追憶 少女は荒野をめざす
庭園の片隅に置かれたいつものベンチへ行くと、文庫本を読んでいた顔見知りが私を認めて軽く手を振った。こちらも振り返して彼女の隣へ座る。
「面白そうな本、読んでるじゃない」
「まあね。つまらなくはない」宙子はボストン・テランの『音もなく少女は』から顔を上げて答える。リムレスの眼鏡が似合う、全体的にシャープな顔立ち。可愛いという形容は当たらないが、私の好きな顔だ、と思う。
「電書じゃ読まないんだ」
「知ってる癖に。『淑女にふさわしからぬ』本は学園内じゃダウンロードできない」彼女は肩をすくめる。
その通りだった。私だって『ジェーン・エア』や『嵐が丘』は古典として伝わる価値のある名作だとは思うが、もっといい加減な、機関銃が火を噴き車がひっくり返るような代物を雑に読み飛ばしたい時にそればかりでも困る。
「司書の先生がなかなかいい趣味でね。蔵書に入れてくれるよう頼んだ」
「へえ」私は少しばかり驚いた。確かにこの学園の図書室には司書がいることはいるが、陰気なハイミス、という表現で思い浮かぶような女性で、そんな洒落っ気があるとは夢にも思わなかったからだ。
「人は見かけに寄らないわね」
「そう、見かけに寄らない。まったく。そっち、何か面白いことは?」
「あんまりない」
「私もそうだ」宙子は少し口元を緩めて言う。
いい天気だった。中庭からは、バレーボールに興じている下級生たちの歓声が聞こえてくる。
「青春してるね」
宙子がまた、ちらりとこちらを見る。「混ぜてもらえばいいのに」
「まさか。柄じゃない」
「私もだ」また、文庫本に目を落とす。「ここで読書している方がずっといい」
私と宙子の過ごす時間はいつもそのような感じだった。日本を象徴する淑女を育てる、という設立当時は先進的だったに違いない、古都鎌倉の高台に設立された全寮制名門女子校は「産めよ増やせよ」の時代よりはややマイルドになったとはいえ、校風のそこかしこに残っていて、卒業した後の私たちに期待されているのは日本の明日を担うエリートたちの「よき嫁」なのだ。
眼下には広がる風光明媚な鎌倉の街と海のきらめきを一望にできる……と言いたいが、それにしては白塗りの壁が無粋ではある。
「どうにもぶち壊しね」
「見慣れるとそうでもない。どこまでも続く刑務所の壁はシンプルで無駄なく美しい」
私の唯一の友人が時々発するユーモアは、どうにもひねくれている。
海の向こうで半島が統一され、沖縄の在日米軍基地が核テロで消滅するという世界で淑女たちの「揺籃の庭」を維持するのも一苦労だろうとは(他人事として)思うが、その手の幻想を必要とする人々が少なからずいるのも事実で、それに服従するのも反発するのも、どちらも同じぐらい消耗するのだった。
笑いというよりは苦笑いが、私と宙子を繋いでいたような気がする。
互いに自分たちの親の話だけはしなかった。私と両親の仲は数年前からずいぶんとおかしなものになってしまったし、どんな質問にも答える宙子も、「両親の話題」だけはドーナツの穴のようにすっぽりと抜けていた。だから私も聞かなかった。私と宙子は似ていたのだ――それも自分で思う以上に。そうとわかったのは、ずいぶんと後になってからのことだ。
「あの、瀬川……さん」
おずおずとした声の方を見ると、同級生だった。「学園長先生が……至急、部屋まで来てほしい……そうです」
思わず、隣の宙子と顔を合わせてしまった。「学園長が、私に? どうして?」
「わ、私にも、わかりません……それじゃ、伝えましたから」
言うと彼女はもう用事は済んだ、とばかりに早足で立ち去ってしまった。
「学園長が何の用だろ……?」
「それもだけどさ、どうして君、クラスメートに敬語使われてるわけ? あの子に何かしたの?」
「まさか。……でも、あー、心当たりはあるかな」
「転入初日にクラスで一番強い奴をシメたとか?」
「少年漫画じゃあるまいし。ああ……でも似たようなものかな。何だか女王様を気取ったような子がおかしな嫌な絡み方をしてきたから、お礼に足元をそっと払って差し上げただけ」
宙子は苦笑する。「やっぱり怖い女だったんだ」
「淑女たるもの、その気もないのに言い寄ってくる男や、くだらない嫌がらせをしてくる同性を突き飛ばす方法の一つ二つ心得ていてもいいと思うのだけど」
それはもっともらしい理由だったが、理由の半分でしかなかった。一人でいるのはそれほど苦ではなかったし、何より「例の事件」について胸元に手を突っ込むような無神経さで聞いてくる相手と仲良くできるとは思えなかったし、どうにかしてほしくもなかった――私自身がどうにかできないのだから。カウンセリングは体のいい洗脳としか思えなかったし、素人の玩具になるのもごめんだ。
宙子は笑って手を振った。「行って、せいぜい絞られておいでよ」
「絞られること前提?」私も笑い返したが、実を言うと心当たりがないわけではなかった――どころか、一つしか思いつかなかった。
「失礼します」
「どうぞ」ノックに室内から応じた声に、私は何か変だと思った。あのどっしりと重たくて横に広い学園長のものとは似ても似つかない、若い女性の涼しげな声だったからだ。新しく秘書を雇ったという話は聞いていないけど。
首を傾げながらドアを開けるとほぼ同時に、窓辺から外を見ていた細く優美な――もちろん学園長とは違う――シルエットの持ち主が振り返った。
その時の私が何を予想していたにせよ、想像していなかった姿であることは確かだった。下手すると口が半開きになっていたかも知れない。
