第2話 高い塔の女

 赤煉瓦敷の歩道が左右に並ぶ大通りは早くもクリスマスソングを流し始め、街を行き交う人々も既に冬の装いだった。街頭のプロジェクタはどれも今のうちにクリスマスの準備をしないとひどいことになりますよというCMを流していた。何をどれだけ準備してもひどいことになるんだろうに、と相良龍一は思いながら、路肩に停めたワンボックスカーのドアを開け、ビニール袋を差し出した。

「買ってきたぜ」

 シートを倒して後部スペースを広げ、装備の最終チェックをしていた望月崇が袋の中身を見て胡乱な顔になった。「よりによってサブウェイかよ。腹膨らませるだけならマクドで充分だろうに。お前は腐れヒッピーか、それとも腐れロハス女か?」

「何て言い草だよ。好きなもん買ってきていいって言ったのはそっちだろ」言い返しはしたが、どうせ崇も本気で嫌がっているわけではないとはわかっていた。案の定、崇がさっさと袋の中から掴み出したのは、たぶん彼ならこっちを選ぶだろうと踏んでいたローストビーフサンドの方だった。龍一は黙って自分用に買ったチキンバジルサンドを取り出す。かくして世界は今日も平和というわけだ。

「食い終わったら行くぞ」

「ああ」

 しばらく、2人は黙って口を動かした。龍一はチキンとレタスの歯応えを充分に楽しみ、崇も神妙な顔で――食べる時のこの男の癖である――黙々とサンドを胃に詰め込んだ。季節は晩秋、吹く風はすでに半袖だと冷やりとするほど冷たい。夏でなくてよかった、とこれから着込む「服」のことを考えて龍一が秘かに安堵した時、懐のスマートフォンが振動を伝えた。瀬川夏姫からだった。

【お疲れ様。『野蛮人の儀式』は順調かしら?】

「今、鶏の血を顔面に塗りつけたところだ。聖なるヤドリギの前で牛を屠るのはこれからだな」

【その返し、面白くない】

 振ってきたのはそっちだろう、と言おうとしてやめた。「君は君で研修中なんだろう? 百合子さんの」

【そ。私にはあなたや望月さんみたいな棍棒はないもの】

「棍棒か。実にシンボリックな例えだ。君らしい詩的な表現だな」

【そんな仰々しい感心されても嬉しくないんですけど】くだらないことを言ったら締めるからね、と言わんばかりの地獄の底から響くような返事が来た。【お祭りだからって羽目を外しすぎて、百合子さんからペナルティをもらわないようにね。じゃ、儀式の成功を祈ってるわ。けだものの師匠によろしくね】

 切った途端に、傍らで崇がわざとらしく溜め息を吐いた。「あの小娘、タメ口どころか女教師みたいな口を利くようになってきたな。一度、下の毛をむしってやった方がいいんじゃねえのか」

「黙れよ」

 横目で睨みつけると、崇は肩をすくめた。「悪かったよ。お前はむしられる方が好みだったっけな」

 龍一は黙って食べ終えたサンドの包装を紙袋に叩き込んだ。この程度の減らず口に返事していたら日が暮れてしまう。

「よし、始めるぞ」崇は指先を丁寧にナプキンでぬぐってから傍らのタブレットに指先を走らせた。「左前方、『中富ビル』の看板が見えるな? 今日のターゲットはあそこの5階『シャイニングマネジメント』、いちおう真っ当な金融会社の看板を掲げちゃいるが、実際は『鬼蛇連合』ってヤー公も手を焼く半グレどもの巣だ」

「ヤクザよりも質の悪い堅気だな」

「そうだ。実際の業務ときたら個人情報売買やフィッシング詐欺だ。暴対法でがんじがらめの指定暴力団より、よほど小回りが利いてサイバー犯罪にも明るい。しかも盃を受けているわけじゃないから警察のマル暴も手をこまねいている。さぞかしあくどく儲けてることだろうぜ」

「あくどくて、儲けている。大切なのはそこだな」

「そう、そこが一番大切なところだ」崇は薄く笑った。「前日のうちに、清掃員のふりしてあのフロアに時限装置付きの発煙筒を仕掛けておいた。そろそろだな」

 正午を知らせるのどかなBGMが大通りに流れ出すとほぼ同時に、目標階の窓から勢いよく白煙が噴き出し始めた。ランチのために付近の商社ビルから姿を見せ始めていたサラリーマンやOLたちが、驚いて上階を指差しざわめき始めた。スマートフォンのカメラを向けて撮影を始める者もいる。

