爽やかな美声が今日に限ってひどく気に障った。崇は黙って助手席に殺した男のパスケースを投げ入れた。
嫌な顔をするでもなく、林はパスケースから取り出した指先ほどのチップをスマートフォンに挿入し、表示されたデータに見入った。満足げに頷く。「いつもながら鮮やかなものだ」
「それはどうも」崇はそっけなく返す。金銭的な報酬であれば高塔百合子から十分な額を貰えるし、褒められたい相手がいるとしてもそれはこの男ではない。
「主任研究員の処理と、研究データの奪取。いずれにせよこれで〈
「縄張り争いなんて本国でやれ、と言いたいところだが、ご当主の指示とあっちゃそうも言ってられない」
「〈蒼星〉は軍系だが、〈西海〉は党系です。製薬会社のマーケット戦略には国境やイデオロギーはおろか、親兄弟さえありませんよ」
どうでもいい、と言う代わりに崇は肩をすくめた。「そっちのご要望は果たした。今度はそっちの番だぜ」
「もちろんですとも」書類を挟んだバインダーを手渡しながら、林は少し探るような目つきになった。「しかし妙なことに関心がおありですね……今はもうない製薬会社から流出した、低品質の合成麻薬に関するデータとは」
「俺は興味ない。ただ、うちの坊っちゃんが興味を示すかも知れない」
「ほう……それはそれで面白い話ですね」
「詮索すんなよ」崇は街灯の下で素早く書類に目を走らせた。「……〈ネクタール〉か」
「それなりに苦労しました。電子情報の類は母体である会社の倒産と同時に消去されたようですし、おそらく紙で現存するのはそれが全てのはずです」
「そりゃ気の毒に」崇はそう返したが、頭の中は書類の内容でほぼ埋め尽くされていた。
「そうでした……件の企業は、同じインド系列の〈ラーフ〉に合併吸収されたはずです。今回のあなたの活動……いや活躍で大打撃を被った〈蒼星〉は、〈ラーフ〉への依存をさらに高めるでしょう」
「なるほど。こりゃじっくり調べる必要がありそうだ。となると〈ネクタール〉の現物が欲しいところだな」
林は眉をわずかにひそめた。「難しいでしょうね。ドラッグビジネスは流行の移り変わりが激しい。コカインやヘロインのようなベストセラーならともかく、数年で回っただけの低品質ドラッグとなると現物自体が残っているかどうか……
「なるほど、それも含めてご当主に相談だな」
顔を上げた崇の視界に、白く小さなものが舞った。
「……雪か」
「雪の珍しい地方のご出身ですか?」
「余計なお世話だ。餃子でも食って寝ろ」
林は苦笑した。「では、よいお年を」
林が陰気な顔の運転手に合図すると、車は走り去った。崇は吐き捨てた。
「……何が雪だ」
それでも崇は空を見上げ、音もなく暗い空から落ちてくる雪片を口に含んだ。遠い昔、傍らの誰かとともに同じ仕草をしたはずだが、何も感じず、その誰かの顔すら定かではなくなっていた。
〈20XX/12/31 20:31
ロシア連邦、クラスノヤルスク
シベリア鉄道『インペリアル・ロシア』号・食堂車〉
「……事の始まりはヴォルゴグラード・ナノファブリカが『画期的な新製品』の開発に成功して以来よ」
龍一はタブレットを覗き込んだが、複雑な図形やら数式やらでさっぱりわからなかった。「それはどんなものなんだ。ピロシキがおいしくなるのか?」
「開発されたのは〈
「……テロにも」
夏姫は頷く。「発表以来、VGナノファブリカ関連施設で不審な事故が去年までの数倍に増えた。研究施設からの出火、スタッフや職員の行方不明、とどめに代表取締役が車ごと河に転落した」
暴力は洋の東西を問わないな、と密かに思う。「『行きずりの暴力』の可能性は……大だな」