色素の薄い、どこか灰色を帯びた双眸が私を見つめる。肩まで届く琥珀色の髪が、振り向いた拍子に光の粒を振り撒いて揺れた。神様は演出過剰気味ね、と心の中で茶化したくなったが、そんな冷静な判断とは別に一瞬で魅入られたのも確かだった。
「富士宮女学院、2年萩クラスの瀬川夏姫さんですね? 初めまして。
そして一番の問題は――その人の美しさ云々ではなかった。
「学園長には席を外していただきました。嘘を吐くことになりますが、他にあなたを直接呼び出す手段がなかったものですから。そのことをまずお詫びしておきます」
高級な生地が意味をなさないほど地味に仕立てたスーツを着た高塔財閥当主は、棒立ちになっている私に向かい、去年の始業式で来賓として招かれた際と同じように文句の付けようがない物腰で一礼した。私も返事したはずだが、相手に届いたかどうかは定かではない。急に、スカートに皺ができていないかが気になり始めた。
彼女は来客用の椅子を示し、自分も座った。窓際に立っていたのは、今はいないこの部屋の主を慮ってのことだろうか。私は好感を抱いた――もっとも高塔百合子を前に、好悪いずれかの感情を抱かずにいるのは並大抵のことではないだろうけど。
何しろ見事に左右対称の、相対するのが恐ろしくなるような美しさだ。こうして間近にその顔を見ても瑕疵がまるで見出せない。この人がぼさぼさ頭で目を覚ましたり、寝ぼけた顔で朝食を取ったり、用を足したり、女友達と馬鹿話に興じて笑い転げたりする様が少しも想像できない。
「それで、私に話というのは……」座って少し調子を取り戻した私はこちらから問いかけることにした。聞かないうちから脅えていても始まらないし、何より彼女が私を呼び出す理由に大いに関心があったからだ。何しろ高塔による奨学金制度の恩恵に預かった卒業生は少なくないのだ――まだ三十そこそこの若さで国内有数の財閥当主として影響力を振るう彼女に対し、私はいくら実家が「太い」とはいえ、一生徒に過ぎない。
その質問を待っていたかのように彼女は微笑んだ。邪なものは感じられない、好意的な笑みだったが、それは私の背筋を何となく寒くした。
「シンプルな質問が一つあるだけです。……先日の『アカデメイア・コムリンク』社へのハッキングは、あなたの仕業ですね?」
さっきの見返り美人がジャブなら、今度はアッパーカットだった。ノックアウトされたボクサーよろしく、確実に数秒間は固まっていたと思う。
1%の義憤と残り99%の好奇心。私を突き動かしたものを無理に言語化すれば、そういうことになるだろうか。
一昔前――高塔百合子が私くらいの年齢であった頃に比べればずいぶん裏ぶれたと言っても、かつての名門の威光というものはそれなりに残っているようで、礼峰学園と聞けば10人中9人が「ああ、あの」と口をそろえて言うほどだ。それだけに馬鹿げたしきたりもそれなりに残っていて、もう少し砕けた周辺校生の間では失笑の的になることもある。
三ヵ月ほど前のことだ――定例の全校集会で例の分厚い学園長があまり威厳の感じられない口調で話し始めた内容に、居並ぶ先生たちが注意しなければならないほどはっきりとしたざわつきが広がり始めた。私は朝礼が始まる前に早くも「意識を宙に飛ばして」いたのだが、あたかも筆で一撫でしたように周囲の空気が「ざわっ」と端から変わっていく様子にこれは只事ではないな、と気づいた。
端的に言うとこうだ――校内の授業用PCやタブレットだけでなく、全生徒のスマートフォンへGPS連動の常駐監視アプリをインストール、24時間の行動履歴をチェックし不審な行動に対しては学校及び親による審査を通るまで出席停止処分とする。
明治大正ロマン溢れる女学校に通っていたつもりが、ディストピアSFの世界に放り込まれたというわけだ。
既に社員一人一人の行動履歴を一括監視できるアプリケーションを導入している民間企業は珍しくなくなっているが(そして時々、休日の行動まで目を光らせすぎて裁判沙汰になるが)それを未成年者相手、高校生相手に行ったのは全国でも例がないということだ。当たり前だろう、と思う。
聞けば休日中につい羽目を外しすぎて学園内にご禁制の薬物を持ち込んだり、自分たちのブランドを積極的に金に変えたりといった問題は過去に数度起きていたようだから、導入を決めた人々の危惧もそれなりに根拠のあることではあったのだろう。
もちろん生徒会や一部の教職員からの猛反対はあったものの、発言権を持つ生徒たちの親や理事会メンバーが監視システムの導入に乗り気になっているのだからどうしようもない。誰も何もしなければすぐにでも本格始動しかねない勢いではあった。
誰も何もしなければ。
先ほども言った通り、義憤、なるものが私の中にあったとしてもそれはほんの1%にも満たない量だ。私を突き動かしたのは好奇心だった――私たちを四六時中監視する者たちがいるとすればそれはどのような人間たちなのか、と。誰か一人の人生でさえ私たちは背負いきれないでいるのであり、それを数百人からなる女生徒それぞれの人生をたかだか数人、一企業でのみ責を負えると思っているのであれば笑う価値すらない馬鹿話ではないか。
ついでに言えば、私は美辞麗句に付き合うのならともかく、馬鹿話に人生を左右されるのは真っ平御免だった。私の人生はもう充分に馬鹿げた方向へ進んでいる。「あの事件」以来。
そして私は動いた。誰かに頼まれたわけでもなく。
そもそもそんな技能が私のような少女に備わっているのか、だが。