「かっきりだな」

「行くぞ。『本物』が駆けつける前に終わらせる」

 ワンボックスカーのスライドドアを開け、2人は街路に降り立った――シールド付き耐火帽にオレンジ色の耐火服、酸素マスク、ボンベまで背負った消防士の姿で。

 通行人が2人の姿を見た途端、ぎょっとして道を開ける。歩くたびに腰に下げたハーケンや消火用の手斧が、がちゃがちゃと音を立てた。さすがにかなり動きにくい。

「それにしてもこの耐火服、通販で買ったにしちゃ出来がいいなあ……」

「アメリカから直接取り寄せた、プロ仕様の本物だ」と崇の返事。ヘルメットに内蔵している通信機とマイクのおかげで、会話に不自由はない。「軍用品じゃないから規制もそんなにきつくないしな。まさかフルプレートアーマー着て乗り込むわけにもいかんだろ」

 それもそうだと龍一が納得した瞬間、目標のフロアから白煙に続き盛大な炎と轟音が噴き出した。集まりつつある野次馬たちがどよめく。

 横目で崇を見ると、マスクの上からでもはっきりとわかるほどの誤魔化し笑いをしていた。

「いやあ……リアリティを増すために発火剤を足したんだが、ちょっとやりすぎたかな」

「『ちょっと』であんなになるかよ……」


 柔らかなチャイムとともにエレベーターのドアが開き、瀬川夏姫は『ホテル・エスタンシア』最上階に降り立つ。

 VIP専用のこのフロアは、名目ともに高塔百合子の占有物だった。天窓からの光が惜しげもなく降り注ぐ、南欧の避暑地を思わせる屋内庭園は何度訪れても見飽きることがなかった。柑橘系の芳香が鼻孔をくすぐり、色鮮やかな蝶が宝石の欠片を思わせる鱗粉を撒きながら、音もなく眼前を通り過ぎる。極彩色の名も知らぬ花々が、空調に合わせて微細に揺れていた。

 籐椅子に腰かけて本を読んでいた百合子が、こちらを認め顔を上げて微笑む。傍らの丸テーブルへ置いた表紙に見覚えがあった。カート・ヴォネガットの『追憶のハルマゲドン』だった。

 近づくと百合子は立ち上がり、座って、と迎えてくれた。夏姫の方が赤面してしまう優雅な物腰だった。

「学業の方、順調のようですね」

「おかげさまで」当たり障りのなさすぎる自分の返答に頬が熱くなった。かつて夏姫は家の事情――それもひどくややこしい事情から進学を諦めざるをえなかった時期に、百合子の提示した奨学金制度によって救われている。一生かかっても頭の上がらない存在だ――少なくとも夏姫自身はそう思っている。

 それと同時に、夏姫は百合子のもう一つの顔――彼女を女神のごとく崇め奉る人々が知らないもう一つの顔、それが進めるある企ての共犯者でもあった。

「本当ならお茶を出して、落ち着いてからにしていただきたいところなのですが」

「おかまいなく。心の準備だったらとっくにできてます。それにあのどうしようもない男の子たちだって、私たちが動かないと仕事を進められないでしょ?」

 夏姫の笑いに、百合子も苦笑を返した。「それもそうですね。行きましょうか」

 百合子は立ち上がって夏姫を促した。黒の装いに包まれた長身、首筋から背にかけてのラインは同性の夏姫でも見とれる優美さだった。「ちょうど2人が目標ビルに到着する頃合いですね」

「知ってます。顔に戦化粧をして、血まみれの棍棒を手に突撃するんでしょう?」

「ええ。でも私たちにも独自の棍棒とルールがあります。もしかしたら、男性のそれよりもよほどいやらしいかも知れません。それを、これから教えます」


「皆さん落ち着いて、落ち着いて避難してください!」

「はい、すいませんね、ちょっと通りますよ」

 上階から血相を変えて逃げてくる事務員やOLをかき分け、龍一と崇はひたすら上階を目指す。皆ハンカチを口元に当てて逃げることに必死で、消防士姿の2人を見とがめる者はいない。もちろんその大半は荒事と無縁な市井の人々で、良心が咎めなくはなかったが、咎めただけだった。

「畜生が、どこの奴らだ!? トイレ掃除した奴ぁ誰だ!?」

「書類から持ち出せ! オマワリどもにあれを見られてぇのか!」

 5階へ到着すると一際とげとげしい怒号が渦巻いていた――それもまるで型に嵌めたようなスキンヘッドに黒シャツ、人相に悪い男たちの怒号だった。一際人相の悪い男が、階段を上がってきた2人を見て凄む。

「誰が火消し屋なんか呼びやがった? 失せろ、見せもんじゃねえ!」

「兄貴! こんなもんトイレに仕掛けてありました! ただの煙を吐くオモチャですよ!」

「何だと!?」

 兄貴分の男が振り向く、その拍子に崇は横目で龍一に合図していた――時間稼ぎはここまでだ、やるぞ。

「そういやお前ら……消防車のサイレンなんか聞いたか?」

 兄貴分がこちらに振り返る、その一瞬の隙に龍一は腰に装着した機器のスイッチを入れ、崇が背のタンクにつながったノズルのトリガーを引いた。

 高圧の空気で発射された大量の水の塊が男の腹に炸裂した。インパルスと呼称される、暴徒鎮圧にも使われる放水銃である。至近距離であればバットで殴るのと同じぐらいの威力がある。くぐもった呻き声を上げて前のめりになった男の横面を崇はノズルで容赦なく張り飛ばした。