「当然、スタッフの士気はどん底にまで転落した。中には研究成果を持ち出し、外国に売ろうとする者まで現れた。ほとんどは直前でロシア官憲に拘束されたけど、今でも逃げおおせている者はいる。この男がそう」夏姫はタブレットに白い指を滑らせた。
目も鼻も口も頼りなげな男の顔を指先で拡大する。「マクシム・ゲラシモフ。研究主任スタッフの立場を利用して一週間前にモスクワ研究所からサンプルを持ち出した。悪いことに、今日に至るまで官憲の目を逃れおおせている。もっと悪いことに――商売相手、チェチェン人武器商人よ」
「ああ、くそ」
「別にロシアの官憲に協力する義理はないが、チェチェン絡みとなればそれこそ通報した方がいいんじゃないのか。俺たちが出る幕もなく八つ裂きにしてくれる」
「ロシア官憲より先にサンプルを確保してほしい、というのが百合子さんの依頼なの。以上、質問は?」
「ない」
瀬川夏姫という少女もつくづくおかしな娘だ。その気になればボーイフレンドを週替わりでとっかえひっかえできる美貌と、何不自由なく生きていける財産に囲まれながら犯罪行為にのめり込んでいる。高塔百合子への信頼ときたら狂信の域に達するほどで、「今日中に大阪に行きなさい」と言われれば二つ返事で引き受け、「ニュージーランドへ行きなさい」と言われれば聞き返しもせず引き受ける。この調子だと「南極へ行きなさい」と言われても怯みもしないのではないか。……悲しいかな、程度の差こそあれ、それは龍一も同じなのだった。
「ところで、本当にスープとサラダだけでいいの?」
「……やっぱりもう一皿欲しい。肉がいい」
夏姫は心底嬉しそうに笑った。「素直でよろしい」
――キム・テシクはスコープを覗き込み、「標的」に目を凝らしていた。
〈20XX/12/31 22:43
日本、未真名市
みまな中央通り近辺・雑居ビル屋上〉
都市部での近接戦闘のエキスパートとして、その手の需要でテシクが仕事に困ったことはこれまでの人生で一度もなかった。狙撃だけでなくある種の薬物や毒物、爆発物を扱う知識も技術もある(試す機会はほとんどないが、毛布やロープで殺す技術も身に着けてはいる)。たまたま今回の依頼が狙撃だった、というだけだ。
携帯食料と携帯トイレを持ってこの屋上に潜み、日没から数時間。夜空には黒灰色に近い雲が重く垂れ込め、いつ白いものが降り出してもおかしくない天気だった。苦にはならない。真冬にはマイナス7度、最高でもマイナス3度にしかならない半島の山中深くで旧北朝鮮のゲリラ狩りに参加したこともあるテシクにとっては、むしろこの国の都市部での冬などまだまだ有情の範疇だった。
使用する銃器はSVD――ドラグノフ狙撃銃。市街戦での運用を目的として設計された前世紀からのベストセラーだが、さすがに古臭さは否めない。もっと性能の良いライフルを入手できなくもなかったが、今回テシクは迷わずこの銃を選んだ。雑居ビルの屋上から数百メートルと離れていない標的への狙撃を行うのに、数キロ先のカードを狙いたがわず射抜けるような高性能ライフルはむしろオーバースペックだ。
それでも標準装備のPSO-1スコープをより高性能なツァイス社製のものに換装し、銃自体の癖を掴むために試し撃ちも済ませてある。後は決行のみだ。
テシクは改めてスコープの中の標的に注目した。リモコンで操作された鉄扉が開き、日本の都市部には不似合いな真紅のスポーツカーが邸内に滑り込んだ。ウィングが跳ね上がり、標的が下りる。やや生え際が後退しているとは言え、端正な顔立ちだ。定期的にスポーツジムで汗を流しているのだろう、瀟洒なコートに身を包んだ立ち姿も悪くない。手にした高級百貨店の包装は、妻や子供たちへのプレゼントか。本当にこのよき夫、よき父親にしか見えない男が、合成麻薬や改造拳銃を売りさばく違法サイトを運営し、医師や政治家を顧客にした児童買春に手を染めているのか?