前述のようにかつての名門校の評判を(これ以上)落とすまいという親や教職員たちの執念は相当なもので、校内でのネット環境にさえフィルタリングが行われる。つまり私たちは電子の世界でもゲットーに存在するというわけだ。が、ネットと全体主義国家の相克と同様、にきび面の十代に対してネットを制限するほど効率の悪いものはない(良い子は最初から言って聞かせる必要もなく、悪い子はどれだけ禁じられていてもやる。そして悲しいかな、ロックを外す方法などこの世にはごまんとある)。そして私たちの学園には古の武道家が弟子に伝える一子相伝の秘儀のごとく、連綿と伝わる「よろしくない技術」の継承があるのだ。何の見返りも求めず先輩方は私に嬉々としてそれを教え、私も乳児のごとくそれを糧にすくすくと育ったのだった。
不謹慎な動機であったことは否定しない――少なくない興奮を味わいながら、私は表裏に渡る件の調査会社を内偵し始めたのだった。
出るわ出るわ――成長著しいIT企業にはそれに相応しい薄暗がりが寄り添っているとは聞くが、これほど劇的なものが見つかるとは私自身予想していなかった。社長のホステスへの入れ込みよう、当然の結果としての粉飾決算、よろしくない筋からの資金流入、自分の親族を役員に据えての強引極まりない情実人事。
こんな会社に生徒の24時間監視なんか任せたらディストピアSFどころかそれですらない代物になりそうね、と私は内心溜め息を吐きながら、揃えた証拠を教育委員会と報道機関に、もちろん匿名でだが、流したのだ。それだけだと握り潰される恐れがあるから、世話になったアングラネットにもそれを流すよう依頼するのも忘れなかった。彼らはともかく権威的なものを親の仇のように憎んでいるから、無報酬で実に効率的にばら撒いてくれたのだった。
結構なスキャンダルとして世を騒がせたから、この文章を読んでいるあなたもそれを目にしたことがあるだろう。
次の全校集会、淡々と事情を説明する学園長と、悪酔いから覚めたような表情の先生方の対比はなかなかの見ものだった。たぶん何も知らされていなかったのだろう。やや良心が咎めないでもなかったが、別に雷に打たれて死にはしなかった。
騒ぎの余波をやり過ごすため、しばらくは大人しくしていた。用心のためネットに触れる回数も減らしたくらいだった。だがいつまで経っても令状を構えた刑事が訪ねてくるでもなく、もしかして完全犯罪成立か、と私は安堵する反面、落胆しないでもなかった。小娘一人に崩壊させられたディストピア。笑い話にしては落ちがないし、教訓にしては間抜けすぎる。
まさにその油断の隙を突くかのように、高塔百合子は現れたのだ。
一瞬、何のことですか、ととぼけようかとは考えた――意味のない返しだとはすぐにわかった。彼女が確証もなく私を呼び出すはずもない。高塔百合子ほどの人物が、一介の女生徒をからかうためだけに学園長室へ呼びつけるほど暇でもないだろう。
それに、私には知っておく必要があった。つまり何をしくじったか、をだ。実際、痕跡を残していないことに関しては絶対の自信があった。
「……どうしてわかったんです?」
「話が早くて助かります」彼女は軽く頷いた。こちらを見下したところのまるでない笑みだった――かえって気に食わなかった。「あなたは思った以上に潔い人のようですね。だから私も、もったいぶった話し方をするのはやめましょう」
それは助かる。ただでさえこの学園には、薄っぺらい美辞麗句なんて叩き売れるほどまかり通っているし。
「まず初めに言っておくと、瀬川夏姫さん、あなたを警察に突き出すために呼んだわけではありません」
「わかります。自首を勧めに来たんですよね。その方が私の罪状も軽くなるし、報道機関の受けもよくなりますから。皆が笑顔になれます」
この程度の皮肉で痛くもかゆくもならないだろうが、言わずにはいられなかった。相手は本物のお姫様、どころか女王様以上の存在ではあるのだが、好きなことを言ったって即座に首を刎ねられやしないだろう、という確信もある。
だが、百合子さんは笑顔のまま首を振った。「当然の予想ですが、違います。倫理で言えばハッキングは犯罪ですし、よいことと言うつもりもありませんが、とがめるのが目的でもありません」
「ではどうして?」もったいぶるつもりはないと言ったでしょ、と付け加えたくなるのを堪える。
「件の調査会社については私が独自のルートで調査を進めていたのですが、着実な証拠をそろえる寸前にあなたに動かれてしまいました。それはあなたを見出したという嬉しい誤算でもあったのですが」
つまり私と彼女は同一のターゲットを目指していたということだ。
「結構うまくやったつもりだったんですけど」
「存じています。用心に用心を重ねていたのでしょう? 学園内ではなく休日中に市内のネットカフェからアクセスし、使用したのも非合法サイトから入手した偽造ID。しかもカナダとシンガポールの闇サーバーを経由してですから、足跡をたどるだけでもかなりの困難があるでしょう」
私は顔を引き締めた。こちらの手口までばれている。「どうやって突き止めたんですか?」
彼女はあの有名な肖像画の女性を思わせる、謎めいた微笑を浮かべた。「それに答えるには、こちらの申し出を承諾していただく必要がありますね」
ずいぶんと話がきな臭くなってきた。同時に、興味も覚えた。高塔財閥ほどのバックがあれば、たとえ相手が一企業だろうともっとクリーンな方法で社会的制裁を加えることなど容易だろうに。私一人の生殺与奪については言うまでもない。
「それは高塔財閥の意志で?」
「違います。私の独断です」百合子さんはきっぱりと首を振った。「高塔と私はイコールではありませんし、そこまで自惚れてはいません」
模範解答みたいな立派すぎる答えだ。それだけに彼女の提案に含まれるきな臭さ、いやはっきりと言えば、危険な気配がますます気になった。