 とっさに子分が内線の受話器を取り上げる――繋がらない。そちら目がけて水塊が放たれた。電話機本体がピンポン玉のように弾かれ、受話器を持つ男の顔面を直撃した。

 周囲の子分たちが慌てて取り出したスマートフォンを耳に当てる――だが大音量で漏れ出す雑音に耳を押さえてスマートフォンを取り落とす。

 龍一の背負う酸素ボンベに偽装したECMポッドがビル内に強力な妨害電波を振り撒き、有線無線問わずあらゆる通信を阻害し始めていた。本来なら市街戦でゲリラの仕掛けた即席爆発物を無力化するために使う、れっきとした軍用品だ。

 襲撃の際、必ず押し寄せるはずの増援をどう封じるかが課題だった。物理的に電話線を切断する、中継局を爆破する、などのアイデアを検討したのち、結局は(比較的)穏当な「ECMポッドを直接持ち込む」という案に落ち着いたのだった。

 崇が続けざまに放つ水塊が室内を更なる混乱に陥れた。もうもうと立ち昇る水煙にむせる男たちの頭を、龍一は消火用の斧の側面で、順番に殴りつけて昏倒させていく。

「何だ、お前ら! カチコミかぁ!?」

 顔面に直撃を食らいむせながら無闇にバットを振りかざす巨躯の男、その懐に龍一は斧を捨て、瞬時に踏み込んだ。かさばる耐火服と重たい装備を身に着けていようと関係ない――重要なのは歩方だ。

 放った斧が床に落ちるより早く、間近に現れた龍一に男の顔が引きつった。至近から振り回された龍一の左肘が、刃物のように男の脇腹に突き刺さった。げっ、と呻いて前のめりになった男の肩に左手を軽く置き、分厚い筋肉と脂肪に覆われた男の胸元、肋骨の一番下に軽く右手の手刀を突き立てた。

 まっすぐ、深々と突き入れた。

 悲鳴を上げるように男が大きく目と口を見開いたが、微かな吐息と少量のよだれしか漏れなかった。身体を折り曲げ、床に崩れ落ちた。

 崇がひっくり返った男の頭を蹴飛ばしながら、耐火服の肩をすくめる。「こいつの筋肉は飾りらしいな。このガタイ、一日や二日でできるもんじゃなかろうにもったいねえ」

 龍一はプラスチック製の手錠で、気絶した男たちの手首を戒め始めた。「ムショで鍛え直せばいい」


 薄暗い、旅客機のコクピットのような部屋を想像していたが、実際には予想よりずっと明るかった。天井自体が発光しているのか、薄緑色の淡い光が頭上でゆらゆらと揺らめいている。BGMはなく、ただノイズに似た音が室内に静かに満ちている。どこかで見たような光景だと思った。しばらくしてここが何に似ているのかわかった――川底から水面を見上げた光景だ。ノイズに聞こえるのは川のせせらぎか。

「意外に明るいんですね」

「暗いと目に悪いですから」冗談とも本気ともつかない口調で百合子は言う。

「いずれあなたにも扱い方を覚えていただきます。今日は、私のやることを見ていてください」

 固唾を飲む夏姫の前で、エルゴノミクスデザインのチェアに身を横たえた百合子は右腕を一振りした。どこからともなく湧き出てきたシャボン玉のような無数の泡が掌にまとわりつく。彼女は指を振って泡を弾き飛ばし、その中の幾つかに指先で触れた。よく見ると、泡の表面には光で細かな数字や図形が描かれている。

「まず最初に、アクセスできない情報というものはこの世にはない、と覚えてください」淡々とした口調。「あるとしたらそれは、アップグレードされた最新のOSをインストールされ、24時間365日リアルタイムで軍の一個師団に守られた上にネットから完全に切り離され、溶接された金庫の中に封じられ、サーバーのみです」

「そうでしょうね」

「つまり盗めない情報はこの世にない、ということです。あるとすれば人の頭の中だけですが、私やあなたがそうであるように、人はとても物覚えが悪いものです。重要な情報であればあるほど、整理し保管し、一定のコストを払う必要があります」

「よくわかります」

「それに付け込んでいるのが今回の目標です。個人情報の転売など、微悪・小悪の類には違いありませんが――それは見逃す理由にはなりません。彼らには生贄になってもらいます。あの2人や、あなたへの」


 人の背丈ほどもある巨大な金庫に向けて龍一が手元のリモコンを操作すると、電子錠の外れる微かな音が響いた。重々しい外見に反し、ぶ厚い金属の扉は滑らかに開いた。

「金庫破りにも使えるのか。ジャマーって便利だな……かさばるけど」

「型落ちとは言え、こいつを買うのに『おこづかい』の半分を使っちまったんだ。役に立たなきゃ困る」

 中に積まれている札束は2百万円ほど。金庫の大きさに比べるとそれほど多くなかったが、2人は落胆しなかった。彼らの目的は最初から金ではない。綺麗に角をそろえられた証券の束、そして麗々しい筆跡と印鑑の押された数枚の書類。