不思議だとは思わなかった。かつて読んだ、第二次大戦中ユダヤ人虐殺に関与した父親を持つ男へのインタビューを思い出した。血に染まった手で、人は我が子を抱ける。
ヘッドセットから呼び出しがあった。望月崇からだ。【そっちは?】
「標的を肉眼で確認……いつでもいける」眼球を動かさず口元だけで会話する。どうせ呟きは認識ソフトの方で勝手に補正してくれる。「家族の目の前でできるだけ残酷に殺す、でいいんだな?」
【見せしめならそいつの臓物を家族ごと庭の木にクリスマスツリーよろしくぶら下げてやるのが一番なんだが、さすがにご当主もそこまでやれとは言わなかった。罪も連座制だったら、イギリス人なんか今頃生きてないだろうしな】
つくづくひどい仕事だ、と思った。少なくともまともな神経の人間が大晦日にやることではない。
それならむしろ俺にふさわしい、と思った。こんな薄汚れた仕事をしている人間の人生が、夏の野花のように輝かしく生命に満ち溢れていたら、そちらの方が変だ。
「坊っちゃん嬢ちゃんにはとても聞かせられん会話だ……」
【やっぱこういう反吐の出そうな仕事は、毛も生えそろってないようなガキにゃ任せらんねえな。大人が積極的に手を汚さねえと】
奇妙なものだ。この男も、そしてこの男に指示を出す「ご当主」高塔百合子も、唾棄すべき犯罪に子供たちを加担させながら、殺しにだけは子供たちを使いたがらない。矛盾ではあるのだろうが、本人たちにそれを指摘したところで何とも思わないだろう。もっとも、自分がこれからやろうとしていることを考えれば彼ら彼女らを一方的に非難などできたものではない。
「それで、その肝心の坊ちゃん嬢ちゃんたちはどうしたんだ?」
【ロシア出張中。例の企業がらみ】
「ロシア? ……ああなるほど、水に落ちた犬は這い上がる前に棒で叩けって理屈か」
【そういうことだ。フェアプレイ精神なんて余裕のある奴だけの特権だって魯迅も言ってるしな】
どうもこの望月とかいう日本人のユーモアは鼻につく、とテシクは内心思った。育ちは悪くないんだろうに、お行儀が悪いせいだろうか。
玄関に灯りがついた。家族の出迎えだろう。
テシクは静かにトリガーを引き絞った。
邸宅へ向けて歩き出そうとした、標的の右太腿から血が噴き出した。「あれ?」とでも言いたげな顔で、それなりに芯の通った歩みをしていた標的が泥人形のように石畳に崩れ落ちる。テシクは続けて撃つ。仕立てのいいコートの肩が弾けて血と肉片をまき散らす。標的は自分の身に何が起こっているのか気づき、這いずって逃げようとするがもう遅い。脇腹を撃ち、臀部を撃ち、助けを求めるように掲げた右手を吹き飛ばした。爆発したように掌が消失し、指と骨片が飛び散った。邸宅のドアが開き、ガウン姿の夫人と2人の娘が泣きながら飛び出てくる。6歳と8歳、ぐらいだろうか。この時間まで夫の、父親の帰りを寝ずに待っていたら、目の前で撃たれて芋虫のような姿でもがいているのだから当然の反応だ。
最後に、標的の頭を狙って撃った。頭部が左顔面ごと四散する。
「終わったぞ。奥方は半狂乱で旦那の脳漿を搔き集めている」
【実に泣かせるな。ケネディが暗殺された時のジャクリーン夫人みたいだ】
いちいち癇に障る冗談を飛ばす男だと思った。俺もお前も下種野郎だが、共通点はそれだけだと内心で吐き捨てる。
【ご当主へは俺から報告しておく。撤収しろ】
「ああ」言われるまでもなく、テシクは後片付けを始めていた。空薬莢やスコープ、付属機器類は持ち去るが、銃本体は指紋を消すため強力な酸を振りかけただけで放置する。どうせロシアンマフィアの仕業に見せかけるために選んだ銃だ。それに、あの標的の「お得意様」には警察関係者もいる。証拠隠滅などしなくても彼らの方で事件をうやむやにしてくれるだろう。