「あなたが懲らしめた――とあえて言いますが――悪など、微悪・小悪の類です。法律違反であると同時に人の魂に対する不誠実ではありますが、許すべからざる悪というほどではありません。ですが私は本当に――存在してはならない悪なるものを、目にしたことがあるのです」
ドラマの中の台詞なら欠伸の一つも出るというものだが、彼女ほどの麗人が真剣な口調で言うと容易には笑い飛ばせない。やはり美人は得だ、と思う。
「私は許すべからざる悪と戦うための人員を集めています。あなたもそれに加わってほしいのです」
「……簡単には返事できないお誘いですね」私は慎重に答えを選んだつもりだった。いくら雲上人からの話とは言え、これほど怪しげな話に二つ返事で乗るほど私も人生を投げてはいない。だいたい、私の人生は戦いのためにあるのではないのだ……と思いたい。だが、では戦い以外の、どのような人生を目指しているのか――そう問われたら私は答えられないだろう。たぶん。
「あなたがこのような話に飛びつく軽薄な方とも思っていません。二つ返事で受けられたら、私の方が困ります」
「……買いかぶりすぎです」
「それに、何の見返りもないわけでもありません。あなたが協力してくれれば、私も援助を惜しまないつもりです――あなたが本当にかなえたい願いについて。あの誘拐事件は何だったのか知りたくありませんか?」
表情を殺そうとはした――上手くいった自信はなかったが。
それについて、「あの誘拐事件」について、考えなかった日は一日たりともなかったからだ。
百合子さんは真正面から、白刃で切り込んできた。「あなたを攫い、監禁し、何の要求も発さず、指一つ触れず消えたあの犯人たちの目的は本当は何だったのか知りたくありませんか?」
「やめて」
思ったよりきつい声が出てしまった。百合子さんは少し顔を曇らせたが、話を止めはしなかった。
「常識的な頼み方とは言えません。頼める立場にないことも――ですが、私たちはお互いに自分の求めるものを与えられるのです。あなたの能力を生かしてみる気はありませんか? 微悪ではない、本物の悪を討つために」
きな臭いを通り越してとんでもない話になってきた。断言してもいいけど、高塔百合子以外の人間から聞いた話だったら私は鼻先で笑って席を立っていただろう。
「ボンドガールにでもなれってこと?」
「違います。他の誰でもない、あなたが悪と戦うのです」
「私に何を期待しているんですか?」私は半分笑い、半分怒った声で言った――自分でも駄々をこねているようにしか聞こえなかった。「ハッキングなんて、ただの子供の遊びです。社会に出るまでの悪戯でしかないんです。あと一年もすれば私は卒業して、勉強そっちのけで大学で遊び惚けた記憶だけを思い出にして、そこそこの会社に就職して、そこそこの相手と結婚して、手のかかる子供と、子供みたいな膨れっ面をした夫の世話をして一生過ごすんです」
「自分でも信じていない嘘はやめましょう、瀬川夏姫さん」百合子さんは穏やかな笑顔のまま言い切った。「最初の一撃はいつの時代も、無謀な若者から放たれるものです。誰かに打ちのめされる前に自分を打ちのめしていては、勝てる戦いも勝てません。人生を諦めるのは、テーブルの上で存分に踊った後でも遅くない、とは思いませんか?」
それに、と彼女は魅力的だが、真意が読み取れない笑顔とともに続ける。「自分たちには誰も手出しができないと何の根拠もなく信じ切っている者たちの横面を思い切り張り飛ばすのは、何にも勝る快感ですよ」
一日や二日で出る答えではないでしょう、時間は差し上げます、と百合子さんは言い、私に退室を許した。
学園長室を後にし、教室へ向かいながら私は彼女の言葉を吟味した。自分でもそうする必要を感じたからだ。
一つ。私を生かすも殺すも彼女の気分次第である。
二つ。とは言え、どうやらすぐに警察へ突き出すつもりはないらしい――スポンサーとなれば当然気にするのは学園自体の名誉だが、彼女の関心は明らかにそれ以外にある。それもあまり大っぴらにはできない事情が。
三つ。だからと言って私が警察に駆け込むわけにもいかない。事の経緯を最初から最後まで説明することはもちろん不可能だし、彼女もそれは百も承知だろう。
それを承知でああして私を誘ったということは、なかなかどうして、顔に似合わず食えない女性だと思う。
まるで前世紀冷戦の相互確証破壊だ、思いながら私は気づいた。学園長室からあの庭園が見えることを。おそらく彼女は私に注目していたのだろう――私が彼女に対面する遥か以前から。
少なくとも現状維持という選択肢だけは取れそうにない。応じるにせよ拒むにせよ、彼女は何らかの回答を求めている。さて、どうするか。
ハムレットだってこんな問いを突き付けられたら頭を抱えるだろう、そう思いながら私が庭園に足を踏み入れようとした時だった。
宙子が、誰かと話している。誰だろう?
相手の顔に見覚えがあると思ったらクラスメートなのだから当然だった。確か
一方の宙子は、ひどく切迫した顔をしていた。いつもの飄々とした態度からは思いもつかない表情だ。
近づこうとした時、午後の授業開始のチャイムが鳴り始め、私は声をかけそびれてしまった。ただ宙子のあの顔だけは、強く印象に残った。
自室に戻る。ルームメイトの娘は部活動に精を出しているのか、あるいは単にほっつき歩いているのか帰ってはいない(というより、最近は露骨に避けられているふしもある。女王様に喧嘩を売ったルームメイトと一緒だと気まずいのだろうか)。
どうもあの人たちは本格的に私を忘れることにしたらしい。それとも私が結婚適齢期に達したら「よき妻」としての自覚を持つよう、少しは口を出してくるのだろうか?