「これか……白紙委任状ってのは」

「そ。こいつが手元にある限り、意に背いた会社の資産や売上金を強制的に取り上げることができる魔法の紙だ」

「まさか、実印なのか?」

「当たり前だ。でなきゃただの紙切れだからな」

 書面を覗き込んで、龍一は唸った。いずれも、ニュースなどで麗々しく取り上げられるIT系のベンチャー企業や製薬会社、医療ロボット産業の社名とともに、代表取締役の名が社印とともに麗々しく記されている。

「女だか裏金だか……どんな偉い奴でも、いや偉い奴だからこそ叩けば埃が出るからな。融資をちらつかせると同時に締め上げる。飴と鞭だな」

「金の卵ならぬ、金玉を握られた状態ってことか……」

「もっともそれもこいつが『手元にある限り』だがな。小回りが利くのをいいことにずいぶん荒っぽく稼いでいたみたいだが、それも今日で店じまいだ」

「こいつをいただいたとして、欲しがる奴なんているのか?」

「いるさ。サインした本人に『お手頃価格』で売りつけるもよし、闇市場に流すもよし……さ、急ぐぞ。そろそろサツも駆けつける頃合いだ」

 崇がバインダーに書類を収め始めた時――背後で物音がした。

 反射的に崇の腕を掴み、強く引く。さっきまで彼の首があったあたりを、甲高い音を立てて銃弾が擦過した。窓ガラスに小さな穴が開く。

 振り向くと、砕けたサングラスで顔面が血まみれになった男が、震える手でトカレフの銃口をこちらに向けていた。龍一が止める間もなく、崇は大股で歩み寄り、男の顔面を防火ブーツで容赦なく蹴り飛ばした。血の糸を引いて飛び散った歯が床に転がり、妙に軽快な音を立てる。

「危ねえじゃないか。当たったらどうすんだよ?」

 龍一はあえて何も言わず、肩をすくめた。


「先ほどの話の続きになりますが」空中の泡の一つ一つに投影された図形や数式に直接触れ、指先で弾き、あるいは引き寄せながら百合子は呟く。

「ここに投影されているのは、各テレビ局で放映されている番組、ラジオなどの音声、ネット上の動画、視聴率・アクセス数、その時間帯や年齢層などです。それらを視覚化・シンボライズしたのがこのシステムです」

「すごいですね」世辞ではなく夏姫は感心した。このような大掛かりな仕掛けを見るのは初めてだ。

「それほどのものではありません。確かにそれなりの時間と予算は必要としましたが、同程度のシステムは少し気の利いた多国籍企業のシンクタンクなら導入済みでしょう。……これにまた別の要素を加えます」

 夏姫は息を呑んだ。空中に投影される各種データ量が、一瞬にして百倍以上に増えたのだ。しかも今度は老若男女を問わず、様々な年齢層の顔写真やプロフィールが付与している。

「今は未真名市内に限定していますが、全住民の氏名・居住区域・年齢・職業・収入・家族構成、各保険情報や提携金融機関・市民保障番号……そして過去の犯罪歴を含む個人情報です」

 夏姫の一分間あたりの瞬きの回数が、倍に増えた。「それがどうしてここで見られるんですか?」

「そう、これらは絶対に知られてはいけないはずの――扱う人々が細心の注意を払って扱わなければならない、決して外部に流出させてはいけないはずの個人情報ばかりです。ですが、見ての通りそうなってはいません」

 ひとりでに眉間へ皺が寄るのを感じた。別段、未真名市の行政に特別な何かを期待していたわけではなかったが、百合子の話は今まで彼女が漠然と抱いていたそれらのイメージに比べて、ずいぶんと歪んでいた。「少なくともこの街のシステムには、看過できない大きな穴があるみたいですね」

「残念ですが、その通りです。それについてもおいおい話す必要があるでしょう」

 わずかに――ほんのわずかに、躊躇ってから百合子は口を開いた。「〈ハリウッド・クレムリン〉の名は聞いたことがありますか?」

「『黒い銀行』のことですね?」

「そうです。ここにある情報も、彼らとの提携によって入手したものです。弱者を食い物にするような犯罪集団を許さないという点において、私たちと利害は一致しています」

 百合子の手首が翻り、幾重に重なる画像を展開させる。「司法機関が無力であり犯罪組織が猛威を振るう現状では、私の活動も非合法あるいは半合法にならざるを得ません。そのすべてを肯定せよとは言いません。あなたには、その一部始終を見届けてほしいのです」