屋上を後にしようとして、顔に何か降りかかるのを感じた。ほとんど水気を含まない、粉雪だった。予報通りだ。
雪は全てに降り注ぐ。路上の血痕にも、散らばった肉片にも、身も世もなく慟哭する母娘たちにも、そしてテシクにも。
「お前がたかだか数センチ降ったくらいで、この世の汚いものを全部消せるとでも思っているのか?」テシクは呟いた。もちろん、答えはない。
馬鹿なことをしている、テシクは頭を振ってその場を立ち去った。彼の今年最後の仕事は、そのようにして終わった。
〈20XX/12/31 21:35
ロシア連邦、クラスノヤルスク
シベリア鉄道『インペリアル・ロシア』号・VIP専用客車〉
【……サンプルとは言えほぼ完成品だ。これを培養槽の設計図と、ナノファージプログラミング用のマニュアルまでつけて売ろうというんだ。言い値で買ってくれてもいいんじゃないのか?】
【そうおっしゃられましてもね、ゲラシモフさん。商売というものは、合意に達しなければ意味がないのですよ】
流暢だが余裕のない口調のロシア語に対し、訛りのきつい相手方のロシア語は貫禄たっぷりで、優雅でさえあった。こいつが例の武器商人か、と見当はつく。【少なくともそれは、あなたの手元では何の意味もない代物でしょう……ましてやあなた自身、追われる身とあってはね】
【交渉は難航しているみたいね。ゲラシモフを撃っておいて死体相手に取引を始める前に動いた方が良さそう】ヘッドセットから夏姫の声。
「ああ。それか哀れなマクシムが逆切れしてスーツケースの角で殴りかかる前にな。……到着した。バックアップ頼む」
【任せて】
目的の車輌に通じるドアの前には龍一に負けず劣らずの体格をした大男が2人、仁王像よろしく立ちはだかっており、こちらを認めると掌を向けてきた。「お待ちを。ここから先は一般の方は立ち入り禁止となっています。お引き取りください」
龍一は頷いたが、頭の中ではごろつきのボディガードにしちゃお行儀がいいな、と呟いていた。こちらが何もしていないのに発砲するわけにも行くまい――そういうメンタルの持ち主は護衛には向かないからだ。もっとも、それが付け入る隙なのだが。
敵意のなさを示すために両掌を向け、一歩下がる。2人の男は険しい眼差しを向けたままだったが、わずかに警戒を緩めた。間違った判断ではない――龍一以外の相手に対しては。熟練のボディガードなら殺意には敏感に反応する。だが龍一は、殺意どころか敵意すら見せず次の行動に移れる。
無拍子で。
一呼吸の半分の時間で、袖口に仕込んだ万年筆型の注入器を抜き放った。残る半分で護衛たちとの距離を詰める。男たちの顔が、手で触れられそうな距離まで近づいた龍一の姿に強張った。ほぼ無意識のまま腕を躍らせた。注入器の先端が一人の首を、返す手でもう一人のこめかみを突いた。
即効性の薬物に男たちの巨体が崩れ落ちる。倒れ伏した時には龍一はドアをこじ開け、腰から引き抜いた鉄塊を「
龍一は容赦なくその首筋に注入器を突き立てた。悪いね、本職のボディガード相手じゃこちらも命懸けだからな、ずるさせてもらったよ――投げ込んだ手榴弾も本物ではなく、中身を抜いたただの文鎮だ。アンダースローでもう一人に注入器を投げる。喉に刺さった注入器を抜こうとし、果たせず倒れた。
驚きよりも怒りを露わに、チェチェン人武器商が立ち上がる。懐に手をやろうとして――次の瞬間、前のめりに倒れた。首筋に掌サイズの蜘蛛そっくりのドローンが這い回っている。万歳するように前足を掲げ、それから聞き覚えのある少女の声で喋った。【ね、私だって役に立つでしょ?】
「当然だろう。ロシアまで何しに来たと思ってんだ。豪華な食事で北京ダックになるためか?」