恨めしさは感じなかった。自分たちの子らとは言えあれほどややこしい事件に巻き込まれたら親としては感情を持て余すだろう。子は親を選べないのと同様、親も子を選べない――そう思えるようになるまで、結構な時間を必要としたけれど。
直接本人に聞かなければわからない、率直に答えてくれるかどうかもわからない問いについて考え続けるのは、ひどく消耗する。
ベッドの上に制服のまま寝転がり、私は考え込む。宙子が見せた表情について、そして百合子さんの言葉について。
自問する。――なぜあんな怪しげな話に乗る必要がある?
普段は何とも思わない、天井の照明が今日はなぜかひどく目に痛い。
自問する。――では乗らない理由があるの?
彼女の言葉を思い出す。――自分たちには誰も手出しができないと何の根拠もなく信じ切っている者たちの横面を思い切り張り飛ばすのは、何にも勝る快感だと思いませんか?
認めよう。彼女は私の弱みを巧みに突いたのだ。
あの事件の後で思い知ったのは、事件が終わった後でも人生は続くということだ。映画やドラマとは違い、明確な区切りも答えも、エンドロールもなく、ただ続いてしまうということだ。
物思いにふけっている間、私は眠ってしまったらしい。
夢に見たのは、いつもの夢だった。
夢の中で私は5歳に戻っている。目隠しをされ、口に布を噛まされ、両手両足を椅子に固定された5歳の少女に。身をよじったが、手の縛めはびくともしない。不思議と恐怖は感じなかった――ただ頭の片隅で、おしっこに行きたくなった時困るな、とは思う。人を呼ぼうにも猿轡のせいで呻き声ぐらいしか出せそうにない。
左頬に熱と、空気の揺らめきを感じる。暖炉、だろうか。そうだ、時々何か――乾いた木が木が焦げる小さな音が、燃えてぱちりと弾ける音がする。それ以外に音は全くない。人の声も、電子音も、空調音すら聞こえない。防音設備の中にいるように、外を走る車のエンジン音や、雨風の音なども聞こえてこない。恐ろしいほど、耳が痛くなるほど静かだ。
ドアの開く音と、複数の靴音。私は身をすくめるが、足音の群れは目隠しされた私の前を素通りする。椅子を引く音、腰を下ろす微かな軋み。入室者たちは静寂そのものだった――何かの災いを恐れるように。話し声どころか咳一つ聞こえてこない。幽霊のようだ。
「ヒトの情動はヒト自身が思っている以上に機械的なものである。人工知能の研究とは、すなわち人の思考をオブジェクト化する研究との同時進行でもあった」
いきなり誰かが口を開き、私は怖がる以前に面食らった。若くはないが歳を取りすぎてもいない、壮年の男性の声。私の父より少し年上ぐらいだろうか。
「良心や悪意、嘘や嫉妬といった『人間らしい』感情の大半は、実は大脳の生理運動で説明がついてしまう 。人間らしいか、そうでないかが重要なのではない。おそらくは『人間らしさ』という基準そのものが、そもそも信頼に値しないのだ。今日に至るまで世界の紛争は、経済格差と民族間抗争がその大半を占める。理解できない他者への恐怖とセキュリティ意識の暴走、と言い換えてもよい――だがしかし、己が思考と感覚とをそっくりそのまま他人に転写できる技術が産み出された暁には、その時こそ地上は、生きとし生ける者の腸から引き千切ったかのような悲鳴で溢れ返ることだろう」
かさり、という微かな音が聞こえた。紙束をめくる音だ。紙に書いた文章をそのまま朗読しているらしい。私に読み聞かせているのだろうか?しかしその声には、紙の上の文字を読むという以上の意志を全く感じ取ることができなかった。悪意さえも。
「自然から切り離された人間はもはや野外では生きていけない。一定数以上に膨れ上がった集団は、必ず都市を指向する」
今度は私の母よりずっと若い女性の声。また、かさり、と紙束をめくる音。
「ヒトは都市に縛られ、都市はヒトを歪め作り変える。オブジェクト指向に突き動かされる母集団の人口比率を操作することにより都市そのものを操作することは、困難ではあるが、不可能ではない。彼ら彼女らは誰かに命じられるまでもなく断崖絶壁へ向けて行進を始めるだろう――強制されたわけではない、これはまごうことなき『私』の選択だと思い込みながら。〈ハーメルンの笛吹き男〉に導かれる、鼠の大群のように」
「アラン・チューリングは『考える機械』を創造し、ヴァニヴァー・ブッシュは機械による人の知能増大を提唱した」
さらに別の声、若い男の声。
「森羅万象をシミュレートできる装置は存在しない――ただしそれは現時点では存在しないということであり、永遠に否定し得るものではない。その誕生の時こそ、我々はデジタル的思考とアナログ的発想を並列しうる非ノイマン型コンピュータの登場を、真の意味でのデウス・エクス・マキナ、『機械仕掛けの神』を目の当たりにするのかも知れない。もっともそれはヒトが――今だに『知性』の何たるかを完全に定義しきれていないヒトが、それを理解できるかどうかは、また別の話だ」
最後の声の主が口を閉じるのとほぼ同時に、複数の人数が立ち上がる音が聞こえた。紙をまとめ、端をそろえる音。置物を動かす音。暖炉に紙の束を投げ込むばさばさという音。掃除機を絨毯にかける音も聞こえる――それから足音の群れは再び私の前を横切り、一言も発せずドアを開けて部屋を出て行った。
目隠しを透かして、部屋の照明が消えたことを知る。
暖炉の火も落とされたのか、室内がしんと冷えてきた。
5歳の私は暗闇に残される。
夢はそこで終わり、私は見慣れた自室の天井を見つめる。かざした手に目の焦点を合わせることに苦労する。私は夢を見ていたことを知り、そしてすぐ、あれが夢でなかったことを思い出す。耳が痛くなるような静寂より、それを破っていくつもの荒々しい足音が入り乱れた後で交わされた「発見!」「発見しました!」という怒鳴り声の方が怖かったこと。「どんな些細なことでもいいから思い出したことはない?」と女性警官に優しく聞かれたのに、何から説明したらいいのかわからなくて首を振ったこと。そして両親、あの両親が、喜びよりも悲しみよりも、まず困惑した顔で私を見たこと。
後になってわかったことだが――身代金を含む犯人からの要求が一切なかったことも含め、警察は狂言誘拐、あるいは株価操作を目的とした金融犯罪の疑いもあるとして、両親にも事情聴取を行ったらしい。父も母も私を心配しなかったわけではないだろうが、何しろお坊ちゃんお嬢ちゃんがそのまま結婚して家庭を持ったような人たちだ――官憲に疑われること自体が、耐えがたく神経を苛んだのだろう。
一日として忘れた日はない。一日として考えなかった日はない。あの事件は本当は何だったんだろう。あの人たちは誰だったんだろう。何のために私を誘拐したんだろう、と。何に答えが書いてある?