「……よし、データの吸出しは終わった」

「こっちも終わりだ」ノートPCから手製ハッキングツールの端子を引き抜いた崇に、サーバーに重い消火用の斧を叩き込んで龍一は返事する。

 窓から眼下をちらりと見るとすでにビルの周囲を消防車や救急車が取り巻き、逃げ出してきた人々の救助に当たっている。正面玄関からの突破は不可能だった。

「後は逃げるだけだ。簡単だな」

「確かに簡単だな……」

 廊下に続くドアが轟音とともに弾け飛んだ。立ち込める粉塵を掻き分けて、巨大な影が2人分、うっそりと現れた。

「……あいつらがいなければ」

 機動隊のような大型の金属製シールドを構えた巨躯が2人、無言の圧力とともに歩み寄ってくる。龍一たちと似たタイプのガスマスクをかぶっているが、上半身は黒のタンクトップ一枚、しかも刺青をびっしりと彫られた二の腕を露出しているのが異様だった。盾の構え方が様になっているところを見ると、本当に元機動隊員なのかも知れない。一人の右肩には刺青で「阿」もう片方には「吽」と彫られている。

「半グレご謹製セキュリティチームか。あんなのをわざわざ飼っとくなんて金あんなあ」

「感心してる場合かよ。あの図体だと、『鎮圧』した後の始末まで請け負ってそうだな」

 崇がインパルスを放つ。だが水の塊はシールドの表面で弾け、盛大に飛沫を飛ばす。「阿」がくぐもった呻き声を上げ、盾を大きく振りかぶった。

 耳をつんざく破砕音。反射的に横へ飛んだ崇の背後で、盾の直撃を受けたデスクがまるで空き缶のようにひしゃげた。

「吽」が頭上で何かを振り回し始める。何かを両端に結び付けたコードだ。それが投擲武器の一種だと気づいた時には、すでにそれが龍一に向けて投じられていた。

 ボーラ、と呼ばれる両端に錘を付けたものだ。回転しながら飛来したボーラは予想外の方向から龍一の足首に絡みつく。たまらず転倒してしまう。

 油断した自分を罵る暇もなかった。「吽」が咆哮とともに盾を振り上げのしかかってくる。足首を縛られて自由が利かない。自ら横転し、直撃は避けたが、右肩を盾の端がかすめた。耐火服に守られているはずの肩に激痛が走る。

「吽」は盾を放り捨て、巨大な掌で龍一の首を絞めてきた。突きと蹴りを何発か見舞うが、まるでこたえた様子もない。膂力に物を言わせて龍一の身体を持ち上げ、書類ケースに叩きつける。ガラスが甲高い音を立てて割れ、中のファイルが雪崩落ちてきた。視界が狭まってくる。息ができない。

 崇は「阿」が雄叫びを上げて振り回す警棒をかわすのに必死だ、助けは期待できそうにない。これはまずい……。

「誰か残っていませんか!? ……おい、何しているんだあんたら!?」

 助けは思いもかけない方向からやってきた。階下から本物の消防士たちがやってきたのだ。首を締め上げる力が緩んだ瞬間。龍一は自分から相手の腕を掴んだ。常人の太腿ほどもある、荒縄と粘土の混合物じみた腕、容易には振りほどけそうにない。

 だが。そして、

 なめし皮のようなぶ厚い皮膚に、龍一の指が、完全に均等な圧力でみしみしとめり込んでいく。ガスマスクの奥で「吽」の目が驚愕に見開かれた。掴んでいた龍一の首を放し、一転、掴まれた腕を振りほどこうとする。

 龍一に掴まれた者に、それは文字通りの悪手だ。

 渾身の力を込めて床を蹴り、腕にぶら下がるような形で両足を跳ね上げた。

 まともに蹴りが入った。さすがの「吽」も後方へのけぞる。こちらから頭髪を掴み、衝撃吸収パッドに守られた両膝を顔面に叩きつけた。

 地響きを立てて「吽」が大の字に倒れる。必死で横転しながら両足に絡んだボーラを振りほどいた。倒された相棒の姿に「阿」が咆哮し、警棒の一振りでパーテーションを薙ぎ倒した。散乱した備品が消防士たちの頭上に降り注ぎ悲鳴が上がる。

「おいこっち向きやがれ、亀頭!」

 振り向いた「阿」の頭を、崇がフルスイングで振り回した消火器が直撃した。バランスを崩した巨躯の足元に龍一は潜り込み、消火用の斧で思い切り足払いした。

 よろめく巨体が頭からガラス窓に追突する。ガラス片と悲鳴の尾を引いて、窓の外に大男の姿が消えた。外から聞こえる群衆の悲鳴。見下ろすと、運よく消防車の屋根に落下したらしく、大の字に伸びている。命は取り留めたらしく弱々しくもがいているが、立ち上がる気力はなさそうだった。