まあ素直じゃないわね、という声を無視して龍一はスーツケースを抱えて亀のようになっているマクシムに手を差し出した。「よこせ。挽肉になる前にな」
マクシムはすっかり毒気を抜かれた顔で、黙ってスーツケースを差し出した。開けると、発泡材に包まれたガラスシリンダーのようなものが数本入っているのが見えた。目的のブツに間違いないだろう。
「回収したぞ」
【はい、お疲れ様でした。その人はどうするの?】
「どうもしないさ」
【そうね】
踵を返そうとして――首筋の毛が一瞬にして逆立った。悪い予感に関しては外したことのない、お馴染みの危険察知だ。ほぼ同時に夏姫の声が耳朶を打った。【龍一、その場から離れて! 内務省直轄の
座席の影に転がり込んだ瞬間、ドアが大音響とともに吹き飛んだ。黒のヘルメットとボディアーマーに身を包んだ特殊部隊員たちが雪崩れ込んでくるのをちらりと見た気がしたが、それも無数の銃弾が頭上を飛び交うまでのことだった。
「くそ、スペツナズには大晦日もないのか!」
【隙を作るから逃げて、後ろの車輌で合流しましょう! ……ブレイク!】
ちょっと待て、と言う前に壁に飛び移った蜘蛛型ドローンが閃光を放ち、大音響とともに爆発した。さすがに特殊部隊員たちも一瞬ひるみ、激しい銃撃が衰える。迷っている暇はない、窓に向けて突進した。
身体のあちこちを銃弾がかすめる感触があったが、それもガラス窓を突き破る衝撃に比べれば物の数ではなかった。破片とともに地表へ落下しながら、空中で叫ぶ。「……来い!」
音もなく足元へ滑り込んできたバイクが、衝撃で大きく蛇行しながらも龍一の全身を受け止めた。尻がじんじん痺れたが、生きている証に思えた。「……ありがとよ。お前は命の恩じ……いや恩バイクだ」
【どういたしまして】
スロットルを絞り、加速した。「夏姫!」叫びに応じたように非常ドアが開き、長い髪とドレスの裾をなびかせて夏姫が姿を現した。視線が合うと同時に叫んだ。「飛べ!」
呆れるほどの思いの良さで夏姫は床を蹴った。ぶ厚い防寒着でもこもこに着膨れた娘としては驚くべき跳躍力だ。
2人分の体重を受け止めたバイクは木の葉のように揺れたが、オートバランサーは見事に態勢を立て直した。全天候型のスマートタイヤが地を噛む感触をこれほど頼もしく思ったことはない。
「このまま突っ走れ! とにかく線路から離れろ!」
【了解】
後方から銃声が連続して沸き起こった――だがそれはすぐさま遠ざかっていった。何しろ猛スピードで遠ざかる列車と反対の方向へ走ればいいのだから、楽なものだった。
「ゲラシモフは?」
「スペツナズに確保されたよ……死にはしないだろ。それより自分のことを心配しろよ。忘れるなよ、日本に帰るまでが仕事だぞ」
「そうね。……ねえ龍一、ハッピーニューイヤー!」
「突然何だよ⁉」
「現在時刻は12月31日、22時0分。日本との時差は2時間だから、ちょうど新年よ。あけましておめでとう! 今年もよろしくね、龍一!」
「ああ……こちらこそ、よろしく」
「百合子さんには最悪焼却処分してもいいとは言われていたけど、確保できたんだから申し分ないわよね。きっと帰ったらボーナスくれるわ。一週間遅れのお正月休みだって貰えるわよ。おせちもお雑煮もお腹一杯食べましょ」
「悪くはないけど、それ全部日本へ帰れてからの話だからな……」
【新年あけましておめでとうございます、お二人とも】柔らかな合成音声が聞こえた。【私からもお祝いの言葉を述べさせていただきます。お二人にとってこの一年が、去年よりもさらに恵み深く、光に満ちたものでありますように。この世界があなたがたにとって、さらに驚きと喜びに満ちた、豊かなものでありますように】