誰に聞けばわかる?
あれほど大きな、私の人生を変えてしまった事件を、もう誰も覚えていないのだ。
私は両手で目を覆う。
あれがただの夢だったら。
私の人生は、どのようなものになっていたのだろう?
翌日。教室に足を踏み入れた私は、その瞬間に違和感を感じ取った。いつもは公然と無視されるか、あわてて目を斜め下に逸らしてくるクラスメートが、今日は妙に私に注目している気がする。珍しいことだ。
見回しているうちに例の晃子と視線が合った瞬間、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。何となく嫌な感じの笑い方だった。別に彼女にどうとも思われたくないのだが、その表情だけは気になった。
昼休み、宙子はいつも通り庭園で待っていた――だが、様子が明らかにおかしかった。
これ、と言って宙子は一冊の文庫本を差し出してきた。よほど読み込んだのだろう、表紙はだいぶ擦り切れている――ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』。
「餞別。他に思いつかなかったから」
妙に湿っぽい声も仕草も、普段の彼女とは似ても似つかなかった。
「転校することになった。家の都合で」
「転校?」間の抜けた返しをしてしまった。内容よりも、彼女が初めて見せる弱々しい表情の方が気になった。
「親父がしくじった」ぽつりと宙子はそう言った。
自慢できることじゃないから黙っていたけど、という前置きの後で彼女はぽつりぽつりと語り出した。「親父、例の『監視システム』の開発責任者だったんだ」
自慢になるどころか――それが露見しようものなら学園自体にいられなくなるだろう。あるいはシステム自体が稼働していれば宙子も学園内でそれなりの地位を確立できたかも知れないが……いや、彼女自身がそんな立場に耐えられないだろう。子は親を選べないとはよく言ったものだ。
「要するに親父は、ハイリスクな先物取引に手を出して盛大に失敗したんだ。私の未来まで抵当に入れてさ」
家族。私と宙子が常に意識していながら、できるだけ目を背けるようにしていたもの。
「道理で、最近は家に寄り付かないと思っていたよ……それがあの騒ぎの後、夜明けに家へたどり着いた迷子みたいな顔でさ。やっと目が覚めた、家族が一番大事だ、だってさ。勝手すぎて怒る気にもならないよ」
そんな父親でもやはり娘を恋しいと思うのだろうか。いや、わからない。父親には父親の言い分もあるのかも知れない――お父さんはお前のために苦労しているんだ、とか。ああ、私は彼女の会ったこともない父親を自分の父親にまた重ねすぎている。
プロジェクトが頓挫したことで父親は左遷、学費も払えなくなり、県外の公立高校へ転校するしかなくなったと言う。
「行きたくないとは……言えなかった?」
「転校に承諾したら露骨にほっとした顔をしていた。それを見たら、何も言えなくなったよ」宙子の顔に浮かんだ笑いは、他に表情が思いつかないから浮かべたように見えた。「私の誕生日だって忘れていたような親が、叱られた子供みたいな顔でもう学費を払うのは無理だって言うんだ。本当に無理なんだろう、と思うしかないな」
「晃子とは……知り合いだったの?」
「見られていたんだ」苦笑、と呼ぶには苦味が濃すぎる笑いだった。「幼稚園が一緒ってだけだけどね。うちの親父、あいつの父親から相当金借りていたらしいんだ。ずいぶんと嫌味を言われたよ……あなたの父親のおかげで我が家は大損よ、よくのうのうと学園に通えるわねだってさ」
「ひっぱたいてやればいいのに」
「相手が悪い。昔はそう仲悪くなかったんだけどな……あいつが実家と自分を混同する癖さえなければ、もう少しどうにかなったかも知れないけど」
でも誤解しないで、あいつにもいいところはあるんだ、昔は泣き虫で――宙子の言葉は続いたが、何だか暴力夫をかばう共依存の妻みたいだ、と思った。宙子でも幼馴染相手では点が甘くなるというのは発見だった。嬉しくない発見だけど。
私が言葉を見つけられないでいる間に、宙子は「じゃ。いろいろと世話になった」と呟いて背を向けた。
何が世話になった、よ。私は何もしていないのに。
つまり私が宙子の父親を実質的に破滅させたことになる。私が感じたのは胸の潰れるような罪悪感――ではなかった。もし事情をすべて知っていても、私は悩みながらも実行していただろう。悩んだからといってそれが何かの免罪符になるわけでもない。
混乱の極みで教室に戻った私を、晃子が例の笑顔で迎えてくれた。
ああ、そういうことね。
私は踵を返し教室を出た。陰湿な視線と忍び笑いが追ってきたが、気にも留めなかった。考えていることは、一つだけだった。
周囲に誰もいないことを確認してスマートフォンを取り出し、あの番号にかけた。数秒と立たずに相手が出た。
「急にごめんなさい。決心が着いたら連絡するようにとおっしゃいましたね」
【ええ】
彼女はこうなることを見越していたのではないか、ちらりと考えたが、行動を変えるつもりはなかった。「条件があります」
再び教室に戻った私を(我ながら忙しいことだ)新倉晃子とその取り巻きの陰湿な笑いがまたも出迎えた――が、その笑顔も、私が彼女の席につかつかと近づいてくるまでだった。その時の私の精神状態を説明するのは難しい。冷静ではなかったが怒りで我を忘れているのともまた違う。無理に例えればNico Vegaの『Fury oh Fury』が頭の中で常時鳴り響いている状態、とでも言おうか。