 思わず大きく息を吐いた拍子に、あっけにとられている消防士たちと目が合った。龍一は黙って目礼し、崇は偉そうに咳払いすると、彼らの肩をぽんと叩いて傍らをすり抜けた。

「どうも、お勤めご苦労様です」

「あ、こら! 君たち、待ちなさい!」

 背後で消防士たちの声がしたが、もちろん2人は足を停めなかった。

「まずいな……ジャマーの出力が安定しない。衝撃で壊れたかも知れない」

「修理している時間はないな。まあいい、後はずらかるだけだからな!」


「夏姫さんは、『金』を何だと思いますか?」

「金……ですか」夏姫は面食らった。彼女は物心ついた時から金に困ったことはなかったが、世間に起こる大半の悲喜劇が金に起因するものであることぐらいは承知していた。

 金。なければ確実に飢えるが、ありすぎれば厄介の種になりかねないもの。人によっては人生の目的そのものになりかねないもの。

 食事、だろうか。それとも水? 似ているが、それもまた違う気がする。もっと異なるもの――それがなければ死に至るもの、

「……血液?」

「その通りです」百合子は嬉しそうに笑った。「金とは――システムであり、流れであり、私たちの体内を巡る血液の何割かを確実に占めるものでもあるのです。18世紀生まれのジョン・ロー以降、それを理解できている人がこの世に何人いるかはわかりませんが」

 言葉を止めることなく、細い手首が再び翻る。「であれば――市場のそれをコントロールすることは、確実に幾百人の、幾千人の、それ以上の人生を左右することになります。それをまず、忘れないようにしてください」

「はい」

 気のせいだろうか――百合子の口調に込められた温度が、ほんのわずかに低くなったように思えた。「

 恐ろしい言葉を聞いた気がした。彼女を突き動かすものは――それが何なのか、夏姫も完全に理解してはいないが――慈悲深さだけではないのだ。

「およそ人間的なもので私と無縁なものなど何もない、と言ったのはローマ時代の劇作家でしたが、それと同じく、これまで起こったこと、起こっていること、これから起こることに関して、無縁なものは何一つないのです。私も、あなたも――あの2人も」


 室外機とソーラーパネルが並ぶ屋上、脱出地点まであと十数メートル。重い装備を引きずりながら走る龍一の耳に、下の路地からけたたましいブレーキ音と怒号が届いた。見ると、黒塗りの大型SUVが3台、野次馬を蹴散らしながらビルの玄関に停車したところだった。

「セキュリティチームの次は緊急対応部隊か……」

「あのデカブツをうっちゃるのに時間をかけすぎたか」

 ECMポッドが壊れていなければ、到着をもう数分遅らせられたかも知れない――とは思ったが、今さらそれを悔やんでも仕方のない話ではある。

「ふん、いい位置に停めてくれたもんだ……出血は最小限で済むな」

「おい」

 止める間もなかった。崇は真面目くさった顔で、掌に握り込んだ小さな装置のボタンを押し込んだ。

 ぼぅん、というくぐもった音。蹴飛ばされたミニカーのように、ヘビーデューティな大型車の群れが空中へ跳ね上がり、縦に一回転した。群衆がわっと四方に散り、一瞬のち、逆さになったSUVが立て続けに路面に叩きつけられた。乗員たちの悲鳴は金属の潰れる音とガラスの飛散音にかき消された。

 振り返った龍一の顔を見て、崇は大げさに肩をすくめた。「カーチェイスなんて面倒なだけだし、あんなのを尻に引っ付けて帰りたくないだろ? 『たったひとつの冴えたやりかた』って奴さ」

「あんたなあ……」

「なぁに、死にはしねえよ。マンホールの裏に仕掛けられる量なんてたかが知れてるし、堅気を巻き込むとご当主からペナルティを食らうしな」

「ほっとしたよ。『皆死んじまったから怪我人は出ない』なんてオチで締められなくて」

「皮肉が出たな。えらいえらい、ようやく水の中でお目々が開けられましたね」崇はもう踵を返して屋上の手すりにカラビナを引っかけていた。「さあ行くぞ。お家に帰るまでが荒事だ」


 指先で気泡の一つに触れた百合子が内容を読み上げる。「目標ビルの玄関付近で車が横転しました。爆発物が使用された可能性あり――重軽傷者10名」

 もう少しで百合子の前であるのを忘れて「あの馬鹿」と口走るところだった。「望月さんね。まったくどっちが〈インストラクター〉なんだか……」

「付与被害は最小限にとどめるよう彼には言い含めてあります。やりすぎることはないでしょう。その点においては信用できる人ですから」

「そのうち、やりすぎなければどんな手を使ってもいい、と思うようになりますよ」

 百合子がくすりと笑う。「夏姫さんは、望月さんのことが嫌いですか?」

「生き様が気に入らないだけ。前から思っているけど、百合子さんはあの2人に点が甘いです」

「成長するのは教わる側だけではありません。……今は、彼らの行動がもたらした結果に注目してください」

 百合子の操作に合わせ、夏姫の眼前に数字列が滑ってきた。

「〈ハリウッド・クレムリン〉に匿名口座を複数用意しておきました。今回得られた金額はそこで管理します。成果には報酬を払わなければなりませんし」

 夏姫は目を瞬いた。行頭に「¥」が表示されているから金額ということはわかるのだが、それにしてもその金額が尋常ではない。彼女も富裕と呼んで差し支えない家に生まれて育ちはしたが、その目から見ても数えるのが恐ろしくなるような数字が並んでいた。しかも――わずかではあるが、一秒ごとにそれが増え続けている。