あっけにとられたように夏姫は少し黙ったが、すぐに言った。「……龍一、この子に名前は付けたの?」
「名前? ……いや、まだだが」
【名前、ですか? 私はヒューマン・リンク・AIの一系統です。現在はこの偵察戦闘用特殊二輪の運動管制システムを制御しています】
「じゃ、それも日本へ着くまでに考えましょ。だいぶ時間はあるもの」
バイクを駆りながら、来年こそはもうちょっと尋常なシチュエーションで新年を迎えたいな、と龍一はしみじみ思った。
〈20XX/01/01 05:55
日本、未真名市
『ホテル・エスタンシア』VIPルーム〉
崇が百合子の部屋に入ると、彼女は昼間と同じく一分の隙もない服装で彼を迎えた。どれほど夜遅くなろうと、たとえ夜が更けようと、成果を聞くまでは百合子は決して眠らないことを、崇はよく知っていた。
崇を見て軽く頷くと、百合子は卓上のスピーカーホンを即座に切り替えた。
「終わりましたわ。……年をまたいでしまいましたけど」
【お気遣いなく。むしろ新年早々に吉報を聞けて実に喜ばしい】鷹揚で深みのある声は、聴き間違えるはずもないラスヴェート綜合警備保障CEOセルゲイ・メルクロフのものだった。【これでVCナノファブリカの株式は我が社が40パーセントまでを保有することとなった。もちろん、ダミー会社を介してですが】
「ロシア政府に先駆けて、ですね?」
【何でもお見通しですな】苦笑。【政府もテロリストに兵器転用されかねない技術の流出を阻止できたのですから、文句はないでしょう。ありがとうございます、ご当主。あの勇敢な彼と彼女にもくれぐれもよろしくお伝えください】
「こちらこそありがとうございます。必ず伝えます」
【それでは】
「羆の親分はえらくご満悦のようですね」
百合子は向き直った。「最小限の投資に最大限の効果。彼らとしても異存はないでしょう。お疲れ様でした。新年、あけましておめでとうございます」
疲れ切ってはいたが、その言葉に苦笑せずにはいられなかった。長すぎた、そして汚れに汚れ切った一日の締めくくりには皮肉としか言いようのない挨拶だ。「こちらこそ」
「そうでした――夏姫さんからあなたにプレゼントがあるのでした。新年が明けたら渡すようにと」
「俺に?」
崇は手渡された、上品な包み紙に鮮やかな緑のリボンが結ばれた包みを眺めた。
「いや、そうだ、俺も……」
崇が取り出した袋を見て、今度は百合子の方が目を瞬かせた。「これは……私にですか?」
「俺の方は、龍一から預かったんですが……」
「私は夏姫さんから預かりました。……なるほど、そういうことですか」
「崇さん」踵を返し、退室しようとして崇は振り返る。百合子の表情は……なぜだろう、いつもの凛とした立ち姿と違い、迷子の少女のようにも見えた。
「あの子たちにふさわしいものを、私たちは差し出せるんでしょうか?」
「その答えは、一日や二日で出せるものじゃないでしょうね。……失礼しますよ」
肩をすくめ、崇はまた歩き出した。
彼も疲れていた。
降下するエレベーターの中で、崇は中から出てきた、ウィスキーボンボンの箱と添えられていたメッセージカードを見る。〈あけましておめでとう。酔っ払いへ〉
「あいつら……」
痙攣じみた笑みを浮かべた時、頬に微かな熱を感じた。朝が来たのだ。崇は全面ガラス張りのエレベーター内から見える朝日に、寝不足気味の目を細めた。
百合子は袋を開け、色とりどりのゼリービーンズを黒檀のデスクの上へ幾つか転がした。
「……あの子たちったら」
彼女は苦笑しながら、今しがた上ってきた今年最初の朝日に向けて、鮮やかな緑色のゼリービーンズを指の間で透かし見た。
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