私が軽く肩を押しただけで取り巻きの娘たちは「ひ」とか細い悲鳴を上げて後じさりした。
「私、将来はウィーンの舞踏会で踊るつもりなの。ダンスの相手になってくれる?」
我ながら滅茶苦茶な理由だと思うが、実際理由なんてどうでもいいのだ。私は彼女の手を取って強引に立ち上がらせ、そのまま後ろ手に関節を決めてやった。無理に暴れると非常に痛いから、力任せでは簡単には外れない。
こういう女王様気取りへの対処法は心得ている。群れから引き離すことだ。
「ちょっと、何するの、人が見てるでしょう!?」
「ほら照れないで。授業始まる前に済ませましょ。ワンツー、ワンツー」
晃子の体をブルドーザーのブレードよろしく左右に振って取り巻きを遠ざけた。彼女は助けを求めるように見回したが、脅えたように遠巻きにするだけで誰も追ってこなかった。あらあら、紙よりも薄い友情だこと。
人気のない用具室の前まで来てから手を放してやった。晃子が屈辱で顔を真っ赤にして振り返る。「あなた、どういうつもり!? 私に何かしたら……」
言い終わるより先に、私は彼女の額に頭突きを食らわせた。思ったより勢いがついてしまい、こっちまで目から火花が出そうになった。
お生憎様。私はあなたやあなたの頼りになるお友達より、ちょっとばかり育ちが悪いのよ。
「何するのよ!?」
「頭突きよ。殴ったわけじゃないわ、暴力は嫌いだもの」
「似たようなものでしょう。どうして頭突きしたのかって聞いているのよ!」
私は彼女の鼻と自分の鼻がぶつかりそうなほど顔を近づけて言った。「この卑怯者」
「何を言って……」
「おとぼけはなしよ。宙子の転校、あなたの差し金でしょ?」
彼女が口を開く前に、私は畳みかけた。「私には手を出せないけど宙子にならちょっかいかけられるのね。やっぱり弱い者いじめの卑怯者じゃない」
「いい加減にして! さっきから黙って聞いていれば。私を誰だと思っているの!?」
「卑怯者」
「ま、また言った……!」
「よっぽど周りに優しいお友達しかいないのねえ。さっき教室を出る時だって、誰も邪魔しに来なかったもの」わざとらしく「優しい」を強調してやった。「こんなふうに耳の痛いことを言ってくれる人、あなたの近くにはいないんでしょ。でも私ははっきり言ってあげる。あなたは弱い者いじめの卑怯者だってね」
彼女の顔が見るも哀れなほど引きつった。頭突きされた上こうも立て続けに「卑怯者」を連発されるなんて、今までの人生では予想さえしなかったのだろう。気の毒にはなったけど、容赦するつもりもなかった。
「どうして私をそこまで目の敵にするの? 私があなたに何かした?」
「そ……そう、そうよ!」こちらが聞く態勢に入ったからか、彼女は急に勢いづいた。「その態度よ! いつもお高くとまって、人を見下して!」
どこへ行くにも航空母艦よろしく取り巻きを引き連れて、気に入らない相手は実家を通して圧力をかける社長令嬢に言われるとは夢にも思わなかった。「そちらから手出ししなければ、私だって何もしなかったのに。そんなに私が疎ましかったの?」
「やっぱりわかってない……!」私にはさっぱりわからないが、彼女の中では理屈が通っているらしい。
「あなたは全然目立ってなくなんかない! 私が何をどうしたって、さも自分では何も欲しがっていないような顔で、当然のように注目をさらっていくくせに!」
思わず、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。別に好かれているとは思っていなかったけど、そこまで関心を示されているとは思わなかった。
「一目見た時から気に入らなかった! そうやってつましくしているだけで、テーブルの上で踊っているみたいに目立つのよ! 嫌味ったらしい!」
「それがお父様のコネで宙子に嫌がらせする理由なの? 変な理屈」
「あなたみたいに誰にでも朗らかに接するし他人もそれができて当然なんて思っている人、宗教家にでもなればいいのよ! 何でそんなに何もかも持っているの!? 私にないものを……運送屋の娘風情が!」
そこまで言ってさすがに言い過ぎたと思ったのか、晃子は反射的に口を押さえた――だが別に私は腹を立てはしなかった。少なくとも、彼女の予想したほどには。
私は大きく息を吐いた。完全に腹の虫が治まったわけではなかったけど、とりあえず彼女への怒りは消えていた。それに、彼女の言葉に聞き入るべき何かが含まれているような気がしたのも確かだった。
「そこまでする必要はなかったのよ。私、もうすぐ転校するから」
え、と晃子が息を呑んだ瞬間、肩に手を置いた。「でも聞いて。もし今度同じことをしたら、地球の裏側からでも戻ってきて、嫌ってほど相手してあげる。あなたが泣いて謝っても容赦はしない」
もしかしたら、彼女には今までの人生で、憎むなら私を憎め、と言う者が誰一人いなかったのかも知れない。それは同情に値することかも知れない。私がそうならなかったのは、ほんの偶然なのかも知れない――とちらりと思った。
彼女が泣き出すんじゃないかと心配したが、どうにか踏みとどまったようだった。「もう行っていいわ。時間を取らせて悪かったわね」と言うと、彼女は回れ右して走り去ってしまった。国語の授業で習った「脱兎のごとく」という表現が実によくわかる速さだった。
締まらないことに、私も早足でその後を追いかけることになった。授業に遅刻しかけていることに気づいたからだ。