「このくらいにしましょうか。警察も愚かではありません。ダミー会社を介しているとは言え、やりすぎると怪しまれます」

「これ……何をどうしたんですか?」

「レバレッジです。一度金を海外に送り、違法すれすれの超高速で取引プログラムを走らせてからまた戻しました。金とは情報そのものでもあります。最大限に活用できれば、金そのものに金を増やさせることができるのです」

「情報って、それをどこから」言いかけて、夏姫は自分がすでにその答えを目にしていることに気づいた。「……龍一たちの動きと連動しているんですね」

 その通りです、と百合子は満足げに微笑んだ。「どの株が上がりどの株が下がるかさえ予想できれば巨額の利益を得られます。社会不安は人を脅えさせ、緊急通信網を増大させ、警察の配備と検問により都市インフラ整備や商品流通ルート・通学通勤ダイヤの変更・一時停止を余儀なくさせます。また防犯グッズやセキュリティ企業、その雇用主である宝石・貴金属取扱業の株価も大きく変動します」

「理屈では……そうですけど」

 読み取るだけなら確かに理論上は可能かもしれない。だが、それを予想し、寸分の狂いもなく手を打つなど、人にできる所業なのだろうか。

「もちろん理屈自体はシンプルですが、それを可能にするのは『ラプラスの魔』にも等しい無限の計算力と、人の情動までもリソースとして使用する非ノイマン型コンピューターの補助が不可避です。今までは私も含め、成功した者は皆無でした。あなたが目にする、これが完成するまでは」

 非ノイマン型コンピューター。軍・民間を問わず、各国の先進研究機関が躍起になって開発を進めているはずの、まだこの世に存在しないはずのテクノロジー。なぜそんなものを日本の一富豪に過ぎないはずの百合子が有しているのか……それもまた「高塔家の謎」の一つにカウントしておいた方がよさそう、と夏姫は決意する。

「このシステムに名前はあるんですか?」

「ありません。他のシステムと区別して呼ぶ必要は感じませんでした。敢えて呼べば『ル・システム』でしょうか」

「――ジョン・ローですね」

「そうです。これは『システム』であり、それ以上でもそれ以下でもありません。私が使ってもただ口座の数字を増やすことしかできませんが、あなたならそれ以上のことができるでしょう」

「……私にできるんでしょうか?」

「できます。私にできたのですから」

 いつの間にか、百合子の灰色を帯びた瞳が夏姫の顔に据えられていた。「金は血であり、情報であり、おそらくは私や、あなたの体内を流れる血の何割かは、確実にそれで構成されているはずです。ならばそれを予測し、制御することで、この世の理を変化させうるとして、何の不都合があるでしょう?」

 光で記された図形と数字を背後に、百合子は厳かに告げる。神託を告げる巫女のように。

「夏姫さんが提唱する『犯罪工学』とも極めて近い発想なのではありませんか?」

「……あなただけでした。私の考えを笑わずに聞いてくれたのは」

 あの相良龍一でさえ、初めて聞かされた時は「手の込んだ冗談だ」という顔になったものだった。それを責めたくはない。龍一もまた、自分とは別の妄想に憑かれているのだから。

「いつの時代も最初の一撃は無謀な若者によってもたらされます。私は、あなたや龍一さんのそれに賭ける価値があると判断したまでです。今度は、あなたがテーブルの上で踊る番です。あなたならできます、瀬川夏姫。私もそこから来たのですから」

 頷きながらも夏姫は自問する。百合子があの2人に甘い、というのはむしろ自分の願望なのではないか、と。


 市街の灯が遠くに見える荒涼とした土手で、2人は車ごと装備を燃やした。延焼物が周囲にないことを確かめ、車体にまんべんなく灯油を振りかけたところで、崇が妙にうやうやしい仕草で小さな機器を渡してきた。「キャンドルサービスだ。お前にこのボタンを押す名誉を与えよう」

 そんなもの欲しくない、とは思ったが、断るのも面倒なのでしぶしぶ受け取りボタンを押した。

 くぐもった轟音が響き、車も、耐火服も、ECMポッドも、すべてが火に包まれた。暗闇の中で燃える炎は美しかったが、それに何かを感じるにはくたびれすぎていた。何より全身汗まみれで、早く帰ってシャワーを浴びたかった。

「きつかったな……」

 崇も耐火服を着ての乱闘がこたえたらしく、首筋をばりばり搔きながら首を回している。「まあな。しかし何にせよ、これでミッションコンプリートだ」

 龍一は顔をしかめた。冷静になると同時に右肩が痛み出したのだ。後で湿布ぐらいはする必要があるだろう。

「報酬は?」

「今、確認した。ばっちりだ……今回はずいぶんと弾んだな」

 百合子が手配した匿名口座には、公務員が半年間過労死寸前まで働いて稼げるかどうかという金額が振り込まれていた。人を叩きのめした結果――あるいは返り討ちにあって死んだり半身不随になったりしかねない、その危険に対する報酬として妥当な額なのか、判断はつかなかったが。

 それほど浪費する性質ではなかったから、預金は確実に増えていた。あと数年も続ければ、一財産と呼んでもおかしくない額に達するだろう。

 しかし、と思う。その先に自分を待つものは何なのだろう。

 龍一は今まで崇とともに「泥沼に蹴り落とした」者たちのことを思い出した。再婚した妻の連れ子に度の過ぎた「しつけ」をしていた実業家、子飼いのタレントに売春を強要していた芸能プロデューサー、引き取った孤児に民兵まがいの武装訓練を施して外国人を襲撃していた住職。いずれも誰かの人生を踏みにじることにしか生きがいを見出せない連中だった。だが彼らは自分たちを守る鎧を一度剥ぎ取れば、自分たちが踏みにじってきた人々より遥かに脆弱だった。

 崇や百合子は、自分にそんなものになってほしいのだろうか?

 たぶん違うだろう、とは思うが、ではどう違うのかを考え始めるとさっぱりわからなかった。

「どうしたんだよ、神妙な顔しやがって」

「いや……」うまく言えず龍一は口ごもる。

 崇はちらりとこちらを見たが、結局何も言わなかった。案外、そういう機微には聡い男ではある。「いいことだろうが。金はいくらあっても困らないしな。……そうだ、俺ちょっと電話するから、今のうちに湿布ぐらい当てとけよ。腫れると面倒だぞ」

「そうだな。ありがとう」


「『鬼蛇連合』総長、宝田毅さんですね? 警視庁組織対策課です、任意同行を……おい、待て! 逃がすな、裏へ回れ!」


 ――何がどうなっているんだ……車内灯を消した運転席で、男はひたすらに身を震わせていた。相撲取りにも引けを取らない巨体が、熱に浮かされたように震えが止まらない。バックミラーに映る己の顔は、惨めなほどに青ざめて、引きつっていた。総長である自分が闇雲に逃げ出さなければならなかったのだ。他の者たちは逃げる間もなかっただろう。

 何もかもが順調だったはずだ――数日前までは、と宝田は懸命に考える。そう、数日前から、恐るべき情報力と組織力を持つ何者かが明確な悪意を持って連合に狙いを定めた――そうとしか思えない不幸に立て続けに見舞われ始めるまでは、彼のささやかな王国は盤石だったのだ。

 まず未真名市内の各事務所サーバーへの、数回に渡る不正アクセス。続いて原因不明の停電や不審火などの奇妙な前兆を経て、重要な証券や白紙委任状――まさに金を生む源泉と言ってよい書類が何者かの襲撃で奪われ始めたのだった。最初に疑ったのはシノギを荒らされた暴力団の報復だが、そもそも連中は暴対法でがんじがらめにされているし、こういう時を見越して恩を売ってあった中堅幹部は大勢いる。こちらに気取られることもなく先制攻撃、しかもこれほど効果的な襲撃を連続して行える組織など思いつかなかった。

 まるでそれと示し合わせたように、今まで口をつぐんでいたはずの「奴隷君」たちが一斉に彼を訴訟し始めた。収賄やら女がらみの醜聞、児童買春やらで弱味を握り、生かすも殺すもこちら次第と思っていた連中が、だ。

 何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。子分のことはこの際どうでもいい。自分さえパクられなければ組織はいくらでも立て直せる。とにかく逃げるのだ、北海道でも沖縄でも――それから? それからどうする?

 奇妙な音が車内に響き、宝田は天井に頭をぶつけそうになった。恐る恐るバッグを覗く。札束の間に詰め込んだ幾つかの携帯の一つが振動している。使い捨てのプリペイド携帯だ。サツが番号を知っているとも思えない。誰だろう?

 表示された電話番号を見て、わずかに安堵した。耳寄りな情報を何かと流してくれる便利屋だ。藁にもすがる心境とはこのことだった。相手の返答も待たずにまくし立てる。

「お前か、ちょうどよかった……ガサ入れだ。しばらく身を隠す、手配を……」

 宝田の手の中で、プリペイド携帯が爆発した。

 ざあっ、と豪雨のような勢いでルーフとウィンドウに大量の血と肉片が叩きつけられた。宝田の首から上が消失し、たくましい身体がゆっくりとハンドルにもたれかかった。


 崇がすぐにスマートフォンの通話を切ったのを見て、龍一が怪訝な顔になった。「不通か?」

「いや。ワンコールで切る約束だったんだよ」

 なるほど、と龍一が頷く。崇は秘かに百合子へ向けて【終了】とだけ打ち、送信した。

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