転校を決めたことについて百合子さんから何か説明があったのかはわからないが、両親からの連絡は一切、なかった。安堵半分、落胆半分というところだ。あの人たちにはあの人たちの人生がある――自分に言い聞かせるしかなかった。結局、親を恃みにしていたのは晃子だけでなく、私も同じだったのだ。
いくら顔見知りが少ないと言え、誰にも会わず学園を去るわけにはいかなかった。
担任は私の転校を淡々と伝え、クラス委員が皆を代表して淡々と別れの言葉を述べたので、私も淡々と今までの礼を別れの挨拶とともに言った。肝心の晃子だが、病気の子猫みたいな顔でうつむいているだけだった。また聞きだが、どうも例の情実人事の件で彼女の父親は結構な叱責を受け、娘にもその矛先が向いたらしい。まあ本人たちの自業自得ではあるし、それで以前より彼女が多少ましな人間になってくれればいい。
今度は自分の席に座ったまま、まあるい学園長は私の挨拶(と、今までの無礼と迷惑)に小言一つ言うでもなく、頷いて言った。「加納さんのことは心配しないでください。ここが揺籃の庭だからこそ、親たちの力学を生徒間に持ち込ませるような醜悪さは看過できません」
では加納宙子の味方は私だけではなかったのだ。――だが、裏を返せば学園サイドでそのような陰湿ないじめを関知しながら何の注意もしなかった、ということではある。だがそれを指摘できる立場でもなければ、その気もなかった。私はただ黙って、頭を深く下げた。
顔見知り全員に挨拶したわけではない。
そう、彼女の父親は左遷コースから一転、別の大きなプロジェクトを任され(それが十代の少女たち対象の監視システムでないことを祈るばかりだ)意気揚々と海外へ出張していった。まるで娘のことを忘れたかのように。もしかしたら私は、彼女と父親がやり直すきっかけを今度こそ完全に潰したのかも知れない――だから宙子には、宙子にだけは、直接「さようなら」を言わなかった。
私は去り、宙子はここに残る。それでいい。ここで私ができることは終わったのだ。
荷物は既にあらかた送ってしまったので、私は鞄一つで送迎車に乗り込んだ。
「お嬢様。学園の外壁を一周しますか?」
車に乗り込むと、運転手兼お目付役の滝川がそう言ってくれた。私は首を振った――名残惜しさがないとは言わないが、百年眺めても壁は壁だった。改めて外から一望すると、大したことのない壁だ、と思った。何を何から守る気なのか、皮肉でなく建築家に聞いてみたくなった。
まあ、壁のことはどうでもいい。大切なのはこれからだ。
「ありがとう、でもいいわ。これから忙しいもの」
滝川はちらりとこちらを見て、珍しいことに少しだけ端正な顔をほころばせた。私がずっと幼い頃から私に仕えている、下手をすると両親よりも過ごした時間の多い男だ。「しばらく見ない間に、良いお顔になられましたね」
「私が?」
「ええ。何かを吹っ切ったような顔をしていらっしゃる」
どうなのかしら、と私は苦笑した。「放っておいた課題が向こうの方から挨拶に来ただけよ。……出して」
「はい」
車が滑らかに走り出した時、懐のスマートフォンが鳴った。番号を確かめるまでもなかった。
【ありがとうございます。よく決意してくれました】
百合子さんのお膝元――私立礼峰学園。それが私の通うことになる新しい学園だ。私はそこで学生としての本分を全うしつつ(学生としての生活を棒に振る必要はありません、と彼女は言い切った。正直ほっとしたようながっかりしたような気分だ)百合子さんの下で準備をすることになる。
これから始まる戦いのための。
「お礼には及びません。今度は私が約束を守る番ですね」
【あなたには辛い決断をさせてしまいました。おそらく、これからもそうでしょう。ですが、最後まで着いてきてくだされば失望だけはさせません。それだけは、約束します】
「ありがとうございます」私はそう言いはしたが、私自身の納得できる結末とはどのようなものだろう、と思っていた。私の人生を狂わせた事件とその首謀者が明るみにされ……そしてどうなるのだろう。狂っていない私の人生とはどんなものだったのか、それはもう想像することすらできないのに。
だが、それを今さら言っても始まらない。私は選択したのだ。完全に正気で、目を見開いたままで。
あなたに会ってほしい人がいます、と百合子さんは言った。
「女性ですか?」
【いえ、男性です。あなたと同年代の。少し、あなたに似ているかも】
つい眉根が寄った。同年代の男の子でしかも私に似た性格の相手と、うまくやっていける自信などない。
「その人次第ですね」私は結局、一番無難な返しを言うことにした。百合子さんが見どころのまるでない人間を私の相棒に指名するはずもないだろうし、会う前から誰かを嫌うのは私の流儀ではない。
【きっと、気が合いますよ】百合子さんはどうもそれだけは確信を持っているようだった。楽しみにしています、と私は儀礼的に返事し、通話を切った。
何もかも戸惑うことばかりだ。よりによって相棒が男の子だなんて。
だが同時に、私の人生はこれから大きく変わる、それもよくも悪くも、という昂揚感があるのは抑えきれなかった。
――戦いのための人生なんて真っ平だと思っていた。でもどうやら、戦いの方で私を放っておいてくれないらしい。
私は目を閉じた。膝の上に置いた『あなたに不利な証拠として』の擦り切れた表紙に指を滑らせる。いよいよ本格的に、テーブルの上で踊る時が来たのかも知れない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます